からだを通して自分の内面に触れる

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2968478/  【フェルトセンス】

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8026330/  【内臓感覚・フェルトセンス】


https://ohanasi-enpitu.com/therapy-body-focusing/ 【からだを通して自分の内面に触れる:フェルトセンス】より

あなたは、自分のことを、本当によく知っていますか。

自分が何を感じ、何が好きで、何を嫌い、何に傷つき、何を願っているのか・・・

ほんとうに深いレベルで、自分自身とつながっていますか。

YES!と、迷いなく言える人は、なかなかいないんじゃないでしょうか。

「自分を知る」ってどういうこと?自分って、なんだろう。自分を知るって、どういうことなんだろう。私は、自分と深くつながることができる方法を知りたいと思い、「自己意識」「自我体験」「本来感」などと言われるものについて学び、考えているところです。

このブログでも、学んだことや考えていることを共有したいと思います。

そこで今回は、アメリカの臨床心理学者、ジェンドリンが提唱した「フェルトセンス」について、特にその「身体性」についてのお話です。

フォーカシングという方法

ジェンドリンは、来談者中心主義のカウンリングを打ち立てたロジャーズの下で学び、

成功するカウンセリングとそうでないカウンセリングの違いを研究して、「フォーカシング」という方法を提唱しました。

うまくいくカウンセリングにおいては、クライアントが深いレベルで自己に触れ、自ら変革し、実生活にそれが生かされて、豊かな人生を歩み始めていくことになりますが、

うまくいっていないカウンセリングでは、話が表面的な困りごと相談にとどまり、内面の変化につながりません。

フォーカシングでは、自分の内面に注意を向け、言葉でははっきり説明できない何かに、からだの感覚を通じて触れていきます。

この、からだの内部での特別な気づきを、「フェルトセンス」と呼びます。

からだで感じる「フェルトセンス」

フェルトセンスは、頭で考えるのとは違う、内部感覚です。これを、彼は、ある人物を思い浮かべたときの感覚を例に挙げて説明しています。

たとえば、友人Sさんを思い浮かべたときに、彼女の特徴を挙げ、説明することはできます。

例えば、身長155センチ、ほっそりしていて、髪はセミロング、白い服が似合っていて・・・とか、活発で海外旅行が好き、人見知りせず、たいていの人とすぐに打ち解けることができて・・・とか。

でも、言葉を連ねて説明するよりも前に、Sさんについて、からだの中に何らかの感じが、浮かび上がってきます。

Sさんを思い浮かべたとき、私の中には、新鮮な空気がさあっと入ってきたような感覚があります。例えるなら、広々した草原のイメージです。

この感じは、さらに別の人物、Fさんを思い浮かべ、その違いを感じてみると、より鮮明になります。

私は、Fさんを思い浮かべると、なんだか肩がきゅっと上がり、身構える感じが身体に起こります。何か落ち着かない、注意を集中して対峙しなくてはいけないというような・・・。

ジェンドリンは、この感覚について次のように説明しています。

ジョンの姿、話し方、あなたとジョンとの最初の出会い、あなたが彼にしてもらいたいこと、彼が昨日いったこと、あなたが言い返したこと等々・・・です。その情報量はおどろくほど大量でありますーーーだがジョンのことを思い浮かべると、何となく、意味のある事実や感情のすべてがただちにみなさんの中に出てきます。

こういう無数の情報はみんなどこに貯えられているのでしょうか?みなさんの頭にではなくからだのなかに貯えられているのです。

「フォーカシング」61ページ:福村出版刊(ジェンドリン1982)

からだの感覚として存在する、フェルトセンス。

その、何となく浮かび上がってくるフェルトセンスに注目することで、心の深いところで自分が本当に感じていることにアクセスしやすくなる、フォーカシングという方法。

ジェンドリンは、だれでもフォーカシングが可能になるような「6ステップ」の方法を提案していますが、それはまたおいおい紹介していきますね。

今回は、フェルトセンスの特徴のうち「身体性」についてでした。

フェルトセンスやフォーカシングについては、以下の記事もよかったらどうぞ。


https://ohanasi-enpitu.com/therapy-feeling-recovery/ 【「実感」に触れるだけで、心は快方へ向かいだす】より

あなたは、何か不愉快なことがあったとき、自分の心の内側に向き合うことができていますか。

自分がどんな気持ちなのか、どんなことを感じているのか、本当に気づくことができていますか。

「本当に気づく」って、実は意外と難しいことなんですよね。

でも、「本当に感じていること」=「実感」に触れることこそが、心の健康の鍵 なんです。

今回は、この「実感」に迫る心理療法、「フォーカシング」をご紹介します。

「実感」を詳しく探ってみる

実感。

なにか、気がかりな出来事があったときって、からだに何かの感覚が起こることはないですか?

心臓がドキドキするとか、汗をかくとか、生理的な変化が起こる場合もありますが、

もっと何か、重いとか、硬いとか、冷たいとか、そういった感覚がからだに起こることってないでしょうか。

精神的なものなんだけど、身体の感覚として知覚できるもの。心と身体の境界にあるような、内面の体験。こんな感覚を、著名な心理療法家ジェンドリンは、「フェルト・センス」と名付けました。

フェルト・センス

例えば、

最近、私は、初対面の人20人くらいの場で、自己紹介をする機会があったんですよ。

司会者から、自己紹介の中で「プチ自慢」をするようにという指示があって、私は、何言おうかな~と考えた末に、自分のお産のときのエピソードを紹介したんですよね。たぶん珍しい経験なんだろうなというネタがあったので、インパクト強めで覚えてもらいやすいかなと思ったんです。(そのネタの中身は、今回の本題ではないので別の機会に…)

でも、会が終わってから、その話をしたことを、後悔しました。

もっと親しくなってからならともかく、初対面で、いきなりあの話はドン引きだよな~・・・・という気がしてきちゃったんです。

しばらく落ち込んで、ため息をついていました。

このとき感じたことを、言葉で表現するなら、「いやな気持ち」「後悔」「落ち込み」といったところでしょうか。

でも、本当は、一言で言い表せるようなものじゃなくて、実際はもっと複雑なものなんですよね。もうすこしくわしく感じてみます。

身体の感覚でふりかえってみると、みぞおち付近に、違和感がありました。

そこだけキュウっと凹んで、ねじるような、えぐるような力が、腸に向かっていくような感じがありました。

それと、「やっちゃった、やっちゃった」っていうエコーが、リピートしていました。

絵に描いてみると、こんな感じ。

フェルト・センスのイメージ画

ねじねじと回転しながら穴を掘って、潜っていこうとしている姿です。

しょぼんとうなだれた表情も出てきて、「ああ、そっか、恥ずかしくて、穴を掘って隠れようとしているんだ」と気づきました。名付けて「恥ずかしいちゃん」です。

フェルト・センスに「優しくする」

さて、この「フェルト・センス」を、「どんな感じがするかなあ」とじっくり探ってみて、

さあ、それをどうするか。

その「フェルト・センス」に「優しく接する」ということを、してあげてください。

フェルト・センスは、今まで目を向けてもらえなかった子どもみたいなものです。

嫌な気持ちって、あんまり味わいたくないから、「あー、もう考えないでおこう!」って、脇に追いやりがちじゃないですか。

棚上げしたり、奥に押し込んだり、「なかったこと」にしたり・・・。

自分の「実感」を探ることで、ようやく気付いてもらえた「何か」。

その「フェルト・センス」の傍に来て、隣に一緒にいることをイメージしてみてください。

「気づいてくれた」「傍に来てくれた」それだけで、心の中にあった気がかりは、解放へと向かい始めるんです。

私の今回のことでは、心に浮かんできた「恥ずかしいちゃん」のイメージの横に来て、「あー、やっちゃったよね~」って、なでなですることを想像の中でやってみました。

そしたら、だんだん「まっ、いっか!」と、心が少し軽くなりました。フェルトセンスに「優しくする」

フォーカシングのステップ

なお、ジェンドリンが提唱した心理療法「フォーカシング」では、次のようなステップを説明しています。

フェルト・センスの形成  ➡ フェルト・センスに「見出し」をつける(「ねじれ」など) 

➡ 「見出し」がぴったりかどうか、響かせる

  (「へこむ」の方がいいかな。いや、「恥ずかしい」かな。・・・など) 

➡ 問いかける(この「恥ずかしい」が、何か教えてくれるとしたら、なんだろう?・・・など) 

➡ 受容(「ああ、そうか」と心に浮かんできたことを、受け入れる)

全ステップについて説明しようとしたら、かなりの長文になってしまうので、今回は、「フェルト・センスの形成」の部分だけに絞ってお伝えしました。

「ちょこっとフォーカシング」ってところでしょうか。

でも、それだけでも、気分を回復させるのにずいぶん助けになるので、いやな気分になったときには、ぜひやってみてください。


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2021/shikaku02.html 【自分の内面を見つめること

/自分の外側の世界を見直すこと】より

なべとびすこ

3月まで放送されていた「俺の家の話」というドラマが名作だった。ドラマの話だけでこの原稿を終えてしまいたいくらい面白かったのだが、ストーリーに触れずに短歌と俳句の話をしようと思う。

元プロレスラーで能楽師の主人公のこんな台詞があった。

「みなさんが能だと思ってるの、だいたい狂言だから」

主人公の息子の先生が能をよく知らず、「そろりそろり」など、テレビなどで部分的にフューチャーされる「狂言」の知識で会話をしたときの台詞だ。私は短歌をやっているが、同じような気持ちになったことは多々ある。

私が「短歌をやってます」と言ったときの返答はこんな感じだ。

「ここで一句!」「プレバト見てます!」「季語を使うんですよね?」「5・7・5のやつね!」「お~いお茶の裏に書いてるやつ」

わからないなりに話を合わせようとしてくれているのだろう。しかし、間違ったまま受け入れるわけにもいかず、そう言われるたびに「それは俳句で、私がやってる短歌は5・7・5・7・7で季語も要らないんですよ~」と伝えている。今後はドラマのように「みなさんが短歌だと思ってるの、だいたい俳句だから」と言っても良いのかもしれない。

そして「俳句と短歌はどう違うんですか?」と言われることもある。そのときは上記のように5・7・5と5・7・5・7・7でリズムが違うこと、季語のあるなしなどを話した。

しかし、「どうして俳句じゃなくて短歌を選んだんですか?」と聞かれると困ってしまった。私は別に、目の前に「短歌」と「俳句」があって、その2つから短歌を選んだわけではない。

好きな雑誌の連載にたまたま短歌の投稿欄があって、その選者である歌人が書いていたエッセイが好きになって、そのうえ好きなミュージシャンがグッズとして歌集を出していた。そんな偶然の積み重ねで短歌を選んだだけだ。たまたま私の通り道にあったのが短歌だった。そして、奇跡的に短歌は私に合っていたのだと思う。

しかし、あまりにも俳句についての説明を求められるため、俳句に挑戦したことがある。俳人2人、歌人2人の計4人で天王寺動物園で吟行をした。

※この様子は私が運営している「TANKANESS」という短歌のwebメディア「歌人&俳人コラボ吟行~天王寺動物園 歌会&句会」としてレポートを書いた。

動物園をみんなで見て周ってから、短歌2首と俳句3句を作り、最後に歌会&句会を行い合評するというものだ。歌人も俳句を作り、俳人も短歌を作る。この日、初めて俳句をつくった。

この日はとても楽しく、同じメンバーで短歌&俳句吟行は何度か続いた。新型コロナウイルスが流行して以降は開催していないが、またやりたいと思っている。楽しかったのも事実だが、俳句を作るのは本当に難しかった。

単純に短歌の31文字に比べて、俳句の17文字はとても短く感じた。短いなかで季語を入れなければならない。

また、2つのものを組み合わせる「取り合わせ」は、短歌でも必要な技術だが、短いなかに2つのものをうまく組み込んだうえで「景」を見せなければいけない。

だからこそ、俳句は「切れ」が大切だと教えてもらった。1つのものを見せて、「切れ」を入れて、もうひとつの世界を見せる。短歌以上に俳句のほうが「演出」の要素が大きいような気がした。

俳句は短歌に比べて、自分の内面を書く余白が少ない(余白が少ないからこそ、何年か後に見直しても恥ずかしくない、という意見も聞いて納得もした)。

私は昔からずっと、自分の内面と向き合ってきた。短歌を始める前から、大学で心理学を学んだりカウンセリングや催眠療法に行ったり、内面的なことを友達と話したりしてきた。

そのため、短歌にも内省的な要素を強く詠んできたと思う。自分の醜い内面を言語化して短歌として消化するのが、私の短歌との向き合い方だった。だから、吟行のように外の世界を見て短歌を詠んでも、それに触発された内面が色濃く出てしまう。

しかし、少し体験した結果、俳句はもっと外向きのものだと感じた。歳時記から季語を選ぶのもその1つだ。普段自分が使わない言葉でも、歳時記のなかにある言葉を選んで良い。

俳句を作るのが難しいと感じたのは、私が今まで外の世界を雑に見てきたからだと思う。そしてその自分の雑な視線を思い知らされるからだ。

吟行のなかで、動物や花や食材、天気など、さまざまなものが季語だと教えてもらった。私はそういった自分の外にあるものを、人生の中で軽んじてきたのかもしれない。

吟行に行けなくなり、そのあとは俳句を詠んでいない。昨年の夏、カメラを買った。桜や紫陽花、紅葉、いちょう並木、イルミネーション、雪など、わかりやすいものだけでも、季節ごとにいろんな被写体がある。

これまで、私にとっての四季は、春は花粉症と自律神経の乱れ、夏は夏バテと熱中症と夏の花粉症、秋は秋の花粉症、冬は乾燥など、自分の体調に悪影響を与えるものだった。季節を憎んでいた私が季語を見つけて俳句を詠むのを難しいと感じたのも必然だ。

しかし、カメラを買ってから、被写体をどういう角度で、何と取り合わせて、どんな色で、どんな明るさで撮影するのか。外の世界をどう切り取って演出するのか、という点で、写真と俳句は似ている気がする。カメラを買う前も、俳句と写真の類似性について聞いたことはあったが、もっと体感として理解できた気がする。

そして、カメラを買って一年経った今の自分なら、前よりは俳句も詠めるような気がする。

そんなことを言いながらも、たぶんこれからも、私が好きなのは短歌だ。日常的に詠むのも、読むのも短歌が中心のままだろう。 しかし、写真や俳句を通じて、外の世界をちゃんと見ることは、自分の内面ばかり見てきた私の人生にとって、とても大切なことなのだと思う。写真を撮って俳句を詠むことは、きっと私の短歌にも良い影響を与えてくれるだろう。

俳句をやっている人も、機会があれば短歌をやってみてほしい。苦手だとか、難しいと感じたなら、それはなぜなのか考えることで、俳句に活きる何かがあれば嬉しい。


http://circus-magazine.net/posts/1367 【俳句をよむからだ 第1句 身体で感じる俳句 その1】より

今回から、「身体で感じる俳句」というテーマで、あなたを俳句の世界にご招待いたします。

といっても、別に怪しげな勧誘をしようというわけではありませんので、ご安心ください。それに招待する、などというと、なんだか偉そうですが、じつは私自身も俳句初心者なのです。

私は、自分自身が俳句の世界に入ろうとしたとき、正直どうしたらよいのか、よくわかりませんでした。

どのように読んだらよいのか、読んで何をどう感じたらよいのか。句作云々の前に、俳句というものをどう扱ったらよいのかが分かりませんでした。

その時、もしかしたら、同じように俳句に興味はあってもその入り口で難渋している人は、ほかにもいるのかもしれないと思ったのです。

その後、正岡子規の随筆を読んで、わたしは心のつかえが解かれるような思いがしました。じつに、一句一句の情景がありありと目の前に浮かんでくるのです。句を詠むときの背景や心の動きなどが丁寧に説明されるためにその句の奥行が明らかになるのでしょう。

このように考えると、俳句はただ5・7・5の17文字を読んで終わるものではなく、むしろその17文字はどちらかといえば暗号のようなものなのだと気づきました。

あとになって知ったことですが、俳句は連想の文学なのだそうです。この連想があればこそ、俳句は生きてくるのだといいます。

ここでは、俳句のことはよく知らないけど、少し興味はあるというような、いわば俳句の門前で躊躇をしているような人向けにお話しできればと考えています。

幾つかの俳句を引き合いに、どんな連想ができるのか、身体感覚つまり五感にどう作用するのか、といったことを考えることにします。わずか17文字の俳句が、連想によってどんな世界にまで深化しうるのか、考えてみたいと思います。

行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く (子規)

試みにウォーミングアップとして、子規のこの俳句を選んでみました。ごくシンプルな内容になっています。

季語は「行く秋」すなわち晩秋です。行く秋や、と切っているので、秋が行ってしまうなぁとまずひと区切りをしています。

この「や」は「けり」「かな」と同じように俳句の中を分断する≪切れ字≫としての効果を持っています。なぜ17文字しかない俳句をさらに細切れにするのか、不思議な気もします。

これは切ることにより生じる余韻を生かすためだと言われています。俳句の中を切るときには「や」が、俳句の終いを切るときには「けり」「かな」が多用されます。

「行く秋や」の後を「奈良の小寺の鐘を突く」とつづけています。

さあ、ここからが本題です。想像力をたくましくして、この句の世界を深く見てみましょう。

奈良というと興福寺、東大寺など大きな寺院のイメージが強いですね。そこをあえて小寺の鐘と詠んでいます。

地元の人間ならともかく、観光で奈良に行った者がわざわざ小寺に行くことはちょっと想像できませんので、おそらくはたまたま、偶然に通りかかったということでしょう。

そこで思いがけず鐘の音を聞いた、という俳句です。「鐘を突く」と結んでいるので、実際に鐘を突く場面を目の当たりにしたのではないかと思います。

晩秋ですから、秋の乾いた空気が天高くまで満ちていて、よく晴れた日の午後だったと思います。陽は少し西に傾いてきていて、なにか用事を済ませた帰り道だったのかもしれません。

あなたは、なぜそんなことが分かるのか、と思うかもしれませんが、なんとなくそんな風に思うだけです。つまりは、連想です。

一人の読み手である私の連想なので、別の読み手はもう少し違う連想をするかもしれませんし、何より詠み手(作者)の意思や真実はさらに別のところにあるかもしれません。

けれども、それでいいのです。

俳句以外の文学も同じことでしょう。作者の執筆にいたる動機などとはかかわりなく、書かれたものだけが読者の目にさらされ、読者はそれを読み、物語の世界に没入・感情移入をするわけです。俳句だからといって、ことさらに難しく考えることはありません。

こうした連想を通して考えると、この句は、一読するだけで大いに聴覚を刺激する句だと言えると思います。

「鐘を突く」とただ目の前の光景を写したにすぎませんが、この句からは小寺の寂寥とした鐘の音がありありと聞こえてくるからです。

最後に改めて、俳句を眺めてみるとします。できれば、ゆっくり、声に出して読んでみるとより一層俳句の呼吸や間合いといったものを感じることができると思います。

連想の目をもって読む俳句は、きっとはじめの印象とはかなり異なって見えるはずです。

行く秋や 奈良の小寺の 鐘を突く

鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)

冬の句で、季語は「炭」です。現在では薪や炭を使う生活は縁遠いものとなってしまいました。季語としては冬でも、現代では逆に夏のキャンプやバーベキューでお世話になることの方が多いかもしれません。

そういう意味では、季語の季節移動があってもいいような気はします。しかし、長年の積み重ねでなかなかそうはなっていません。

これが良いか悪いか、という議論をはじめてしまうのは、ここでは適切でないので措いておきます。

俳句に戻って観察をはじめてみましょう。

鋸で炭を切っている妹の手が黒かったという、うっかりすればそのまま散文のなかの一節でもおかしくないような、自然な言い方をしています。

こんなに自然なのに俳句になるのか、という見方もできるでしょう。

子規のつくるものは、短歌にしても俳句にしても、たまたま口をついて出てきた言葉が五七五や五七五七七の定型になっていた、というものも少なくありません。

子規の短歌や俳句に対する態度がよく分かる傾向ではないでしょうか。子規は文字通り、息をするように歌をつくり、句を作ったのです。

そうした句や歌は、一見、何でもない風に見えていながら、考えればとても奥深い詩情を含んでいたりするものです。

見た目だけに頼って、連想を軽んじたりすると、その深さに気づくことは難しくなってしまいます。

前置きが長くなりました。

季節は冬ですので、おそらく寒い日だったのでしょう。炭を切っているわけですから、当然戸外、庭にでもいるのでしょう。鋸を持つ妹の手は、だいぶ前から悴んでいたかもしれません。

さらに場合によると、雪が残っていたり、霜が降りていたり、吐く息は白く曇ったりしたかもしれません。

冬ざれ、などという言葉も併せて浮かんできます。野も山も冬空にどこか色あせて、眠ってしまったかのような印象です。

その中を妹が鋸を使って炭を切っている、という光景を見ていた詠み手(作者)は、その妹の手が真っ黒なことに気づきます。

色彩の乏しい冬の庭にあって、妹の真っ黒な手だけが鮮明です。手「の」黒き、ではなくて、手「ぞ」黒き、と言っていることからも、作者として強調しているのは紛れもなく「妹の手」です。

しかし、この句においても、黙示的に聴覚を刺激されます。それは冒頭に置かれている「鋸」の一語があるためです。

作者が見ている妹の一連の動作を思い浮かべれば、それは自ずと明らかになるはずです。

おそらく、はじめ作者は鋸を曳く音を聞いたのです。

(なんだろう、と思って目を向けると、妹が冬の庭にあって炭切りをしている。おやまあ、手もとを見ればなんだか真っ黒じゃないか。)作者はそんな風に思ったのではないでしょうか。いずれにしても、この鋸の音によってこの句を作る機を捕らえたはずです。

われわれ読者も、また、この鋸の一語によって、その音を容易に連想することができます。

では、最後にもう一度、句を眺めてみましょう。

鋸に 炭切る妹の 手ぞ黒き (子規)

赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)

この句を所収している『子規句集』(岩波文庫)によると、季語は「暖か」で季節は春です。

ところが句中は「あたゝか」とひらがな表記です。これは暖かと温かをかけあわせたものかと想像できます。というのも、区切りがいま一つ明瞭でなく、「赤飯の湯気」が温かいのか、「赤飯の湯気」で切れて暖かな野の小店と言っているのかがよくわからないためです。

いずれにしても大意に影響がありませんので、ひとまず全体を把握することに努めたいと思います。

野の小店というのは茶屋のようなものでしょうか。赤飯の湯気が蒸篭からもうもうと立っているわけですね。

野の小店はどこにあるのか、分かりませんがおそらく旅の途中で見つけたのだろうと推測されます。峠の茶屋のようなイメージでよいのではないでしょうか。偶然そこへ通りかかったものだから、少し休憩をすることにしたのでしょう。

店では蒸篭で赤飯を蒸しています。この蒸している場所について、店頭なのか、店の奥なのかという大きく二通りが考えられるわけですが、私は店頭だろうと思います。

なぜなら、店の奥で蒸している場合、それが赤飯である、ということが気づきにくいであろうこと。そして、店頭であればその湯気につられてふらふらと店に立ち寄る客が多いであろうこと。といった点が根拠です。

(春の旅路を行くと、茶屋が見えてきた。遠目にも湯気が見える。近づくと、それは赤飯の湯気なのであった。丁度小腹も空いてきたところだし、ひと休みすることにしよう。)

作者はおそらく、そんなことを考えたのではないでしょうか。

さて、それでは私から質問をします。

この句は、五感のどこを刺激するでしょうか。ここまで読み進めてくださったあなたなら、きっともうお判りでしょう。

そうです、嗅覚です。赤飯の蒸しあがる匂いが、句を読むだけで鼻腔に押し寄せてくるようです。空腹のときにこの句を読んだら、お腹の虫がなってしまうかもしれませんね。

では最後に、もう一度この句を眺めてみましょう。

赤飯の 湯気あたゝかに 野の小店 (子規)

絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)

第四句です。季語は「夏野」ですので、夏の句です。

この俳句は、これまでとり上げてきた句と変わらずシンプルな句なのですが、多少趣が異なり、連想の奥行が深い言わば複合問題です。

複合問題とはいえ、絡まったイヤホンのコードを解くように、段階を踏んで考えれば難しいことはありません。

主題はずばり「石」です。

どんな石なのか、という修飾が前後に施されています。

分解すると「絶えず人いこふ夏野の」石であって、その石は「一つ」だ、となるわけです。

前半は、人がひっきりなしにいこふ、つまり休息をするために訪れるという意味です。

後半は、夏野に一つの石がある、といった程度の意味ですが、前半との関係で石の大きさが連想できるようになります。

人がやってきて憩うわけですから、これはあるていど大きな石とみて間違いありません。石というよりは岩に近い可能性すらあるのではないでしょうか。

形はどうでしょう。テーブルのような石であれば腰かけるのも、荷物を置くのも容易です。或いは夏野に影をつくるような、ある程度高さのある石なのかもしれません。いずれにしても人が座って休めるような形と大きさは必要です。ですので、間違っても「石ころ」ではあり得ません。

さて、この句で感覚を刺激するのはどんなものでしょう。

一つには聴覚だと、私は考えます。人びとが代わるがわる石に憩う、その時に無言であることは考えられないからです。

ましてこの俳句の作られた明治という時代を考えるにつけても、なにかしらのあいさつを交わすはず、と思うからです。現代人であれば、各々自分のスマートフォンを見つつ立ち去るかもしれませんが。

さらには、嗅覚です。暑い季節で石に憩う人々は既に汗まみれのはずです。入れ替わり立ち代わりその石の周りに憩う人の汗の臭い、体臭がかならずそこにはあるはずです。

しかし、最大なのは触覚です。

夏野は、単なる原っぱではなく、広々とした草原というような趣があります。おそらく周囲に緑陰となる木陰などは少ないのでしょう。当然そこには夏の、容赦会釈ない日差しがさんさんと注がれているはずです。

石に憩うというからには、その石に腰かけて休むのだろうと思うのですが、真夏の太陽の日差しを吸い込んだ石は、うかつに触れれば手やお尻の皮膚を焼くほどに熱いに違いありません。夏の海辺の砂浜だとか、あるいは河原の砂利の上を素足であるくときをイメージすれば、それとかなり近いのではないかと思います。

はじめにこの句は複合問題だといいましたが、もともと使う視覚に加えて、連想により聴覚・嗅覚・触覚を刺激される句ということになり、実に人間の五感のうち、味覚を除くすべてを刺激されるということになります。

絶えず人 いこふ夏野の 石一つ (子規)

今回は、秋、冬、春、夏と四季の俳句をひとつずつ手にとって検討をしてきました。

連想ということによって、17文字の字面だけ追っていたのではつかみきれない部分にまで、俳句を読み込むことができるのだと、なんとなく感じていただけたのではないかと思います。

俳句もまた、ほかの文学同様に、詠み手の実感したことを表す文学的表現にほかなりません。たった17文字にその実感を閉じ込めるわけですから、それこそ一文字一文字にいのちが宿り、多くの場合、それが五感の複数を同時に刺激して読者の共感をもとめるというふうになります。

と、そんなふうに書くと、余計に小難しくなるかもしれませんね。要するに、俳句を読むときには、ほんのちょっと想像力をつかってその世界に没頭するとたのしくなりますよ、ということを申し上げて、この稿をおわることとします。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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