【命の恵み】
自然界の掟は共存、共栄であり、弱肉強食です。命は 他の命をいただくことなしに成り立ちません。
命の循環に預かり 生かされている幸いを感謝し 全ての命への畏敬の念と愛を表現しながら 魂の成長の旅をし 感謝と喜びを持って 自分の肉体を他の命のために 宇宙にお返しする(死)時を迎える・・・人生はそんな魂の旅ではないでしょうか?
マイミクさんからあまりにも酷い 情報を受け取りました。
読んで体が震え、涙が溢れ続けました。同時にアイヌの熊祭りを連想しました。
(イオマンテ、アイヌの熊祭り)
http://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%9E...
(生きた熊に管をつけ胆汁を摂りつづける中国の工場に鉄槌を!13 )
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1923060827&owner_id=16550474
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アイヌの熊祭りには 自然への畏敬の念が込められています。
人間の奢り高ぶりが 自然破壊を生み 自らを亡ぼす運命の輪を生むのではないでしょうか?
レイチェル・カーソン『沈黙の春』 「自然は、沈黙した。うす気味悪い。
鳥たちはどこへ行ってしまったのか。
みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。
裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶる.....(青樹簗一訳)
https://www.myoshinji.or.jp/tokyo-zen-center/howa/1184 【やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲】より
八月十三日の夕方、車を運転して高速道路を進んでいるとゲリラ豪雨に見舞われました。滝のような雨であっという間に前が見えなくなり、次第に渋滞になりました。どの車の運転手も怖いと感じたからでしょう。
轟音とともに降る雨に困ったなと思って周囲に気を配っていると、十分ほどで空は晴れ渡り、遠くに見えるスカイツリーに二重の虹が掛かりました。
なんと清々しいことでしょう。雨音が止んだ夕晴は今年はじめてでした。猛暑日が続いて何もかもが汗ばんだ景色が全て洗われて、みずからの心まで清らかになったように感じながら浅草の自坊に帰ると、ゲリラ豪雨の轟音を思い出させるかのように蝉が鳴いていました。山門をくぐると、たくさんのセミがふらふら飛び出してきます。毎年、セミに体当たりされながら掃除をして感じることですが、立派な羽が生えているように思うけれど、セミはあまり飛ぶ事が上手くありません。特に朝はふらついてまっすぐ飛ぶ事さえままなりません。それに長く飛ぶことも苦手なように思えます。それでも短いひと夏の成虫の期間、一心不乱に鳴き続けるセミの姿には心を打たれます。
さて、松尾芭蕉の句に以下のものがあります。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲
芭蕉は四十五歳ごろ、琵琶湖の南側に位置する近津尾(ちかつお)神社の境内にある幻住庵という草庵に四ヶ月ほど滞在したと伝わっています。芭蕉が金沢を訪ねた折に入門した秋之坊(加賀藩の武士であったが、のちに出家した)に示した句とされ、句の上には「無常迅速」と記されています。
もうすぐ死ぬのだという悲壮感も全く感じさせず、自らの生命を生ききるセミの熱のこもった孤高の姿を感じると、よく解釈されています。句の上に記された「無常迅速」は、時の移ろいは迅速であるから、散漫に時を過ごしてはならないと修行者に諭す言葉です。
さて自坊の周りを思い返すと、近くでセミが鳴いている場所まで百メートルほど離れています。セミの飛行技術を勝手に算段すると、自坊の限られた寺域だけで、セミは生命を循環させているのではないかと思いました。セミの一生を調べてみると、交尾が終わったメスは枯れ木に産卵し、翌年の梅雨の時期に孵化をするそうです。地表にでた幼虫は幾度か脱皮をして地中に潜りほとんど動かずに六年ほど過ごします。そしていよいよ地表に再び登場し羽化をして鳴き続けるのです。いずれ生命が尽きて養分となって寺域の様々な生命となって巡るのです。そう考えるとセミが一匹で鳴いているのではなく、寺域全体で鳴いているように思えてきます。
やがて死ぬけしきは見えず蝉の聲
とは、死ぬことも忘れて今を生ききることの尊さだけでなく、生死の枠組みを超えて大いなる生命の一端として一心不乱に鳴き続けるセミの姿を詠ったようにも捉える事ができます。大いなる生命とは諸行無常を貫くものです。芭蕉が示しした「無常迅速」とは、単体であると思っていた私自身も連綿と移ろいゆく生命の流れの中の一端であることを意味しています。
お盆を迎え、お墓にお参りされたかたも多いと存じます。
本堂やお墓という死にまつわる静かな場所と思われがちな寺院ですが、不思議と生命が力強く循環していることをセミの喧しさの中に感じ取ることができます。お墓参りをすることで、自らも生命のつながりの真っ只中にいることを感得できます。
新型コロナウィルス禍の只中、酷暑の夏が過ぎようとしています。様々な制約の中で日々の生活を送ることを強いられていますが、前を向いて生きていきたいものです。
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17699653 【「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」(しょうじじだい こういんおしむべし むじょうじんそく ときひとをまたず)
~時間を大切にせよ~】より
「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」教育経営働き方ヘルスケア有識者
臨済宗の修行法は「看話禅(かんなぜん)」あるいは「公案禅」と呼ばれます。歴代の優れた禅僧の言動などをもとにした「公案」を師から与えられ、その公案に向かって修行し、見解(けんげ)と呼ばれる何らかの答えを見出し、その見解をもって師と問答しながら最終的には悟りと呼ばれる境涯をめざすのです。
公案はテストのように正解がある問題とは異なり、知識や理屈、常識、経験に照らして解くものではありません。
人は誰しも幼いうちはむくな心を持っていますが、年を重ねるにつれ、世間の常識、思考の癖、思い込みといったものにとらわれるようになっていきます。それらはお釈迦様の教えを素直に受け入れることを阻むため、とらわれた心を打ち破り、己が生まれながらに仏性を持つことを気づかせるために、公案が用いられます。
私も修行道場では師匠からさまざまな公案を与えられました。その中に、臨済宗の大本山の一つである妙心寺の開山、関山慧玄(かんざんえげん)禅師の次のような逸話があります。
関山禅師の暮らしぶりは大変質素で、居室は雨の日には雨漏りがするほどでした。その日も天井から雨が落ちてきたため、禅師は弟子たちに「何か雨を受けるものを持ってきなさい」と命じました。すると、一人の雲水は手近にあった笊(ざる)をサッと差し出し、もう一人の雲水は桶を探して持ってきました。禅師が褒めたのは笊を出した雲水のほうで、あとから桶を持ってきた雲水は役立たずと叱られました。
皆さんはこの話をどんなふうに受け取りますか。
常識的に考えれば、雨漏りには笊よりも桶のほうが役に立つはずです。しかし、禅で重んじるのは常識ではありません。考えを巡らすことよりも、その瞬間、無心に「感じる」ことを尊びます。だからこの雲水のとっさの行動が褒められた。ただし、それはあくまでこのとき限り。別のときにまねをして笊を差し出しても叱られるだけでしょう。
この話はまた、次のようにも解釈できるかもしれません。雨漏りのような、今まさに困った状況に直面している人にとっては、よい答えを探すために待たされるより、多少足りない答えでもすぐに出されたほうがありがたいのだ、と。
私の師匠は時間に厳しい方でした。「命」というものは目に見えないが、「時間」に置き換えることができる。だから時間を無駄にすることは命を無駄にすることだ。「例えば待ち合わせに10分遅れたということは、相手の命を10分無駄にしたことになるのだ」とよく言われたものです。
命も、時間も、私たちに等しく与えられていますが、命に限りがある以上、時間にも限りがあります。限りある時間を大切に活かすことは、命を大切にすることなのです。目の前で困っている相手を待たせずに解決策を示すことは、相手の時間を、命を大切にしていると考えることもできるでしょう。
そのような時間の大切さを説く禅語が「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人(しょうじじだい、こういんおしむべし、むじょうじんそく、ときひとをまたず)」です。
人にとって大切なことはどう生き、どう死を迎えるかである。時間を惜しまなくてはならない。この世は無常であり、あっという間に過ぎ去っていく。時は人を待ってはくれない。そのような意味です。
この言葉は、禅寺で時を知らせるために打ち鳴らす「木板(もっぱん)」と呼ばれる板によく書かれています。板を打つたびに、その音を聞くたびに、修行においては一瞬たりとも無駄にする時間はない、「いま、ここ」を大切にしなければならないと己を戒めるのです。
あらゆる変化のスピードが増している今日、昔と比べて「時間」というものの価値が高まっているように感じます。
己と向き合うことが求められる仏道に対し、ビジネスではさまざまな相手と向き合うことも求められます。自分がなすべきことにおいて、自分の時間を無駄にしていないか。のみならず相手の時間も無駄にしていないか。そのような視点を持つことで、「時間」に対する姿勢は変わるのではないでしょうか。
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