古代中国の壁谷

https://kabeya.amebaownd.com/pages/1839171/page_201804151746 【古代中国の壁谷】より

中国伝説の皇帝とされ、雷神としても崇められるのが「黄帝(こうてい)」だ。紀元前25世紀ごろ、姬水(現在地不詳)のほとりに生まれたことから姬氏とされる。そんな「黄姓姬氏」の一族に「壁谷」があった。紀元前16世紀以降、殷、周を経て中国大陸で混乱の時代が続くと、孔子に代表される諸氏百家を輩出、まさに百花撩乱たる時代となった。長引く戦乱によって、黄姓の一族は中国全土そして朝鮮半島にも散り広がった。中国各地の歴代皇帝や諸侯の多くが「黄帝」の末裔を称している。(炎黄子孫・黃氏發祖源流論)黄姓は、現在の中国でさほど多いわけではない。しかし、中国南部の福建省から台湾は、黄姓が一・二位を争うほど際立って多い特異な地だ。そこでは所々に時代に取り残された古い町並みが残り、古代の名字ともされる「堂號(堂号:どうごう)」を玄関の上に掲げている旧家が多い。そんな堂號の代表的なひとつが「壁谷」であり、台湾の開祖ともされているのだ。

『台湾地名辞典(雲林懸)』より原文のまま引用

牛挑灣以來自漳州黃姓(堂號壁谷)居民最多,而黃姓的開台祖為黃漢。

古代中国において、姓とは血縁の一族であり、名字とは周王(黄姓姬氏)が一族や功臣などを諸侯として特定の地に封じ(封土という)その土地の支配権を与えたことに由来する名称だ。この仕組みは封建制といわれる。のちに中国を統一した秦の始皇帝(紀元前259年- 紀元前210年)は封建制を破壊、これ以降は中央集権による郡懸制(群県制)が国家統治の基礎となった。各地を治めてきた諸侯らは、自らの名字とその領地を奪われて姓だけとなると、百姓と呼ばれるようになった。それが現在の中国人の姓につながっている。しかし、かつての名家が持っていた古代の「名字」は、二千年以上の時を超え「堂號」「郡望(群號)」として代々受け継がれてきた。旧家では、現在もそれを扁額に掲げ続け、祖廟をかたくなに護り通している。その代表的なひとつが「壁谷」だったのだ。

壁谷という文字の由来は、どこにあったのだろうか。まず文字の構成に注目してみよう。中国では国土を統治する天子は神の子とされ、「辟(きみ)」と呼ばれた。それは古墳から発掘された資料からも確認できる。「辟」を一部に含む数十種の文字群は、神仙や天子と直接かかわる畏れ多き意味をもっている。たとえば『史紀』において「完璧(かんぺき)」の故事も登場するのが「璧(たま)」だ。璧は中国天子を象徴する玉器(ぎょくき)であり、日本でも天皇の印章とされた三種の神器のひとつとなった。天地開闢の「闢(びゃく)」は土地を切り拓いて領土とすることであり、それはまさに天子(辟)が門を通って新たな土地に入る姿そのものだ。「䢃(がい)」と書くなら国土の統治を意味するが、それは天子(辟)が草刈りばさみ(乂)を使う姿を現している。乂(がい)には「治める」という意味があり、「乂安」と書くなら、世の中がよく治まって穏やかなことを指すのだ。「嬖(へい)」と書くなら天子に目をかけられた家臣や女性を指し、「躄(いざり)」は天子を畏れた臣下が跪まづく姿勢を現している。「㵨」は川の中州を指すのだが、川の流れに浮かび鳥が降り立つその姿から、古くは神が降りたつ地とされ、穢れを落とす禊(みそぎ)や巫女を意味するともされていた。(『列子』による)そして「礕」や「霹」と書くならば、古代の人々に神の怒りと恐れられ、同時に豊作をもたらす豊穣の神、雷を意味していた。この他にも「辟」から派生した漢字は、なんと数十種類もある。その多くが同種の背景をもっているのだ。

「壁」もその例に漏れない。中国では日本と文字のイメージが少し違う。中国で「壁」と書けば、崖や絶壁、つまり垂直にそそりたつ石柱・石板など、自然の造成物を指しているのだ。後世には、それらにも例えられた長大な「城壁」の意味に発展していった。「高見の見物」と日本語訳される中国の有名な成句に「作壁上観」があるが、ここで使われる「壁」はもちろん家の壁などではない。高い城壁をさしている。硬い守りを意味する熟語「金城鉄壁」でも同様だ。現在も中国国内の観光用Webページには、自然の要害などを「壁谷」と形容する例をいくつか見かけることができる。それは目前に超然とそそり立つ、自然の巨岩、絶壁の類を指すようだ。この場合の「谷」には、何らかの隔絶(谷間、結界)の意味があるのだろうか。日本とは違って、中国での「壁」そして「壁谷」には自然の神秘が込められたニュアンスがあるようだ。詳しくは後述するが、実は「カベヤ」には、アフリカやインドにおいても、「石」と切っても切れない縁がありそうなことがわかってきている。

※一般に中国では「家の壁」は「墙」と書かれる。「墙」は日本でいう「家の壁や塀、垣、囲い」を指している。したがって日本で言う「壁に耳あり」という成句は「隔墙有耳」と書くのだ。漢字ができあがってきた古代に、現在のようなしっかりとした家の壁なぞ存在しなかったからだろう。それは日本においても同じだった。日本において、大陸から入ってきた古代寺院建築の美しい白壁を初めて見たことが、現在の日本語の「壁」の発音につながったのではと筆者は推測する。中国語でしっかりした家の壁は「墙壁」とも書かれ「クヮンヴィー」と発音するからだ。これは「カビ」と聞こえよう。実は古事記や万葉集の時代、もともと日本では「神」は「カビ(正確にはカフィ)」と発音されていた。同じ発音にもきこえる。子古代本では「壁」と「神」の発音は同じだったろうことは、当時使われていた「上代特殊特殊仮名遣(橋本進吉らの研究による)」からもおそらく間違いないだろう。鎌倉時代に関東・東北に実在し、妙見伸を掲げた一族「神谷(かべや)」氏の記録もそれを裏付ける一つと推測する。(第6稿、14稿、24稿など「神谷(かべや)」の稿を参照 )

「壁」の部首には「土」が含まれる。「土」は紀元100年の『康煕字典』に「地上の万物の始まり」と記述され、それは神の依り代として後世に「社(やしろ)」と書かれるようになった。「土」は長い時間をかけ凝って「石」となる。古代において「石」には神が憑依するとされ、はるか古代からその神威を畏れた権力者たちに祀られていた。現在の日本でも、自然の巨石にしめ縄が張られた姿を見かけることは決して稀ではない。古神社の御神体は現在でも石(磐座:いわくら)であり、いわゆる社殿はない。たとえば愛知県東部(『古事記』にも登場する三河穂評:みかわ-ほのこおり)にある奈良時代創建とされる石座(いわくら)神社や砥鹿(とが)神社には、ともに磐座(いわくら)がある。その周辺は日本で最も多く壁谷が居住している特筆すべき地域でもある。

※古代に大陸から日本に渡ってきた渡来人らはその技術を駆使して巨大寺社建築を作った。石灰で作られ、白く美しい輝きを発する「漆喰の白壁」は、予想に違う頑強さも兼ね備えていた。初めて見た日本人は驚かされたことだろう。蘇我馬子によって作られた日本初の寺院「法興寺」もこの技術で作られていた。しかし、そこは乙巳の変(大化の改新)で中大兄王子らが武装して立てこもる「城」と化したのだ。蘇我蝦夷があっさり降参して自害したのは、最強の城を奪われたからなのかもしれない。このころ薄葬令が出て古墳は一気に小規模化したが、それでも高松塚古墳やキトラ古墳の内壁に、この漆喰の白壁が使われ、現在も白く輝いている。日本の古大王権にとって、白壁の頑強さと美しさは権威の象徴でもあったことだろう。その名「白壁」は桓武天皇の父(光仁天皇)を始めとして天皇の名(実名)にも何度か登場する。桓武天皇によって「白壁」の名は使用が禁じられ、以後「真壁」と書かれるようになった。

愛知県東部は京都の深草と並んで古くから城郭や寺社の白壁に使われた漆喰(しっくい)や三和土(たたき:土間のこと)に使われれた三州土の産地でもある。江戸初期の城郭の石もこの地にある西浦半島から採掘されていた。(『加藤清正は名古屋城天守台の石をどこで採ったか』による)愛知県東部だけではない。山梨県都留市の壁谷遺跡・久保遺跡では旧石器時代の細石刃(さいせきじん)とよばれる石器が多数発掘されている。(『甲斐考古』『都留市の先史遺跡』などによる)細石刃とは鏃(やじり)や銛(もり)の先端に付けられた切れ味鋭い小刃のことで、旧跡時代には特定の種類の石を割って作っていた。細石刃に適した石は、堅く剥離しやすい特殊な石である必要があり、採掘できる場所は限られていた。壁谷遺跡のあった都留市周辺は石器を製造し関東各地に供給していた古代の石器製造工場だった可能性が指摘されている。そのほかにも福岡、奈良、京都、石川、長野、山梨、栃木、福島、山形、宮城など、壁谷の古地名が残り、あるいは壁谷が一定規模まとまって居住するところには、ピンポイントで「石(鉱物あるいは土)」の採掘場・鉱山があることに気が付くだろう。各奈良時代以降、各地の石(あるいは土)の産地に「壁谷」と名付けたのだろうか。あるいは、石の採掘に関わる人たちが居住した各地を「壁谷」と名付けたのだろうか。

※現在日本に大量に輸入されている御影石(みかげいし)の主要な産地は、中国福建省厦門である。そこは中国で「壁谷」の堂號(古代の名字)が最も多いとされる特筆すべき地域であり、隣接する中国福建省泉州には清(しん)の時代まで「石鎮壁谷村」があった。壁谷村につけられた「鎮」の名は、軍事・民政をつかさどった要衝地につけられたを名称で、その歴史は紀元前後の秦漢の時代にさかのぼる。

※後述するがインドの古典サンスクリット語やアフリカの「kab(カビ)」にも「石」の意味がある。クルド語でも「石」を「kevir(カビ)」と言う。15世紀から19世紀に渡ってヨーロッパからアジア大陸にまたがる世界屈指の巨大帝国だったオスマンで使われていたのが、このクルド語だ。また日本語の起源という説があるインドのタミル語では石を「kai(カイ)」と言い、アフリカの古代バントゥー語では石を「kab(カベ)」という。さらに、バントゥー語では「yaj(ヤ)」には神に生贄を捧げるという意味があり、「kabeya(カベヤ)」と書けば洞窟という意味となる。(実は風水や現在の中国語でも「谷」には奥深い洞窟の意味がある。)アフリカのコンゴ共和国は大半がバンドゥー語族だ。意外なことにそこでは「Kabeya」という地名や名字が意外にもポピュラーだ。kabeya を名乗る人物はどんなに少なく見積もっても日本の「壁谷」の人口の数十倍以上にのぼるだろう、ごくありふれた名字のひとつなのだ。(facebookの登録数から筆者が推測。)コンゴ共和国はコバルトやタンタルの産出量・埋蔵量で世界一とされ、ほかにも銅、ダイヤモンドなど鉱山資源が極めて豊富な国だ。世界をまたぎ、これだけ広範囲に渡る「カベヤと石の関係」の類似性に関しては、紀元前アレキサンドロス大王の東征や漢王朝以降のシルクロードの発展に始まり、オスマンが受け継いだ東西文化の伝播交流の影響があるのではないかと、筆者は考えるのだが・・・。

古代中国では「谷」にも極めて深遠な意味があった。『老子』に代表される老荘思想・道教思想において、「谷」は不死再生の象徴かつ生命の根源とされ、国家の統治と大いなる安定をも意味した。天子の国家運営において最も重要なことの一つと諭されたのが、この「谷」だったのだ。古墳からは古形式の「老子」が発掘されている。この考えは紀元前には完成していたとされる風水思想にも息づいていた。天上から降りそそぎ、龍脈(山脈)を流れ伝わってきた生命の源となる「気」が地上に湧き出て溢れ出る(汪溢という)場所はそこは「龍穴砂水」の風水好地とされ「谷」と呼ばれた。「谷」の周囲には「青龍・白虎・朱雀・玄武」の風水四神が揃い、地上の繁栄の地となるのだ。(この四神は高松塚やキトラ古墳の壁画でも有名だ。)『常陸国風土記』などから、日本においても神社が設置された場所は、やはり「谷(やつ/やと)」であった。これは日本人に「谷(や/たに)」のつく名字が多いことにもつながろう。そんな古代の時期、「壁」と「谷」の2文字で構成された「壁谷」とは、いったいどんな土地(名字)だったのか、それなりに類推することもできようか。

※中国では「谷」は「穀」の代字に使われる。たとえば中国語でgoogleは「谷歌(クーグル)」と書いていた。googleによれば、これは穀物(谷)の種をまき人々が潤う(歌う)という意味なのだという。一方で古来から、穀物を食べずに行う神仙道や禅宗などでの修業は「辟谷」あるいは「壁谷」という。日本神話でもアマテラスが稲(穀物)の種を天皇家の祖先に託して天から地上におろした。それが天皇家の始まりとなり、神(牙・穎)と関わってくる。これが後述する平姓(平氏の血筋)岩城氏の穎谷(かびや)・神谷(かべや)氏という名字に発展したのだろうとも推測できる。

地理的には「谷」は泉が湧き出る場所となる。古代には水道がない。人が住めるのは川のほとりか泉のわく場所しかなかった。日本でも壁谷の古地名があり、あるいは壁谷が多数住む地では、泉が湧き出であるいは温泉地であることも多い。たとえば愛知県蒲郡市の西浦温泉、群馬県中の条町のぼくぼく弁天(壁谷の泉)、栃木県栃木市の柏倉温泉/鹿沼市の鹿沼温泉、福島県郡山の郡山温泉/いわき市の湯本温泉などだ。郡山温泉は平安後期に源義家(武家源氏の祖とされる八幡太郎義家)が見つけたと伝承され、いわき湯元温泉もその歴史は奈良時代にさかのぼる日本三大古泉のひとつである。壁谷の地名は「いわき」と関わる地であることも多い。その「いわき」は東北では石城、岩城、磐城などとかかれ、関西では井脇(井湧)とも書かれる。表記からも石と湧き水(清水)が連想できようか。なお、すでに触れたが、岩城氏の一族には妙見神を掲げて戦った神谷(かべや)氏がいる。

※人名や地名において「谷」は一般に関東・東北では「や」、関西以西では「たに」と発音される。「や」の音は、現在のチベット付近で使われていた鮮卑語や、高句麗(こうくり)があった満州付近で使われていた扶余語に由来する可能性が他高いと筆者は推測する。その地では「谷」を「ヨク」と発音していたからだ。たとえば3世紀から11世紀(日本では神話時代から平安時代)にシルクロードの青海ルート(敦煌を通る河西回廊ルートと別ルートとして近年注目を浴びている)で東西貿易を担った「吐谷渾」という国名は「トヨクコン」とされ、谷は「ヨク」と発音される。これらの発音は、漢文の文献などで音写され朝鮮半島を経由して、飛鳥時代までに日本に伝わったはずだ。その後も遣隋使などによって、日本は大きな影響を受けている。また高句麗の後継国である渤海から日本に数十回訪れている。(記録では35回か)坂上田村麻呂も朝廷の指示をうけて渤海市の使節団を饗応している。その渤海の都、東京龍原府の日本道には「壁谷県」があった。渤海にあった「壁谷」は扶余語では「ヴィーヨク」、高句麗語では「ヴィータン」という発音になる。しかし既出の「墙壁谷」と書くならば、「クヮンヴィーヨク」、「クヮンヴィータン」だ。それぞれが日本語の「かべや」、「かべたに」の発音に繋がったのではないかと推測する。扶余語の「谷(ヨク)」が日本の「谷(や)」、高句麗語の「谷(タン)」が日本語の「谷(タニ)」となったのだろう。能登地方の古老は、いまでも「谷(たん)」と発音するという。そこは奈良時代に渤海使が何度も漂着した場所だ。扶余語と高句麗語は互いに理解できたという記録が残る。しいて言えば非常に広範囲に使われていたのは扶余語で、高句麗語は一種の方言であったようだ。なお現在の中国では「谷」は漢音で「グー」と発音する。これは日本語の「谷(コク)」の語源になったのではないだろうか。

風水と壁谷

やはり伝説の皇帝「黄帝」に起源をもつとされる風水では、天空をめぐる二十八宿(西洋でいえば星座)の一つに「壁宿(へきしゅう/和名:なまめぼし)がある。古代中国では「北方玄武の別棟(皇帝の離宮)」とされ皇嗣(太子:ひつぎのみこ)の「守護と教育」を担うとされたのがこの壁宿だ。日本語での発音も「かべやど」になる。「谷」と「宿」は、日中ともに自らの居住地を指していた。つまり天上の「壁宿」と地上の「壁谷」は、ぼぼ同じ意味となろう。風水で「谷」といえば、天上から降り注いだ「気」が龍脈(山脈)を伝わって地上に一気に溢れ出る好地をさしていた。天空の「壁宿」のエネルギーが湧き出る地が地上の「壁谷」ともいえよう。

※古代において「谷」は居住地一帯を広範囲に指し、「宿」は人が居住する自らの建物と敷地を指していた。「宿」に現在のような宿泊場地の意味が生まれるのは、江戸時代など近世になってからだ。

「壁宿」には天空で唯一「厩(うまや)」があり、やはり皇子であった聖徳太子(厩戸皇子)との関係が興味深い。風水は飛鳥時代の日本に仏教とともにもたらされ、蘇我入鹿や中臣鎌足も留学僧旻(みん)から「周易」を学んだことが記録される。(『藤氏家伝』)僧旻は大化の改新で国博士となっており、その後の斉明・天智・天武天皇の時代には、政治から国家事業・祭礼など広い範囲に渡って風水が大きな影響を与えていたことが、発掘により明らかとなっている。『日本書紀』の記述から斉明天皇や天武天皇は風水の奇門遁甲の術を使った可能性が高い。斉明(皇極)天皇陵ともされる牽牛子塚(けんごしづか)古墳や、その子の天武・持統陵や、孫の文武天皇陵の可能性が高いとされる中尾山古墳も八角形である。同時代のキトラ古墳では風水神獣の壁画が書かれている。天武天皇の「八色の姓(やくさのかばね)」もやはり風水に特徴的な「八」であり、その冠位に使われた「真人」「導師」といった名称も風水(道教)の指導者の名称と同じだ。

※法隆寺の夢殿もやはり「八」角形である。「八」にこだわる傾向は奈良時代ごろに消え失せるのだが、一部に残っている。天皇に使われる枕詞「やすみしし」は「八隅知し」と書き、天皇の玉座である高御座(たかみくら)は現在も八角形である。

※日本の真言宗の開祖となった、弘法太師空海らによって、中国風水を取り込んで独自に発展したのが宿曜道(すくようどう)だ。宿曜道でも風水の「壁宿」は生きており「壁図」と呼ばれる。

風水は陰陽道(おんみょうどう)にも取り込まれ、やはり日本独自に発展をとげた。これらは平安時代以降の朝廷だけでなく日本文化に大な影響を及ぼし続け、秀吉によって全面的に禁止されても、決して消え失せることはなかった。後述するが、当時は天竺(てんじく)と呼ばれていたインドや、唐(から)とよばれて中国の文化の強い影響をうけ、空海や円仁らによって「壁図(風水でいう壁宿)」は毘沙門天、文殊菩薩そして妙見菩薩と同一視され、武神として武家に崇敬されていくことになる。壁宿のあった北方玄武は風水五行で「水」を表わす。水は生命維持に必須なものだが、同時に天災・人災(特に戦禍による火災)を鎮めることができる雄一の手段でもあった。これらによって「壁谷」は「防衛」の意味を併せ持つことになったのだろう。

中国南部の黄姓において「壁谷」と並んで多い堂號に「紫雲」がある。中国では古来軍隊が駐屯して民政・軍政をつかさどった経済上の要地を「鎮」と呼んでいたが、そのひとつ台湾雲林県北港鎮がある。そには1694年に道教の最高神とされる女神、媽祖(まそ)廟の総本山といわれる北港朝天宮が造られており、戦前の日本統治時代はその壮大華麗な建築から「台湾の日光」とも呼ばれ、現在も有名な観光地となっている。北港鎮の郊外となる好収里には媽祖廟「媽祖廟好収第一公墓」がある。そこでも最も代表的な堂號は、黄姓の「紫雲」と「壁谷」だとしている。

『北港的傳統信仰組織與現代社團』王志旭 南華大學碩士論文 中華民国98年(2009年)より引用

北港居民依姓氏分布如;(中略),黄姓堂號紫雲、壁谷位於好収里,

紫雲とは、中国古代の神仙・道教思想において、徳の高い天子の時に現れるとされる吉祥(きっしょう)の雲のことだ。のち中国に仏教が広まると、「紫雲」は新たに仏様(阿弥陀如来)が来迎するとき乗ってくる雲とされるようになった。後述するが、当初は「壁谷」も神仙が祀られる場所を象徴していた。しかし、紀元6世紀ごろの中国五台山に壁谷玄中寺があり、そこで生まれた浄土教が日中で一気に広がることになる。こうして「壁谷」も同じように仏教聖地の名称へと変化を遂げ、武士の時代になると真言宗・天台宗など密教の影響をうけて、武神・守護神へと変化を遂げることになる。

かつて中国各地にあった壁谷の地名

紀元前20世紀ごろ「華夏(かか)文明」発祥の地にも、かつて「壁谷」の地名があったことが記録されている。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」と『史記』にも讃えられた理想の皇帝「堯(ぎょう)」の都があったとされる場所だ。(現在の山西省臨汾市)また『雲南通志』には秦漢時代(紀元前9世紀-220年)に、馬龍州城を構える交通の要衝に「壁谷江」(現在の雲南省曲靖市馬龍区)が記録されている。そこに「五尺道」が整備されたと『史記』は伝え、中央アジアを介して古代ローマ、エジプト、ギリシャへつながるシルクロード(カーペットベルト)の一部となっていた。「馬龍」とは中国で兵士が駐屯する城塞を意味した。「龍」は中国皇帝を象徴しており、天地風水の影響の可能性がうかがえる。

『史記列伝』によれば、秦の始皇帝の祖母である夏姫(紀元前300年 - 紀元前240年)が、当時広大な森林地帯だった「神禾(しんか)」の地を自らの墓の場所として指定し、その北が百年後に都となると予言したとする。確かにそこは長安(現在の西安市)となり、のちの中国歴代王朝の都として大いに繁栄した。始皇帝は「神禾」から大量の木材を採取し続け、生涯をかけて壮大な宮殿「阿房宮(あぼうきゅう)」を作り続けた。神禾にあった広大な森林は、ついには消え去ったという。そんな伝説の地「神禾」にも「壁谷」の地名があったことが記録されている。近世まで、そこは「雷村」と呼ばれていた。(現在の西安市長安区北雷村・南雷村 )千数百年の時を経て、「壁谷」の地名はいつのまにか「雷」へと変わっていたのだ。

※雷は「礕」とも書かれる。伝説の皇帝「黄帝」は雷神でもあった。また風水の占い(演禽風水)で用いられる二十八宿のなかでも「雷神」があるのは唯一「壁宿」だけだ。壁と雷の関係は相当に深いのだろう。

『隋書』には、古来関所として有名な雁門に「壁谷」の地が記録されている。その記録によれば、西暦610年、弥勒であると名乗った壮士らが雁門に押し寄せた。門兵らは武器を奪われ、宮殿内に侵入されることになった。当時は弥勒仏を名乗るものは、すべて旧体制に対する反抗の意味を含んでいたという。隋の皇帝であった煬帝は、侵入した壮士らを皆殺しにするにとどまらず、都の洛陽で大規模な捜索を行って千余家を連座させたという。その後、尉文通を狩猟とする3,000人が壁谷の地に立てこもった。しかし隋はの杨伯泉を派遣して、これを打ち破ったと記録されている。この雁門は古来から中国が北方民族の侵入を防ぐ重大な拠点だ。壁谷があった雁門は、現在万里の長城の一端であり、周辺は中国の全国重点文物保護単位(日本でいうなら国指定重要文化財)に指定されている。その当時は、隋の末期でありこういった反乱が多発していた。それからわずか8年、西暦618年に隋は滅ぶ。

紀元6世紀の初めごろ、後世に「文殊(もんじゅ)菩薩」の聖地とされる中国五台山に「壁谷」の地が記録される。その歴史を知るには、時代をさかのぼらないといけない。西暦5世紀のころ「曇鸞(どんらん:476-542年)」は中国古代の神仙思想や、風水に起源をもつ漢方を学んで修行に努めていた。あるとき、インドから入ってきた仏教に大いに感化されると、阿弥陀仏による極楽浄土への往生を説くようになったとされる。当時の中国は南北朝(魏と梁)といわれる時代だった。曇鸞はそれぞれの天子に神鸞、菩薩と呼ばれて崇敬された。のちの世で曇鸞は、日中ともに「浄土教」の開祖と呼ばれるようになる。曇鸞は壁谷の地に玄中寺を開いたとされる。当初は神仙や風水についても学んでいた。山中奥深くで自らが修行した地を壁谷と名付けた可能性もあろう。

それから約百年ののち、同じく壁谷玄中寺で修業した著名な僧に「道綽(どうしゃく:562-645))」がいた。道綽は山中に曇鸞の石碑を見つけ、すでに朽ちていた壁谷玄中寺を再興した人物である。その道綽が滅すると、なんと唐の皇帝「太宗」がわざわざ山中奥深くの壁谷玄中寺を訪れて供養をしたと記録される。太宗は都を長安(いまの西安)に移し、貞観の治といわれる史上まれにみる泰平の世を実現した。後世に理想の皇帝と伝承され讃えられることなる。その太宗に招かれたのか、道綽の弟子「善導(ぜんどう:613-681)」は、五台山壁谷の地から移ると、長安の南に位置する既出の「神禾」の地に香積寺(現在の西安市長安区郭杜鎮)を開き、布教に努めた。間もなくして「(中国)全土、念仏に満つ」と言われるまで浄土教が広まった。こうして中国大陸に、そして日本に、浄土教が広く浸透することになったのである。

※太宗の言動を描いた『貞観政要』は北条泰時や徳川家康、そして明治天皇も熟読したとされる。日本語訳されたものが講談社、角川、ちくま書房など各社から出版されており、現在も多くのリーダーの人々の座右の書となっている。

実はその善導が香積寺を開いた地は「神禾壁谷」つまり、現在「雷村」と呼ばれる地域の中心地に近い。もともとそこに「壁谷」の地名があって寺を開いたのか、それとも五台山の玄忠寺と同じ「壁谷」の地名をつけたのか、それはわからない。どちらにせよ曇鸞や善導の教えを受け継ぐべく、神禾の地でも「壁谷」という地名にこだわったのではないだろうか。唐の時代に書かれた『続高僧伝』ではこの地を「京城(長安城のこと)西南豐谷鄕福水南史村」と呼んでいる。唐の都長安の地理を記した貴重な資料とされる『長安志』で上記の地名を引くと、それは「福水」のことと記したうえで、南山にあった壁谷の地のとの距離を記している。壁谷の地は、当時それなりに知られた場所であったと言えるだろう。

『長安志』(西暦645年)巻十一より引用

福水、卽交水也。水經注目、上承焚川・御宿諸水、出懸南山石壁谷、

南三十里、輿直谷水合、亦日子午谷水

このことは日本にも伝わった可能性があろう。奈良時代の官寺(天皇の勅願寺)があったとされる遺跡の地に「壁谷」の古地名があったことが、福井県などで確認できているからだ。のちの時代に日本から中国に渡った「法然」や「円仁」らも、中国の壁谷玄忠寺のあった五台山をめざしていた。(当時は戦乱の最中にあって山中奥深くの壁谷の地は再び不明になっていた。)日本で浄土宗の開祖と言われる法然(ほうねん)は、壁谷玄中寺で修業した曇鸞大師、道綽(どうしゃく)禅師、善導大師を「浄土五祖」の最初の三人に掲げている。とくに善導については阿弥陀仏の化身とまで評している。(法然による『選択本願念仏集』や『法然上人絵伝』による)法然が浄土五祖を描かせた『絹本著色浄土五祖像』は国指定の重要文化財となっている。親鸞(しんらん)の浄土真宗でも「七高僧」に壁谷玄中寺の曇鸞、道綽、善導の三人が含まれている。何より親鸞の名そのものも、壁谷玄中寺の曇鸞から一字もらったものなのだ。曇鸞、道綽、善導ら壁谷玄中寺の三僧が載る。なお唐の太宗の時代(645年)に書かれ、壁谷玄中寺の曇鸞らが語られる『続高僧傳』は、のち光明皇后(聖武天皇の皇后)が発願して書写せしめたものが現存しており、国の重要文化財になっている。

※本の平安時代から鎌倉時代に中国で書かれた『浄土往生伝』では「後魏壁谷」の項目があり、そこに登場するのが曇鸞である。また鎌倉時代の『高僧和讃』でも「壁谷神鸞」と書かれている。(曇鸞は、神鸞とも呼ばれていた。)これらの書は中国の著名な高僧たちの歴伝として後世に伝えられ引用されており、日本の高僧たちの多くが繰り返し読んでいた。そのため当時「壁谷」の地名は浄土宗の聖地として広く浸透していたと推測される。なお、千数百年の間不明だった玄忠寺の位置は、近年の調査で石碑が発見され確認されている。(現在の山西省交城県石壁山)発見したのは浄土真宗の僧で東京帝大講師も務めていた常盤大定(ときわだいじょう)と、建築学者で同じく東京帝大教授だった関野貞(せきのただし)である。それは大正9年のことだった。(『古賢の跡へー支那仏蹟蹈査』による)こうして玄中寺の存在は、千数百年の時を超え、一躍脚光を浴びることになった。現在は中国の全国重点文物保護単位(国宝級)に指定され、著名な観光地となっている。

参考:『中国の浄土教と玄中寺』( 道端良秀 永田文昌堂 なつめ寺研究叢書 1950)から引用

玄忠寺は、真宗における七祖と次第相承の中、中国の三高僧、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師の居住せられた処であり、曇鸞大師の創建せられたものとして、この寺を中心として、中国の浄土教が発展隆盛に赴いたのであった。この玄中寺の浄土教が日本に伝えられて、法然上人の浄土教の独立宣言となり、その門下の諸流となったが、特に親鸞聖人によって、玄中寺の念仏が民衆化され、玄中寺の名が知られるようになったのである。(中略)中国日本の浄土教は、この玄中寺から発祥したものといってよい。まさしく玄中寺は、日本浄土教の源叢地である。全仏教徒の憧れの地であり、聖地であり、一度は参詣し度い地なのである。

※「壁谷釋曇鸞」の「釋」は現在の「釈」の旧字であり仏教の「僧」を指す。そこにあった古代寺院が衰退しあるいは失われ、千年以上の時間を超えることで、残された古跡は「壁谷澤(沢)」と解された可能性もあろう。釈と沢の旧字がそれぞれ「釋」と「澤」と似ており、筆文字では区別しにくいからだ。壁谷が古来より「泉」や「水」にとても関りが深いことも係わりがあったかもしれない。福島、山形、宮城、栃木などには壁谷沢、壁谷入沢などの古地名が現在も残っており、いずれも由緒ある名称とされているようだ。

そして最大のキーマンの一人は「円仁」であろう。彼は聖徳太子(厩戸王)に関連が深い壬生氏(栃木県に壬生市がある)が出自であり、日本各地に聖徳太子信仰を広めた功労者の一人として特記できよう。円仁が唐より帰朝のおり海上で遭難しかけたとき、「毘沙門天」の霊験によって無事難をのがれたと記録されている。(『山門堂舎記』)また、壁谷の地があった中国五台山が「文殊菩薩」の浄土だという思想も、円仁が日本に広めたものだ。後述するが壁宿は「文殊菩薩」や「毘沙門天」との関係が深いとされる。その後の武士の時代に、武神として「文殊菩薩」と「毘沙門天」の信仰が広まったのは円仁の功績が大きかったといえよう。奥州藤原氏による平泉(岩手県)の中尊寺もこの円仁の開基であり、浅草浅草寺も円仁が中興している。円仁の関わったこれらの寺は源頼朝に崇敬され、鎌倉三大寺院(鶴ヶ丘八幡、勝長寿院、永福寺)の造営や、その参道の向きにまで大きな影響を与えている。各種の資料や伝承から、これらの寺院に日本の壁谷の一族が直接関わった可能性が推定される。このことについては秦氏と興福寺・奥州藤原氏、鎌倉幕府と壁谷の稿などで今後記述予定だ。

※空海も中国五代山で修業するために中国に向かった。当時は戦乱の真っただ中で、山中の壁谷玄忠寺にたどり着いた記録は確認できない。空海は、辟谷(五穀を避ける修行:壁谷とも書く)をして記憶力を驚異的に高めたとされる。そのおかげか、現地では古典サンスクリット語を習得し多くの仏教原典を読破することができ、短期間で修業を終え、大量の書物を携えて日本に戻っている。当然ながら当時盛んだったサンスクリット「カーヴィヤ」(後述する)の多くを読破し、持ち帰っただろう。空海は『梵字悉曇字母幷釈義』という日本初の解説書も書いている。これをきっかけに日本で、特に真言宗と天台宗で古典サンスクリット語を学ぶ悉曇(しったん)学が盛んになった。サンスクリット語は若干の変化をとげながら現在も「梵字」として日本の仏教で使われている。

『随書』には、隋の二代皇帝煬帝(ようだい)の時代(610年)に交通の要衝だった「壁谷壩」(現在の雲南省昆明市東川)での戦いが記録さる。「壩」とは現在のダムを意味する言葉であり、当時そこに何らかの巨大な流水制御設備ないし水上交通の拠点があったと推測できる。唐代にも「壁谷水」(現在の山西省長治市上黨區蘇店鎮)の地名が記録に残り、そこは軍事経済の拠点だった。一方で新羅に滅ぼされた高句麗の遺民が建国し、のちに「海東の盛国」と言われるほど隆盛を誇ったのが渤海だ。その渤海にも「壁谷県」(現在の吉林省琿春市)が記録される。当時渤海国の都があった「東京龍原府 」に属し、日本道とも呼ばれた日本に向かう長大な大河(現在の豆満江:とまんこう)を抱えた交通の要衝都市、それが「壁谷県」だった。そこは現在も中国、ロシア、北朝鮮の三国で国境が接するという、たいへん稀な戦略的地域でもある。

中国では龍は皇帝を意味し、大河は龍にもたとえられていた。龍原府の名もそこから来たのだろう。渤海からの使者「渤海使」は、奈良時代から平安時代に35回も日本に訪れ、当時は遣唐使にも増して日本との交易が盛んだった。奈良時代には、時の最高権力者、藤原仲麻呂の私邸「田村第」に招かれ、また平安時代には天皇命をうけて「坂上田村麻呂」や「菅原道真」も都で饗応している。おそらくは坂上田村麻呂や菅原道真も、渤海の都にあった「壁谷」の地名を何度も見聞きしたことだろう。すでに説明したように、この地での「(墙)壁谷」の発音は「(クヮン)ヴィーヨク」「(クヮン)ヴィータン」だった。

※古代中国で、仙人がのり空を飛ぶとされたのは「黄鶴」であった。田村麻呂は「鶴」に拾われ連れてこられという伝説が福島県田村に残っている。『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』には田村麻呂が渤海を訪れたとする記事までもある。そして福島県田村では田村麻呂の東征伝承が数多く残り、当地の壁谷にも田村麻呂に従軍したと先祖代々語り継がれている。

926年、渤海国を滅ぼした遼は壁谷県を廃した。そこが668年に滅んだ高句麗族(古代満州系)の拠点とされたことが理由のひとつとされる。壁谷の地名はここでも歴史から消え去った。高句麗の滅亡前後から数百年の間、日本に移住してきた高句麗系の渡来人は大変多い。716年(霊亀2年)には、その移住地として現在の埼玉の地に高麗郡(現在の埼玉県日高市、鶴ヶ島市、川越市、狭山市、飯能市など)を作ったことが『続日本紀』に記録される。高麗郡の名は明治になるまで残り、日本各地に残る高麗(こま)・狛(こま)などの地名は高句麗との関係が深いとされる。実は聖徳太子の師も、559年に来日した高句麗僧、慧慈(えじ)であった。聖徳太子の創建とされる四天王寺や法隆寺も、高句麗の影響を受けた伽藍構成とされる。高句麗文化は飛鳥時代に、日本に大きな影響を与えていたことが高松塚古墳・キトラ古墳の発掘などからもわかってきている。

※『三国史記』高句麗本紀や『三国史記』百済本紀によれば、高句麗王もやはり黄帝の子孫を称していた。壁谷県という地名は冒頭に示した黄姓壁谷につながり、高句麗民族にとって大きな意味があったと思われる。なお高句麗語(現存しない)では「谷」を「タン」と発音したという。これが日本語の「谷(たに)」の起源だという有力な説がある。北陸地方の古老は、現在も「谷(たん)」と発音すると言う。

※古代の日本の家は竪穴式住宅であり、そこには平面的な壁はなかった。壁ができるようになるのは、一部の権力によって作られた高床式住宅からだ。先に説明したように中国語で「家の壁」は「墙」と書くが、「墙壁」とも書かれる。後者の発音は「qiángbì」であり、あえて日本語でカナを振るなら「クアンビィー」であろう。古代の日本人が、これを聞いて「かべ」という発音と解したのだろうかと筆者は考えている。

高句麗の流れを引くとされる満州民族は、自らを「マンジュ」と発音する。それは中国五台山と関わりが深い「文殊(もんじゅ)菩薩」が語源だとする説がある。しかし筆者はインドにおける卍(まんじ:万字)の可能性もあろうと考える。卍を使った独特の組子構造の欄干(卍崩し:まんじくずし)を持つとされるのは、日本では四天王寺と法隆寺のみで、どちらも聖徳太子の創建とされ、しかも高麗尺で設計されたことが判明している特異な寺だ。(卍崩しは黄檗宗萬福寺にもあるが、それは江戸時代に来日した隠元による創建だ。後述するが、その黄檗宗もさかのぼれば中国福建省壁谷の地の周辺で発しており、黄姓壁谷つまり黄壁との関わりが否定できない。)卍は紀元前3世紀、古代インドから仏教(浄土教)を世界に広めたと特記されるアショーカ(Asoka)王との関係が示唆される。飛鳥時代の古代寺院の名や憲法十七条に使われた「法」という言葉も、「法」による統治を説いたアショーカ王と関係があるのだろう。またアショーカの名は、「あすか」の地名の由来になり、古代インドの極楽浄土で念仏を唄い広めたとされる半人半鳥のカラヴィンカ(迦陵頻伽)にちなんで、「飛鳥」の文字が充てられ、「飛ぶ鳥の」の枕詞が生まれたのでは、と筆者は推測する。

『東方見聞録』で名高いマルコポーロが訪れたのは、かつて海のシルクロード(カーペットベルト)の起点とされ、東洋最大の港として栄えた福建省泉州だ。その地にあった「金門縣(現在の福建省泉州市晋江)」には、中国の沿岸に押し寄せる倭寇(わこう)を撃退し、現在も英雄と讃えられる明代の将軍、江侯周德興(-1392年)の名が残っている。彼も黄姓「檗谷」の末裔の一人として記録に残る。壁谷は中国で檗谷とも書かれる。その主要拠点は泉州囲頭湾に面した「石鎮壁谷村」(現在の福建省泉州市東石鎮。)だった。宋(960 - 1279年)の時代にも鎮市とよばれる国家的な産業・交通の重要拠点とされ、同時に海外侵略に備えた軍事拠点のひとつとされて、後の清(しん:1616-1912年)の時代に至るまで栄えた。現在は壁谷の地名はすでにない。その湾内にある「金門島」は観光地として特に有名だ。そこはかつて中国共産党と国民党(現在の台湾)が戦った最前線でもあり、現在も中国・台湾の境にある重大戦略地域として、全世界の注目を集めている場所でもある。

※先に記した黄檗宗の開祖は唐の時代の黄檗希運( - 850年)である。彼は禅宗の一派である臨済宗の開祖となる臨済義玄の師でもあった。黄檗の名は、檗(きはだ)の産地だった黄檗山が由来とも伝わる。しかし、その黄檗山は泉州壁谷の地を目前にした海岸沿いにあり、同じく台湾を眼前に見据える小高い丘であった。(現在の福建省福清市漁渓鎮)その位置だけでなく、中国では檗谷と壁谷はある種同一ともみなされていることからも、黄檗の名は黄姓壁谷と関係がある可能性は十分に高かろう。

清の二代皇帝康熙帝の時代、中国南部にあった旧勢力を中心とした藩による三藩の乱(1674年)が起きた。(当時の中国における地方独立政権を「藩」といった。現在の雲南、広東、福建の各省、台湾などである。これがのちに日本で使われた「藩」の語源である。)その制圧に向かった将軍宜里布による「壁谷城」(現在の湖北省十堰市郧阳区)の戦いが記録される。9年間にわたってこの一連の戦いを平定した清は、念願の中国統一を成し遂げた。そこにも現在、壁谷の地名は確認できない。同じく消え去った地名なのだろう。また『甲仙区史』に記録される大要害「石磯谷」(現在の台湾南高雄市甲仙區)は清仏戦争(1884年)や日清戦争(1894-1895年)の激戦地としても名高い。現在は、やはり著名な観光地となっており、奇岩巨石や絶壁の景観が見事で、天然の大瀑布も人気が高いという。その地には「大壁谷」の異名がある。これは過去の地名だったのだろうか、それとも現在も中国語にある、巨大な石壁(石柱・石塊)という意味なのだろうか。(第1稿・11稿・18稿など)

壁谷の文字の起こり

「壁」は「辟」と「土」からなる。「辟」とは畏れ多き神に従うもの(つまり天子・仙人・すでに亡くなった祖先など)を意味していた。西暦100年の『説文解字』では「辟」は「法なり」とする。これは誤った解釈だとする日本国内の研究者の指摘があるが、筆者はそうは思わない。日本でいう法律などの類とは違うからだ。「辟」という文字には、掟(おきて)という意味もある。それは「人知を超越し、有史以前から存在する、本来人間が守るべき不変の倫理」と読み取れるからだ。その思想は紀元前後にインドから中国に伝来した仏教の基本概念であり、古代中国では「法(ダルマ)」と書かれていたものと同種と考えることができる。「法」は飛鳥時代の日本にも入り当時の国家統治に多大な影響を与えたとされ、後世には現在の「法」の意味にもなった。聖徳太子の十七条の憲法にも、古来の意味の「法」が登場する。法隆寺、法起寺、法輪寺(現在の泉湧寺など)、法興寺(現在の飛鳥寺)など初期の寺院の名前にも使われている。

一方で、中国古代の甲骨文字で「土」と書かれたのは、地上にあって神の依り代となる古代の土柱・岩石であり、後世には「社(やしろ)」と書かれた。日本では古代に神の依り代となった磐座(いわくら)となり、そして現在の神社に発展している。『説文解字』は地上にある万物の始まりは「土」だとして「地の萬物を吐生する者なり」と記す。この「辟」と「土」の組み合わせた「壁」という文字は、古代の人にとって、人が逆らえない自然の掟や神仏による創造を連想させのではなかろうか。

※群馬県中之条大塚にある壁谷遺跡から縄文時代の筒型土器が発掘されている。坂輝弥『土偶』によれば、これは縄文中期から後期「堀之内式土偶」の代表的な一種であるという。この種の土偶では最も北で発見されたものとしている。その姿は『中之条町史』で描写されている。円形の胴部で手足を欠いており(本来は手足があったものなのか?)、筒形の胴体の上方には顔があって、三又状の突帯の一端が鼻となり、髪の毛のほか、目、口は穴をあけて描かれ、まわりには入れ墨のような模様もあるとのことだ。断定はできないが、関東各地で神の依り代(形代)に使われた神像筒形土器ではないかと筆者は推測する。なお壁谷遺跡は関東に複数存在する。当然ながら壁谷の地名が縄文時代からあったわけではなかろう。山岳地にあって水の豊富な地で防衛にも適していたため、縄文時代から人が住み着き、のちに壁谷の地名がついたと推測できる。それらの地は不便な山間の僻地であり、近世には大きく衰退することになる。

中国皇帝は畏れ多き存在として「辟(きみ)」とよばれ、その都は「土」で固めた高い城壁で囲まれていた。(古代堡塁城郭都市)。中国語の成句「作壁上観」は、日本語で「高見の見物」と訳されるが、ここでの「壁」は高い城壁をさしている。中国の漢詩を出典とし、強固な守りを意味する「金城鉄壁」も同様だ。(家の「壁」は中国語では「墙(墻/牆)」または「墙壁」と書かれる。)「壁」と似たものに「隦(ひめがき)」がある。これは万里の長城など「城壁」の最上部にある凸凹(飾り?監視用の柵?)の部分を指している。そんな高い城壁の内部、そして周囲には必然的に広大な「谷」ができただろう。そこには水が集まり自然の緑地が広がったはずだ。紀元前から育まれた老荘思想(『老子』など)では「谷」という文字には、天子による国土の統治と安定、そして不死再生・子孫繁栄の意味が繰り返し強調されている。「谷」とは国民が居住する豊かな土地の象徴だったのだ。これらから、古代の皇帝・国家の繁栄と防衛を意味する「壁谷」の文字が生れたのではなかろうか、そう筆者は推測する。

※ナイル川、インダス川、黄河、長江(揚子江)などの古代文明が発展した地域に沿って細長い緑地帯が広がっており、現在も「谷」と呼ばれている。そんな山深い谷地は、水が豊富で人が暮らしやすく、防衛にも適しており、古代都市が繁栄したのだろう。たとえばエジプト新王国の首都だったテーベ(現在のルクソール)も長大なナイル渓谷にあり、その谷の東岸には世界遺産カルナック神殿が、対する谷の西岸はツタンカーメンで有名な王家の谷がある。エジプトの王都は日が昇る東の谷にあり、王墓は日が沈む西の谷にあったことになる。

中国の黄性には、「壁」の「土」を「木」に変えた「檗谷」という堂號(古代の地名・名字)も残っており、時に「壁谷」と同一視もされる。木と土(石)はともに「社(やしろ)」を構成する。御神木にあるように、木も古くから神の依り代と言われていた。「檗(きはだ)」は柑橘類の一種だ。柑橘類の多くがその枝に鋭い棘(とげ)を持ち、厳冬にも決して緑を失うことはない。そんな柑橘類で垣根を張り巡らし、皇帝を守ったのが「檗谷」だったのだろうか。「檗」は古代から漢方薬としても使われており、中国皇帝に献上される「皇帝柑」もある。古来より仙人が載って空を飛ぶとされた鶴も「黄鶴」と呼ばれ、それは仙人が柑橘類(檗であろうか)で壁に描いた黄色い鶴の絵から飛び出したと伝わる。その伝承をもとに西暦223年、『三国志』でも有名な呉王孫権が黄鶴楼を作っていた。(再建され現在は観光地になっている。)檗から得られた「黄土色(黄茶色)」の染料は中皇帝の色とされ、古来中国においては皇帝以外の使用を禁じられていた。北京の天安門広場には、まさに全面がこの色に包まれた故宮「紫禁城」がそびえ立ち、現在も中国の国威の象徴となっている。

※檗は『正倉院古文書』の彩色に使われていたことが判明している。またチベット仏教のポタラ宮殿や、ダライ・ラマ氏が着用する法衣も、この色が用いられているようだ。日本でも柑橘類の橘(たちばな)が家の周囲を囲む垣根に使われ、奈良時代に天皇から下賜された「橘」の姓は、日本の四大姓「源平藤橘」の一角を占めている。なお『古事記』ではスサノオが自らの宮殿を護るため幾重にも張り巡らした八重垣を作っているが、このとき柑橘類が使われた可能性も当然あるだろう。

実は「辟」から派生した字は驚くほど多い。その多くが神仙・天子・皇帝や治世など神威・権威的な意味を持つことに再び驚かされる。中国では天命により天下を治める天帝の子「天子」(のちの皇帝)を「辟(きみ/へき)」と呼んだ。また薄く平らな環状の石「璧(たま/へき)」は、中国天子の玉器とされ、紀元前20世紀の記録にも残っている。類似した天孫降臨の思想を持っ日本でも、「璧」は天皇家の三種の神器の一つとなり、通称「玉(たま)」と呼ばれている。幕末に天皇は「玉(ぎょく)」と呼ばれており、昭和天皇の肉声ラジオ放送も「玉音(ぎょくおん)放送」といわれる。天皇が座る高御座(たかみきくら)も玉座(ぎょくざ)であり、玉とは「璧」のことだ。また「躄(いざり)」は皇帝を畏れ、臣下が膝まづく(跪まづく)姿を現している。これはのちに三跪九叩頭(さんき-きゅうこうとう)の礼となって、歴代の中国皇帝に謁見する際に強要される姿勢となった。さらには「嬖幸」という熟語に残る「嬖(へい)」は、家臣が皇帝に目をかけられることを意味する。「㵨」には皇帝や神の前で、水で浄め己の穢れを祓う禊(みぞぎ)の意味がある。

「䢃(がい)」は『說文解字』に「治也。从辟乂聲。」とある。意訳すれば「統治すること。辟(天子)に従(从)い、(人々の)声を聞き取る(乂)。」となろう。実際には「乂」には刈り取るという意味があり、力で従わせる意味が強い。『虞書』では「有能俾䢃」と「卑しきを治(䢃)めること能(あた)う」という用例がある。また「霹(へき)」「礕(へき)」そして「劈(へき)」には古代の人々を最も畏れさせた天上からの神鳴り(霹靂、雷)そして破壊(裁断)という実力行使の意味があり、それは開拓・稲作の意味もあったようだ。天地開闢という熟語に使われる「闢(びゃく)」には、力で土地を拓き人々を従わせる意味があり、「鐴(へら)」と書けば金属製の鍬(すき)を指す。これは土地を耕作する農具だ。最近の研究では、古代は農具でなく武器として使われていたと指摘されている。金属は当時大変貴重なものである一方で、農具は木製でも十分だったからだという。また「擗(へき)」には、奪い取る、むしり取るという意味があり、「蘖(ひこばえ)」には新たな生命の息ぶきの意味がある。「譬(たとえ)」と書くのは、単なる例(たと)えではなく、賢者が物事を教え伝えるという意味がある。それは「譬(さと)す」という読みがあることにも表れている。

※孔子『論語』に「為政以徳。譬如北辰居其所,而衆星共之。」とある。「徳をもって政治を行えば譬(たと)えば北辰(北極星/王)の周りを多くの星(民)が周囲をめぐるように、うまくいく。」(筆者による意訳)

「辟」と組み合わせた熟語も多い。たとえば、「辟王」は天子をさし、「辟公」はその家臣(各地に封じられた、いわゆる諸侯)をさしている。後者は「百辟」とも呼ばれた。これは中国古代の封建制度の名残であろう。また「辟書」とは天子直筆の書状であり、「辟招(辟召)」または「辟除」とは、家臣として天子に召されることを意味する。「復辟」は、皇位に返り咲くことだ。1917年、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら-ふぎ)を清朝皇帝に復活させようとした企ても歴史上「復辟」と呼ばれている。また「辟雍」は天子が命じてつくらせた官製の学校であり、辟雍会は東京学芸大学 の同窓会の名称として現在も使われている。

現在の漢字のもとになったのは、黄姓姬氏の統治下とされる周の時代(紀元前10世紀頃 から紀元前256年)に創られたとされる甲骨文字の一種「金文」である。これらは青銅器に彫られ、時代の経過とともに変化した。当時のものとして籀文(ちゅうぶん)、大篆(だいてん)などが現在も残っている。文字を書く筆や紙もなかった時代から、畏れ多く気高い存在だった「辟」は、それぞれの局面において新たな意味を付加され、長い時間を経て「壁、檗、躄、嬖、隦、璧、霹、礕、劈、㵨、蘖、鐴、闢、譬、擗・・・」などの漢字となって確立され、現在に引き継がれているのではないだろうか。(第1稿・9稿)

古代中国の風水・仏教と壁谷

伝説でやはり「黄帝」に起源をもつとされる風水では、天空をめぐる二十八宿(西洋でいえば星座)の一つに「壁宿(へきしゅう/和名:なまめぼし)がある。古代中国では「北方玄武の別棟(皇帝の離宮)」とされ皇嗣(太子:ひつぎのみこ)の「守護と教育」を担うとされたのが壁宿だ。「谷」と「宿」は、日中ともに自らの居住地を指していた。つまり天上の「壁宿」と地上の「壁谷」は、ぼぼ同じ意味となる。風水では北の色は「黒」であり、「水」の気をうけて「火」から守るとされた。中国も日本も、古代の宮殿は木造だった。大量の木材が伐採されて周辺の山は丸裸になっていたことが多くの古文献に記録されている。古代の人々が畏れた「邪気」を払うことは非常に重要であり、それは水を使った防火・消火が最大のポイントでもあっただろう。一方でこの「邪」は崇めるものともされ、それを上手にコントロ-ルできるものが当時の権力者たり得たのだろう。

※近年の風水関連のサイトでは「壁宿(へきしゅく)」と現代風のカナが降られている例が多いが、伝統的には「なまめぼし」が正しい。

和名とされる「壁(なまめ)」の由来は不明だが、中国国伝来の「儺豆(なまめ)」という晦日(みそか:月末のこと)の厄除け行事が由来とも推測できよう。それは日本では文武天皇の慶雲3年(706年)「追儺(ついな)」の記事に見ることができ、現在の大晦日の年越しそばや、節分の豆まきに名残を残す。このことは、古来から壁谷の名を背負うものに課されてきた「厄除け」そして「守護・守霊」という宿命を示唆しているのかもしれない。また「壁(なまめ)」は天にある「生天目(なまめ)」であるかもしれない。後述するが、ギリシャ神話で、天空にあって地上を監視する「神の目」とされるのはペガスス座「秋の大四辺形」だ。そのうちの2星は、風水における「壁宿」の主星2つと一致する。「䁹(ながしめ/にらむ」が「生目(なまめ)」につながった可能性もあるのかもしれない。ギリシャ神話に登場する空飛ぶ馬ぺガススは、聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」が空を飛んだ伝説との関わりも連想できる。そして「黒」は、風水の壁宿のある北方玄武の色でもある。ちなみに聖徳太子が活躍した推古天皇の小墾田宮(おわりだのみや)は現在の飛鳥「雷丘(いかつちのおか)」にあったとされる。天武天皇ものこ雷丘に一時都があった可能性が指摘されており、皇極天皇も四方拝をして雷を鳴らせ雨を降らせたことが『日本書紀』に記録される。そして風水において天空で唯一「雷神」があるのが「壁宿」である。

※中国の都長安にあった壁谷の地名が、現在は雷村に変わっていたことと関係があるのだろうか。

「壁宿」は「壁水貐」とも書かれ、示現(神仏が身を変えてこの世に現れること)すると虎の爪をもつ神獣となる。それは天上で「雷」を引き起こし、地上に「水」をもたらす「龍」とされ、また「四天王」のうち北方を守護する武神「毘沙門天(クベーラ)」であるともされる。聖徳太子が物部守屋との戦いで戦勝祈願した際に、毘沙門天が現れ必勝法を授けたとされる。その聖徳太子が戦勝後に最初に作ったとされるのは「四天王寺」であり、全国にある聖徳太子勅願とされる寺院では、毘沙門天を祀るところが多い。たとえば宗祐寺(奈良県宇陀市)は、推古天皇16年(608年)聖徳太子が毘沙門天像を勧請して開いた多聞院が始まりと伝わる。聖徳太子に仕えていた将軍、平群神手(へぐりのかむて)が、杖を突き立て戦勝祈願をすると、冷泉が湧き出した(現在の平群町椿井井戸)という言い伝えも残っている。

他の宿にはなく、壁宿にだけ存在するのが「天厩(うまや)」と「雷神」の星官である。そういえば聖徳太子の名は「厩戸皇子」であり、初めて建てたのは「四天王寺」だった。そして愛馬「甲斐の黒駒」に乗って空を飛び、富士山を超え信濃(現在の長野県)まで往復したとする伝承が記録される。(第17・18稿など)後述するが、天空で「壁宿」とギリシア神話で「神の目(神の覗き窓)」とされる星域が一致していることとの関係も興味ぶかい。

※「甲斐の黒駒」の生誕地にほど近い山梨県の都留大幡(おおはた)にも壁谷の地名がある。また、先に周辺に壁谷が多く住むと紹介した東三河(愛知県)の石座(いわくら)神社には、馬を黒く塗ったという伝説が残る。

※なお『日本後記』では平安初期に「勅。備後・安芸・周防・長門等国駅館、本備蕃客、瓦葺粉壁。」とあり、蕃客(海外などからの客人)に備え、瓦と白壁を備えた「駅(うまや)」を各地に作らせたという記事がある。駅は駅家とも書かれ、律令制によって全国各地の主要拠点に設けられた施設である。

遣唐使による強い影響を受けた日本でも、浄土教は急速に広まった。飛鳥・奈良時代に天皇勅願の官寺が全国各地につくられた。そのなかに法光寺、観音寺などがあった。法隆寺などと同様、官営の寺院に中国で仏教の理想とされた「法」の文字が付いていることは興味深い。「観音」もサンスクリット語の「法」(カノン/ダルマ)の音写(発音を中国語で漢字表記したもの)だという。それらの官寺の旧跡に「壁谷」の地名が付いていたことが複数の地域で確認できている。仏教の発祥地とされる玄中寺が中国五台山の壁谷の地にあったことから、日本でも仏教聖地の地名に「壁谷」が付けられた可能性が高いと筆者は推測する。(これらの漢風法名が付けられたのは679年の天武天皇の勅旨「諸寺の名を定む」以降とされる。)その後、平安時代に入っても日本各地に荘厳華麗な阿弥陀堂が作られ、宇治の「平等院鳳凰堂」や平泉の「中尊寺阿弥陀堂(金色堂)」などが現存している。法然(浄土宗)、円仁(天台宗)など多くの高僧は中国五台山、壁谷の地を目指しで修業し日本に戻ると布教に励んだ。親鸞(浄土真宗)らは、その浄土教を一般民衆に至るまで大いに広めた。最澄(天台宗)も中国五台山で修業している。

西洋の占星術やインドの古典サンスクリットの強い影響を受け、唐で生まれた「密教」は、日本で独自に発展した。最澄・円仁の台宗を台密といい、空海の真言集を東密という。後述するがこれらはインドで全盛期を迎えていたサンスクリット「カービャ」の影響を受けたことは間違いなかろう。空海はサンスクリットを詳しく学び、それ以来日本で悉曇学が仏教僧のなかで広まった。空海の『宿曜経』(762年)では天空で風水二十八宿の「壁宿」に相当する位置を「壁図」とする。この壁図は、恐るべき秘術と法力で敵を蹴散らし、一方で自らの子孫繁栄も導くともされた。「文殊菩薩」や「荼枳尼(ダキーニ)天」がその象徴とされ、背後にはやはり「北斗七星」が描かれる。密教は日本の古来神に代わって、朝廷行事に深く入り込むと、院政期以降に全盛を迎えた。天皇が即位するときの秘事「即位灌頂(そくいかんじょう)」では、天皇が「荼枳尼」の真言(しんごん:秘密の呪文)を唱えるまでになった。『源平盛衰記』や『太平記』では平清盛や後醍醐天皇が、この荼枳尼天や文殊菩薩の法力を駆使して多くの敵を討ち果たし、自らを守ったことが記録される。『源平闘諍録』では北辰・妙見神に守護され、各地に「神谷館」を作って鎌倉幕府を守護した平姓千葉氏の活躍が記録される。神谷(かべや)氏もこの千葉氏(岩城氏)の一族だった。

※中国唐代の『佛説北斗七星延命経』において北斗七星の先端の星アルカイド(おおぐま座イータ)は破軍星とよばれ、これを背に戦えば勝利を呼ぶともされた。このアルカイドが妙見神のシンボルである。北斗七星は天上で北極星(天子・天皇)を守護するように回転しており、このことから必勝の皇軍を意味したと思われる。円仁の『入唐求法巡礼行記』には唐で妙見信仰が盛んだったことが記されており、妙見信仰も円仁が日本に持ち込だものといえよう。

※毘沙門天(クーベラ Kubēra)はインドで地下にある富と財宝(地下資源か)の神で、同じく北方の軍神とされた妙見神(北斗信仰)と毘沙門と習合している。妙見菩薩は中国の天皇大帝・北斗思想に仏教思想が流入して生まれた中国独自の仏様であり、インドの毘沙門天は天界にいる護法善神だった。この2つは神仏習合で同一視されるようになる。毘沙門天の「クベーラ」の音は、どこか「カベヤ」に似ている。いくつかの傍証は、確かに何らかの関係性を示唆するものがある。たとえば宿曜道のもとになったインド古代占星術があり、「壁宿」(ダニシューダー)の守護神はヴィシュラヴァスとされる。実はその別名(ヴィシュラヴァスの子か?)が「クーベラ」なのだ。毘沙門天とはサンスクリット「ヴァイシュラヴァナ」の中国語音写なのだ。つまり「壁宿」の守護神は「クーベラ」(毘沙門天)となる。

※インドで蛇神(龍神)とされたワニのことも、「クビラ/クンビラ(Kumb hira)」であり、その音写から「金毘羅(こんぴら)様」が生まれている。また古典サンスクリットで天神は「クヴィーラ」ともいう。「墙壁谷」の発音が「クヮンヴィーヨク」であることとの連関も興味深い。

鎌倉時代の円仁以来、壁谷には文殊菩薩との深い関係があったことが示唆される。それは古代に壁谷玄中寺があった中国五台山が、文殊菩薩の聖地とされていたことからだろう。南北朝時代の戦乱を経て、この荼枳尼天(文殊菩薩)は稲荷と習合し大きく変化した。争いを避けようと、何らかの抑圧があったのかもしれない。あまりに破壊的・攻撃的だった側面が失われていくと、稲荷は五穀豊穣・商売繁盛の神様に、文殊菩薩も知恵の神様へと変化していった。現在、日本三大稲荷のひとつとされ実は荼枳尼を祀る曹洞宗寺院でもある「豊川稲荷(愛知県豊川市)」や、日本五大文殊ともいわれ田村麻呂伝説を残す「安倍文殊菩薩堂(福島県田村市)」がある。この2か所の周辺には、遅くとも室町時代までには壁谷(かべや)が居住していたとみなせる伝承がある。そしてこの2か所の周辺は、現在も日本で一位、二位を占めるほど多数の壁谷が集中して居住している(占有率が高い)特異な地域でもある。

※「商売」は人間の積極的な営業活動にともない相当の報酬が得られることで成立する。それは正に「攻撃と征服」であり、そのためには群を抜く「知恵」も必要となろう。争いを避けるべき時代に、稲荷と文殊菩薩がこのような変化をしたのも必然といえる。

カベヤの発音は、アフリカ、中東、インドから来たか

「壁谷」の文字は中国が起源とすることに、今のところ疑いの余地はなかろう。しかし日中の発音は同じではない。すると「カベヤ」の発音はいったいどこが起源なのだろう。空海が日本に持ち帰った「宿曜」の基本思想が育まれていた紀元前の古代インドに、大きなヒントがありそうだ。インドでは紀元前25世紀ごろインダス文明がモヘンジョ・ダロやハラッパーで開化した。発掘によってモヘンジョ・ダロは幾重もの土塁(城壁)を張り巡らした古代堡塁城郭都市として千年以上も栄えたことが判明している。紀元前10世紀ごろから5世紀にかけて口伝で受け継がれた「ヴェーダ」とよばれるバラモン教などの宗教書が編纂された。ヴェーダとは「知識」を意味し、発掘などでわずかに見つかったものはユネスコ無形文化財にもなっている。一方で、同じように起源前から口伝で語り伝えられていた王家の伝説があった。それはインドの神話となって幾世代にもわたって受け継がれ、文字化されるとサンスクリット宮廷文学「kavya(カーヴィヤ、以後カービャと書く)」として結実している。日本史の教科書にも載る「ラーマーヤナ(Ramayaṇa)」は、インド神話に名高い理想の君主「ラーマ王子」の行状記であり、古典的な「カービャ」のひとつである。

※観音(かんのん)がサンスクリット語の「カノン」に由来するとされることは既に説明した。日本語の発音(五十音)やいろいろな単語も、このサンスクリットに多大な影響をうけていることが言語学上明らかにされている。「あいうえお」もサンスクリットを学ぶ悉曇学から生まれたとされる。筆者が調べた限りでは、サンスクリット語の山神(祖先神)は「ヤーマ」、海神は「ウㇽーミ」、道神は「ヴィーチィ」という。これらの多数の神々をひっくるめて「カービィ・サマヤ」という。神様と聞こえようか。西欧と違い大自然をすべて神とみなす発想は、八百万神(やおよろずのかみ)とする日本も同じだ。またサンスクリットの「kab」には「石」の意味があり、「kav」には「詩人」という意味がある。そして「yaj」には「供犠によって神を祀る(まつる)」という意味がある。「カービャkavya」はこれらの複合語だと思えるのだ。なお、サンスクリットの一般の解説では見当たらないが実は「kav」にも「(神を)たたえる/生贄を捧げる」という古い意味があるようだ。シルクロードを介してインドの文化が中国に流入し、それらが日本で独自に発展した。「壁」の意味、そして日本語の「かべや」の発音、これらが互いに無関係だと言い切るのは難しかろう。

紀元1世紀ごろ、漢音で馬鳴(めみょう)と呼ばれるインドの大仏教詩人アシュヴァゴーシャが現れ、ブッタの生涯を綴った「カービヤ」を著した。それはインド文学史上に燦然と輝く名作と言われる。(『ブッダチャリタ』講談社学術文庫版による)実はブッタもインドの王子であり、その地位を捨て出家して悟りを開いていた。このため仏教にかかわる伝説も多くが「カービャ」となって後世に伝承された。その後ブッタの直弟子を主人公にした「カービヤ」によって、当時の王子を含め500人もの人々が出家する事態とになり、驚いた王がカービヤを禁止したことも記録されている。「カービヤ」がこれほどまで大きな影響を与えたのは、高度な韻律や詩の技法を駆使した独特の文体(美文体とよばれる)が使われたからだ。読者に一定の情緒を喚起させ、人々を強く感化させるに至っていた。その大きなうねりは社会現象まで引き起こし規制すらされていたのだ。

その後も4世紀ごろカーリダーサ、8世紀にはババブーティなどの劇作家の登場してカービャは最盛期を迎え、シルクロードを介して世界各国に広がった。中国に渡った空海(774年- 835年)も、仏教経典を学ぶためにサンスクリットを学んだと自ら記録している。「カービヤ」がまさに全盛期を迎えていたころで、空海も無数のカービャを読みあさったろうことは想像に難くない。サンスクリットとは本来「高尚・完全・純粋で神聖な雅語(洗練されたみやびな言葉)」を意味する。(中国や日本では「梵語」と呼ばれる。)インドでは大衆の言語と区別して使用され、宗教、文学、哲学にとどまらず、数学、天文学、化学、医学などがサンスクリット語でしるされ続けた歴史がある。日本で独自に発展した密教(真言宗、天台宗)には「カービヤ」が多大な影響を与えた。既に記したが空海はサンスクリットを研究する悉曇(しったん)学の開祖と言われる。現在も仏教やヨガなど各方面の教義において、現代サンスクリット語の専門用語が用いられており、日本でもサンスクリット語の解説書が出版され、学ぶ機会も数多くある。

実はこの「カービヤ」(kavya、kaviya、kabya、kabeya)を名にもつ人々は現在も多い。インドの古都コルカタを中心としたインド北東部からバングラディッシュ、スリランカ、ミャンマー、ネパール、ラオス、カンボジア、インドネシア、ベトナム、フィリピン、ネパール、ブータン、チベットなど、東南アジア全域に広がっている。カービヤの音読に適したリズムは暗唱に適しており、長い間に渡り多くの人々に広く伝えられた。それは古代の日本にも伝わり、多大な影響を与えただろうことが推測される。このことは『古事記』が、稗田阿禮(ひえだのあれ)が暗唱していた伝承に基づき執筆された、とされることとの関係が興味深い。また鎌倉時代の『平家物語』も琵琶法師が口伝で語り継いでいた。代表的なカービヤ「マハーバラタ」の一角仙人の話は、平安時代の『今昔物語』や室町時代の『太平記』にも登場している。『今昔物語』には「九色の鹿(鹿王本生がベース)」や「ウサギが月に昇った話」など多数掲載され、後者は日本で月にウサギがいると伝えられてきた理由を説明している。これらも有名なカービヤ「アーリヤシューラ」にある説話だ。残念なことに、その後のインドの混乱でカービヤの多くが意図的に失われた。しかしその一部は中国語に翻訳され、中国文化を取り入れた日本にも伝わっており、あるいは敦煌などの洞窟壁画など最近の古代遺跡調査でも次々と発掘されている。

※インドネシア、マレーシア 、シンガポールなど東南アジア一帯の民族衣装にケバヤ(クバヤともいう)があり「kebaya」と書かれる。アウンサンスーチー氏がいつも着ている服や、シンガポール航空やマレーシア航空のキャビンアテンダントの衣装もこれである。もとは宮廷で女性が着ていた服とされている。

遡る紀元前5世紀ごろ、インドとネパールの国境付近で釈迦(仏陀:ブッタ)が生まれている。彼はシャカ国の王子として生まれ、何一つ不自由のない生活を送り遊興にふけっていた。あるときそんな生活に思い悩むようになり、29歳のとき王家を捨てて出家した。二人の仙人(おそらくバラモン教)に従事して苦行を積んだが、何ひとつ得るものがなかった。その後ブッダガヤの地にある菩提樹の下で静座沈思続けると、35 際の時ついに悟りを開いた。これが仏教の始まりである。その後ブッタには数百人の弟子が従い、近隣の多くの国の権力者が信者となって土地を寄進を受けた。ブッタは、コーサラ国の首都に近い祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)やマガタ国の竹林精舎などで45年間にわたり説法を続けたが沙羅双樹(しゃらそうじゅ)のもとで入滅した。火葬された遺骨は取り合いになり、八つの種族がそれぞれの地域に持ち帰って塚(ブッタの墓)を作ったという。これがのちの「ストーバ」(塔)の始まりだ。それは日本で独自に進化して五重塔となった。ストーバという発音は、日本で墓に立てる卒塔婆(そとば)に残っている。

※ブッタが竹林精舎にいたとき、100年後にアショーカ王が現れることを予言したとされる。またブッタが「最初の説法」をしたときは多数の「鹿」がいたという。その場面は「鹿野園」とされ仏教画によく書かれている。古代から鹿は占星術に使われ神としても扱われていたが、この話から仏教と鹿との関係が深まることになろう。日本でも鹿を神とする常陸の鹿島神そして奈良の春日大社(常陸の鹿島から鹿を連れてきたと伝承される。最近の鹿の遺伝子調査でそのことが裏付けられつつある。)との関係も興味深い。祇園精舎、竹林精舎など各地の布教拠点(仏教聖地)は日本で言えば仏教寺院であり、それらが中国で「五山」と呼ばれた。これは後年に日本の仏教寺院の格付けに使われた「五山制度」につながる。もしかしたら壁谷の地があった中国の「五台山」も同じ意味だったのかもしれない。

起元前3世紀ごろとは、マウリア王朝のアショーカ(Asoka)王が、現在のアフガニスタンからバングディッシュまで広範囲を武力で統一、インド史上最大の王国を作った。その過程で多くの血を流したことを悔いて仏教に深く帰依したという。各地に「法」を刻んだ石(摩崖法勅)を設置し、仏教の経典を編集した。アショーカ王によれば「法」とは「いにしえからの法則であるとともに、また月日の存する限り(人間の存する限り)いつまでも順守すべきもの」としている。(『古代インド』から引用)それは中国や日本にも伝播した。「法」は仏法の規範となる「ダルマ」(現地の発音の音写)の中国や日本での表記である。そしてこの「法」は、法隆寺を始め、飛鳥・奈良時代の初期につくられた多くの寺院の名前に用いられた。「憲法十七条」は全面的に「法」の理想で作られているともいえよう。たとえば、第一条に「和をもって尊しとなし」とし、第二条で「法」を三宝とし「何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。」としている。(反語であり「いつの世もすべての人がこの法を尊ぶ」という意味になる。)これらはアショーカ王が残した摩崖法勅と、まるっきりそっくりなのである。

※アショーカの音写が「飛鳥(アスカ)」の語源になったという説があり、筆者も一定の支持をしたい。「アスカ」になぜ「飛ぶ鳥」という漢字があてられたか。推測するに、それは極楽浄土に住み、仏の声(念仏)を唄うとされる迦陵頻伽(かりょうびんが:サンスクリットで kalaviṅka:カラビンカ)が由来だろうと筆者は推測する。仏教画にはよく描かれている人頭鳥身の鳥だ。中国風水の『山海経』にも神として登場している。それらが大陸の文化として大量に日本に入ってきた聖徳太子や天武天皇、聖武天皇の時代、日本でも同じように大きな政治的混乱があった。聖徳太子の時代の政策は、アショーカ王に類似するところが多いことに驚かされる。ついでではあるが、各種の学説がある奈良(なら)の語源もサンスクリットのナラ(pala/para)によるのではないかと筆者は推測している。サンスクリットで、pala は特別な言葉とされており「守護者/王」を指す。またparaであれば「次の/最高の」を、そしてpuraであれば「都城/都市」を指している。

アショーカ王は多くの血を流してインドの統一を実現していた。それを悔いて仏教に深く帰依したとされる。仏教の経典を編集させ、釈迦(サンスクリット語 Śākya の中国語音写である)生誕の地に巨大な石碑(石塔)を作った。またブッタの遺骨(仏舎利)を掘り出して分配、遺骨を納めた塚の周りを美術品などで飾りたてる石造りの「ストゥーパ」を各地に8万4千か所も作ったという。これによって仏教は広くインド各地に伝播し、現在仏教が中央アジア一帯に広がっているのは、このアショーカ王の功績とされる。仏舎利とその信仰は、中国・朝鮮を経て日本にも伝来した。このとき仏教の経典と共に「カービヤ」も翻訳され中国に伝わっていた。ブッタも王子であり、実は仏教の経典も王子の英雄譚であり、美文体でかかれた長大な叙事詩であった。紀元1世紀ごろ、アシュヴァゴーシャ(漢音で馬鳴:めみょう)でブッタやブッタの弟子を描いたカービヤを受け、大量に出家者がでたことは、先に示した。仏教の経典も「カービャ」とみなされていた可能性が十分に高い。その教えを授かった一人が、先に示した壁谷玄中寺の曇鸞(476-542)であり、そこから伝わったのが日本の仏教である。そして奈良時代に越(福井・富山・新潟付近)で作られた仏教寺院の地名には、字壁谷と名がつけられている。

「ストゥーパ」は中国で音写されて「卒塔婆(そとば)」となり、略して「塔(とう)」となった。日本でも飛鳥時代の仏塔に「仏舎利」を埋めて「塔」を作った。これが現在も残る「五重の塔」の始まりである。石の塔は日本に伝来して独自の木の塔となった。日本に仏教が伝来したとされるころ、蘇我氏らは中国の古典を学んだと記録されている。この時、仏教も学んだことは間違いない。蘇我馬子氏は推古天皇4年、長子だった善徳(ぜんとこ)を出家させて法興寺(飛鳥寺)の初代の僧にしている。(善徳の弟が、蘇我入鹿の父となる蝦夷である。)僧旻(みん)のもとで蘇我入鹿と共に学んだ中臣鎌足も、長男を出家させている。(定恵)

奈良時代の聖武天皇・光明皇后・文武天皇・称徳天皇などが多くの国難を悔い、深く仏教に帰依した。国分寺や国分尼寺などの官寺を全国各地に次々と作り、百万塔陀羅尼を作成した。各地に仏教を広める施設を作り、貧しい人々を助ける悲田院を作った。これらは、まさにインドのアショーカ王の行為そのものともいえよう。現在、日本で祖先の霊の追善供養で梵字を書いた卒塔婆(そとば)をたてる習慣も、「ストーバ」を模したものである。一方で平安時代から密教の祈祷で使わるようになった「護摩(ごま)焚き」もインドで神聖な火に供物をくべる「ホーマ(homa)」の音写であり、海上交通の守り神として信仰されている「金毘羅様」もインドのガンジス川で神聖な蛇神(龍神)とされたワニ「クビラ/クンビラ(Kumb hira)」の音写である。もちろん仏陀(ブッタ)もBuddhaの、仏舎利も buddha-śarīra の音写である。また釈迦とはその出身種族Śākyamuni(釈迦牟尼:シャカムニ)のことだ。なおインドを旅して645年に帰国した玄奘(三蔵法師)はサンスクリットで「ヒンドゥー」という国名を音写して「印度」と書いており、それがそのまま日本でも使われることになった。(現在の国名Indiaは英語表記を採用したものだ。)このように、多くがサンスクリットに由来する発音の音写である。

※「印度」という国名を示す文字は室町時代の字引『節用集』に記載があり、これが起源だとする記事がネット上にある。しかしそれは誤りだ。上記から、本当の起源はサンスクリットを音写した三蔵法師にあり、中国起源だったことがわかる。中国を経由して大量の経典を輸入していた日本には、とんなに遅くとも奈良時代には「印度」の文字が入っていたことだろう。その「奈良」の地名もサンスクリット語が語源だった可能性がある。サンスクリット語のなかでも特に重要な位置づけにある単語に「pala(なら)」があるからだ。その意味は「王/国の守護者」である。さらに「para(なら)」には「次期の/最高の」という意味がある。どちらも理想を掲げた次の都の名前にふさわしいともいえよう。なお、「奈良」の語源は朝鮮語(百済)で「国」を意味する「なら」だする説がある。これは主に韓国の学者によって主張された説だ。奈良の都の建設は,半島出身の秦氏の財力と犠牲をもって進められたことは、紛れもない事実ではある。

古代インドから中国経由で入ってきた文化が、日本に入ってもその発音や使用法が大きく変わらずに、そのまま広まったことは大変興味深い。古代からあった「カービヤ」もおそらく飛鳥時代には日本に入っていたことだろう。聖徳太子と蘇我馬子らは『古事記』に先駆けて、『天皇記』『国記』(共に現存せず)の編纂を手掛けたと記録される。そして天武天皇によって『古事記』の編纂が始まっている。もしかしたら古代の王子の活躍を記録した叙事詩「カービヤ」がきっかけになったのかもしれない。残念なことに、その後インドでは仏教が急速に衰退、特に10世紀以降にイスラム教勢力が入ってきたことで壊滅的な打撃を受けた。アショーカ王の遺跡群の多くが意図的に破壊されてしまい、経典も多くが焼かれてしまった。仏教徒はネパールなど周辺に逃げて生き延びている。現在のインドの仏教徒は1%にも満たない。古代の経典やカービヤの多くが中国語に翻訳され、なんとか現在に残っているという。

※インド国旗の中央に輝いているのは、アショーカ王の宝輪(紋章のようなもの)であり、インドの公式文書にはアショーカ王が作った石柱の獅子柱頭が描かれる。アショーカは現在のインドが世界に誇る、絶大な権威をもった偉大な王なのだ。

特記しておきたいのは、インドでの発音は日本語のローマ字読みにかなり近いことだ。(英語はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン系に属しており、日本語と発音がかなり異なる)かつてインドの古都は英語で「カルカッタ(Calcutta)」と書かれ、日本でもこのカルカッタを使った。しかし現在は、現地の表記と発音に忠実に「コルカタ(Kolkata)」とするのが一般的になっている。この例のように英語圏では、日本語のka の音の表記は ca となる。あえてカタカナで書くならば、英語では Caは「カー(kάː)」と発音するが、Kaは「ケ(kǽ)」と発音する。実は英語には Kaや Kaで始まる単語がほとんどなく、あっても外来語だ。たとえばインド発祥のスポーツkabaddi(カバディー)やメッカにある大理石の神殿 Kabah(カーバ)、ペルシャ語由来のkabab(カバブ:羊肉を焼いたもの)など外来語が多い。英語圏では Kab の部分は一般に kǽb (ケーヴ)と発音するようだ。すると kabeya と書いて英語での発音は2音節に分け、kab-eya(kǽb-eijɑ́)となり、あえてカナを振るならアクセントを先頭において「ケーヴィャ」となろう。イギリスの知人に筆者の「カベヤ」の発音を真似してもらうと、「ヶベィァ」となりアクセントが「ベィ」に移動し、うまく発音できない。「カベヤ」という発音は英米人には難しいようだ。

※武神として名高い毘沙門天(びしゃもんてん)は、古代インドのサンスクリット語で「 Vaiśravaṇa(ヴァイシュラヴァナ)」の音写とされる。別名を「Kubēra(クベーラ)」ともいう大地の富と財宝の神である。すでに風水「壁宿」の別名が「クーベラ」であることは触れた。その毘沙門天に従う鬼神は人を食らうともされるヤクシャであり、その音写が「夜叉(やしゃ)」である。女性では「薬叉(やくし)」とされ、それは鬼子母神でもある。天武天皇がのちの持統天皇(女帝)の治癒を願って建てたとする「薬師寺」も関係があろう。夜叉は森林に棲み、水と関係の深い鬼神であった。毘沙門天と壁谷の宗教的な関係の密接さについては各所で触れている。あわせて坂上田村麻呂が生前から毘沙門天の化身ともいわれていたことも付記しておこう。田村麻呂は阿武隈山地にいた鬼(大多鬼丸)を退治した伝説が福島県田村地方にある。

世界に広がるカベヤ

「kabeya」に絞ってみると、意外なほどこの名字が世界に広がっていることがわかる。その数は日本をはるかに凌ぎ、おそらく数十倍、数百倍の人数いるだろう。facebookで検索すると、たとえば Michel Kabeya(ミッシェル カベヤ)という名の男性は150人以上みつかった。Deborah Kabeya (デボラ カベヤ)という女性の名も100人を超える数ヒットする。ほかにも Paul Kabeya, Thomaos Kabeya, Cathy Kabeya, Robert Kabeya,Jonathan Kabeya・・・ などなど、よくある名前で検索すると、どれもが100名以上ヒットする。こんなことは日本では到底考えられない。いったいどれほど Kabeya の名字を持つものが世界にいるのだろうか。そんな彼ら彼女らの掲載情報を眺めてみると、意外な共通点が見いだせる。それは圧倒的にインド系・アフリカ系が多いこと、そしてフランス語を使う人が意外に多いことだ。じつはフランス語やイタリア語の発音は日本語にわりと近い。(インド・ヨーロッパ語族イタリック系といわれる)

※「カベヤ」の発音がそのままでは難しい英語では(インド・ヨーロッパ語族ゲルマン系)Kabeyaの表記が変化したと推測する。facebookで Kabeya を探してみた。英語圏で実際にヒットするのは似た名前として Cabeye(カベィ) Cabera(カベラ) Capella(カペラ) Cabeza (カベザ)などだ。KaがCaになるのは英語の特徴のようだ。kaと書くと英語圏では「ケェィ」という発音になるからのようだ。どちらにせよ大した人数ヒットしない。英語圏の発音に変化した過程で様々な表記ゆれ生じたのか、あるいはもともと英語圏にあった cabe cape と書かれた音が、中東・アジア圏では kab という表記に変わったのか、どちらかではないだろうか。

日本では室町時代から江戸時代に前半にかけて、現在のインド東部と東南アジアの一部、そしてアメリカ・カナダ・アフリカの多くがフランス領だったが、後年にイギリスに奪われていった。しかしアメリカ独立戦争(1775年)でもフランスが協力して勝利した。ニューヨークにある自由の女神も、フランスから贈られている。こういった関係から、現在もアメリカ・カナダ・アフリカにはフランスの影響を受けたインド系移民が多い。英語とは違って、フランス語では kabeya の発音が日本語にかなり近い。これはフランス語圏で kabeya の表記が変化せずに、そのまま残っている理由の一つであろう。アメリカ・コロンビア大の調査によれば、アメリカにはインド系移民が約300万人いるという。カナダも相当に多いと推測できる。カナダにはKabeya International, Inc という食品会社があり、アフリカ伝統料理に使用する材料を世界にネット販売している。(日本名は、「カベヤ・インターナショナル・フーズ」)

実は「kabeya」の名字はアフリカに最も多い。特に多いのが、コンゴ民主共和(Congo/Kongo)であろう。外務省ページにはコバルト、タンタルなど金属の産出量世界一と紹介される。その埋蔵量はコバルトで世界の68%を占めるほどという。金、銅,ウランなど豊富な地下資源を含有するため、海外からの不正介入が激しく、現在も紛争が絶えない地域だ。国名のコンゴは現地で「山」を意味しており、実際に4000mを超える山々と森林地帯が連らなり、大量の森林は北半球の肺とも言われる。(南半球のアマゾンに比される。)

※アフリカでもっとも広く使われるのはアラビア・イスラム系ムスリム商人の流れを引くスワヒリ語だ。そのスワヒリ語では 「kabeya」は「洞窟」を意味する。洞窟は古代人類にとって生活の場であり、同時に信仰の場でもあった。またスワヒリ語で「kabe」は「壁」を意味する。そして「ya」は所有・所属を意味する助詞「の」という意味がある。つまりスワヒリ語の「kabeya」とは日本語で「壁でできたもの」という意味になり、それは「洞窟」と理解されるのだろうか。同じくアフリカで使われるバンドゥ―語でも kabe は「壁」を意味する。kabe(壁)を自然石とみなす感覚は、日本より中国により近いかもしれない。

在コンゴ民主共和国日本国大使館の2017年報告書が示す情報によれば、紛争の絶えないコンゴ民主共和国中央カサイ州を訪れた治安大臣が伝統的酋長(伝統的権威ともいう)カムウィナ・ンサプに「ジャック・カベヤ(Jacques Kabeya wa Ntumba)」を指名したとする。実は反政府組織を率いた前酋長は紛争下で殺害されていた。紛争終結のため、国家によって新しい酋長として指名されたのがカベヤ氏だったのだ。また、世界有数のダイヤモンドの産地とされる、東カサイ州の知事の名も「パトリック・カベヤ」氏である。(2019年時点: Patrick Mathias Kabeya Matshi Abidi:パトリック・マティアス・カベヤ・マッシ・アビディ)

同じ東カサイ州にはKabeya-Kamuwanga(カベヤ-カムワンカ) という名のどこか不思議な正三角形の市街地を持つ都市がある。さらには中央カサイ州に Kabeya-Lumbuがあり、東側のキブ州と思われるがルクガ川のほとりに kabeya そして Kabeya-Mulungaの地名がある。そのほかにも Kabeya-Mayj、Kabeya Maji などの地名が点在するようだ。ほかにもカベヤに似た発音がいくつかある。たとえば カベラ や カビラである。平成17年に来日し、天皇陛下や小泉首相と会談したのはカビラ大統領だ。コンゴ共和国では親子二人が大統領となっている。(ローラン・デジレ・カビラ:Laurent-Désiré Kabila、ジョゼフ・カビラJoseph Kabila)。別途触れるが、カベヤとカビラの変化.つまり ya と la の相互音変の例は、すでにCabera(カベラ) Capella(カペラ)で示したようにヨーロッパのでも見かける。

※Mulungaはバンドゥ―語や現地のチェワ語で「正しい」という意味なので Kabeya-Mulunga は kabeyaの中心地という意味かもしれない。 Maji は水を意味している。Kabeya-Mayj はカベヤ少佐という意味らしく、人名に基づくものかもしれない。

※Wipipedia によればコンゴは非常に雨が多く、世界一「雷」が多い地域だという。コンゴ川(旧称ザイール川)の流域面積と流量はアマゾン川に次いで世界2位だという。またコンゴはプラチナ、マンガンで世界一の埋蔵量を誇り、なかでもコバルト埋蔵量に至っては世界の65%(WikiPedia)にも達するという。そしてカベヤの名の多いカサイ地区は、コンゴのなかで最も地下資源が多く存在する。そのために紛争が絶えない地域だ。地下資源の豊富なところは、インドにおける地下財宝の守護神「クーベラ(Kubēra:毘沙門天)」と kabeya の関係を同じく連想するものがある。日本や中国だけでなくアフリカでもkabeyaは「岩」にとどまらず、「雷」、「水」、「地下資源」と関係が深い。

※カベヤ-カムワンカKabeya-Kamuwangaについて、現地で使われるスワヒリ語では「カムワ(Kamuwa)」に「搾乳された」という意味があり、また「nga(ンカ)」は習慣的であることを示すバンドゥー語由来の接尾詞である。コンゴなどのアフリカの一帯が早くからローロッパ各国によって植民地化されていた。その際に貴重な資源を大量に奪われ、多くの人々が奴隷として連れ出された。そのような過去の歴史から「搾取され続けたカベヤの地」という意味の地名なのかも知れない。また搾乳という言葉は、古代インドで豊富な雨によって肥えた土地の比喩にも使われていた。その意味であれば「肥沃な(資源豊富な)カベヤの地」という意味なのかもしれない。同じフランス語圏でラオスにもカムワンカ県がある。そこは石灰岩の山岳地域に数多くの鍾乳洞があり、観光地としても有名だ。同じくやはり地下資源が極めて豊富な地域だ。鍾乳石から絶えず垂れ落ちる滴こそ、実は「乳」であり、つまりカベヤとは「石灰岩の多い土地」ということなのかもしれない。

ギニア中部のダボラ(Dabola)にもkabayaの地名が確認できる。(kanbayaという地名もある)コンゴのk金利人あるギニア、ウガンダ、ケニアにもkabayaの名字が多数確認できる。コンゴの南の隣国ザンビア共和国のページにも、ザンビア人の代表的な人名のひとつとして  kabeya(カベヤ)が挙げられている。(Zambian Onlineページによる)サンビヤでは kabeya pool という一帯も地図上にある。googleマップでそこを見ると、サンベジ河に面し、緑が点々と広がる広大な緑地帯でその内部に多くの水脈がみえる。山岳地河川の起伏に土砂の偏りができ、瀬(浅いところ)と淵(深いところ)が交互にできて凸凹になることを専門用語でステップ・プールと言うらしい。そのプールなのではなかろうか。その下流には世界三大瀑布の一つでユネスコの世界遺産にもなっているヴィクトリア滝がある。このあたり一帯は、世界の人類(ホモ・サピエンス)発祥の地ともいわれているところだ。

ザンビアは元イギリス領だが、アフリカでは多くが発音が日本語に近いとされるバントゥー語・スワヒリ語(ニジェール・コンゴ語族)を用いているため Kabeyaの文字と日本語とそっくりの「カベヤ」の発音が生き残ったのだろう。そのケニアには、先祖のルーツがインドにあるインド系ケニア国民が約4万7千人おり、ケニア国籍を持たないインド人も4万2千人いるようだ。さらに南アフリカにも150万人ほどのインド人が居住しているという。ルーツをインドに持つケニア人の多くは専門職(弁護士、判事、医者、学者)であり、自営業者や小売業に従事する人も多く裕福であり、同じくインド系の南アフリカ人でも公務員、自営業者、メディア関係、法曹関係などに従事する人が多いとしている。バントゥー語・スワヒリ語の文字は日本語と同じく子音+母音で構成され、その発音は必ず母音で終わる。「カベヤ」という日本語に近い発音が自然にできるようだ。

スワヒリ語はアフリカ西海岸を拠点として交易を担っていたムスリム商人(イスラム系商人)が使用した共通語で、アフリカ現地の言葉とイスラム系のアラビア語が混ざってできたとされる。ムスリム商人は当時のエジプト王朝の保護のもと交易の利益を独占し、インド商人と連携して交易を図った。奴隷貿易のほか、エジプトからは小麦などの農産品、アフリカからは象牙や金、インドや東南アジアからはコショウなどの香辛料・白檀(びゃくだん)などの香料、中国からは絹織物・陶磁器などを交易品とした。それらはダウ船に載せられ、インド洋から紅海を通ってエジプトのカイロやアレクサンドリアに運ばれていた。インドから仏教が消え去った理由の一つも、ここにも求める事が出来よう。近世にスエズ運河ができるまで、アラビア半島を廻るこの海路が一般的だった。一方で中国商人も日本で唐船(からぶね)と呼ばれたジャンク船(同じく帆を張り方位磁石を備えていた。)使って交易を図り、宋の時代には全盛を迎えていた。そのころ兵庫の港を開いて日宋貿易を図っていたのが平清盛(1118-1181年)である。清盛が大きな力を維持できたのも、この日宋貿易で得た資金力があったからだ。つまり、平安末期の日本にはアフリカ西海岸を拠点としたムスリム商人によってもたらされた文化が、中国を経由して日本に入っていたことは間違いないだろう。

※紀元前後にはダウ船がすでに使われていたともいう。これは帆を使って逆風でも航海でき、貿易風を使ってインドからはアフリカ・ヨーロッパに移動できた。後年には油脂を使った防水機能も追加され長距離航海に向いていた。

こういった事情からか、中東にもkabeyaの名字が比較的多い。在インド日本大使館のページによれば、インド人の割合はUAE・アラブ首長国連邦(約30%)を筆頭に、カタール(約25%)、クウェート(約22%)、バーレーン(約20%)、オマーン(約14%)などとなる。これらはインドと中東・アフリカを挟むアラビア海と通じて、インド人が海事貿易商人として活躍してきた歴史によるものだろう。(インド東部のベンガル湾、西部のアラビア海一帯は、古代からインド商人による交易で栄えていた。そこはインド洋とも呼ばれ、いわゆる「七つの海」の一つでもある。)これらの国の特徴は、古代から国際貿易で栄えたベンガル湾に近接していることだろう。

※現在はシルクロードという名称は、シルクルートと言い換えされつつある。それは山岳地を通る陸路と、インドの海岸を回る海路で構成されていた。

世界の文字には、3つの起源があるとされる。一つは中東に発し後にアルファベットにつながったアラビア文字だ。二つめは日本や朝鮮半島にも伝わった古代中国に発する漢字である。そして、最後のひとつは古代インダス文字が起源ともされるインド文字である。インド文字は現在も未解読だが、その系統とされるデーヴァナーガリー文字(いわゆる梵語)は、世界で現在も6億人に使われている。この文字が大きく広がった理由は、紀元前後から続いたペルシャ、トルコ、中国などで自由な経済活動を担い、ムスリム商人たちが行き来した海の道・陸の道(シルクロード)を経由したためと考えられている。その文化圏はかつて、アフリカ・アジア大陸上で幅広い文化圏をもっていた。これがカベヤの名字が世界に広がっている事情かもしれない。さて、このデーヴァナーガリー文字でkabeyaに相当する名字をFacebookで探ってみる。すると同じように無数にヒットする。(実際には筆者には判読できない)おそらくはアフリカ大陸全体にkabeya の名字が広がっている理由は、シルクロードとムスリム商人と係わりがあることが想像されてきようか。

※『東方見聞録』で日本を紹介したマルコポーロも海のシルクロードを通っている。もともとベネチア(イタリア)の商人で、その生家も代々中東貿易にかかわった家系だった。すでに説明したが、彼は中国壁谷の地があった福建省泉州まで来たとされている。

デーヴァナーガリー文字は、いわゆる梵字であり判読は極めて難解だ。(筆者が正しく理解できているのかも自信がない。文字化けも予想され、ここでは掲載しない。)しかし、文字の構成は日本語によく似ているという。表音文字であり、子音と母音がセットになった文字でひとつの発音を表す。文字は左から右に書かれる。(昭和21年までは、日本語もそうだった。)その発音は、大方において日本語のカタカナに置き換えることができ、語順も日本語と同じだという。(東京外国語大学アジア・アフリカ言語学研究所のHPによる)特徴の多くが共通しているのは、日本の文化が、インドから中国を経由した入ってきたことによるのだろう。おそらくは、古代インドにあった「カベヤ」という発音が、古代中国にあった「壁谷」の文字との間で、その神仏とのかかわりで類似した意味をもったことで、日本に入ってある時期に一つになったのではないかと推測できる。ちなみに、中国語の語順は日本とは違うことは、漢文の読み下しで返り点を使うことからも、わかるだろう。

※万葉集の権威、橋本進吉は、「日本語で「ヤマ」という語の意味が、ちょうど支那(中国のこと)の「山」の意味を持つ字に当たるものでありますから、「山」の字を書いて「ヤマ」という日本語を表わさしめるのです。」(カッコ内を除き原文ママ)としている。ただしサンスクリットにも yāmā(ヤマ/ヨーマ)という山の神(死者の王・道徳・支配)がある。インドのサンスクリット、中国の漢字、日本の和音(日本神話)、この3つの関係の深さの一面がみえる。

※朝鮮半島の強国だった新羅(紀元前57-935年)の王はインドの王族階級(クシャトリア)の出身であると『三国遺事』巻三は記している。おそらく当時の中国南部・朝鮮半島・日本の文化圏にインドから大量移民があって、文化的影響が大きかったと推測される。中国語と違い、朝鮮語の語順は日本語と同じで発音も近いという。その朝鮮からも古代から少なくとも数万人が日本に帰化し、機内や関東をはじめ各地に居住したことが『日本書紀』などに記録される。(渡来人)

ヨーロッパにも目を向けてみよう。紀元前からヨーロッパ・中東地域とインド・中国間では商人の行き来は海・陸ともに盛んだったとされ、長い交流の歴史がある。紀元前4世紀にはギリシャのアレクサンダー大王の遠征でインドの西部まで征服されていた。元(1271年 - 1368年)の最大版図は逆にヨーロッパにもまたがり、ローマ帝国と接するところまで広がっていた。千年以上にわたる間、インドはヨーロッパとも、中国大陸とも大きな文化交流があったのだ。夜空に輝くペガスス座の「秋の大四辺形」は、ギリシャで神が地上の人間を監視する「神の目」とされた。その場所は中国風水で「壁宿」と隣の「室宿」を合わせた4星で構成される。このペガススは、ギリシャ神話で王家の祖先が乗る伝説の「空を飛ぶ馬」であり、おそらくそれは中国では竜であっただろう。中国秦漢時代にあった雲南省「壁谷水」の「馬龍洲城」の名や、日本の飛鳥時代に馬に乗って空を飛んだとされる聖徳太子(厩戸皇子)との関連も興味深い。

※風水で「壁宿」は太子(ひつぎのみこ)の、そして隣接する「室宿」は母親(正室)の宮殿ともされる。なお、中国では辟に目をつけた「䁹」という文字は、人に呪いをかける古術とされ「魔眼」とも呼ばれた。

「 Kabbala (カバラ)」は、紀元前のイスラエルに起源を持つユダヤ教(ヘブライ)において、神から伝授されたと口伝(くでん)される創造論、救世主思想である。キリスト教でも『旧約聖書』の伝統的解釈による「神智学」が同種の思想に属する。インドの「Kavya(カービャ)」も同じく口伝だったことを忘れてはならない。Kabbala は英語では「秘密」そして「神秘」を意味する名詞/形容詞「Cabbala」になっている。たとえば Cabal とかけば「秘密結社」「陰謀」という意味として現在も多用される。古代ローマでは教皇の公邸や聖堂を「Capella(カペラ)」とも呼び、一方で「Capella(カペラ)」とは天上で唯一動じない、いにしえの「北極星」も意味していた。(現在のぎょしゃ座のα星。地軸の揺れで北極点は移動したが、現在も北極点に最も近い一等星である。)この思想は中国にもある。中国では天で動じない北極星「北辰」は皇帝とされ、周りを巡る北斗七星はその護衛とされた。この文化は遣唐使を通じて日本にも伝わり「北斗信仰」となっている。日本でその北斗信仰と密教を融合させたのは、やはり「円仁」である。妙見菩薩はインド由来の毘沙門天( Kubēra クベーラ)に類するが、インドの純粋な菩薩ではなく、中国風水の星宿の北天から創造され神仏習合したものだ。後に日本で北極星あるいは「妙見北辰(北斗七星)」を武神に掲げ、その神威で鎌倉幕府や室町幕府を「守護」したと『源平闘諍録』などに記録されるのは、奥州藤原氏と平氏の血を引く、平姓岩城氏・千葉氏流の「穎谷/神谷(かべや)」氏であった。少なくとも鎌倉時代から現在まで、神谷をカベヤと発音する背景は、もしかしたら、ここにあるのだろうか・・・。(第5、6、13、14稿など)

※ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、メシア論などを含んだ神秘主義思想、キリスト教における神智学などはカバラ(Kabbala, Cabbala)と呼ばれる。

※日本のイネ(ジャポニカ種)の発祥地は、中国古代文明の発祥地のひとつ「雲南省」にあったことが遺伝子解析で判明している。この雲南省にも壁谷があったことを先に示した。収穫を目的としたイネ科の植物を総称して禾穀類(かこくるい)という。「禾」とは本来「穎(かび/のぎ)」と書かれる稲の種子(棘のある稲籾の状態)をさす。古代には田に「雷」が落ちることで稲穂が実ると考えられていた。日本神話ではアマテラスが神禾(「穎」)を天皇家の祖先に託し、天から降ろしたとする。その「穎」は、天武天皇のころ始まったとされる神事、祈年祭(としごいのまつり/きねんさい)の祝詞(のりと)に使われ、現代の皇室行事にも引き継がれている。江戸幕府の『寛政重脩諸家譜』などによれば、平安時代にこの「穎」を名に持った常陸・磐城(現在の福島県いわき市近辺)に「穎谷(かびや/かべや)」氏がおり、奥州藤原氏と桓武平氏の血をひく一族が養子となって継いだことが記録される。その穎谷氏は後に「神谷(かべや)」氏と名を変えた。その主要領地だった現在の福島県いわき市には鎌倉時代初頭からとされる広大な「神谷(かべや)」の地名が現在も残る。海外から入った「かべや」の音には特別な響きがあった。平安時代には中央だけでなく、関東・東北一帯でも奥州藤原氏が浄土教を篤く信奉していた。古来から言霊が重視された日本では、発音が最も重要だったが、中国文化の流入でその発音に文字(漢字)をあてるようになると、唐にあった地名の強い影響を受け「かべや」は当初「壁谷」と書いたと推測する。しかし画数が多く筆文字で書くのは不便で、文書では同様の発音の違う表記(代字という)で書かれることが多かった。文字はまだ多くの人々にとって大きな意味をもたず、使う機会も非常にまれだったからだ。遣唐使が廃止されると急速に中国文化の見直しが進んだ。平安末期になって新興信仰勢力だった武士にとって「壁谷」という文字とその背景にある事情は、あまりに古くさく思えたはずだ。旧勢力の排斥に成功した証として、名字の文字表記が変えられることは、歴史上くりかえされている。そこは頼朝が奥州藤原氏の勢力を一掃した地でもあった。そのため鎌倉期に同じ音で別な文字の名字、神谷(かべや)が一般化したのではないだろうか。その地には現在も複数の壁谷そして神谷(かべや)が居住している。

※古代中国における「壁谷」の地名は、急峻な山岳が迫る谷地にあった「都」に存在していた。そこは近寄りがたい自然や神仙である「雷」や「水」に大変関わりが深く、あるときは敵から身を護る城壁にもなったのだろう。古来から山河の流脈に例えられ、風水では天地を繋くとされた「龍」を連想させる。龍は皇帝を象徴するともされた。そんな地では、水だけでなく木材・鉱物など豊富な資源にあふれ、巨万の富と権力を得ることもできた。そこでは争奪戦が繰り広げられたろう。一方で、中世以降の「壁谷」の地名は、山岳地を離れて、より海洋に近い水上交通の要衝に移り、産業や軍事の拠点となった傾向がある。国家規模が大きくなり、水運による大量輸送で産業を興し、いざというときは防衛の拠点とすることがその根底にあったと推測する。そのどちらの場合も、壁谷の地名は現在はほとんですべて消え去り、古資料にしか記録が残らない。壁谷という地名は神仏の畏れと重なり、反乱を恐れた後の政権によって次々と消されたのだろうか。なお中国においては、邪悪を避けると言われる「龍」や「鹿」に似た空想上の神獣「辟邪(へきじゃ)」がある。それは「壁邪(かべや)」と読める。「辟邪」は日本で神社の入り口などにある「狛犬」に変化したともいわれる。その狛(こま)は高句麗由来の高麗(こま)だとする説がある。風水の盛んな沖縄で魔除けの神獣とされる「シーサー」との関係も興味深い。「邪」は邪馬台国の名にあり、日本神話で神世七代の最後に登場し、日本国土の創造神とされる伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の名にも使われる。「邪」とは逆説的に「蛇」であり「龍」でもあって、畏れ多き敬うべき神でもあった。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000