短詩に込められた引き算の美学

https://news.yahoo.co.jp/articles/3c0f8d417d81e50001baa24f292db562e05415e1 【俳句:究極の短詩に込められた引き算の美学】より

世界で最も短い定型詩である俳句が国境を越えてもてはやされ、海外でも句作に励む人が増えている。和歌・連歌から連なるルーツをたどり、俳句とは一体どんな文芸なのかを解き明かす。

古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音

日本で生まれた俳句はグローバルな広がりを見せ、今やさまざまな言語によって多様な形式のHAIKUが詠まれている。この「古池や」の句は松尾芭蕉(1644~1694)の代表作としてだけでなく、HAIKUを代表する句と認識されており、世界中に彼の名は知られている。しかし、俳句とは何かを明確に答えられる人はあまりいない。本稿では現在に至るまでの歴史をたどりながら、俳句とはどのような形式の文芸なのかを見ていく。

個性的な視点が肝要

俳句は、特にその短さが特徴的な、日本語圏発祥の定型詩の一種で、一句、二句と数える。日本語の作品の場合、一般的に俳句と認識される条件は、以下の二つである。

・5拍+7拍+5拍の定型(通称五七五)に従っていること。

・季語を詠み込んでいること。

まず定型について説明しよう。「拍(はく)」とは、リズムの上の長さを言う。日本語の場合、音節数や仮名文字の数と拍が一致することが多いものの、微妙にずれる場合も少なくなく、「五七五」の感覚に最も合致するのは拍数である。しかし俳句は、5拍+7拍+5拍の17拍でなければならないというわけではない。1拍から数拍オーバーすることはよくあり、それは「字余り」と呼ばれる。逆に拍数の少ない「字足らず」は、「字余り」以上に避ける傾向が強い。

季語とは、特定の季節に属すると認識されている語彙(ごい)である。俳句作者は季節ごとに季語を集成・分類した「歳時記」を参照することが多い。例えば、「月」とだけあれば秋の季語であり、「花」とだけあれば春の季語であって桜の花を意味する。季語には長い歴史の中で定められた独自のルールが数多くあり、歳時記はそうした約束事のガイドブックである。なお、江戸時代までは一句に複数の季語を詠み込んでも問題とならなかったが、近現代の俳句ではそれは「季重(きがさ)なり」と言って嫌う。

この二つの条件を守ろうとする意識のもとに詠まれる俳句を「伝統俳句」と呼んで、守ろうとしない「前衛俳句」と区別する場合がある。前衛俳句の中でも、定型の条件を考慮しない俳句は「自由律俳句」、季語を用いない俳句は「無季俳句」と呼ばれる。また、逆に、二つの条件を備えてさえいれば俳句になるかというと、そうとは限らない。交通安全の標語に季語を入れても俳句とはならない。俳句には作者の感動や個性的な視点が表現されていることが肝要である。

また、俳句の成立条件ではないが、句の中に「切れ」があることが重視される。それは、俳句一句は二つの要素によって構成されるという発想から来ており、二要素の分かれ目が「切れ」で、「切れ字」を詠み込んでその位置を明示することが多い。代表的な切れ字としては、「や」「かな」のような詠嘆の終助詞や、「けり」「らん」のような助動詞の終止形がある。切れ字には感動の焦点のありかを示す役割もあり、一句の末尾に切れ字を置くという一見不合理な用いられ方もなされる。また、「切れ」のない句を「一物仕立て(いちぶつしたて)」と言う。

和歌や連歌よりも自由な俳諧が流行

俳句に先行する定型詩、和歌は古代から「5拍+7拍+5拍+7拍+7拍」の「短歌」形式が主流となっており、一首、二首と数える。やがて和歌一首を作者二人で共同制作することが起こり、「連歌(れんが)」と呼ばれた。長句(ちょうく、5拍+7拍+5拍)が先にあって短句(たんく、7拍+7拍)を付ける連歌もあれば、逆に短句に長句を付ける連歌もあった。連歌は11世紀ごろから、長句から始めて短句、長句、短句‥‥と付け続ける形式に発展した。

長編化した連歌(原則、百句で一作品)では、最初に詠んだ作者から提示される長句を「発句(ほっく)」と称した。客人に当たる者が発句を詠み、そこにその時の季節の話題を入れ、他のメンバーへの挨拶(あいさつ)の気持ちを込めるのが決まり事となった。現代の俳句の定型と季語の二つの条件は、この連歌の発句に由来している。

中世に流行した連歌には和歌の一種であるといった意識が強く、和歌の語彙・発想の範囲内で詠まねばならなかった。するとそうした制約に息苦しさを感じた詠み手らによって、自由な言葉遊びや卑俗な話題を詠むという条件での連歌の会が催されるようになった。それが「俳諧之連歌(はいかいのれんが)」、略して「俳諧(滑稽の意)」である。江戸時代には連歌に代わって俳諧が流行した。著名な作者としては、芭蕉、与謝蕪村(1717~1783)、小林一茶(1763~1827)がいる。

江戸時代の作者が句を詠む際は「俳諧之連歌」を基本的に意識しており、その冒頭の長句は、あくまでも連歌の始まりの句を意味する「発句」であった。時代が下ると発句の独立性が次第に高まり、それのみを鑑賞する動きも生まれてくる。江戸時代までの作品は「発句」と呼ぶのが正しいが、例えば「芭蕉の俳句」のように、近代に始まる「俳句」の呼称を流用することが現在では一般化している。

子規によって「俳句」が誕生

現代に続く「俳句」という文芸は、19世紀末に、正岡子規(1867~1902)から始まった。子規は、「俳諧之連歌」の二句目より後を文学にあらずと批判して切り捨て、「発句」のみを「5拍+7拍+5拍」で完結する詩として認め、その呼称を「俳句」と改めた。集団性の強かったそれまでの俳諧に対して、俳句はこの時から個人の創作行為となって広まっていく。また、子規は西洋絵画の「写生」の方法によって句を詠むことを唱えた。

子規の俳句を受け継いだのは高浜虚子(1874~1959)であった。虚子は定型や季語を尊重する伝統俳句の立場から、「客観写生」や「花鳥諷詠」(かちょうふうえい)の語を掲げた。花鳥諷詠とは、人間を含む自然界の現象を賛美して句に整えることを言う。一方で、河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう、1873~1937)を中心に、社会性を求め非定型と無季を認める「新傾向俳句」の運動が起こり、虚子らと対立した。第2次世界大戦をはさみ現在に至るまで、虚子の流れをくむ流派と、戦後の「前衛俳句」につながる新傾向俳句の流派が併存している。

短さゆえの多様な解釈・評価

最後に芭蕉と子規の詠んだ句を簡単に解説するので、発句や俳句を理解するための参考にしてほしい。

古池や蛙飛びこむ水の音   芭蕉

Fu-ru-i-ke-ya(5拍) ka-wa-zu-to-bi-ko-mu(7拍) mi-zu-no-o-to(5拍)

芭蕉は、「桃青(とうせい)」の俳号も終生使用した。俳諧・俳句を象徴性の高い短詩にまで高める源となった俳人である。

季語は「蛙」で、春の発句。次の短句を弟子の宝井其角(たからい・きかく、1661~1707)が付けている。「や」が切れ字。内容は「古びた池がある。そこに蛙が飛び込んで水の音が聞こえた」というだけのことであるが、芭蕉が何を表現しようとしたかについては数多くの説がある。

古典の発想をずらしていると見る観点から、和歌では鳴くものとして詠まれる蛙に、古池に飛び込んで水音を立てさせた点に芭蕉の斬新な狙いがあったとする説や、10世紀にまとめられた『古今和歌集』の「仮名序」では歌を詠む生き物とされた蛙が、歌の代わりに水の音を立てて春の訪れの喜びを表したと解する説などがある。

しかし、芭蕉の弟子の各務支考(かがみ・しこう、1665~1731)が、「瞑想(めいそう)に耽(ふけ)っていた芭蕉が、蛙の水音によって悟りを開いた」という意味合いの俳論を書いたことから、さまざまに深遠な解釈が生み出されてきた。禅をはじめとする仏教の教義と結び付けて解釈されることも多い。知名度や影響力といった点で、俳諧・俳句を象徴する句と位置づけることができる。

鶏頭の十四五本もありぬべし   子規

Ke:-to:-no(5拍) ju:-shi-go-ho-n-mo(7拍) a-ri-nu-be-shi(5拍)

(:は長音を示し2拍に当たる)

子規はカリエスのために病臥(びょうが)することが多く、36歳の若さで亡くなったが、俳句の革新を成し遂げた。

季語は「鶏頭」で、秋の俳句。鶏頭は初秋に茎と花がまっ赤に色づく庭の草である。「鶏頭の」の「の」は主格を表す。「ありぬべし」は「あるにちがいない」の意で、「べし」が切れ字。33歳の子規が、重い病の床から庭の鶏頭を眺め淡々と詠んでいる。句の評価について議論はあるが、まさに「写生」を実践した句で、子規の意識に触れるものごとを清澄な感覚そのままに言語化し、そこに「生きている」ことの感慨を込めている。

【Profile】

深沢 眞二 FUKASAWA Shinji

日本古典文学研究者。連歌俳諧や芭蕉を主な研究対象としている。1960年、山梨県甲府市生まれ。京都大学大学院文学部博士課程単位取得退学。博士(文学)。元・和光大学表現学部教授。著書に『風雅と笑い 芭蕉叢考』(清文堂出版、2004年)、『旅する俳諧師 芭蕉叢考 二』(同、2015年)、『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社、2013


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12692442298.html 【道元の説く清潔さ】より

生死の中に仏あれば、生死なし      道元禅師

こんなに涼しい終戦記念日は珍しい。昨夜はひさしぶりにクーラーなしで眠れた。

今日も降ったり止んだりの一日。駅前のスーパーに出かけたのみだった。

今はコロナが大変だが、世界的に見れば、日本はずいぶん穏やかなほうだ。

死者数などは驚異的な低さと言っていい。

なんだかんだ言って政府ががんばっているのかもしれないし、国民が皆、努力しているからかもしれない。

医療の発達、医療従事者・保健所などの努力ももちろんあるだろう。

こういう時、仏教などの宗教はなんの役にも立たない。(まあ、俳句だって同じだが…(苦笑)。)

「疫病退散」などと唱えて、護摩を焚いたり、祈祷などをしても退散するわけがない。

京都の祇園祭も「疫病退散」祈願から生まれた祭礼らしいが、祭礼を行ったところで退散するわけがない。

が、これは私の考えだが、曲がりなりにも日本がコロナの被害を少なく出来ているのは、日本人が基本的に清潔を好む国民であるからで、その清潔さを好む精神は、仏教や神道…、中でも「禅宗」の影響が大きいのではないか。

とりわけ「曹洞宗」の開祖・道元の影響は大きいと思うのである。

道元の著書『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)は計91巻の大著だが、その中に「洗面」「洗浄」という章があり、身を清潔にすることの大切さを説いている。

道元の教えというのは崇高で難解で、私などには到底理解出来るものではないが、一部分を挙げれば、きれいな心、きれいな体に仏が宿るというのがある。

一部分と書いたが、私の浅い考えだが、これこそ曹洞宗の教えの根本ではないか。

道元は、人間と宇宙は一体であり、人間の生命と宇宙の生命はまったく同じである。

という。

例えば、人間はよく「お金」が無くては生きていけない、と言うが、生きていく為に、お金よりもっと大切なものがある。

それは宇宙から授かった「自分の体」である。

「鼻」が無かったら、あっという間に窒息死してしまうし、「口」が無かったら、餓死してしまう。「歯」が無かったら食べ物も食べられない。外にある空気、酸素も宇宙の恩恵である。空気がなければわれわれはあっという間に死んでしまう。

われわれはその恩恵である酸素を受け取る鼻を清潔にしておかなければならない。

また、宇宙の恩恵である空気、水、日光によって食物が出来るので、食べ物も宇宙の恩恵である。その恩恵を受け取る口をわれわれは常に清潔にしておかなければならない。

空気、水、食物など、われわれが取り込む、これらの中にも「仏」は存在するから、われわれは常に体を清潔にしておかなければいけないのである。

末端の寺は違うかもしれないが、「本山」クラスの曹洞宗寺院を、日がな眺めていると、しょうちゅう掃除をしている。

洗面は仏祖の命脈なり  「洗面」

目を洗ふ  「洗面」

歯のおもて、歯のうらをみがく  「洗面」

塵穢をのぞくは、第一の仏法なり  「洗面」

爪をながくすべからず   「洗浄」

顔を洗い、目を洗い、歯を磨き、体を清潔にし、お寺を掃除し、爪を切れ、と言っている。

「禅宗」の祖は達磨和尚で、インドの人である。その教えはインドから中国に渡り、日本に伝わった。しかし、禅宗は今や日本だけに残っている。(今は、それがヨーロッパやアメリカにも伝わっているが…。)日本に歯磨きの習慣を定着させたのも、道元の力が大きい。

日本人が清潔を大切にする習慣が、コロナの被害を最小限に抑えているのだとしたら、やはり道元の力が大きい。神道の影響も見逃せない。

神道も、基本は、神は清潔なところ、きれいなところに宿る、と考えている。

神社に行くと常に境内を掃き掃除をしているのは、その為だ。

そういう点では、最初、宗教は役に立たない、と書いたが、間接的には、コロナ予防に大きく貢献している、と言える。

https://www.cinra.net/article/job-17-kotoba-2-horimoto 【第2回:俳句は17音で宇宙を詠める】より

プロフィール  堀本裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。「いるか句会」「たんぽぽ句会」を主宰。第36回俳人協会新人賞、第2回北斗賞など受賞。著書に『十七音の海 俳句という詩にめぐり逢う』、『富士百句で俳句入門』、句集『熊野曼陀羅』、小説『いるか句会へようこそ!恋の句を捧げる杏の物語』、ピース又吉直樹さんとの共著『芸人と俳人』など。又吉さんとのメールマガジン『夜の秘密結社』も好評配信中。創作の傍ら、俳句の豊かさや楽しさを広く伝える活動を行う。

国語の授業や受験とは関係なく、俳句に触れたことってありますか?

決して古いものだけではなく、今も新しい句が次々と生み出されています。17音という制限があるからこそ、作者の一言一言に対するこだわりが読者の想像をかき立てる俳句。コピーライターや編集者が発想の参考にすることもあるのだとか。この連載は、又吉直樹氏と共に『芸人と俳人』を著した堀本裕樹氏が、自らの手で俳人という仕事を切り拓いてきた道を辿ります!

「君みたいな人が芸術家になる」

敬愛する作家の中上健次と白熱の対談をした、宗教哲学者の鎌田東二先生にお会いしたかった。そんな動機で入ったのが「國大俳句」という俳句サークルでした。ちょうど鎌田先生が俳句サークルの師範をされると聞いたので、入ってすぐに会えるかもしれないと思ったんです。鎌田先生から中上健次の息吹を感じたいというのと、散文の力をつけるために俳句の勉強をしようと意気込んで入部したものの、結局は酒ばっかり飲まされて(笑)。あまり句会はしなかったですね。鎌田先生のお知り合いの画家・横尾龍彦さんのアトリエで俳句の合宿を開いたりもしました。なにをするのかなと思ったら、やっぱりみんなで料理を作って酒を飲む(笑)。朝からビールを飲んで、アトリエの近くにある秩父の神社にお参りしたりもしました。鎌田先生は宗教哲学者だから、法螺貝とか石笛を吹き鳴らしていましたね。僕も石笛を持っていたので、一緒に鳴らしたりしました。

そんな風に、飲み会ばかりのサークルではありましたが、それでもやはり、いつかまっとうな小説を書きたいとか、文章を書いて食べられるようになれれば、といつも心のどこかで思っていましたね。今でこそ、そういう文筆の仕事をしているけれど、そのときは本当に夢だったんです。遠くにあって届かないものでした。ただ、いつかは、「ことば」で食べていきたいっていう気持ちはすごく強く胸のなかにありました。

鎌田先生になんとなく相談しても、「堀本くんはこれからどうなるかな」という感じで、確信的に「なれるよ」とか「努力したらうまくいくよ」というようなことは言われなかったですね。それは、鎌田先生なりの思いやりだったと思います。ところが、その合宿にいた横尾龍彦さんは、なぜか僕の横顔をじっと見つめながら、「君みたいな人が芸術家になるんだよ」とおっしゃったんです。ちょっとびっくりしましたね。「君の顔は片側から見ると老成しているけど、もう一方は純粋な少年みたいな顔をしている。ヨーロッパにはたまにそんな顔つきの青年はいますが珍しいです」と。画家の鋭い目というのは怖いなと思ったのを覚えています。そのときの真意はわからないけれど、ずっと心に残る言葉で不思議に励まされましたね。

鎌田先生から俳句について教わったのは、「俳句は宇宙を詠める」ということ。俳句って17音で、世界一短い詩だけれども、なんでも詠める。たとえば、夏の季語である「蟻」なんていう本当に小さな生き物も詠めるし、夏の積乱雲である「雲の峰」なんていう大きなものも詠める。月や星や風や海や宇宙が詠める。俳句は「なんでも表現できる」と、その一言で教えていただきました。

小説家を目指すも、原稿用紙10枚の作品が精一杯だった学生時代

俳句サークルに入ってもなお、小説家になりたいという夢は変わらずに抱いていました。文芸部にも入部していましたが、誰かがきちんと小説の書き方を教えてくれるわけではない。だから、自分なりに文章修行をしたわけです。その修行の一つに、これはと思った小説家の作品を書き写すというものがありました。芥川龍之介や梶井基次郎、宮本輝さんの小説を書き写すことで、文章修行をしていたんです。

書き写しながら、作家の息づかい、文体、読点や句点の打ち方などを感じることができた気がします。書き写すということは、その作家の文章に寄り添って同化していくこと。書き写すという肉体的な行為は、文章を目で追うだけの行為とはちょっと違う。書き写すことで、その作家の文章が自分の指先から肉体化されて伝わってくるんですね。「学ぶことは真似ること」と言いますけど、好きな作家を真似ることが文章の上達につながるのかなと思います。でもそれはきっと、即効性のあるものではない。ようやく今になっていろいろな文章を書きながら、ひょっとしてあの頃に書き写した訓練が、じんわりと知らぬうちに活きているのかなと感じるくらい、ゆっくりと血肉になっていったように思います。

学生時代はとにかく、そんな文章修行に没頭していたので、大学の授業はほとんど受けていませんでした。学食でお昼ご飯を友だちにおごってノートを借りて、それで試験を受けるような、ぐうたらな学生でしたから(笑)。大学時代は、読書をしたり小説を書いたりする時間が多かったですね。

当時は、マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』で行われていた「掌編小説コンクール」に何回か応募していました。でも、結局佳作止まりで何回か名前だけが載るくらい。このコンクールを選んだ理由は「原稿用紙10枚」という短さでした。当時、長いものはまだまだ力不足で書けなかったけど、短い小説だったらなんとか書ける。落選はするんだけど、そこに出すまでに自分なりに一生懸命推敲して、作品として整えるわけですから。その過程が、文章を鍛える一つの契機になりました。

大学卒業後はフリーター。遺跡の発掘のバイトで元探偵と出会う

就職活動中は、出版社に入って編集者になるか、広告代理店に行ってコピーライターになりたいと思ってました。当時、就職活動はハガキを書いて企業に資料請求をしたりしていました。僕はのんびり構えていたけれど、それでもハガキ50枚か60枚くらいは書きましたね。ちょうど就職氷河期と言われた時代だったけれど、一社だけ広告代理店から電話がかかってきました。営業を2〜3年やってから、その後コピーライターにならないかと言われました。ちょっと考えさせてくださいと答えたものの、営業をやるつもりはなかったので、結局それっきりになってしまいました。どうしても小説家になりたいという気持ちがあって、最終的には卒業後は就職せずに、1年間フリーターをしました。

まず見つけたアルバイトは古本屋さん。小説を書きながら、本に囲まれて仕事をするのはいいかなと思ったんです。でも、実際の仕事といえばアダルトビデオのパッケージングをしたり、古本を磨いたり、棚を整理したり。力仕事も少なくない。思ったよりなかなかキツい仕事でした。

次に就いたアルバイトは遺跡の発掘。みんなに「そんなバイトどこで見つけたの?」ってよく聞かれますが、雑誌に普通に載っていたんです。倍率も全然高くなくて、即採用。現場に行ってみると、いわゆる刷毛を使って静かに発掘する感じではなくて、私有地の畑をスコップでガンガン掘る、試掘調査という力仕事でした。

ザクザク掘った土の中には、縄文土器が混じっているし、馬の骨や黒曜石、昭和初期の瀬戸物が出てきたり。もう完全に土木作業でした。毎日掘り続けるので、腕や足腰の筋肉がパンパンになりました。すごく思い出に残っていますが、短期のアルバイトだったので実質3か月くらい。でも、そこにいろんな人たちが来ていたんです。高校の英語教師の仕事を辞めた人。新宿の歌舞伎町で客引きをしていた人。アルバイトしながら日本中を回っている人。

一番記憶に残っているのは、探偵の仕事を10年していたけど、遺跡を発掘するのが夢だったという人。「探偵はなんで辞めたんですか?」って訊いてみたら、「もう人のあとをつけるのに疲れた」って言っていました。22歳だった僕は、探偵をやっていた人に初めて会いましたが、世の中にはいろんな仕事があるんだなって思いましたね。彼は夢だった遺跡発掘に携わることができて、すごく感慨深いんだって言っていました。でも、彼には奥さんも子どももいたから、今は実家で食べさせてもらっていると。探偵を辞めて、夢だった遺跡発掘のバイトをしている。でも、奥さんと子どもを抱えて金銭的には苦しい。話を聞いていて、ちょっと切なくなりましたね。

僕は大学を卒業して、22歳くらいの頃です。まだまだ人生の荒波に揉まれていないわけです。それでもできるだけ、いろんな人に会って、考え方とか人生を聞いてみることで、自分の懐が深くなるんじゃないかと考えるようになりました。1人の人間が一生の間に出会う人の数って知れていると思うんですが、とにかくいろんな人に出会うことが大事だと思うんです。

バイトは、どこかしら鬱屈した気持ちでやっていました。でも、筋肉痛になりながらも楽しかったですね。ここでの「出会い」は僕のプラスになりました。雨の日なんかは、プレハブ小屋に入って、トランプとかをして、みんなと話しながら時間を潰す。そういうときに、「僕は小説家になりたい」と言うと、「じゃあ堀本くん、いつか本当になってよ。本買って読むからさ」って。みんな励ましてくれましたね。みんな社会からドロップアウトしたような人たちだったけれど、すごく優しかった。それぞれ夢を持っていた。短期のバイトが終わって解散するときに、あえてそれぞれの連絡先を聞かずに別れようってことになりました。「お互い頑張ろう」と言い合って、笑顔で別れました。今、あのときの仲間がどこかで、僕の書いたものを見てくれていたら嬉しいなぁなんて思います。

結局でも、遺跡の発掘のバイトをやっていると、疲れてしまって小説なんて書けないんですね。土にまみれて、ドロドロになって、満員電車に揺られて家に帰ってくるわけですから。実はフリーターをしていたとき、小説は書けなくてもちょこちょこ俳句は作っていたんです。それでも、就職もしない、小説も書けていない僕は、一体なにやってんだろうな、というやりきれない気持ちで過ごしていました。

行く末の見えなかった苦悩時代が救われた瞬間

2014年に『富士百句で俳句入門』という僕が書いた俳句鑑賞の本のなかで、当時のことについて触れた箇所があります。その頃は朝から国立市まで行って遺跡の発掘をしていました。季節は冬だったので、霜柱が立った土をスコップで掘り続ける。たまに体を伸ばさないと痛くなる。「あー、腰が痛いなあ」って体を起こしたときに、スクッとそびえる凛々しい富士山が遠くに見えたんです。『富士百句で俳句入門』を執筆しているときに、原田紫野さんの「暁の富士や寸余の霜柱」という句に出会って、その当時の気持ちとともに、スコップに鳴る霜柱や背中を伸ばして仰いだ富士山の情景を思い出しました。そして、その当時の遺跡発掘のバイトのことを、原田さんの富士の句にからめて、その本のなかで書きました。

2年ほど前だっかかな。BS日テレで放送されている『久米書店 ~ヨクわかる!話題の一冊~』という久米宏さんと壇蜜さんの番組にゲストに呼ばれました。番組で、『富士百句で俳句入門』を紹介してくれました。そのときに、久米さんがちょうど、原田さんの富士の句について書いた部分を朗読してくれました。遺跡発掘のバイトのことを書いたくだりですね。あのバイトをしていた頃からすでに約20年近く経っていたこともあって、久米さんが朗読してくれたときには懐かしくて、すごく感慨深かったですね。

あの頃は、なんにも行く末が見えないまま土を掘っていたんだけど、のちのちその遺跡発掘のバイトのことを書いた文章がテレビで、久米宏さんに朗読される。久米さんと壇蜜さんのお二人に挟まれながら、自分の書いた本を紹介してもらい、テレビに出るなんて、遺跡発掘のバイトをしていた当時から考えてみれば、ほんとうに夢にも思っていないことでした。そういうことってあるんだな、ずっと続けてきてほんとによかったなと、久米さんの朗読の声を聞きながら、しみじみ思いましたね。後から振り返ってみると、不思議に全部繋がってるってことなんですよね。無駄なことなんて、一つもないのかもしれない。

学生時代、苦悩した時期があってそのときに癒してくれたのが、八木重吉の詩集でした。言葉が優しくて、柔らかくて、でも深いんです。それがすごく胸にしみました。

社会を知らなければ小説は書けない。営業マンとして頭を下げ続けた20代前半

その後は、いろいろ悩んだ末に就職するんです。やっぱり社会をある程度知らないと小説って書けないのかもしれないと思いました。それで、小さな出版社に、営業として就職しました。

大学生の就職活動の頃とは少し考え方が変わり、営業という仕事を通して、本がどういう仕組みで流通し書店に置かれるのかを知っておいたほうがいいと思うようになったんです。その出版社は、ペットの実用書を中心に売っていたんですが、そこで初めて社会人としての「いろは」を先輩に教えてもらいました。

取次の窓口に行ったり、自分の足で書店をまわって、実用書の担当者に自社の本を売り込み、注文を取ることで、どういう流れで本が流通していくのかを汗をかいて営業しながら学んだ。営業マンとして、ひたすら人に頭を下げた時代でもあります。仕事で大変だったのは、本を売っていくという厳しさですね。ベストセラーはそうそう簡単には出ない。でも、営業としてできることはやる。たとえば、平積みで置いてくださいと書店に頼んでも、売れなければ当然すぐに返ってくる。本を売ることの厳しさを知りました。書店の担当者はいい人もいるし、全然話を聞いてくれない人もいましたね。営業の仕事を通しても、いろんな人に出会ったなと思います。1冊1冊の本が生半可なことで簡単にここに並んでるんじゃないということを、20代で知れたのは、経験としてものすごく大きかったと思います。

でも結局、就職しても忙しさはやっぱり同じでしたから、小説は書けませんでした。多忙ばかりが理由ではなくて、まだその時期に来ていなかったのでしょうね。そんななかで、俳句はコツコツと作り続けていました。短くて作りやすかったのも続けられた理由だと思います。新人賞に送ったりはしていましたが、落選でしたね。何度か落選を繰り返しました。それでもひたすら作句していました。やっぱりひたすら続けるってことが、すごく大事なことなんだと思いますね。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000