俳句の本質について

https://serai.jp/hobby/91521  【夏目漱石、寺田寅彦から俳句の本質について質問される。】より

今から118 年前の今日、すなわち明治31年(1898)10月2日、漱石は熊本・内坪井町の自邸に同好の士を集め、運座を開いた。漱石は当時31歳。英語教師として松山から熊本五高に転任して、3年目を迎えていた。

この日、漱石邸に集ったのは11人。寺田寅彦をはじめ、厨川肇、蒲生栄、平川草江といった面々。熊本五高における漱石の教え子たちであった。

寅彦が初めて漱石の私邸を訪ねたのは、これより1年前の7月。同郷(高知出身)の同級生を含む数人が学年末試験に失敗して落第しそうになっており、寅彦は「点をもらうための運動委員」に選出されて漱石にお願いにいったのである。同郷のその学生は家が貧しく人から学資を援助してもらっていたため、万が一落第するとそのまま学資の支給を断たれてしまう恐れがあったのだ。

それにしても、学生同士互いに連帯して先生の家へ請願に行き、先生の側もその学生と面談して相談にのっているあたりが、当時の旧制高校生の気質と師弟の密接な関係を映し出していて、微笑ましい。

役目としての嘆願を終えたあと、寅彦は漱石に質問した。

「先生、俳句とは一体どんなものですか?」

漱石は答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」

また、こんなことも言った。

「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並みという。秋風や白木の弓に張らんといったような句は佳い句である。こればっかりは、いくらやっても出来ない性質の人があるし、はじめからうまい人もいる」

漱石とのこの対話をきっかけに、寅彦は俳句をはじめた。10句、20句と書きとどめては漱石のもとに持参した。

漱石はいつも、黒い羽織を着て、端然と正座してこれを迎えた。鏡子夫人が決まって生菓子で歓待してくれた。中でも、美しくみずみずしい紅白の葛餅は、いつまでも寅彦の眼の底に焼きつくこととなった。後年、寅彦はこんな短歌もつくっている。

《俳句とはかかるものぞと説かれしより天地開けて我が眼に新》

そのうち漱石は、寅彦以外の他の五高の生徒たちにも俳句の指導をはじめ、運座を開くようになっていったのである。これはと思う句は漱石が拾い上げ、親友の正岡子規が関係する雑誌『ホトトギス』や新聞『日本』へ送り発表の機会を得られるよう働きかけた。

漱石先生、この頃、紫溟吟社という結社もつくり、俳人として活躍しはじめていたのである。

■今日の漱石「心の言葉」

普通の人の気のつかぬ所を、俳句の趣味を養ったお陰で見出すことがある(談話『文話』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館」

夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12756451287.html?frm=theme 【漱石の俳句 眼目】より

ごきげんいかがですか?昨日は、公民館のお仕事。納涼祭のイベントでした。

コロナ下での 苦肉の策での実施でした。その分、準備・片付けは楽でした。わずかな風があり、過ごしやすい会でした。

月曜日は俳句。漱石の俳句を年を追ってみています。今回は明治23年 漱石23歳の俳句です。

明治23年

   富士見西行(ふじみさいぎょう)

 西行も 笠ぬいで見る 富士の山

子規が「西行の顔も見えけり冨士の山」という句を作り自慢しました。そもそも,西行とは,平安から鎌倉に生きた武士・僧侶・歌人で有名です。特に有名な句は「ねがはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ」(山家集)ですね。ただし,「富士見西行」は卑俗な画題であります。それらを前提にして,子規が読んだのでしょう。

 それに対して漱石は,手紙に

君が「西行の顔も見えけり冨士の山」と自慢したが,僕が先頃冨士を見ていて,ふと口を

ついてでた。名吟にはとてもおもばないが,このような手紙の後に書くのはもったいないけ

れど,別懇の間柄だから読んでくれたまえ (鶯庵 現代語訳)

として,上記の俳句を書いています。共に遊んでいる感じがします。季語もありませんし,まだ俳諧的ですね。

※ この手紙の原文では「手帋」と書いてあります。これが読めなくて閉口しました。分かったときは,「なあんだ。」と手を打ちました。答えは「てがみ」です。解体新書の杉田玄白の心境です。ところで,これは当て字でしょうか。漱石は,当て字が大変多いことで知られていますが。

眼目(先輩諸氏の表現のお気に入りを拝借し、句をひねって遊ぶ)

元の俳句  吾と猫我儘同士温め酒

うまいと思った表現  我儘(わがまま)同士

鶯庵の句 (猫) 我儘を互いに許し三尺寝

※三尺寝:昼寝のこと。三尺は約1m。狭いところで、短い時間の体の回復。

今回はいまいち。また、そのうちに作って遊ぶ。

今どきの季語例

8月15日 戦争 彼もまた戦争の禍を受け止めた岸上大作不器用すぎる 鶯庵

8月16日 送り火 亡き父の焚きし門火もこのあたり 橋本ナオコ

8月17日 木槿 むくげ 薄墨の祖母と木槿の道に逢ふ 有住洋子

8月18日 蜩 ひぐらし 蜩やどの道も町へ下りゐる 臼田亜浪

8月19日 残暑 秋暑し企業戦士たりし日も 内田鴨川

8月20日 玉蜀黍 採りたての玉蜀黍の湯気が満つ 鶯庵

8月21日 水引の花 水引草腰かがめ読む千代女句碑 渡辺美恵子ごきげんよう さようなら


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12615307998.html?frm=theme【漱石の俳句 漱石生死をさまよう】より

ごきげんいかがですか?私は、墓掃除の体のダメージが、すこし回復してきました。

今日は、体のことというか病気のお話。

漱石は、いくつか病気があったようですが、そのうちの一つに、胃があります。

いよいよ悪くなって、医師の静養の勧めで、修善寺温泉に行きます。そこで大吐血をしてしまい、生死をさまよいます。いわゆる「修善寺の大患」といわれるものです。

洪水のあとに色なき茄子(なすび)かな 明治43年

「病後対鏡」と前書きがある。だから、「洪水」とは自分の胃の大量出血のことだ。医師は、大量のカンフル剤と食塩を打ち続け、やっと命を取り留めた。夫人が言うに、「30分は死んでいた」というぐらいだった。生き延びて、鏡を見ると、顔はすっかりいろの変わった顔だった。それを色がなくなった茄子(なすび)と言った。どのような状況でも、ユーモアを忘れない愛すべき漱石だ。

別るるや 夢一筋の天の川        明治43年

同じく修善寺大患の後の句。「思い出す事など」にある。説明に、「なんという意味かその時も知らず、今でも分からないが、あるいはほのかに東洋城と別れるおりの連想が夢のような頭にはい回って、恍惚とできあがったものではないかと思う。」とある。 これ以上の説明は不要だろう。天の川は三途の川ぐらいに思えたのかな。

農業日記

接ぎ木のなすの苗を買って植えました。生長が不調で、やっと少し元気になりましたが、できた実は、接ぎ木の元の茄子(丈夫な茄子)と、挿し木をされた茄子(うまい茄子)が、一本の茄子に混在することになりました。まあ、考えられることですが。

では、ごきげんよう、さようなら。


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12786265057.html?frm=theme 【漱石の俳句 孤独】より

ごきげんいかがですか?月曜日は漱石の俳句を年を追ってみていますが、いよいよ、最後が近くなりました。大正3年 47歳  孤独

この年に 代表作「こころ」を執筆しています。 胃潰瘍で病床に臥すこともありました。「私の個人主義 (講演)」も有名です。世の中は,第1次世界大戦が始まりました。多くの手紙を書いています。俳句も122句もあり,昨年を補うかのようです。

寝ながら句を作ろうと思うのですが一向にできません。

眠らざる夜半の灯(あかり)や秋の雨  と詠みました。

また,「一向に句にならぬ」として東洋城に送った四句の内の一句です。

松立てて閉鎖したる隠居哉     

ところが,手帳には114句も書いてありました。

内陣に仏の光る寒哉

内陣とは寺の本堂で本尊を安置さてある神聖な場所です。反対は外陣(げじん)です。

お寺に参拝したのでしょう。仏が見えたのでしょうか。仏像でしょうか。

なわのれん くぐりて出れば柳哉

縄のれんと柳は似ているように思えます。

それにしても、仏教用語が目立ちます。例えば,仏 線香 彼岸参り 涅槃(ねはん) 寺町 塚 和尚などです。

ちらちらと陽炎立ちぬ猫の塚

同時に孤独を感じる句もあります。

我一人行く野の末や 秋の空

芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を思い出しました。

そう言った時期に「こころ」が出来上がります。

今どきの季語例

十年の苦学毛の無き毛布かな 正岡子規

白菜を胸に抱き羞づ学生妻 西垣 脩

蹲る枯枝の鳩や春隣 富安風生

枯蓮や学舎は古城さながらに 竹下しづの女

鬼打ちてことごとく灯をともしけり 徳永山冬子

女の童(めのわらわ)挨拶かろし春立ちぬ 鶯庵 落選

風やみて日のやさしさよ猫やなぎ 成瀬桜桃子

※寒さの中、立春を迎えます。暦の上では、春が始まります。

では御機嫌よう さようなら。

※追伸 木山捷平(笠岡)の俳句を本で読みました。

    迷ひ子のゐる交番の水仙花

    いいじゃないか!

    今まで見向きもしなかったが、いつか正面を向いてみよう。


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12786457582.html?frm=theme 【漱石の俳句 京都】より

ごきげんいかがですか?月曜日は漱石の俳句をご一緒に。いま、年を追ってみています。48歳になりました。  大正4年     京都

この年、京都に旅行にいきます。道草 硝子戸の中 を書きます。俳句は16句です。

正月,漱石は自分の死をはっきりと意識始めるのです。寅彦への賀状に今年は僕が相変わって死ぬかもしれないと添え書きがありました。4月に京都に旅行します。そこで,7句詠んでいます。

川向の御多佳さんへ  春の川 隔てて男女かな

ちょっと意味深ですが,ちょっとした食い違いがあって、トラブルが生じました。

多佳さんは,京都の料亭の女将です。体調を壊し,世話になったようです。

菊の花 硝子戸(ガラスど)越しに見ゆる哉

「硝子戸の中」を書いているからこの年の作だろうという俳句です。このように作った時がはっきりしていない句が,どうしても生じます。

残りは,自書を含め書賛の句が7句となります。

 真向に座りて見れど猫の恋

 鏡で疲れたきった自分の姿を見て,「恋猫のようだ」と感じたのでしょうか。

※ とうとう次回はご臨終です。

 人生五十年とか言っていた時代もありますが、時は明治。50歳まで生きることはできませんでした。

※俳句雑感

 あまりにも似ている俳句をみた。 どちらも有名俳人作。どちらが先か知らないけれど、ちょっと興ざめの感をもったな。(個人的な生意気な感想です、)

 寒鯉を雲のごとくに食わず飼う 森 澄雄

 寒鯉の雲のごとくにしづもれる 山口青邨

 鶯庵は後者に一票。 ひあたりて花あたらしきつばきかな

今どきの季語例

ほうれん草 齋の膳ほうれんそうのみどりかな 高野素十

梅の花 梅一輪一輪ほどの暖かさ 服部嵐雪

埋火・うすずみ 埋火の仄かに赤しわが心 芥川龍之介

春炬燵 当たりもす春の炬燵をうたみつつ 高浜虚子

椿 おちこちに島を飾れる藪椿 鶯庵

日永 永き日のなほ永かれと希ひけり 相生垣瓜人

つかれ猫 恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣

御機嫌ようさようなら


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12786458806.html?frm=theme 【漱石の俳句 鳴るかならぬか】より

ごきげんいかがですか?月曜日は漱石の俳句をご一緒にいよいよ49歳 最晩年となりました。大正5年 鳴るか鳴らぬか 最後の年です。俳句数は48句です。

鬼村元成への便りで,

私は終始からだが悪くて困ります。まあ病気をしに生まれたような気がします。

と述べています。体調が悪い中で,創作活動を続けます。手紙もきちんと書いています。

その手紙の中で,芥川龍之介へ 秋立つや 一巻の書の読み残しを添えています。まだまだ,本も読みたかったし,小説も書きたかったことでしょう。また,最後に読みたかったこの本は,いったい何だったのでしょうね。

芥川龍之介・久米正雄への手紙では,俳句について

僕は俳句といふものに熱心がたりないので 義務的に作ると18世紀以上にでられません

と謙遜しています。宮沢教道(僧)への饅頭のお礼の手紙に俳句5句が添えられています。その内の一句を紹介します。

僧のくれしこのまんじゅうの丸きかな

 写生の句の様ですが,丸いのは,僧の心も丸いと感じたののではないかと思います。

耳の穴掘ってもらいぬ 春の風

 鏡子夫人の,優しさが伝わってきます。晩年に妻に優しくされて,幸せだったのだろうと思います。

そして,漱石最後の句です。

ひょうたんは鳴るか鳴らぬか秋の風

 ある人が道具を何も持っていない人に,酒をひょうたんに入れて贈りました。貰った人は,大喜びをして酒を飲み干します。そして,ひょうたんが空になったとき,ひょうたんをもう用がないと木の枝にくくりつけておきました。すると,風に吹かれて鳴ったので,やかましかったのでしょうかすててしまいました。液体を入れる道具として使うことはありませんでした。という故事があります。「私が教えたことを君(たち)は吸収してくれたかな。それとも,ひょうたんのように捨ててしまったのかな。」という気持ちがあったのでしょうか。

 大正5年12月9日に,漱石は永眠します。病名は胃潰瘍です。翌日解剖されたのは,雛子の怪死が,漱石の心の中にあったそうさせたのでしょう。

今どきの季語例

梅の花 ちかづけばちかづくほどの梅の香よ 鶯庵

春めく 弓なりの日本列島春めける 小林澄子

紅梅 紅梅が暖めている村の昼 鶯庵

沈丁花 下駄の緒が切れて路傍の沈丁花 木山捷平

春の海 春の海寄せては返す子守歌 深澤志げ

春寒し 白き歯に酢貝の味や春寒し 夏目漱石

では御機嫌ようさようなら


https://ameblo.jp/hagata47104/entry-12786460887.html 【漱石の俳句 まとめ】より

ごきげんいかがですか月曜日は漱石の俳句をご一緒に漱石45歳の写真でした。

臨終まで行きましたので、今回で、漱石の俳句は一休みしたいと思います。

最後に、漱石の俳句に関する言葉で、まとめとします。

俳句に関する漱石の言葉

俳句はレトリックの煎じ詰めたものである

  ※レトリック 巧妙な言い回し

 扇のかなめのような集注点を指摘して描写して,それから放散する連想の世界を暗示するものである。

表現こそ違え、同じことを言っているように思います。

読者に想像してもらう短い詩表現なのでしょう。扇のかなめのように。

俳句を作っている時については、

ただ斯様に現実界を遠くに見て,はるかな心にいささかのわだかまりのないときだけ,句も自然に湧き,詩も興に乗じて種々な形のもとに浮かんでくる。そうして,後から顧みると,それが自分の生涯の中で一番幸福な時期なのである。

俳句は、漱石の幸せの時間を作っていたのかもしれません。

私が漱石の俳句にひかれたのはなぜでしょう?自問しています。

反骨魂は大好き。西園寺への返答句を見よ。

生涯読み続けたのがいい。たとえ、年に数句でも。

「わびさび」にあまりこだわらない?のがいい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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