https://mag.nhk-book.co.jp/article/29743 【絶望の果てに光がある——諸富祥彦さんが読む、フランクル『夜と霧』(1)【月曜日は名著ブックス】】より
はじめに──「生きる意味」を求めて
今、大きな悩みや苦しみを抱えている人がたくさんおられます。心理カウンセラーである私は日々そのような方に接していますが、その苦しみはますます切実さを増してきているように思われます。
うつ病の患者さんは今や百万人超といわれています。とりわけ深刻なのは、自殺者の増加です。国の調べによると、すでに十年以上前から年に三万人にも上っています。
一般に、自殺者の背後には未遂の方が十倍から二十倍いるといわれますので、じつに三十万人から六十万人の方々が、毎年死の淵に立っていることになります。
そこまでいかなくても、何かの拍子にふと「死にたい」という気持ちに襲われたことがある方は、その十倍、すなわち三百万人くらいいるのではないでしょうか。
この背景には、現代社会におけるさまざまな問題が横たわっていますが、自分の人生に「生きる意味」を感じながら生きていくことが難しい時代になってきていることは、間違いありません。
そんな状況ですから、今回、「生きる意味」を求めて悩み苦しむ人を援助し続けてきた精神科医ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を「100分de名著」で取り上げることになったのは、たいへん意味のあることだと思っています。
『夜と霧』は、第二次世界大戦の際、ナチスの強制収容所に収容されたフランクルが、みずから味わった過酷な経験をつづった本です。
みなさんもご存じのように、ナチスのユダヤ人迫害は非道をきわめました。ゆえに、この本も、目を覆いたくなるような陰惨なドキュメンタリーになってもおかしくありませんでした。しかし、そうはならず、むしろ、世界中の人々の感動を呼び、時代を超えて読み継がれる超ロングセラーになったのです。
なぜでしょうか? それは、この本が、そこで行われ続けた陰惨な事実にもかかわらず、それでもなお見出すことのできた人間精神の崇高さに着目して描かれたものであるからだと思います。
『夜と霧』の著者である精神科医というと、いつもうつむき加減にもの思いにふけっている深遠な思想家を思い浮かべる方が少なくないかもしれません。フランクルは、そうした深遠さを持ちながらも、情熱的で、行動的で、バイタリティにあふれた人でした。
過酷な経験をくぐりぬけたフランクルは、戦後、堰を切ったように精力的に著作の執筆や講演活動などを展開します。その活動は、まさに生命力にあふれたものでした。
フランクルの本は読むだけで勇気づけられるところがあります。多くの精神科医の書いた本は専門家向けのものですが、フランクルの本は、読者がみずから生きる意味を見出していくのを支える力を持っています。
以前、私はNHKの「ラジオ深夜便」という番組でフランクルの思想を紹介したことがあります。
その数日後、NHKに一枚の葉書が届きました。
「私は今、五十代半ばのホームレスです。仕事を失い、家族も失って、もう人生を投げ出してしまおうと思っていました。死のうと思っていたのです…… 。そんな時、たまたまつけたラジオで、先生の、フランクルのお話をうかがいました…… 。もう少し、生きてみようと思います。ありがとうございます…… 」
そんな内容でした。
フランクルの思想はそれにふれた人の魂を揺さぶる力を持っています。
かくいう私自身、十代半ばから二十代前半にかけて人生の悩みに煩わされ、悶々としていた時に、フランクルの本に救われたことがあります。
フランクルの思想は、人生に対する見方(立脚点)を一八〇度転回することを私たちに求めてきます。
たとえば、「人間が人生を問うに先立って、人生から人間は問われている」「幸福を求めると、幸福は逃げていく」「悩むことは人間特有の能力である」といったように、です。
フランクルを読むうちに、私たちは、「私の幸せはどうすれば手に入るのか」「私の自己実現はどうすれば可能なのか」という「私中心の人生観」を、「私は何のために生まれてきたのか」「私の人生にはどのような意味と使命(ミッション)が与えられているのか」という「生きる意味と使命中心の人生観」へと生きる構えを一八〇度転回することが求められるのです。
フランクルの思想のエッセンスは次のようなストレートなメッセージにあります。
どんな時も、人生には意味がある。
あなたを待っている〝誰か〟がいて、あなたを待っている〝何か〟がある。
そしてその〝何か〟や〝誰か〟のためにあなたにもできることがある。
このストレートな強いメッセージが多くの人の魂をふるわせ、鼓舞し続けてきたのです。
フランクルが『夜と霧』を書いた頃のヨーロッパと今の日本とでは、考え方が異なるところも少なくないでしょう。時代もずいぶん変わりました。私たちは今、強制収容所のような特殊な環境にいるわけでもありません。
しかし『夜と霧』は、そうした時代の違いを超えて私たちの心に響く真理に満ちています。否、私たちが生きているこの時代は、収容所とはもちろん違った形ではあるけれども、生きる意味と希望を見出すのが困難になっているという意味では、現代を生きる私たちも「見えない収容所」の中にとらえられて生きている、と言っていいような面がないわけでもありません。
フランクルの言葉の中に、一つでも、生きる意味と希望を求めていく手がかりを見つけてくだされば幸いです。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/29756 【亡命のチャンスを捨てて収容所へ——諸富祥彦さんが読む、フランクル『夜と霧』(2)】より
【『夜と霧』とは】
『夜と霧』の原題は、「強制収容所におけるある心理学者の体験」です。オーストリア・ウィーン在住の精神科医であったヴィクトール・エミール・フランクルがただ「ユダヤ人である」というだけの理由でナチスにとらえられ、過酷な強制収容所生活を余儀なくされた経験をつづったものです。
強制収容所という極限状態に置かれると、人間の精神はどのように変化し、どのような行動をとるようになるのか、また、そうした状況の中で人は何に絶望し、何に希望を見出すのかがリアルな筆致で描き出されています。
日本語版のタイトルとして親しまれている「夜と霧」という言葉は、一九四一年に始まったアドルフ・ヒトラーの特別命令に由来しています。
この年、ヒトラーは、非ドイツ国民で党と国家に対して反逆の疑いのある者は── 実際には反逆の疑いがまったくなくても── 、家族まるごと捕縛して収容所に拘禁せよという命令を出しました。この恐るべき特別命令は夜陰に乗じ、霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人の一家が一夜にして〝神隠し〟のように消え失せるという事件が各地で相次ぎました。ゆえに、通称「夜と霧」命令と呼ばれたのです。
この言葉はナチズムの悪夢を端的に象徴するものとして長く人々の口の端にのぼり、アラン・レネ監督による映画「夜と霧」のタイトルにもなりました。そうしたことから、この本の日本語訳が刊行された時も、この言葉が書名に使われることになったのでしょう。
強制収容所での生活は、この世の地獄といえるほど過酷をきわめました。戦争というのはそういうものだと言ってしまえばそれまでですが、人間の権利を奪い、尊厳を踏みにじり、命をないがしろにする行為の数々が、何年にもわたって続けられました。フランクルは終戦後、『夜と霧』をわずか九日間で書き上げています。それはおそらく、フランクルの中にあった、この悲劇を風化させてはいけない、経験者としてぜひ書き残しておかねばならないという使命感にかられてのものでしょう。『夜と霧』は、収容所を実際に体験した人間がみずからの体験をその内側から見た貴重なドキュメンタリーなのです。
しかし、フランクルがこの本でもっとも伝えたかったことは、そうしたジャーナリスティックなことではありません。彼がもっとも描きたかったのは、人間以下の牛馬のような扱いを受け、明日の命の保証もない捕虜たちの中に、それでもなお何ものにも冒されない、一種の崇高さすら持った精神が息づいていたということでしょう。自分も飢えているのに、別のもっと飢えた人に自分のパンを与えた人もいました。過酷な状況にあっても、夕日の美しさに感動する心を忘れない人がいたのです。
フランクルは、収容所での重く苦しい体験の中でも、人間というものへの絶対的な信頼を失わずにいました。人間へのそうしたまなざしは、収容所に入れられた後も、解放された後も変わりませんでした。「人間精神への絶対的な信頼のまなざし」が、フランクルの思想全般に貫かれているのは、そのためです。
だからでしょうか、この本は強制収容所の陰惨な状況を描いていながらも、その読後感には一抹の清涼感のようなものが漂います。同じように収容所に入れられた精神科医がいても、フランクル以外の人には、この本は書けなかったと思います。
この本は一九四七年の発刊以来、世界中で読み継がれ、日本では一九五六年に初版が発行されました。アメリカでは一九九一年に「私の人生にもっとも影響を与えた本」のベスト10に入りました。心理学、精神医学関連の本で、ベスト10入りしたのは、この本のみです。エンターテインメントでも小説でもないこのような本が国民の愛読書の上位に食い込むのは異例のことではないでしょうか。この本が、時も人種も超えて読まれ続けてきた名著であることがわかります。
【亡命のチャンスを捨てて収容所へ】
精神科医ヴィクトール・E・フランクルに魔の手が伸び、人生最悪の日々が始まった、その前後の出来事からお話しすることにしましょう。
それは一九四一年のある朝、ナチス当局から通達が来て、軍司令部に出頭するよう命じられたことから始まりました。この時フランクルは三十六歳。ナチスの「ユダヤ人狩り」は、一九三九年の第二次大戦勃発に先立つ一九三三年頃からドイツ周辺でひそかに、しかし着実に進行しており、宣戦布告時、ドイツ国内には六つの強制収容所がありました。
これに加えて、その後二年ほどの間に、ポーランド、オーストリアなどの占領国内に新たな収容所が次々と増設されていきました。たしかな数字はいまだに把握されていませんが、戦争が行われていた間に、これらの収容所に少なく見積もっても千二百万人の男女や子供が連れてこられ、そのうちの八百万人が死亡したといわれています。
収容所の内部で行われていることについては、実態が外部に漏れないようにかなり周到な措置がとられていたので、大部分は秘密のヴェールに覆われていました。
しかし、噂は少しずつ漏れ、ユダヤ人たちはささやかれていることがいつわが身に降りかかるかと息をひそめていました。それはフランクルも同じでしたから、出頭を命じられるや、ついに来たか── と、覚悟を決めたのです。
フランクルはその四年前にウィーンの精神病院勤務から独立し、精神科の個人病院を始めたばかりでした。ちょうど仕事も軌道に乗ってきたところでしたから、どんなにか無念だったと思います。
ところが、思いがけない執行猶予がフランクルに与えられました。接見したゲシュタポに神経症や恐怖症についての説明をしているうちに、興味を持たれ、個人的な悩み相談のような雰囲気になっていったのです。数時間にわたって行われたその〝カウンセリング〟が功を奏したのでしょう、収容所への抑留は一年間延期されたのです。
フランクルはゲシュタポの管理下に置かれていたウィーンのユダヤ人病院の精神科に勤務することになりました。
こうして時間の余裕を得たフランクルは、遠からず来る〝その日〟までに、自分が積み上げてきた事例とそれをもとにした新たな理論をまとめ、世に問いたいと考え、すぐさま執筆に取りかかりました。いったん収容所に入れられたら、この世とはお別れかもしれません。自分が生きた証をどうしても残したいと思ったのです。
しかし、翌一九四二年九月頃、原稿が完成する前に、〝その日〟は来てしまいました。
この未完の原稿が、戦後フランクルのデビュー作として世に出ることになる『医師による魂の癒し』(邦題『死と愛─実存分析入門』霜山徳爾訳、みすず書房)です。
じつは、その少し前に、フランクルには収容所行きを逃れるチャンスがありました。あるつてによって、アメリカに亡命できるビザを手に入れたのです。しかしフランクルは、そのせっかくのチャンスを見送ることにしました。
ビザを使って自分ひとり海外に逃れて、愛する両親や妻を祖国に置き去りにしていくことはできないと考えたのです。
亡命して生き延びて、自分の使命である本を出版すべきではないか── 。迷った挙句に目に入ってきたのは、家族とのつながりに重きを置くユダヤ教の教えでした。敬虔なユダヤ教徒であったフランクルは、その教えに従い、家族と共にウィーンにとどまる決意を固め、ビザをみすみす期限切れにしたのでした。
とらえられたフランクルと両親、そして結婚してまだ九か月の妻は、チェコスロバキア(当時)のテレージエンシュタット収容所に送られました。父親はフランクルと所内でときどき顔を合わせることもありましたが、まもなく餓死します。
テレージエンシュタット収容所で二年を過ごしたのち、フランクルは悪名高きアウシュヴィッツへ送られることになりました。妻は弾薬製造に必要な雲母工場で働いていたため、アウシュヴィッツへの移送は免除されていましたが、フランクルに同行することを決意します。
一九四四年十月に夫婦は貨物列車でアウシュヴィッツへ移送されました。ここで夫婦は分けられ、フランクルはアウシュヴィッツには三泊しただけで、別の収容所へ移されます。一方、その時離ればなれにされた妻は、ベルゲン=ベルゼン収容所で殺されました。母親と兄もすでにアウシュヴィッツ収容所で亡くなっていました。こうしてフランクルは一人の妹を除く大切な家族を全員、収容所で失ったのです。
『夜と霧』は、フランクルのアウシュヴィッツ到着から終戦による解放に至るまでの約半年間の収容経験をつづったものです。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/29890 【過酷な収容所と「生きるための無感動」——諸富祥彦さんが読む、フランクル『夜と霧』(3)【月曜日は名著ブックス】】より
収容所での〝最初の選抜〟
アウシュヴィッツ強制収容所は、数ある収容所の中でも「絶滅収容所」として格別に恐れられていました。フランクルがアウシュヴィッツに送られたときの印象では、九五パーセントの人は到着後まもなくガス室で毒殺されていたようです。フランクルは運よく針の穴に糸を通すような残り五パーセントの中に入ったのです。
それは入所後の〝最初の選抜〟で決められ、幸運なことに、生き残ったフランクルは、数日後にドイツ南部のダッハウ強制収容所の支所に移されました。さらにその後、発疹チフスの病人収容所であるテュルクハイム収容所に移動し、そこで終戦を迎えます。
フランクルが幸運だったのは、アウシュヴィッツ収容所にいたのがわずか数日間であったことでしょう。
「絶滅収容所」「ユダヤ人問題の最終解決のための収容所」などと呼ばれていたアウシュヴィッツ収容所での拘留期間が短かったことが、フランクルが生きながらえることができた最大の理由です。
では、そのアウシュヴィッツ強制収容所とはどのようなところだったのでしょうか。フランクルたちが貨車に詰められ運ばれてきたところから見ていきましょう。
まずは、アウシュヴィッツの停車場に貨車が到着した場面です。
そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。「ここに立札がある── アウシュヴィッツだ!」各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。アウシュヴィッツは一つの概念だった。すなわちはっきりとわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった!
(『夜と霧』霜山徳爾訳 みすず書房、84頁)
フランクルたちは行く先も知らされず、ここに運ばれてきたのです。当時、アウシュヴィッツには、各地から毎日数千人のユダヤ人が連行され、そのほとんどが金品を奪われてガス室で大量虐殺されていました。あるいは銃殺されたり、飲まず食わずで強制労働させられたり…… 。さらには、想像を絶する人体実験なども行われていたのです。
フランクルたちは貨車から追い立てられ、長い長い行列を組まされ、選抜を担当する親衛隊将校の前に、一人ずつ押し出されていきました。
愈々(いよいよ)今や彼(ナチスの将校=引用者注)は私の前に立っている。長身、痩せ型で、粋で、申し分のない真新しい制服──エレガントな手入れの行き届いた人間であり、寝不足で疲れ、全くみじめに見えるわれわれの憐れな姿と遠い隔りがあった。彼は無関心な様子でそこに立ち、右の肘を左の手で支えながら右手をあげ、そして右手の人差指をほんの少し──或いは左、或いは右と(大部分右であったが)──動かして指示を与えるのであった。われわれの中の誰も、この一人の人間の人差指の僅かな動きがもっている意味を少しも予感しなかった。──或いは左、或いは右、概ね右──愈々私の番になった。(中略)
夕方にわれわれは人差指のこの遊びの意味を知った。それは最初の選抜だったのだ!
(同87‐88頁)
フランクルはそこで「概ね右」の人たちと別れ、数少ない「左」のグループに入れられました。それは後述するように、フランクルが文字通り、九死に一生を得た瞬間でした。
しかし、次の瞬間にフランクルは、何よりも大切なものを失うことになります。
これだけは手放したくないと、拘束される前に書き続けていた著作の原稿を上着の胸ポケットにひそかに隠し持っていたのですが、必死の懇願にもかかわらず、「糞くらえ!」と罵倒されるとともに奪い取られてしまったのです。
原稿どころかメガネとベルトを除くすべてのものを没収され、体中の毛という毛まですべて剃り落とされたフランクルは、その後シャワー室に追いやられました。
人々は全裸で整列します。そしてそのシャワーヘッドから出てきたのは── 水でした! 毒ガスではなく水が噴きだしてきたことに、半ば死を覚悟していた彼らは歓喜の声をあげたのです。
その日の夕方、フランクルは、古参のある被収容者より、二、三〇〇メートル離れた所内の煙突の一本から煙が立ち上っているのを示され、「お前さんと一緒に来た仲間は、あそこで天に昇ってる」と言われ、そこではじめて自分がからくも助かったことを理解します。フランクルは「労働用」に選抜されたのでした。
ここに至って彼は、収容所とはつまりこのような場所なのだということを悟ったのでした。
生きるための「無感動」
こののち、フランクルはアウシュヴィッツ収容所からダッハウ収容所の支所へ移送されます。しかし、そこもアウシュヴィッツに比べればまし、というだけであったにすぎません。
ダッハウもまた、過重労働、飢餓、拷問、人体実験、伝染病などがはびこっている「この世の果て」のような場所でした。
それでも彼らが喜んだのは、フランクルたちが運ばれたダッハウ収容所のその支所にはアウシュヴィッツのように「一度に何百人も殺せるガス室」はなかったことでした。ガス室がないということは、たとえ処刑が決まったとしても、すぐにガス室に連れて行かれることはないということです。つまり、アウシュヴィッツのようなガス室のある収容所行きの輸送団が編成されるまでは処刑はないのです。
その違いがフランクルたちを歓喜させました。強制収容所はそれほど悲惨な場所だったのです。
そのような非情のきわみの場所で生きていくため、フランクルたちは外の世界では考えられないような知恵をさまざまに身につけていきました。
たとえば、入所後間もない夜、古参の被収容者がそっと忍び込んできて、素晴らしい知恵を授けてくれました。その彼はそっと「ひげを剃れ」「真直ぐ立って歩け」と教えてくれたのです。なぜか。収容所では衰弱していたり、老いているようにみなされることは、即刻、処刑されることを意味していたからです。
身体が貧弱で労働力にならないとみなされたら、ほとんど間違いなくガス室行きです。ひげを剃り、姿勢をよくして歩けば、そうしないより若くて元気で労働が可能であるようにみなされたのです。
そのためその古参の被収容者は、ガラス片でも何でもいいから道具を見つけてひげを剃れ、ガラスで剃ってできた引っかき傷で血色もよく見えるはずだ、だからひげを剃ってくれる者を見つけたら自分の最後のパンと引き換えにしてでも剃ってもらえ、と教えてくれたのです。なんとも生々しい忠告です。
人間の心身というのは、いざとなると想像以上の適応能力を発揮するものです。フランクルたちは寒い季節に夜具がなくても風邪もひかず、糞尿や汚物で汚れきった場所でも平気で眠ることができるという、外の世界では考えられない図太さを獲得していきました。
なかでも、人間が極限状態に置かれた時に表れる精神の変化としてフランクルがもっとも注目したのは、多くの人が何を見ても、何に触れても、何も感じない「無感動」「無感覚」「無関心」状態になっていったことでした。
収容所生活もまだ日が浅い頃には、誰もが目の前に展開されていることは異常なことなのだという認識を持っていました。しかし、日が経つにつれて、これはとくに異常なことではない、この状態がここでは当たり前であり、この先も変わることなく続いていくのだと感じるようになったのです。
収容所でのあまりに悲惨で受け入れがたい状況を生きぬいていくために、いちいち驚かない、嘆かない、怒らない、悲しまないという防衛策を人々は身につけていったのです。できるだけ心の揺れを少なくして、失望したり傷ついたりしないようにする。それが収容所を生き抜くための最良の方法であることを理解していったのです。
フランクルもある時、自分自身もいつの間にかたいへんな「感情の鈍麻(どんま)」状態に陥っていることに気づいて驚きます。少し引用しましょう。
スープの桶がバラックに持ち込まれた。(中略)私の冷たい両手は熱いスプーンにからみついた。私はがつがつと中味を呑みこみながら偶然窓から外を覗いた。外ではたった今ひき出された屍体が、すわった眼を見開いてじっと窓から中を覗き込んでいた。二時間前、私はこの仲間とまだ話をしていた。私はスープをまた呑み続けた。もし私がやや職業的な興味から私自身の無感覚に自ら驚嘆したのでなければ、この体験は私の記憶に止まらなかったであろう。それ程すべては感情を失っていたのである。
(同103頁)
死体を──しかも、ほんの二時間前まで話を交わしていたその人の死体を──見ながら食事をするなど、平時には考えられないことです。
しかしフランクルは、もし自分が精神科医でなく、そうした状態への強い関心を抱いていなかったならば、自分がそんな異常なまでの無感覚になっているということにすら気づかずに終わっただろうと言っています。これが、強制収容所の現実なのです。
私たちは悲しい時は泣き、おかしい時には笑います。頭にきた時には怒ります。それがごく自然なことです。
しかし、すべてが悲惨な収容所の中では、自分の心を守るためにも、そのようなことをいちいち感じない状態になる必要があります。その手段が、「無感動」「無感覚」「無関心」だったのです。フランクルは、これを「心の装甲」と呼んでいます。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/29900 【人々の「生」と「死」を分けたもの——諸富祥彦さんが読む、フランクル『夜と霧』(4)【月曜日は名著ブックス】】より
「未来に希望を持つこと」が生きる力になる
テレージエンシュタット強制収容所、アウシュヴィッツ強制収容所、ダッハウ強制収容所の支所、テュルクハイム病人収容所と四つの強制収容所を転々としながら、フランクルは約三年に及ぶ収容所生活を生きぬきました。
当時ナチスの迫害を受けたユダヤ人は莫大な数に上りますが、フランクルのように生還できた人はそう多くはありませんでした。フランクルの場合、もっとも過酷なアウシュヴィッツ収容所にいたのが数日だけだったことが、彼が生還できた最大の理由の一つでしょう。
一方で、命を奪われる前に、絶望してみずから命を断つ人もいました。収容所において「鉄線に飛び込む」ことは、自殺を意味していました。自殺の手段を考えずとも、高電圧がかかった鉄条網に触れればそれだけで死ぬことができたのです。
そうした状況で、なんとかしのいで生きて帰ってこられた人と、亡くなった人との違いは何だったのでしょうか。
人々の「生」と「死」を分けたものは何だったのでしょうか。
その一つは、「未来に対して希望を持ちえているか否か」であったとフランクルは言います。
そのことを端的に表すエピソードがあります。
有名な作曲家兼脚本家だったある仲間が、フランクルにそっと打ち明けました。彼は一九四五年二月のある夜に、きたる三月三十日に戦争が終わり、自分たちも解放される夢を見たというのです。それ以来、彼にとって三月三十日が希望の光となりました。
が、その日が近づいても戦局が好転する様子はありません。どうやら「正夢ではなかったらしい」という気配が濃厚になってきました。すると、彼は三月二十九日に突然高熱を発して発疹チフスを発病し、翌日にはひどい譫妄(せんもう)状態に陥って意識を失いました。彼にとって苦悩が終わるはずだったまさにその日、三月三十日の翌日に彼は亡くなったのです。
それとよく似たエピソードが、もう一つあります。
一九四四年の十二月のことです。クリスマスから新年にかけての期間に、収容所内でそれまでになかった数の死者が出ました。
理由は、過酷な労働でも、飢餓でも、伝染病でもありません。「クリスマスには休暇が出て、家に帰ることができる」という素朴な思い込みが数か月前から被収容者たちを期待させ、その期待がみごとに裏切られた時に、多くの死者が出たのです。クリスマスに何も起きなかったことで、多くの被収容者は落胆し、力尽きて倒れていったのです。
人間がどこまでも「時間的存在」であること、したがって、未来に希望を持つことが、いかに精神的な支えになっているかを示しているエピソードです。
では、反対に、収容所での過酷な状況の中を生きながらえた人とは、どのような人だったのでしょうか。
それは、未来に希望を思い描き、それを見失うことがなかった人です。ほかならぬフランクル自身がそうでした。
フランクルには、自分が自由の身になったら、あの書きかけの原稿── 上着の胸ポケットにひっそりとしのばせ、これだけは奪われまいとしたものの、〝最初の選抜〟の時に奪い取られたあの原稿── を仕上げて世に問うという目標がありました。自分の最初の著作を刊行することは、彼自身の夢であり目標でもありましたが、日々の臨床活動の中で人々の苦しみに接していた彼は、自分の著作は苦難と闘っているすべての人から待たれている、みなが苦しみから救われる方法を求めている、だから何としてでもこの本を世に出さねばならない、という使命感に駆られていたのです。
なんとフランクルは収容所の過酷な生活の中で、原稿の修復を行っていました! 夜寝る時間も惜しみ、ひそかに手に入れた小さな紙片の白地を塗りつぶすようにして、びっしりと文字をつづっていったのです。収容所に入った時に失われた原稿を、忘れないうちに復元しようとしたのです。
強制収容所という同じ状況の下にあっても、ある人は死に向かい、ある人は生に向かいました。自分の未来に希望を抱くことができるか否か── そこに、人々を生と死に分けるものがあったのです。
感受性の豊かな人が頑丈な人より生きのびた
そしてもう一つ、収容所内で生死を分けたものについて、フランクルはとても印象深いことを述べています。
先ほど、収容所では、生きのびていくための「心の装甲」として、みな無感動、無感覚、無関心になっていったと言いました。そうした反面、それでもなお彼らの心を動かし、いざなうものが二つありました。
一つはその時々の政治情勢や戦況、そしてもう一つは宗教的なものへの希求でした。
収容所の生活の中で、それまで宗教に無関心だった人まで含めて、宗教的な関心が花開いていったのです。これは、どういうことでしょうか。
収容所の中では、敬虔にぬかずく人の姿がしばしば見られたとフランクルは言います。
新たに入ってきた囚人はそこ(収容所のこと=引用者注)の宗教的感覚の活溌さと深さにしばしば感動しないではいられなかった。この点においては、われわれが遠い工事場から疲れ、飢え、凍え、びっしょり濡れたボロを着て、収容所に送り返される時にのせられる暗い閉ざされた牛の運搬貨車の中や、また収容所のバラックの隅で体験することのできる一寸(ちょっと)した祈りや礼拝は最も印象的なものだった。
(同119頁)
殺伐とした毎日の中でも祈ることを忘れず、感謝することを忘れないような精神の持ち主は、生きのびることができた確率も高かったのです。
医療の世界でも、特定宗教の信仰を持ったり、特定の信仰はなくとも、人間を超えた崇高な何か──スピリチュアリティ──とのつながりを大切にする人のほうが、そうでない人よりも、寿命が長いことが多いとしばしば指摘されます。収容所の生活では、さらにはっきりとこの事実が示されたのです。
なぜでしょうか。フランクルは言います。このような人々はもともと「精神的に高い生活をしていた感受性の豊かな人間」であり、そのために彼らは、収容所の苦悩に満ちた生活によっても、精神がさほど破壊されなかったのではないか、と。
ではなぜ、彼らの精神は破壊されなかったのでしょうか。フランクルが指摘するその理由は、はっと目を見開かされるものがあります。
なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。
(同121‐122頁)
人に生きる力を与え、過酷な状況にあっても生きながらせしめたもの。それは、肉体の頑強さでも、世渡りのうまさでもなく、「精神性の高さ、豊かさ」であった。なぜなら、精神性が高く、豊かな人は、どんな状況にあっても、それに支配され押しつぶされてしまうことがなく、内面的な精神の自由さと豊かさという「もう一つの世界」への通路が開かれていたからである──。
極限状況において、人間は天使と悪魔に分かれた
そしてもう一つ、フランクルが強制収容所の中で発見した真実。それは、強制収容所の極限状態にあって──死にゆく仲間のパンや靴を奪い取る者がいた一方で──みずからが餓死寸前の状態にありながらも、仲間に自分のパンを与え、あたたかい励ましの言葉をかけ続けた人がいた、という事実でした。
フランクルは言います。
典型的な「収容所囚人」になるか、あるいはここにおいてもなお人間としてとどまり、人間としての尊厳を守る一人の人間になるかという決断である。
(同167頁)
多くの科学者は、人間は極度の飢餓状態に置かれると、仲間を殺し、人肉を食べてでも生きのびようとするものだと考えていました。しかし、フランクルが強制収容所の中で実際に目のあたりにしたものは、それとは異なる事実──極限状態において、人間は天使と悪魔に分かれた、という事実でした。
収容所という極限状態にあっても、人間は一様に同じ状態になるのではないこと。その人がどのような人間であるかは、あくまで個人がとる精神的な態度によること。そして、その態度によって人間は天使にもなりうるし、悪魔にもなりうる、ということ──この事実をフランクルは収容所の中で発見したのでした。
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