https://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/kikajin.htm 【帰化人 古代国家の成立をめぐって 上田正昭著】より
平安遷都の天子である桓武天皇の母親であった高野新笠(たかののにいがさ)は、百済の武寧王(462-523 501-523在位)の後裔とされる和(やまと)氏の出身で帰化氏族の血脈につながる人(在日10世)であった。高野新笠は、帰化系氏族の和乙継(やまとのおとつぐ)と大枝朝臣真妹(おおえのあそみまいも)との間に生まれ、光仁(こうにん)天皇の妃となって、山部王(桓武天皇)、早良(さわら)王、能登内親王を生んだ人である。和(やまと)氏は、宝亀年中(770-780)に氏姓を高野朝臣と改めている。古代の王朝にあっては、母が天皇の血をうけた皇女の出身でないということは、皇子の即位のひとつの障害になった。山部王(桓武天皇)が母方に帰化系の出身を有しながら、それでも皇位についたという事実である。当時の状況は、上層帰化系氏族とのつながりを密にすることが、政治勢力の伸張には、有利でさえありえたのである。帰化人たちの実力は、古代の政治、経済、文化の進展においては不可欠のものであり、事実その実力は卓抜なものがあったから、支配層はその勢力をその勢力を軽視することはできなかったのである。長岡京や平安京の造営に秦氏が活躍し、また東漢氏(やまとのあやうじ)に繋がる坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵遇をうけて大宿禰をさずけられ、その娘が桓武天皇の妃となって高津内親王を生んだ。蝦夷征討で活躍する坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂の子供であった。
日本書紀では、応神天皇の段に秦氏の祖とされる夕月君(ゆづきのきみ)が「人夫百二十県を率いて帰化」したことや「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類(ともがら)十七県を率いて来帰」したことなどを記述している。
四世紀の後半から五世紀にかけて倭の軍隊が朝鮮に出兵しており、しかもその軍隊は騎兵を主力にしたものではなく、むしろ高句麗の騎兵の威力に屈するという騎馬の優勢をまざまざと体験した。後期古墳文化にみられる馬文化の普及は、五世紀以来の外来の人々、とりわけ西文氏(かわちのあやうじ)らの活躍に負うところが多い。馬飼に関する伝承や分布の主体は長く河内にあり、その河内こそは西文氏(かわちのあやうじ)の本拠地であった。五世紀の段階には朝鮮より渡来して、文筆方面や外交などにも大和朝廷とのつながりをもって活躍した史(ふひと)らの主流をなす西文氏は、南河内の古市郡に居住していた。そのながれをくむ武生(たけお)・蔵(くら)両氏も、同郡内にあって、西文氏より遅れて渡来してきた船史(ふねのおひと)系の船・津・白猪(しらい)の一族も、古市郡に隣接する地域に居住し、共通の文化圏をかたちづくっていた。馬飼の職能は、たんに馬の飼育ばかりでなく馬具の製作や軍事、交通などとも結合していた。
高句麗は、平壌に都を遷して(427)、勢力の南方への伸張を意図していたが、五世紀もなかばをすぎると北方の高句麗と、南方の百済との間には対立の様相がますます深刻化してきた。ついに475年には、高句麗は大軍を南下して百済の都城であった漢城(ソウル)を陥落させた。その結果百済は熊津(くまなり)(忠清南道公州)へ遷都して、百済の再興を計ることになる。こうした百済王朝の危機の段階に、今来(いまき)の才伎(てひと)たちが、わが国土へ渡来した。
五世紀末葉の雄略天皇時代には百済や呉(くれ)より技術者が渡航してきて、大和や河内に居住せしめられたという説話が集中的にみられる。雄略天皇の時代に今来(いまき)の才伎(てひと)は東漢氏(やまとのあやうじ)の統率下に入って、馬官(うまのつかさ)・蔵官(くらのつかさ)などの役所に従属するあらたな品部(ともべ)になった。画部(えかきべ)・手人部(てひとべ)・陶部(すえべ)・鞍部(くらつくりべ)・錦部(にしごりべ)、衣縫部(きぬぬいべ)・韓鍛冶部(からかぬちべ)・飼部(うまかいべ)などとよばれる人々である。欽明朝において、蘇我氏はこれらの才伎(てひと)たちと接近し、その力を利用するために船史(ふねのおひと)らを登用していた。欽明天皇紀の十四年の条には、船史(ふねのおひと)の祖とする王辰爾(おうしんじ)に、蘇我稲目が船の賦(みつぎ)(貢物)をかぞえて記録することをつかさどらせた。欽明天皇紀の三十年の条には、蘇我稲目が王辰爾(おうしんじ)の甥の胆津(いつ)に命令して、吉備地方の白猪(しらい)の屯倉(みやけ)における農民集団の丁籍(よぼろのせき)をつくらせたとある。
飛鳥地方の南部とくに高市郡内に本拠を有していた東漢氏(やまとのあやうじ)は、五世紀のなかばごろから今来(いまき)の才伎(てひと)たちをその統率下におき、しだいに勢力をのばした。東漢氏(やまとのあやうじ)は、蘇我氏と深くまじわり、政界の黒幕として存在し、特に軍事面で活躍した。東漢氏(やまとのあやうじ)の同属である坂上氏が、軍事の家柄である家世尚武(かせいしょうぶ)のつたえをもっている。
雄略天皇紀の十五年の条には、秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われており、秦造(はたのみやっこ)の思うままにならなかった。秦造酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして秦の民を集めて酒公(さかのきみ)に賜った。そこで酒公は百八十種の勝部(まさべ)を率いて、庸調の絹縑(きぬかとり)を朝廷にたてまつり、それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(うずまさ)という姓をあたえられることになったとある。雄略天皇紀の十六年の条には、諸国に桑を植えて、秦の民に養蚕・機織による調庸にたずさわらせたという記述がある。欽明天皇紀元年の条にも秦伴造(はたのとものみやっこ)を大蔵掾(おおくらのじょう)にしたという所伝があり、大蔵の役人として秦氏が登場している。
秦氏と仏教とのつながりは、広隆寺の創建をめぐる説話に代表される。この寺は秦河勝が聖徳太子からあたえられた仏像をまつり、聖徳太子のために創建したものである。秦河勝の信奉する仏教は、聖徳太子とのつながりが強く、また新羅仏教の系列に属するものと考えられる。現存の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の様式も新羅系のものであるといわれている。漢氏(あやうじ)の仏教が百済系であり、蘇我氏との結合が強かったのと対照的である。聖徳太子の嫡子である山背大兄(やましろおおえ)皇子が蘇我入鹿によって襲撃された時、三輪君文屋は、まず山背の深草の屯倉へおもむくことをすすめる。この地こそ秦大津父(はたのおおつち)らの居住したところであり、秦氏勢力圏のひとつであった。太子家と秦氏の深いつながりは、信仰や政界における政治勢力の動向にみることができる。
https://www.synchronous.jp/articles/-/416 【天皇の外戚で大出世、人柄で愛された渡来系官人】より
平安貴族列伝(6) 倉本一宏
今回は趣向を変えて、渡来系のある人物を紹介することとしよう。『日本後紀』巻十二の延暦二十三年(804)四月辛未条(27日)に載せられた。和家麻呂(やまとのいえまろ)という人物である。
中納言従三位和朝臣家麻呂が薨去した。詔して従二位大納言を贈った。家麻呂は、贈正一位高野(たかの)朝臣弟嗣(おとつぐ)の孫で、その先祖は百済(ひゃくさい)国の人である。人となりは木訥(ぼくとつ)で才学は無かったが、帝(桓武(かんむ)天皇)の外戚であったので、特に抜擢されて昇進した。蕃人(渡来系)で公卿となったのは、家麻呂が始めてである。人臣として過分の出世をしたが、天から授かった才質は不十分であった。顕職についても旧知の人に会うと、身分の低い人であっても嫌わず、握手して語り合った。これを見た者は、感じ入った。行年は七十一歳。
宝亀(ほうき)元年(770)に未婚の女帝であった称徳(しょうとく)天皇(阿倍(あべ)内親王)が死去すると、天武系の皇親は1人も残っていないという状況に陥ってしまっていた。幾度となく繰り返された「奈良朝の政変劇」によって、数多くの皇親は葬られ、生き残った者も臣籍に降下したり出家したりして、皇位継承権を抛擲(ほうてき)してしまっていたのである(倉本一宏『奈良朝の政変劇』)。
やむなく式家を中心とする藤原氏は、聖武(しょうむ)皇女の井上(いのうえ)内親王と結婚して他戸(おさべ)王を儲けていた天智(てんじ)孫王に過ぎなかった白壁(しらかべ)王を立太子させ、ついで即位させた。光仁(こうにん)天皇の誕生である。父も母も即位していない他戸王に直接皇位を継承させることは無理があり、他戸王への中継ぎとして、いったん老齢の白壁王を立て、皇太子となった他戸親王に、適当な時期に譲位させるつもりだったのであろう。
ところが、宝亀三年(772)、皇后井上内親王が呪詛に連坐して廃されるという事件が起こり、皇太子他戸も、その地位を追われて、庶人とされた。
そして翌宝亀四年(773)正月、山部親王が皇太子に立てられたのである。山部は光仁の第一皇子ではあったが、生母の和(高野)新笠(にいがさ)は、武寧(ぶねい)王の末裔を称する百済系氏族の出身であった。もちろん、武寧王の子孫というのは疑わしいが、百済からの渡来系であることは確かであろう。いずれにせよ、これまでの天皇家(および大王家)の歴史をまったく逸脱した出自を持っていたのである。
なお、宝亀四年に大和国(やまと)宇智(うち)郡の没官された宅に幽閉されてしまった井上内親王と他戸とは、その二年後の宝亀六年(七七五)、同日に死去した。この死が尋常のものではなかったことは、当然である。
渡来系氏族として初の議政官就任
天応(てんおう)元年(781)、光仁が譲位して皇太子山部が即位した(桓武天皇)。皇統創始者としての意識が強かった桓武は、「軍事と造作」、つまり三度の「征夷」と二度の造都(長岡京と平安京)を遂行した天皇であった。
近い血縁の親族も少なかった桓武は、記録に残っているだけでも、26人の后妃から、合わせて十六人の皇子と十九人の皇女を儲けた。皇后藤原乙牟漏(おとむろ/良継(よしつぐ)の女(むすめ))や、妃酒人(さかひと)内親王(光仁天皇皇女) などはともかく、特筆されるのは、女御の百済王教法(くだらのこにきしきょうほう)、宮人の百済王教仁(きょうじん)・百済王貞香(ていか)・坂上又子(さかのうえのゆうし)・坂上春子(しゅんし)、女嬬の百済永継(くだらのながつぐ)といった、多くの渡来系の女性に皇子女を産ませている点である(坂上氏は、元は東漢(やまとのあや)氏)。桓武にとって、自分の出自が百済系であったという事実は、大きなアイデンティティとなっていたのである(倉本一宏『皇子たちの悲劇』)。
また、桓武は生母である新笠の出身氏族である和氏の官人を高い地位に就けた。ミウチとしての行賞なのであろう。なお、和氏の名は、大和国城下郡大和郷( 現奈良県天理市佐保庄町大和)に由来する。元は和史(ふひと)という姓であったが、光仁の即位にともなって、和弟嗣(乙継)と新笠に高野朝臣姓を賜わった。延暦二年(783)には乙継の子である国守(くにもり)たちも高野朝臣となっている。延暦九年(790)には、皇太后が追贈された新笠の一周忌に際して、乙継に正一位を追贈している。
和(高野)国守は、従五位上大蔵少輔で終わったが、それでもその出自から考えれば、異数の出世と言えるであろう。
その子(異伝もある)の家麻呂は、天平6年(734)の生まれ。従七位上という低い位階から出身したが、延暦五年(786)に一挙に従五位下という高位に上った。もちろん、桓武の推挽あってのことである。ただ、官職は微官に任じられることが多く、伊勢大掾・造酒正・造兵正・内廐助・美濃介・治部大輔・大和守・相模守と歴任した。
ところが、延暦十五年(796)、いきなり議政官である参議に抜擢された。まだ位階は従四位下に過ぎず、しかも年齢は63歳に至っていたのであるから、きわめて異例の人事であった。前年の延暦14年(795)には、桓武は父方の近親(又従兄弟)の神王と壱志濃王を中納言に抜擢しているから、親族重視策の一環として、母方のミウチである家麻呂も、議政官に上らせたのであろう。なお、渡来系氏族出身者として議政官に上ったのは、これが初例である。
家麻呂は、延暦16年(797)に衛門督と兵部卿を兼任し、延暦17年(798)には従三位中納言に上り(この年、神王が右大臣、壱志濃王が大納言に上っている)、延暦18年(799)には治部卿、次いで中務卿を兼任し、延暦22年(803)には宮内卿を兼任しているが、驚くのは、この間、相模守も引き続き兼ねているということである。
延暦22年には数えで70歳、いきなり出世したのみならず、考えられないくらい激職を兼任していたのであるから、身体の方は大丈夫なのかと、他人事ながら心配していると、延暦23年(804)に死去してしまったというのが、先に挙げた史料である。従二位大納言を贈られている。翌延暦24年(805)に同じ渡来系の坂上田村麻呂が参議に任じられているのは、家麻呂の後継者という意味もあるのであろう。
私が感動するのは、その昇進と激務もさることながら、家麻呂の人となりである。「天から授かった才質は不十分であった」にもかかわらず、「過分の出世」をすると、人はいったい、どのような態度に出るのであろうか。
世間には、何かの拍子に実力不相応の地位に就いた途端に威張り散らし、下の者を顎でこき使ったりする連中も多いと聞いているが、家麻呂は違っていた。「顕職についても旧知の人に会うと、身分の低い人であっても嫌わず、握手して語り合った」という態度を続け、「これを見た者は、感じ入った」とある。
異国に生きる道を探さなければならない渡来系独特の処世術と言ってしまえば身も蓋もないが、やはり若年時からの歩みが培った人徳というものなのであろう。人間というものは、かくありたいものである。
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