Facebook相田 公弘さん投稿記事【やばい老人になろう】
さだまさし氏の心に響く言葉より…
2017年4月10日、僕は65歳になった。ほとんどの人は、死を恐れ、老いることを恐れるものだ。だが僕はむしろ、死を素直に受け入れ、どのように老いていくかを真面目に考えつづけてきた。僕は、いったいどんな「じじぃ」として、生きるべきなのか。
そう暗中模索しているうちに、ふと、周りから「ヘンなじじぃ」と呼ばれたいと思うようになった。「フツー」ではなく、あくまでも「ヘン」がいい。
自分の子供を育てるときに心掛けてきたのも「フツーはダメ」ということだった。
子供がちょっと変わったことをしたときも「すごい!ヘンでいい」と褒(ほ)めてやった。
「良いヘン」と「ダメなヘン」があることは教えたが、「フツーはダメ」ということだけは徹底してきた。
だから、自分もまた老人として「ヘンなじじぃ」であり「やばい老人」でありたいと思うのだ。老いを恐れる人は、たぶん人生と真剣に向き合って生きてこなかった人だ。
だから歳を取ると、後悔や不安でいっぱいになる。
だが、これまで一瞬一瞬を精一杯に生き、一所懸命に努力をしてきた人にとっては、老いることは怖いことでも悲しいことでもないはずだ。
そもそも「じじぃ」には、選ばれた人しかなれないものだ。
僕の同級生でも音楽仲間でも、「こいつがじじぃになるのが楽しみだな」と思うような奴が、思いがけなくガンで早く死んだりしている。
そう思うと「じじぃ」になるのは、ありがたいことなのだ。
僕が憧れる「じじぃ」、それも「やばい老人」の条件は三つある。
その一 「知識が豊富」
その二 「どんな痛みも共有してくれる」
その三 「何かひとつでもスゴイものを持っている」
僕の周りには、幸せなことに、そんな「じじぃ」や「ばばぁ」がたくさんいる。
彼らに追いつき追い越すためには、まだまだ僕自身の経験値も実績も足りない。
どうしたら「ヘン」で「やばい」と言われる「じじぃ」になれるか。
毎日が挑戦の日々である。
『やばい老人になろう』PHP研究所
さだまさし氏は本書の中でこう語る。
『もともと、誰も掘っていない畑を耕してみたくなるのは、どうしようもない僕の性分だ。
負けず嫌いのお調子者のことを、長崎勉で「のぼせもん」という。
遊びでも祭りでも、やたら仕切りたがるおじさんのことを、古い言い方で「おっちゃま」と呼ぶ。僕はまさに「のぼせもんのおっちゃま」なのである。
できることなら、陽気で元気で一徹な「じじぃ」をめざしたい。
友人とワイワイ仕事をし、めいっぱい遊んで呑んで、若い仲間を巻き込みながら、友情の大きな輪を広げていく。
そもそも、日本の年寄とは、そういう存在だった』
江戸においての老人の評価基準は三つあったという(江戸の「粋」・夢新書より)。
それは…
一、「どれだけ若者を笑わせたか」
二、「若者を引き立てたか」
三、「良きものを伝承したか」
これは、現代でも同じことが言える。「ヘンな老人」、「やばい老人」をめざしたい。
https://www.youtube.com/watch?v=2PofbnfLeU0
Facebook田中 宏明
昔読んだ本に「九相観」という死んだ人間をただ見つめ続ける修行があったと書いてありました 確かイラストも 載っていて 女性の死体が 肉から骨になるまでの九つの変化が
描かれていました 死体は腐乱がはじまり やがてゲル化して液状になり そしてさっぱりとした 骨になります^ ^ まぁすごい修行があったもんです
当時は行き倒れや 身寄りのない人は 町の外にただ 捨てられていたそうです
もちろんそれを 食べに来る野犬も いたでしょう
その辺はインドの おおらかさに 似ていますね^ ^
インドで僕も 川に浮かぶピンク色に ゲル化した死体を 見たことがあります
あの時は カラスが食べて いましたなー😊
朝から何だか グロテスクな話しに 聴こえるかもしれませんが この「九相観」の
目的はシンプルに 無常感を養うこと だと思います
死体が女性として描かれているのは「性欲」を押さえる目的もあったのかもしれません^ ^
ただ何より我々が後生大事に守り続けているこの「肉体」というものが いかに儚い
一瞬の物理現象であったか^ ^ 肉体への執着 引いては 生への執着そのものが
どれほど虚しい ことなのかを 体験を通して 実感するための仕掛けだったのだと
思います^ ^
まぁ意味のわからない 経典を読むよりは はるかにましなアプローチだと思います
変な言い方かもしれませんがあらゆる人にとっての理想の状態とは実は死体なんだと思います😁 僕はそう思っています なぜなら 死体以上の「自然体」はないからです
よく「自然体」になりたいという人がいますが 死ねば一瞬で 自然体になれます(笑)
ではなぜ死体があれほど自然体なのかと いうと そこには 誰もいないからです^ ^
肉体の腐敗を 嘆くものも 過去や未来を 憂うものも こんな自分を人が見たらどう思うだろうと怖れるものもいません
つまり 死体には緊張する 要素が一つもないわけです^ ^
ではその肉体 という乗り物の中で 非喜劇を起こし続けていた ものは何処に行ったのでしょう?
その肉体を動かしていた「何か」はどこへ行ったのでしょう?
それは九相観の中には描かれててはいません そこから先は瞑想の中にヒントがあります
深い瞑想の中では 肉体感覚は完全に 消えてしまいます
ただとても 静かで繊細な リズムのような ものだけが残ります
それはすでに「わたし」と定義出来るようなものではありません
敢えて言葉にするならそれは「海」そのものになったという感覚です
どこにも分離や隔たりもなく ただ脈動している 大いなる何か
そしてそれこそが命の実相だと感じます なぜ?と言われても 説明は出来ません^ ^
海に向かって なぜあなたは海なの?と、聞くのと同じです
その大いなる意識の中には、問うものも問われるものも存在しません
「ただ在る」これが言葉で表現出来る限界です
肉体が消えても 存続し続けている何かそれが僕たちの本質です^ ^
僕はその大いなる意識を「愛」と呼んでいます
愛から感じるのはただ果てしない受容性と無限の安心感それだけです^ ^
そしてそれこそが僕たちの本質そのものなのです 現代において九相観を行うことは難しいと思います ただ人はあまりにも 「死」から遠ざかると 過剰に生に 執着するように なってしまいます
だから そんな人は毎日 瞑想の中で「死ぬ」 ことをおすすめします^ ^
そして実は「死」の中に果てしない安心が在ることが分かれば
実際の死においてもそんなに動揺することも少なくなると思います^ ^
瞑想とは小さな「死」ですそして、心穏やかに逝くための死というクライマックスに
いたるための日々の練習です😊
そうして死への怖れがあなたから消えた時あなたは生きながら死体になれます^ ^
つまりこれ以上ない「自然体」になれるのです
僕も日々練習です^ ^「メメント.モリ」死を想え🌈ではまた✨
らぶ💓
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