神経衰弱

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12688731545.html 【俳号あれこれ その2】より

明治の作家・二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)というペンネームは、くたばってしまえ!

という言葉をもじったものである…、というのは有名だ。

当時、「文学」などというものは「ろくでなし」がやるもので、怒った父親がそう言った、というエピソードがある。(実際はそうではなかったらしいが…。)

夏目漱石も、父親に、文学をやりたい。と話したら、なに? 「軍学」をやりたい。

と聞き間違えられた、というエピソードがある。明治というのは、そういう時代だった。

先日、俳号のことを書いたが、「中村草田男」(なかむら・くさたお)の「草田男」は、

くさった男という意味らしい。

大学時代、草田男は神経衰弱…、今で言えば鬱病になっていた。当時はそういったものに理解はなかったから、親戚のおじさんが、お前は「くさった男」だ!と罵ったらしい。

そこから「草田男」は生まれた。

ご息女・弓子氏によれば、「そう(草)でん(田)男」(そうは出て来ない男)という意味もあるらしい。

石田波郷(いしだ・はきょう)という俳号は、私と同様、俳句の師から一字貰った俳号である。愛媛松山での、彼の師は五十崎古郷。その一語(「郷」)をもらって生まれた。

波郷の生地は愛媛県松山市垣生で、すぐそばに海がある。

人から聞いた話で確認はしてないが、波郷の実家があったところは今は松山空港になっているらしい。

人間探求派の草田男、波郷の俳号の由来を紹介したので、人間探求派のもう一人、加藤楸邨(かとう・しゅうそん)の俳号の由来を調べてみたが、これはわからなかった。

最近の俳人はほぼ本名が多いと先日書いたが、一つの傾向をあげると「漢詩」の一語を俳号としている人もいる。

小川軽舟さん、仲寒蝉さんなどがそうだ。

今日は午前中仕事、郵便局に行って2通投函、レターパックを買って、自宅に戻り、レターパックとクリックポストを1通ずつ投函し、海辺をちょっと散歩。


https://miho.opera-noel.net/archives/2668 【第四百九十二夜 中村草田男の「春愁」の句】より

 「春温を病む」という言い方を知った。昔からある言葉であるという。初めて知ったのは、平沼洋司著『気象歳時記』蝸牛社刊であった。一部を紹介させて頂く。 

 桜前線が順調に北上して春本番の季節である。春は気温も上昇し花も咲き、身も心も開放的になる反面、「ふっ」と何となく憂鬱な気分になることがある。

 そんな状態を「春愁」とか「春温を病む」という。

 そのほか、春傷、春恨、春心など、春を悲しむ言葉は多い。また、春さきは「木の芽どき」とか「木の芽つわり」の言葉があるように情緒不安定になる。「季節性うつ症」が出やすい、なぜだろう。

 現在のようにストレスの多い生活ならわかるが、昔から言われているのである。冬の寒邪が身体に残ったまま春になり、陽気にあたり病をおこす、と言われたり、春の南風が原因ともいわれる。

 紀元前の医学の祖ヒポクラテスは「南風は耳なりを起こし、目をかすませ、頭脳を疲れさせ」と述べているという。日本でも西の地方で南風を「ようず」と呼んで頭痛や眠気を誘う風としている。

 今宵は、「春愁」の作品を紹介してみよう。

  昔日の春愁の場(にわ)木々伸びて  中村草田男 『中村草田男全集』

 (せきじつの しゅんしゅうのにわ きぎのびて)

 句意は、遠い昔に春を病んでいたことがあった。そこを通りかかると、かつての木々は大木になっていましたよ、となろうか。

 草田男は、東大独文科に入学して西欧の文学に親しみ、ニーチェ、ヘルダーリン、チェーホフ、ドストエフスキー等の作家たちに興味を持ち、独特な感性と強烈な思想に影響をうけた。この青春時代の永い思想彷徨の末、しばしば神経衰弱にかかった草田男は、行き詰まった精神生活の打開の道として俳句を選んだ。そして、一旦休学した後国文科に転科した。草田男は叔母の紹介で虚子に会い、「東大俳句会」「ホトトギス」で虚子に師事はじめたのは29歳の東大生で、昭和4年のことである。

 そうした鬱々とした時期を過ごした場を「にわ=庭」と、ここで読ませているが、東大生の頃であろう。

 「ホトトギス」で学んだことは、虚心になって自然を見つめ、素直に感動したものをストレートに写生することであった。もともと絵心があった草田男は、写修行は少しの苦痛もなく、自然の中に入ることをたのしみ『』

 師の高浜虚子は、ホトトギスで他の俳人とは違うユニークな作品を詠みつづける草田男に、こうした道もある、と見守り育てた。

  春愁の昨日死にたく今日生きたく  加藤三七子 『新歳時記』平井照敏編

 (しゅんしゅうの きのうしにたく きょういきたく)

 句意は、春の木の芽どきのころ、私の心はころころ変わり、昨日はもう死んでしまいたいと思ったりしても、今日になると頑張ろうと思い直すのですよ、となろうか。

 

 まさに、春愁のころの、これぞ「季節性うつ病」の典型のようである。春愁のころでなくても、私など、仕事のことでも、屡々うつ状態に陥るが、うつ状態からの抜け道も知った年代になってからは立ち直りは早い。どんなことがあっても死ぬわけにはいかない。

  ふとよぎる春愁のかげ見逃さず  稲畑汀子 『ホトトギス 新歳時記』

 (ふとよぎる しゅんしゅうのかげ みのがさず)

 句意は、「ホトトギス」を率いる主宰者であるから、春愁は、ご自分のことではなく周りの会員のことであろう。稲畑汀子さんは、人の表情に、ふとした心の翳りが見えてしまうことがあるのですよ、となろうか。

 大勢の人の上に立つ者として周囲の方たちの春愁も見えてしまうこともある。「見逃さず」には、見抜く鋭さもある。だが、そうした部分は相手には見せずさりげなく心配りをしている様子の感じられる作品である。


https://spica819.main.jp/100syosyo/9352.html 【手を口にあげては食ふ枯野人   中村草田男】より 

よく知られているように中村草田男の俳号「草田男」は、「腐った男」という言葉に由来するものであるという。神経衰弱に悩まされていた若い時期に、親戚から「お前は腐った男だ」と直接面罵された経験が基になっているとのことである。そして、その言葉を投げかけられた際、草田男は「俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、そう出ん男なのだぞ。」と内心強く思ったという。「腐った男」という蔑称をそのまま単純に肯うことなく、自らを「そう出ん(出ない)男」と認識していたという事実は注目に値しよう。それこそここには、強い自意識とそれゆえの自負心の大きさというものを見て取ることができるように思われる。そして、「草田男」となってからの作者は目覚ましい活躍を見せることになる。

草田男という作者を読み解くためのキーワードの一つとして「過剰さ」が挙げられそうである。例えば、〈乙鳥はまぶしき鳥となりにけり〉〈手の薔薇に蜂来れば我王の如し〉〈秋の航一大紺円盤の中〉〈萬緑の中や吾子の歯生え初むる〉〈毒消し飲むやわが詩多産の夏来る〉など、いずれの句からも過剰なまでの熱量の存在を見て取ることができよう。これは、まさに絶望の淵から甦ってきた者の強さであるのかもしれない。そして、それが過剰さとして様々なかたちで作品の上に現出する結果となっているようである。

掲句は、第三句集『萬緑』収載のものである。描かれているのは、「枯野」とそこで何かを食べている人物の姿のみである。順当に考えるならばこれは「昼食」の様子と見ていいであろう。食べているのは、パンか握り飯か。「枯野」における昼食の情景ながら、若干奇妙な感じがしないでもない。その因については「手を口にあげては」という表現の部分にあるといえそうである。当たり前の事実をそのまま切り取ったものでありながら、通常、わざわざ食事の様子をこのようなかたちで描写することはまずあり得ないであろう。それこそこの「手」を幾度も口に運ぶという表現からは、普段とはやや異質な人間の生物としての側面が前景化して見えてくるようであり、さらにそれのみならずここからは、これまでに延々と繰り返されてきた「生命の営み」にまで思いが及ぶようなところがある。

また、「食ふ」の部分についても、「食ひぬ」「食へり」などではなく「食(くら)ふ」であり、ここにも表現の力強さというものを見て取ることができよう。こういった作品傾向は、〈蟾蜍長子家去る由もなし〉〈なめくぢのふり向き行かむ意志久し〉〈雲雀の音曇天掻き分け掻き分けて〉〈毛虫もいまみどりの餉(げ)を終へ歩み初む〉などにも共通する性質のものといえそうである。

草田男の句業は、年を経るごとに、徐々に混迷の度合いを増してゆく傾向を示している。〈耕馬に朝日天地睫毛を開けにけり〉〈立竹の裾巻く蛇よ詩は孤り〉〈雪中梅一切忘じ一切見ゆ〉〈飛雪のいぶき十七音詩ただ一息〉〈日盛りの中空(なかぞら)が濃し空の胸〉〈渡り鳥の一点先翔(か)く愛と業(わざ)〉など、いずれも単純なかたちでは読み解けない複雑さを包有している。こういった作品を単に難解という理由のみで安易に斥けてしまってはならないであろう。このような作品は、現在ではあまり目にできない性質のものであり、単なる洗練された表現とは異なる混沌たるエネルギーに満ちている。中村草田男は、まさに深い苦しみを潜り抜けることによって人並み外れた表現意識を自らのものにするに至った直情の俳人ということができるはずである。

中村草田男(なかむら くさたお)は、明治34年(1901)生まれ。昭和4年(1929)、高浜虚子に師事。昭和11年(1936)、『長子』。昭和14年(1939)、『火の島』。昭和15年(1940)、『永き午前』。昭和16年(1941)、『萬力』。昭和21年(1946)、『萬緑』主宰。昭和22年(1947)、『来し方行方』。昭和28年(1953)、『銀河依然』。昭和31年(1956)、『母郷行』。昭和42年(1967)、『美田』。昭和55年(1980)、『時機(とき)』。昭和58年(1983)、逝去(82歳)。昭和59年(1984)~平成3年(1991)、『中村草田男全集』全18巻(別巻1)。平成15年(2003)、『大虚鳥』。

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