全盛期も、荒廃した姿もともに美しい日本の城

https://kikuichi.hamazo.tv/e6470188.html 【全盛期も、荒廃した姿もともに美しい日本の城、「荒城の月」のモデルとは…?】より

11月は紅葉の季節…実は何時もの仲間(菊一会)と旅行の計画を立てていたのですが、メンバーの一人調子が悪く今回の秋の旅行は中止になりました

行き先は、世界遺産白川郷、そして高岡大仏と城跡公園、富山に泊まり、市内観光(もちろん富山城)を考えていましたが…下降仕方ありません、名所旧跡は逃げませんから、楽しみは先にとっておきましょうしょんぼり

そこで、せめてお城の事だけでもと思って「富山城」についての事を少し書きます。

全盛期も、荒廃した姿もともに美しい日本の城、「荒城の月」のモデルとは…?

皆さん、滝廉太郎の「荒城の月」を知っていますか…?「荒城の月」と言えば、それこそ、音楽の授業で、日本の近代音楽の代表的な歌として、大多数の方がご存じのはず…。

荒城の月は、明治34年、中学唱歌として発表され、長年にわたって歌われている日本の名歌で、土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の歌曲です。

実はこの歌のモデルとなった城とされる場所が現在、全国に5ヶ所あると言われています。

滝廉太郎の作曲のルーツとされる富山城(富山)、岡城(竹田市、大分)、土井晩翠の作詞とゆかりのある鶴ヶ城(会津若松、福島)、青葉城(仙台)、福岡城址(二戸市、岩手)びっくり

今日はそのお城を紹介します。まずは、大分県竹田市の岡城…滝廉太郎は、地方官だった父親が非職となり、故郷の大分に戻った事で、小学校の途中からこの大分は竹田の地にやってきます。ここで高等小学校を卒業し、15歳で東京の音楽学校に入学しますが、21歳で肺結核となり、再び大分にて療養生活を送ります。その後話、わずか23歳で亡くなるまで、この大分で過ごすのですが、少年期に荒廃した城跡で遊んだ思い出が、この曲のイメージを構成しているとも考えられています。

そして、もう一つゆかりの城が、富山城です。父親の仕事の関係で、上記の竹田の前にいたのが富山です。廉太郎が小学校1年から3年までの多感な時期を過ごした場所で、しかも、彼の通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事や、ここで父親の非職による転校という、子供心にはつらい出来事もあり、それが荒廃した城のイメージと重なったのではないかとも言われています。

曲のモデルがあれば詩のモデルも…そこで、晩翠がモデルにしたであろう場所の一番に挙げられるのは、やはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城です。

仙台の北鍛冶町の質屋の息子として生まれた晩翠は、若き日に文学少女だった祖母の影響を受けて、小学生の頃から文学に興味を持ち、その後、第二高等中学校を出てから東京の帝国大学に入学…やがて、発表した詩集が評判を呼び、島崎藤村と並び称される詩人となります。その後、英文学者として翻訳などを手掛けたりしながらも、母校の木町通小学校をはじめ、全国各地のたくさんの学校の校歌を作詞した事でも有名です。そんな仙台では、かつては駅前の百貨店から、毎日「荒城の月」が鳴り響いていたのだとか…?

また、かの伊達政宗が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、歌詞のモデルの第1候補と考えられて歌碑が建立されているのです。

また、仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址もモデル候補の一つで、ここにも歌碑があるそうです。

そんな中、5ヶ所めの候補地が、あの会津若松鶴ヶ城です。

ご存じのように会津には、あの戊辰戦争で壊滅状態となった中でも、有名な白虎隊の悲話があります。今も、彼らが自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館という歴史館が建っているのですが、その創立者である早川喜代次さんという方が、かねてからの知人であったのが土井晩翠とか…?

それは昭和21年の事…戦後の荒廃した雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いムードを一新しようと考えた早川さんが、晩翠夫妻を迎えての「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、開催したのです。当日の参加者・数千名による「荒城の月」大合唱のあと、挨拶を求められた晩翠が、おもむろにスピーチしはじめたのですが・・・「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」と…もちろん、音楽祭を開催しようと提案した早川さん自身も、まったく、その事は知らなかったのです。

晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞した時、真っ先に思い浮かべたのが、二高の修学旅行で会津を訪れた際に間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿だったのだと…!?

もちろん、故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべはしましたが、彼の心を最も動かしたのは、たった一度っきりの鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのです。このスピーチに感激した早川さんら有志によって、現在の鶴ヶ城内にも歌碑が建立されています。

しかし、だからと言って、鶴ヶ城以外の城を「モデルではない」と一蹴してしまう事はいただけないでしょう。晩翠が言うように、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、他の城の事も考えつつの作詞です。おそらく彼は、この国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を造ったに違いありません。

だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。それは、曲を作った廉太郎も同じ…全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城…人が、その姿に感動するのは、命を賭けてこの国の歴史を造り上げて来た先人たちの勇姿を、そこに見る事ができます。自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい…晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。

https://www.youtube.com/watch?v=MZYd67MoQ_0

https://www.bakucla.com/post/82-hotta 【爆クラ<第82夜>「俳句・短歌とクラシック音楽」ゲスト:堀田季何】より

 「赤子涼しき あくびを豹(へう)の 皮の上」と、これ私が中学の時、国語の教科書に載っていて、そのカッコ良さに痺れた野澤節子の俳句です。その句の世界が、ビンクフロイドのギタリスト、デイヴ・ギルモアのストラトキャスターの音色を連れてくるな、と当時、ロックファンの私は思ったのですが、日本の俳句と短歌は言葉と言葉の化学反応が、まるで「音のない音楽」のように感じられる、独特の魅力を持っています。

 爆クラで、一度、俳句・短歌vs.クラシック音楽をやってみたい、と思っていたところ、逸材発見。ゲストの堀田季何(きか)さんは、俳句、短歌、自由詩などを発表している歌人、俳人ですが、国際的な環境に育った故の、日本語と英語の両言語で創作を続けています。そして、裏のお仕事としては、官公庁の調査案件、大学・研究機関のデータ解析(医療から政治まで)を行う戦略&技術経営コンサルタント、データサイエンティストでもある、というとんでもない文武両道(意味不明)。

 内容といたしましては、名句から浮かんでくる数々の音楽(これはふたりのネタの出し合いになるはず!)。または、その逆。季題・季語という季節感と同様のセンスをクラシック音楽に探求。そして、クラシックも俳句・短歌も型がある表現方法ですが、それ故の魅力や、逆に逸脱や破壊などなど。あー、コレで新書一冊はいく内容なり。

 そう、ひとつお題の曲を聴いて、みなさんに一句詠んでいただき、堀田さんに講評いただく、という趣向もぜひ、取り入れてみたいところです。

 なお、今回は日曜日開催なので、スタートが17時45分からです。「笑点」を観るいつもの時間、たぐいまれな音楽体験をしてみませんか?

ゲスト

堀田季何(ほったきか)

文芸家。主に、俳句・連句・短歌・自由詩・翻訳の各分野で活動、作品・評論を国内外の媒体で多数発表。国際的な環境で育った事もあり、日本語と英語の両言語で創作。エミレーツ航空文学祭、ラトコヴィッチ国際詩祭等、海外の文学祭・詩祭に招聘されている。また、自身の俳句作品は、これまで10カ国語に翻訳されている。俳句により、芝不器男俳句新人賞齋藤愼爾奨励賞、澤新人賞、短歌により、日本歌人クラブ東京ブロック優良歌集賞、石川啄木賞をそれぞれ受賞。Eテレ「俳句王国がゆく」北海道浦河町編・俳句チャンピオン。単著に句集『亞剌比亞』、歌集『惑亂』、共著に『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』等。「吟遊」「澤」各同人を経て、現在は、「短歌」同人、「扉のない鍵」別人、現代俳句協会、現代歌人協会、日本歌人クラブ各会員。大のクラシック音楽好き、ピアノ演奏史研究家。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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