存在の神秘

Facebookバラ十字会日本本部AMORC投稿記事

若いニュートンもまた、「存在の神秘」という問題に突きあたったのではないでしょうか

https://www.amorc.jp/201606171717_1169/?fbclid=IwY2xjawET9zJleHRuA2FlbQIxMQABHWOeYkrWXan0g1zUIG1y6lyhwBUKAHJYC-JYndsvAf681PWfAtNb8KlUBA_aem_3VKMFOvyCPBUy2SPQeqdPg 【アイザック・ニュートンと錬金術と賢者の石|最後の魔術師と呼ばれた理由も解説】より」

アイザック・ニュートン(Isaac Newton)は、17世紀の中頃にイングランドで生まれた科学者です。数学(微積分学)と物理学(古典力学)の基礎を作った人で、「近代科学の祖」と呼ばれることがあります。

科学に対する功績があまりにも大きいことから、ニュートンのことを現代風の科学者だと思い浮かべる人は少なくありません。しかし彼の残した文書から見ると、必ずしもそうではないことが分かります。

存在の神秘と神殿の研究

少し以前(2016年)のことになりますが、ニュートンが残していたノートの中に、ジョージ・スターキーという錬金術師の文章の書き写しと、自分の行なった錬金術の実験のメモが発見されたというニュースが報じられました。その書き写しは、「賢者の石」の原料となる「哲学者の水銀」の作り方を暗号で示したものだったとのことです(脚注1)。

余談ですが、同じ年にX(ツイッター)上でこんなできごとがありました。「#ブロック覚悟でいう」というハッシュタグをきっかけに、科学雑誌『ニュートン』の公式アカウントが、ともすれば怪しい話題が多い学研の雑誌『ムー』に対して、「ムーの中の人は、どこまで信じて原稿を書いているんですか(・・?」という、なかなか挑戦的なツイートをしたのです。

これに対する、月刊ムーの切り返しは素晴しいものでした。「はい、ニュートンは錬金術師で、オカルティストだと信じております」。座布団一枚という感じで、思わず爆笑してしまいました。

幼少期と青年期

アイザック・ニュートンは、ケンブリッジの数十キロ北にあるウルスソープという町で、1642年のクリスマスに生まれました。もっとも、それは当時イギリスで使われていた旧い暦(ユリウス暦)での話で、すでにヨーロッパ大陸で採用されていた現代の暦(グレゴリオ暦)では、1643年の1月4日になります。

彼の幼年期は、あまり恵まれたものではなかったようです。農園を経営していた父は彼が産まれる3ヵ月前に亡くなっています。そして、実母はアイザックが3歳のときに再婚して彼から離れ、彼は祖母の手で育てられるようになります。

アイザックは体が小さく内向的な子供でした。農園を継がせようとしていた実母の反対があったにもかかわらず、親類が学問の才能に気づき、中等学校に入れます。いじめにも遭っていたようで、その一人に喧嘩で勝ったことがきっかけで自分に自信を持ち、首席でこの学校を卒業したと言われています。そして、18歳のときには名門のケンブリッジ大学に入学しました。

家はそれほど貧しくはなかったのですが、実母の反対のため仕送りは少なく、大学では半免費生という立場で、給仕や雑用をしながら勉強をします。大学生活の初めの頃のこの立場はニュートンにとって、かなり自尊心を傷つけられる状況だったようです。

そのため、自費で学費を払う学生たちとはあまり親しく付き合うことはなく、孤独な学生生活を送っていました。

この当時、主に大学で教えられていたのは、スコラ哲学という、キリスト教の教義を支えていたアリストテレスの哲学でした。ニュートンは、それよりも、新しい天文学や数学や、フランスの哲学者デカルトの著作に興味を持ち、熱心に学んでいました。また、先ほど話題になった錬金術や、旧約聖書、黙示録、神秘学の研究もしていました。

ニュートンの驚異の2年

ニュートンが大学に入学して5年後のことですが、イギリスでペストがはやります。大学は1665年の夏から2年間閉鎖され、ニュートンは生家のあるウルスソープに戻ります。そして、この休暇の間に、万有引力と二項定理を発見し、微分積分学の基礎を作りました。人類の物理学と数学に信じられないほどの発展をもたらしたこの期間は「ニュートンの驚異の2年」と呼ばれています。

ちなみにウルスソープのニュートンの生家には、今でもリンゴの木があるそうですが、リンゴの実が落ちるのを見て彼が万有引力を発見したというのは、本当かどうか分からないということです。しかし、生家の庭のリンゴの木を見ながら、彼が思索にふけったのは確かだそうです。

ニュートンは、26歳のときに指導教官のアイザック・バロ博士から、数学分野のルーカス教授職という地位を譲り受けます。この地位には、その後も人類史を代表する科学者が就任しています。「車椅子の天才科学者」として有名な理論物理学者のスティーブン・ホーキング(1942-2018)も1980年から2009年までこの職を務めていました。ちなみにホーキングの遺灰は、ロンドンのウェストミンスター寺院で、ニュートンとダーウィンのお墓の間に収められているそうです。

古代哲学から近代科学へ

ニュートンの業績の中で、最も有名なのは万有引力の発見でしょう。地上の物体に重力が働くことは古くから知られていましたが、アリストテレスの古代哲学では、地上の運動と天空の運動は異なる法則に支配されていると考えられていました。

一方、ニュートンが熱心に研究していた哲学者デカルトは、同じ運動の法則が全宇宙のすべてを支配していると考えていました。

そして、地上に働いている重力と同じ力が、太陽系の惑星にも働いていて、その力が距離の二乗に反比例すると仮定すると、ケプラーが自身の観測の結果から得た、惑星の運動に見られる法則が、正確に説明できるということを発見します。

リンゴの実も、月も惑星も、デカルトの言ったように同じ運動の法則に支配されていたわけです。デカルトの哲学には、バラ十字会が大きな影響を与えていますので、近代物理学の進歩にも、バラ十字会が一役を果たしていると考えることができます。

参考記事:『バラ十字会の歴史(その9)『哲学者たちとバラ十字』第一部(前半)』

ニュートンは、これらのことを『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)という本にまとめ、43歳のときに出版します。この本の題名は、デカルトの『哲学原理』を強く意識して付けられています。そして、「私が研究するのは、哲学の中でも自然についての哲学であり、それは数学という言葉を使って表わされる」という彼の考え方を表わしています。

ニュートン自身が所有していた『自然哲学の数学的諸原理』(第二版)、彼自身による修正が書き込まれている。ケンブリッジ・トリニティーカレッジ・レン図書館所蔵

ニュートン自身が所有していた『自然哲学の数学的諸原理』(第二版)、彼自身による修正が書き込まれている。ケンブリッジ・トリニティーカレッジ・レン図書館所蔵、Isaac Newton, CC0, via Wikimedia Commons

最後の魔術師

ニュートンは、日常でも研究活動でも、細かい文章やメモを残す習慣があったそうです。84歳のときに亡くなりますが、自然科学についての文書よりも、錬金術、旧約聖書、黙示録、神秘学に関する文書の方が、はるかに多く残されていました。

ニュートンには子供がいなかったので、彼の文書を相続したのは甥や姪の方々ですが、彼らはニュートンの名声に傷がつくことを恐れ、自然科学以外の文書を公表することを控えます(脚注2)。しかし、それらの文書が、さまざまな人の手によって明らかにされ、ニュートンの実像が明らかになっています。

たとえば1936年には経済学で有名なジョン・メイナード・ケインズが、競売にかけられたニュートンの手書きの原稿を大量に落札し、後にこの文書をもとに『人間ニュートン』という論文を書きました。この論文でケインズは「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師である」と述べています(脚注3)。

ニュートンと錬金術と賢者の石

ニュートンほど聡明な人が、なぜ、錬金術のような疑似科学に夢中になっていたのだろうかという疑問が出されることがあります。

しかし、錬金術とは何かを正しくとらえるならば、ニュートンの行なっていたことの一貫性が見えてきます。

一般に錬金術とは、鉛や錫や銅のような卑金属から純金を作り出そうとして失敗した、初期の化学だと考えられています。錬金術の研究が、化学の基礎になったという点には間違いはないのですが、錬金術師たちが目的としていたことが、大金持ちになろうとか純金を作ることだけと考えるならば、それは事実からかなり離れています。

中世では科学が、分野ごとに別々になってはいなかったということを考慮する必要があります。物理学のような自然科学も、文学などの人文科学も、より良く生きる方法を見つけようとする哲学も同じ人が同時に研究しており、物質を研究することも人の体を治療することも、自身の内面を進歩させることも、異なる別々のことだとはあまり意識されていなかったのです。

そのため、錬金術師たちが作ろうとしていた「賢者の石」は卑金属を純金に変えるばかりでなく、延命の作用を持つとされ、またその研究を進めることにより、人は賢者(哲学者)になれるとされていました。

別の言い方をすれば、錬金術とは変化の背後にある原理、つまり、この世の根本にある原理を知ろうとする努力でした。

ちなみにニュートンの遺髪からは、賢者の石の成分のひとつであるとされることのある水銀が検出されているそうです。

参考記事:『賢者の石とは?それは実在したか|錬金術とニコラス・フラメル』

中国貴州省の銅仁鉱山から出土した辰砂

賢者の石だとされることがある辰砂(硫化水銀の鉱物)

存在の神秘と神殿の研究

私たちは誰もが生きていて、幸せに感じられることやそうでないこと、満たされた思いや満たされない思いを経験します。そして限りある時間を意識したとき、自分の魂に導かれるようにいつか、いわゆる「存在の神秘」という問題に突きあたるのではないでしょうか。

それは、この世界には何か隠されたところがある。この世界についての常識的な見方には、どこか分からないけれど何か根本的に間違っている部分がある。そして、この秘密をほんの少しでも解き明かしたい。そうしなければ、生きていても仕方がないのではないかとさえ感じる思いです。

父を見たことがなく実母の愛を十分に感じる機会も得られなかったニュートンは、大学に入学した当時、孤独な学生時代を送ります。さらにペストの流行を身近に体験して、人の限りある運命を実感します。

このような状況にある鋭い感受性を持つ若者には当然のことに思えますが、若いニュートンもまた、「存在の神秘」という問題に突きあたったのではないでしょうか。

そして、この神秘を解き明かす鍵だとニュートンが考えたのは、当時の宗教や文化のことを考えれば当然、「神」と「神の性質」のことだったと思われます。

その証拠に、ニュートンは太古の神殿について深く研究しています。神それ自体は研究することができないけれども、太古の神殿には、古代人の英知によって神の性質が現れていると考えたのです。

参考記事:『アイザック・ニュートンと太古の神殿』

さらにニュートンにとって自然界は、神が作りだした最も素晴しい作品であり、神の性質が反映されているものでした。

ニュートンが自然科学を研究した動機は、ここにあると思われます。ですから、彼がそれと同時に、錬金術や聖書や古代哲学を研究したのは、ごく自然なことです。物理学者としてのニュートンと、錬金術師としてのニュートンは表裏一体です。

ニュートンは晩年に、次の言葉を残しています。

「私は、浜辺で遊んでいる少年のようなものだ。普段あまり見たことがないほど、すべすべとした小石や、きれいな貝殻を、折々に見つけて心を楽しませているが、その一方で目の前には、真理の大海が発見されることなく広がっている。」

いかがでしたでしょうか。今回の記事に、少しでもあなたの興味を引くところがあったとしたら、とても嬉しく思います。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/02/121_98.html 【不可視なる神秘】より

柴田健

シュワキマセリ水中のもの不可視なり 生駒大祐

讃美歌「もろびとこぞりて」の歌詞の中に「主は来ませり」と三回歌う部分があることは知っている人も多いだろう。私はキリスト教の高校出身であるが、クリスマス礼拝でこの部分を歌う際ネタにしていた生徒をちらほら見かけた。意味を知らずに聞くとそれだけインパクトが強く独特だということであろう。この句ではあえてカタカナで表記することによってその独特さを印象付けている。

この句でもう一つ注目すべきなのは「水」である。「シュハキマセリ」というフレーズ・表記のインパクトに目を奪われがちであるが、この句に意味を持たせる過程において「水」は重要な役割を果たしている。キリストが宣教活動を行う以前、洗礼者ヨハネはヨルダン川の水によって洗礼を授けていた。今でも多くの教会で洗礼式の際水を用いており、中には身体を水に沈めるところもあるという。それだけキリスト教にとって水は神秘的な存在なのだろう。そんな神秘的な「水」の中にあるもの(神秘性)を「不可視なり」と言い切ったことで、クリスマスの讃美歌が流れている中でもキリスト教の神の存在を感じることが出来ない、という詠者の思いを読み取ることが出来るのだ。それがわかれば「シュワキマセリ」とカタカナで表記した理由がより明確にわかってくるだろう。

だが、この俳句はもう一つ真逆の解釈をすることもできる。多くの日本人は「シュワキマセリ」の意味を知らないということをあえてカタカナで表記することで表現し、上五で切れを生じさせている。もちろん詠者は俳句にしている時点でその意味を知っているわけである。「水中のもの不可視なり」の部分は、水中には神秘的な何かがあるがそれは目には見えないものであると断言しているとも読み取ることが出来る。この中七下五の解釈を上五にあててみると、他の人は「シュワキマセリ」の意味は知らず、クリスマスソングが流れている中ですらも「水」の中にいる神秘性に気を留めることはなくただクリスマスをイベントとしてだけ楽しんでいるが、詠者は水の中にいる目で見ることは出来ず信仰によってのみ見ることが出来る神秘的なものに気を留めることが出来る、というキリストを知らないクリスマスに対する皮肉と神への信仰を表した俳句とも読み取ることが出来るのではないだろうか。

この句はキリスト教徒から見ても、それ以外から見てもそれぞれの立場で解釈することが出来る俳句なのである。

襟立てて深海魚として街へ 青柳 飛

街が深海であると表現されているということは、この街は夜ではないかと想定される。百万ドルの夜景というように夜の街は上から見下ろすと確かに美しいこともある。だが、物事は上から見下ろすだけが美しい見方ではない。その中にもぐってみて初めて発見される美しさもあるのだ。襟を立てて夜の街にもぐり行く当てもなく彷徨う、そこは確かに多くは深海のように暗く危ない世界かもしれない、だがそこで味わえる美しさは上から見下ろしていては味わえないものなのである。

春近し小山のやうに盛るパスタ 小関菜都子 

「小山のやうに盛るパスタ」という表現は単にパスタの状態を表しているだけでなく、「小山」という単語自体からも春が近いことをほのかに漂わせている。また、まだ冬である「春近し」という季語がパスタが温かいことを想起させ、涎なくして読めない句としているのではないだろうか。

マフラーを編み国境の橋を編む 中村安伸

国境に橋を編むことは単純に物理的に橋を架けるということだけではない。例えば二つの国が同じ目標に向かって歩みだすとき、あるいは災害や内戦などで困っている国に対し他の国が手を差し伸べるときなどだ。そういった橋を編むという行為には愛が伴う。対して、祖母が編んだマフラーは単純に温かいだけでなく、そこには祖母の愛による温かさがある。国境に橋を編む愛はまるで祖母の愛のように優しく温かいものなのではないだろうか。


https://www.haiku-hia.com/haiku_tsurezure/14.html 【haiku・つれづれ - 第14回

俳句~永遠へ向かう不在】より

小野裕三

英国の美術大学(Royal College of Art)にいた2020年に、大学で刊行するオンラインマガジンに掲載するため、俳句をテーマとした短いエッセイを書いた。もともとが英語で書いたもので日本語版はなかったが、今回、その英文と和訳を下記に並べてみた。和訳と言ってもgoogleの自動翻訳に少し自分で手を加えただけで、あまり自分で書いた文章のような気もしないのが面白い。

haikuもZenも欧米では知名度が高いが、過度に神秘化されているのではと感じていた。そんな折、ロンドンで鈴木大拙の手書き原稿に接する機会があり、それから大拙の俳句論も読んで、そのような神秘化も一理あるとも感じ始めた。

「僕は、俳句を作りながら、禅や無のことを考えたことは一度もありません」。そんなことを僕が言うと、西洋人たちは少し苦笑する。だがそれでも、俳句に微かな神秘性が宿るのも事実ではないのか。そんな両極で揺れる思いを、バランスよく外国人に伝えたいと思い、この文章を書いた。幸い僕の周囲のイギリス人たちには好評で、特に「俳句は完全な形で不完全でなくてはならない」といった言い回しは印象的だったようだ。

そもそも、英語で五・七・五音節の形をとると、日本語との音韻構造の違いにより、日本語の短歌くらいの情報量になりがちだ。芭蕉の俳句も、英訳されると補足的に情報を付加されてしまうことも多い。だから、日本の俳句が本当に「不在」に近いくらい情報量が少ない、ということは、あまり西洋人には理解されていないようにも思う。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000