https://note.com/rekishijin_note/n/nde5df78d36b1 【「征夷」を目指す朝廷と蝦夷 〜奥州藤原氏誕生前夜の東北〜】より
今週の記事は特集「奥州藤原4代の真実」から。
平安時代中期の奥州で産声をあげた奥州藤原氏。藤原氏誕生の前夜、そして前九年・後三年の役へと至る東北は、いかなる状況だったのでしょうか。
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監修・文/関 幸彦
せき ゆきひこ/1952年、北海道生まれ。元日本大学文理学部教授。専門は日本中世史。主な著書に『刀伊の入寇』(中公新書)、『藤原道長と紫式部』『武家か天皇か』(ともに朝日新聞出版)など。
東征の果てに発生した「前九年の役」「後三年の役」 二つの合戦に至る東北の全貌
奥州では8世紀頃から、東国支配を図る朝廷と、現地・蝦夷の間で争乱が続いていました。度重なる東征の果てに発生した二つの合戦に至る東北の全貌を、地図や人物関係図とともにひもといていきます。
奈良時代から続いた蝦夷平定は最大の課題
光仁(こうにん)・桓武(かんむ)両朝の懸案は、令政治の刷新とともに、東北方面の内国化にあり、蝦夷(えみし) 平定は最大の課題だった。
奈良時代には「俘軍(ふぐん)」と称し蝦夷を軍事的に組織する政策もとられた。宝亀11年(780)俘軍の長で伊治郡司の伊治(これはり)の呰麻呂(あざまろ)が蜂起し、接あ察使紀広純(あぜちきのひろずみ) を殺害、さらに陸奥国府多賀城(宮城県)が落とされる。続いて北方の胆沢(岩手県)方面の反乱も勃発した。
征夷大将軍として着任した坂上田村麻呂
陸奥守と鎮守府将軍、征夷大将軍を兼任し、全権を有して征夷を成功させた後に、胆沢城を造営。 桓武・平城・嵯峨の3天皇にわたって仕えた。
『前賢故実』国立国会図書館蔵
朝廷は数度にわたり大軍を派遣し、最終的には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が延暦20年(801)に征夷大将軍として派遣されたことで蝦夷戦は終止符が打たれた。田村麻呂は胆沢を拠点とした蝦夷の首長・阿弖流為(あてるい)を降伏させ胆沢城を築いた。
翌年の延暦22 年には、その北方に斯波(しわ)城を築城するなど、北上川の線に即して内国化が推進された。併せて、胆沢城には鎮守府を多賀城から移し、行政(多賀城)と軍政(胆沢城)の分離をはかることで、蝦夷・俘囚統治の実績を上げようとした。この間光仁・桓武朝を山場とする対蝦夷戦は大略以下の流れがあった。
・宝亀5年(774) 大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)らによる蝦夷征討
・天応元年(781)持節征東大使・藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろに)よる蝦夷征討
・延暦7年(788)征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)による蝦夷征討
・延暦10年(791)征夷大使・大伴の弟・麻呂による蝦夷征討
・延暦20年(801)征夷将軍・坂上田村麻呂による蝦夷征伐
このような流れをたどった蝦夷との戦いも、嵯峨(さが)天皇の弘仁年間に終息をむかえる。征夷大将軍として派遣された文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は過去の征夷事業について、「宝亀五年ヨリ当年ニ至ル、惣ベテ三十八載」と総括した(『日本後紀』)。
蝦夷平定により生じた二つの〝後遺症〟
こうした武力による征夷政策には、徴兵システムを前提とする律令軍団制の機能保全が不可欠だった。
9世紀は蝦夷との戦争で内国化の進展がなされたものの、二つの問題が浮上した。一つは長期にわたる征夷事業の結果、国家の軍事システムが機能しなくなったこと。そして二つには帰順した俘囚たちへの対応の問題だった。当初、後者については蝦夷地域内での自治の容認もはかられ、有力俘囚に位階を与え、統治するなどの方策もなされた。
けれども抜本的対策とはなり得ず、最終的には俘囚分散の措置が講ぜられることになる。いわば強制移住での分割統治だった。
例えば貞観12年(870)12月、上総国に下された官符には「夷種を国内に散居させるのは、盗賊を防御させるためである」旨が指摘されていた。明らかに俘囚勢力による軍事・警察機能の補完だった。律令軍団制の機能不全に対し、政府側は俘囚勢力の再活用を目ざすこととなる。いわば蝦夷戦争の〝後遺症〟の解決策だった。
俘囚の強制移住は関東・瀬戸内そして北九州方面に集中した。いずれも群盗・海賊問題が多発する警戒地域だった。しかし、移住地域にあっても騒擾(そうじょう)事件が頻発、必ずしも蝦夷問題は鎮静化には至らなかった。そうした中で、9世紀後半に出羽方面で勃発した元慶(がんぎょう)の乱は、大きな課題を投げかけることとなった。
終わらない征夷と安倍氏・清原氏の台頭
安倍氏は陸奥国を勢力範囲とし、 奥六郡を基盤としていた。一方、 清原氏は出羽国を勢力範囲とし、 仙北三郡を基盤としていた。
朝廷のスタンスは「強攻」から「懐柔」へ
「夷俘反乱シ……(中略)秋田城ナラビニ郡院ノ屋舎、城辺ノ民家ヲ焼キ損ウ」(『三代実録』元慶二年三月二九日条)。
出羽の国守・藤原興世(ふじわらのおきよ) は、元慶の乱の勃発をこのように報じた。元慶2年(878)の春に起きたこの争乱は、その鎮定に10カ月を要し、中央政府にも大きな衝撃を与えた。秋田城司・良峯近(よしみねちかし)の強引な課税が俘囚たちの反感を買い、争乱へとつながったようだ。最終的にこの事件は、藤原保則(ふじわらのやすのり)や小野春風(おののはるかぜ)らを登用し、懐柔策によって鎮められた。
乱の勃発当初、政府は隣国の陸奥に3千の出兵を促したものの、強攻策は失敗に終わった。その後に藤原保則が登用され、懐柔策への転換がなされる。
出羽権介(でわごんげんのすけ)保則は「今ノゴトキハ坂将軍(坂上田村麻呂)ノ再ビ生マルトイエドモ蕩定(鎮圧すること)スルコト能ハジ」と語り、「教フルニ義万ヲモテシ、示スニ威信ヲモテシテ、我ガ徳育ヲ播(ほどこ)シ」(『藤原保則伝』)との方針に即し、対応したのだった。
要は、坂上田村麻呂のごとき存在がいたとしても、力攻めでは解決しない。そのために威信を示しつつ徳治の姿勢で望むべきとの方向が採られた。俘囚たちへの説論は、軍事官僚たる小野春風などを反乱の中心地域の上津づ野村(現鹿角地方)に赴かせ苛政への不満に理解を示すなどした。
この懐柔・和平路線が功を奏し8月末には300人の俘囚が投降、乱は終息にむかった。〝戦わずして敵を屈するは善の善たるもの〟との孫氏的兵法のごとき戦略だったことになる。
この元慶の乱での対応は、かつての強圧的な征夷路線が軍事面で機能しなくなったことを語るものだった。
数多の鎮守将軍が陸奥・出羽の地で交戦
この元慶の乱以後、10 世紀に入った天慶(てんぎょう)年間(938―947)にも出羽の俘囚の反乱が勃発している。関東での平将門(たいらのまさかど)の乱とリンクするかのごとき闘諍事件で、これも秋田城介・源嘉生(みなもとのよしお) の苛政が原因とされる(『本朝世紀』天慶二年七月一八日条)。結果的には10世紀の天慶段階の俘囚蜂起も時期的に差はあるものの、蝦夷問題が国家の重要な軍事課題であったことは間違いない。
ちなみに10世紀初頭以降、わが国では律令を原理とする国家システムに変化がもたらされ、王朝国家と呼称される時代が到来する。この王朝国家への移行期には地方政治の刷新もはかられ、蝦夷問題も新たな国家体制にあって政策的転換がなされた。
醍醐天皇の10 世紀初頭、三善清行(みよしきよゆき)が提出した『意見封事(いけんふうじ) 』でも軍事課題として「蝦夷ノ乱」と「新し ら羅ぎ ノ警」を挙げている。東国における蝦夷の問題と、西国での新羅の問題が国家の軍事課題として取り沙ざ汰たされていた。
この時期、東アジアでは大唐(だいとう)帝国が解体、周辺諸地域にもその余波が広がっていた。中国を〝お手本〟としたわが国の場合、〝お手本〟から離れる政策がはかられ、かつての律令的原理の放棄がなされた。
東北統括を期待された安倍氏・清原氏
東北方面でも、力による制圧からの転換がはかられた。いわば「委任」・「請負」を原理とするシステムによる国家運営が顕著となり、俘囚勢力の一部を支配者側に組み込み、「夷ヲ以テ夷ヲ制スル」方向をより強化することになる。そうした中で、陸奥の奥六郡の統括を委任された安倍(あべ)氏と、出羽の仙北(せんぼく)三郡の支配を委ねられた清原(きよはら)氏の役割が期待されるようになる。
すでに触れたように、陸奥では行政の多賀(国府)と、軍政の胆沢(鎮守府)に権力が分極化されていた。胆沢方面に地盤を有した安倍氏については、俘囚勢力の代表として、ここから北方の奥六郡の統轄を委任され、王朝国家の東北支配の担い手としての役割を与えられていた。
同様に出羽方面にあっても、俘囚勢力の代表清原氏が仙北三郡の統轄を委任されていた。安倍氏の奥六郡、清原氏の仙北三郡は、ともにかつての律令国家の支配の北限に位置する地域でもあり、この方面への自治を容認しながら、間接的統治を実現する。これが10世紀以降の王朝政府の対応だった。そうしたなかで安倍・清原両勢力は自己の権力を伸長させていった。
https://www.city.oshu.iwate.jp/web_museum/rekishi/3980.html 【奥州市の歴史:全ての歴史を紐解く】より
原始(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)
旧石器時代は寒冷な気候で、当時の東北地方はコメツガ、トドマツ、カラマツ、トウヒなどの針葉樹を主体とする森林が広がり、その森にはバイソン(ハナイズミモリウシ)やオオツノジカなどが生息していました。奥州市でも上萩森遺跡や生母宿遺跡から尖頭器やナイフ形石器などの遺物が出土していることから、狩猟生活を中心としていた旧石器人が獲物を捕らえ、石器を使って肉を解体したり、皮や骨を加工していたようです。
縄文時代に入るころには気候が温暖になり、落葉広葉樹を主体とする現在とほぼ同じような植生となります。縄文人の獲物もニホンジカやイノシシが中心となり、木の実や果実、芋など自然の豊かな恵みを取り入れた狩猟採集の暮らしとなりました。奥州市では縄文時代早期から晩期まで多くの遺跡が発見されています。中でも胆沢扇状地のほぼ扇頂部に位置する前期後葉の環状集落「大清水上遺跡」は縄文時代の集落の変遷を示す重要な遺跡として国史跡に指定されています。後期から晩期には北上川に面した杉の堂遺跡など低地にも遺跡が作られるようになります。
弥生時代には、東北地方にも稲作が伝わりました。奥州市でも常盤広町遺跡や兎2遺跡から籾跡のついた土器が発見されているほか、清水下遺跡などから稲刈に用いた「石庖丁」(岩手県有形文化財)が発見されており、稲作農耕を中心とする社会が成立したことを示しています。
古墳時代の5世紀後半には、日本最北端の前方後円墳である「角塚古墳」(国史跡)が作られました。中半入遺跡から古墳時代の大規模な集落跡も発見されており、大和王権との密接な関係が伺えます。
古代1(奈良時代~平安時代初期)
7世紀中頃、大化の改新により、天皇を中心とする律令国家の建設が始まり、8世紀初頭には大宝律令が制定されます。しかし、国家の認識は「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」[続日本紀]であり、岩手県をはじめとする北東北地方は国家の領域に含まれていませんでした。
現在の奥州市にあたる「胆沢」の地名が史料に現れるのは、宝亀7年(776)のことで、続日本紀に「陸奥の軍三千人を発して、胆沢の賊を伐つ」とあります。胆沢は蝦夷の住む辺境地域として位置づけられ、以後、朝廷は3回にわたって胆沢遠征を行い、征服を試みています。その1回目は延暦8年(789)のことで、朝廷軍は阿弖流為らの率いる蝦夷連合軍に敗れましたが、2回目からは坂上田村麻呂を征夷大将軍とした朝廷軍が勝利しました。
延暦21年(802)に阿弖流為と母礼が降伏し、田村麻呂によって胆沢城が造営されると、延暦23年(804)には胆沢郡が建てられ、胆沢の地は律令国家に取り込まれることになりました。
胆沢城は、大同3年(808)に陸奥国府多賀城から鎮守府が移されると、およそ150年にわたって古代東北経営の拠点として機能したと考えられており、現在では「胆沢城跡」として国史跡に指定されています。
なお、江刺郡は胆沢郡から分立したとされ、続日本後紀の承和8年(841)の条に初見されます。
古代2(平安時代中期~後期)
平安時代中期になると、朝廷の支配体制は律令制から王朝国家体制に転換します。郡の長である郡司による在地支配の秩序が変質していく中、新勢力を形成したのが奥六郡の南境にあたる衣川に本拠地を置く安倍氏でした。
安倍氏は11世紀の初め頃には「六箇郡の司」として公的な地位を得て奥六郡を事実上領地化していましたが、全盛期の安倍頼良(後に頼時と改名)の時、奥六郡の南関であった衣川を越えて南方に進出したとして朝廷と対立します。前九年合戦(1051~62)と呼ばれるこの争いは、はじめ安倍氏有利と思われましたが、源頼義が出羽国の清原氏の力を借りて反撃したことで形勢が逆転し、安倍氏は滅びてしまいます。
安倍頼時の娘を妻としていた藤原経清も安倍氏側に荷担したとして頼義の恨みをかい、残酷に殺されましたが、経清の妻は7歳になる清衡を連れて清原氏の嫡子である武貞と再婚しています。やがて、清原氏の内紛である後三年合戦(1083~87)がおこると、清衡は新しく陸奥国守として赴任した源義家の協力を得て勝利し、陸奥出羽両国の覇権を握ることになりました。
清衡は父経清の姓である藤原に姓を戻して奥州藤原氏の初代となり、江刺郡豊田館から平泉に本拠を移し、中尊寺を中心とする都市の建設を推進しています。この「都市平泉」は、「柳之御所・平泉遺跡群」として国史跡に指定されている白鳥舘遺跡や接待館遺跡の発掘により、胆沢郡にも広がっていたことが確認されており、奥六郡の境であった衣川を越え、白河以北の多賀国府の管轄領域を含む東北全域に清衡の権限が及んだことを示しています。
奥州藤原氏による治世は基衡、秀衡と続きましたが、文治5年(1189)、四代泰衡のとき、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって滅ぼされています(奥州合戦)。
中世(平安末期~安土桃山時代)
奥州合戦に勝利した源頼朝は、文治5年(1189)9月に鎮守府の故地において「吉書始」の儀式を行い、軍功のあった家臣を郡・郷・荘園などの地頭職に任命して奥羽を鎌倉幕府の直轄支配下におきました。吾妻鏡によれば、胆沢・磐井・牡鹿郡以下数ヶ所を鎌倉御家人の葛西清重が拝領しており、この中に江刺郡も含まれていたと考えられます。
清重は、同時に奥州総奉行・検非違使に任命され、奥州御家人の指揮に当たっていますが、所領管理には葛西氏の家臣団があたりました。このうち、葛西氏の有力家人であった柏山氏が胆沢郡を、江刺氏が江刺郡を領していますが、両氏とも譜代の家臣を小領主として各地に配置して所領を治め、次第に在地領主化していきます。
なお、文治6年(1190)に陸奥国留守職が多賀城に設置され、伊沢家景(後の留守氏)が任命されていますが、江戸時代の水沢領主の先祖に当たります。 葛西清重の職務が軍治長官にあたるのに対し、留守氏の職務は民政長官にあたるものでした。
南北朝が統一した応永7年(1400)、室町幕府は大崎満持を奥州探題に任じました。 これにより、葛西氏は本拠地を平泉から牡鹿郡に移すこととなりましたが、在地領主化した柏山氏と江刺氏は独自の勢力を保ち、主家である葛西氏以上の勢力を持つようになります。そのため、葛西領内で反乱や内乱が続発し、天正17年(1589)の豊臣秀吉による小田原征伐に葛西・柏山・江刺の各氏は参加することができませんでした。
翌年、秀吉は奥州仕置を行い、小田原不参加の諸氏を追放します。400年に及んだ奥州の中世は葛西氏とともに始まり、終わりました。
近世(江戸時代)
豊臣秀吉による全国制覇のなか、東北地方で力をつけていた伊達政宗は、天正18年(1590)に葛西氏と大崎氏の旧領でおこった一揆を平定した功績により、その旧領12郡をも手に入れ、名実ともに東北の覇者となりました。江戸幕府は一国一城を原則としましたが、仙台藩は仙台城と白石城の2城が認められていたほか、政治的・地理的重要性などに応じて要害・所・在所を各地に置いています。要害の多くは中世城館を継承したもので、要所には重臣が配されました。
南部氏の領地との境となる胆沢郡と江刺郡には、北方警護の軍事的拠点として5つの要害と2つの所が置かれ、元和2年(1616)には金ヶ崎要害に一門の伊達宗利(旧姓留守)が移封されています。宗利は寛永6年(1629)に水沢要害に転封となり、万治2年(1659)には岩谷堂要害に同じく一門の岩城宗規が配置されたほか、人首要害には一族の沼辺重仲、宗利転封後の金ヶ崎要害にも一族の大町定頼が入部。前沢と野手崎の所にはそれぞれ一門の三沢氏と一家の小梁川氏が配されました。これらの要害や所の周囲には小城下町が形成されてゆきます。
政宗は新田の開発を積極的に行い、年貢米の余剰分を農民から買い上げて江戸に廻米することで藩財政の基盤を築きました。その米は本石米と呼ばれ、江戸の消費米のほぼ半ばを占めていたといいます。当地方は後藤寿庵による寿安堰の開削などにより、胆沢扇状地の開田が進められたことで、仙台藩屈指の穀倉地帯となりました。北上川を挟む胆沢郡と江刺郡の間の水域は上川と呼ばれ、舟運で栄えた要所の河港には御蔵が設けられていました。
また、仙台藩は代々の藩主の好学の気風により学問が奨励されていました。文政5年(1822)、養賢堂から分離設置された仙台藩医学校において、わが国初の西洋医学講座が実施されたことは、大槻玄沢、大槻玄幹、佐々木中沢、そして水沢出身の高野長英や箕作省吾など著名な蘭学者が仙台藩から輩出されたことと無縁ではありません。藩内各所にも学問所(郷学)が開設され、水沢に「立生館」、前沢に「進脩館」、岩谷堂には「比賢館」、そして金ヶ崎には「明興館」があり、多くの人材が輩出されています。
近代(明治時代~昭和初期)
慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府が倒れると東北地方は翌年から始まる戊辰戦争に巻き込まれていきます。仙台藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦いましたが敗北し、62万石から28万石に減封されます。胆沢郡と江刺郡は没収地として新政府の直轄地となり、数回にわたる行政区画の変更の末、明治9年(1876)に岩手県に編入されました。その過程で明治2年(1869)、水沢に胆沢県庁が置かれた際、役人付の給仕として採用されていた後藤新平、齋藤實らが大参事安場保和、小参事嘉悦氏房ら熊本を中心とする政府役人に見いだされます。後藤新平は逓信大臣や鉄道院総裁を歴任した後、東京市長に就任したほか、関東大震災後の大正12年(1923)には帝都復興院総裁となり、現在の東京のインフラの基盤を築きました。齋藤實は凶弾に倒れた犬養毅の跡を継いで昭和7年(1932)に第30代内閣総理大臣に就任し、昭和恐慌克服のため「自力更生」を提唱、挙国一致内閣を組織しています。
この地域の産業の基本は農業であり、明治維新後も新田開発が行われたほか、養蚕や馬の育成などに力が注がれました。東北地方を巡幸中の明治天皇の目にとまり御料馬となった金華山号は、水沢の大林寺で飼養されていた南部馬です。特産の漁網や鋳物は以前から名声を博していましたが、明治23年(1890)に仙台~盛岡間の鉄道が開通し、大正2年(1913)には水沢~岩谷堂間に鉄道馬車、その数年後には定期バスが運行するなどしたことで運送業と倉庫業が発達し、商業も盛んになりました。このような産業構造は現代へと引き継がれています。
磐座のうからやからや冬紅葉 高資 — 場所: 日光二荒山神社
色変えぬ杉や難斗米の実の点る 高資 大国殿(重要文化財・世界遺産)・大国田道間守
— 場所: 日光二荒山神
コメントのやり取り(抜粋)
卑弥呼あるいは垂仁天皇が常世国に派遣した難升米(難斗米・田道間守)が右手に非時香菓(不老長寿の仙薬)を持っていました。橘(非時香菓)は黒田家の替紋にも用いられています。黒田の黒も大黒に由来するのかもしれません。たしかに筑前守ですから筑紫の日向の橘とも関係ありそうです。写真は、東照宮大鳥居の石柱(一部)で黒田筑前守藤原長政が寄進したものです。
大国殿のすぐ近くに何と高天原もありました。三柱は造化三神でしょう。
高天原は日本の原風景ですから色々なところにあって良いのだと思います。もちろん、佐々木さんがお好きでない阿頼耶識にもです。二千年以上も言い伝えられていることの不思議です。
この難斗米が持っている橘の実はまさしく西九州と関係していると思われます。天子が南面して右に位置する橘の方向は西です。
これは氷山の一角です。とにかくこの一帯は八百万の神々の世界でびっくりしました。
記紀に出てくる登美毘古と多遅麻毛理(田道間守)は時代的に離れていますが、たしかにいずれも出雲系先住民を祖とするのではないかと思います。
多遅麻毛理(田道間守)は、卑弥呼が魏に使わした難升米(難斗米)とも考えられますが、記紀では、垂仁朝のとき非時香菓を招来したと記されており、大国殿の前に立つ田道間守が持っているのは、その際に持ち帰った橘(矛八矛)ではないかと思います。橘のある九州と金属器の流通と深い関係のある日本海沿岸とのつながりも覗われます。
ars longa, vita brevis ですから、畢竟、死苦を良く知るものこそ弱者の視点に立つことが出来ます。それが医療者に必要ということかと思います。大物主神から大国主命への再生がスサノオや八十神による試練やを経てこそ可能だった所以と考えます。
日本神話は荒唐無稽だからこそその奥深さがあります。記紀は分かっているようでまだ解明されていないところが多々あるから面白いです。
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