http://blog.livedoor.jp/toshio4190/archives/1080197711.html 【俳句のもつ曖昧性(捩れ)】より
ときに句会の席で「その解釈は間違っている」という声を耳にすることがある。
タブーとされている鑑賞への否定である。
外山滋比古は、著書『省略の詩学』の中で、言葉の圧縮(省略)による曖昧性(捩れ)や、切れによる余韻、断絶、飛躍のある俳句の世界では、それを鑑賞するにあたり「作者の意図よりも読者の解釈の方が優先される」と書いている。
そもそも俳句の鑑賞というものは読み手の自由であり、他のメンバーからの鑑賞批判や作者の「自句自解」による句意の押し付けは厳に戒められている。
解釈は「読み手の数」だけ存在し、俳句が作り手と読み手の「共同作業」だからこそ、ときに「読み手の鑑賞力が作者の意図を超えて稀代の名句にする」こともあるのだ。
ここで、外山滋比古のいう俳句のもつ「曖昧性(捩れ)」の例を挙げてみる。
①病雁の夜寒に落て/旅寝かな 芭蕉
この句の場合「旅寝」するのは「病雁」なのか「作者」なのかが 曖昧である。
通常の線的な文脈からすれば「病雁」と考えるのが妥当なのだが、「落て(おちて)」で断絶させて読めば、旅寝の主体は「作者」と考えるほうが余情がある。
②田一枚植ゑて立ち去る/柳かな 芭蕉
③遠山に日の当たりたる/枯野かな 虚子
②は、西行の和歌〈道のべに/清水流るゝ柳かげ/しばしとてこそ/立ちどまりつれ〉の「遊行柳」を踏まえた句である。一読して「立ち去る」が柳に掛かるように思えるが「柳」は単に 背景として配合された言葉と考えられ「立ち去る」のは「早乙女」なのか、「芭蕉一行」なのか、の諸説がある。
③は、虚子の代表句。
「当たりたる」という連体形のつながる先は、本来の文法からすれば「枯野」に思えるが、この句は「当たりたる」で断絶していて、日の当たっている「遠山」に、近景としての「枯野」の景が取り合わされたものと考えられている。
このように、時に俳句は線的な連続性や文法的な整合性に従わない「曖昧さ」が余情を生むのである。
https://academist-cf.com/fanclubs/264?lang=en 【世界最短の詩、俳句を通して、美しさの多様性と核心を解き明かしたい】より
はじめまして!京都大学大学院教育学研究科博士課程2年の櫃割仁平(ひつわりじんぺい)と申します。小さい頃から色々な物事に感動してきて、その感動体験が自分の人生観を形成してきました。それが多くの人にも当てはまることであったら、感動体験や美を感じる体験に大きな力が秘められているのではないかと考え、研究の世界に足を踏み入れました。研究の時間も好きですが、芸術を堪能する時間も大切にしていて、絶景を見に行ったり、週末は美術館に行ったり、コンサートに行ったりしています。好きな画家はウィリアム・ターナー、好きなバンドはBUMP OF CHICKEN、好きな映画はニューシネマパラダイスです。最高に美しいです。
What do you want to achieve through your research?
美術館に行った時、大好きなバンドの新曲を聴いた時、人助けの行動を見た時など、私たちは「美しい」という感情を抱きます。私自身も感動しやすい性格で、日々出会う様々な事象に美を感じ、その度に、目の前の景色が変わるような体験をしてきました。このように美には人の心を動かし、価値観を変容させる力があります。私は、自分自身が抱く感情について、そして、美という感情に強く興味を持っています。
しかしながら、美しさを感じるポイントは人それぞれで、この個人差ゆえに近年まで、美の研究は発展してきませんでした。それが、ダンスや詩など、研究題材が多様化してきたり、脳科学と統合した神経美学という学問が生まれたり、研究の土台が出来上がりつつあります。美には個人差があり、多様であるという部分と、通常、脳の眼窩前頭皮質が活性化するといった共通する部分とが研究されてきました。
私は、世界最短の詩、俳句を題材にして、美に関する多様性や共通性(核)を解明したいと考えています!俳句は日本発祥であり、美の文化差を反映しうるという点で多様性を含んでいると同時に、その究極の短さから、美の核心に触れられるポテンシャルを持っています。
What kind of process are you trying to achieve?
美の感じ方は、人それぞれであるというだけでなく、育ってきた環境や接してきた人に大きく影響されます。その最たる例が文化だと考えています。日本では、わびさびや粋、幽玄といった独特な美意識が存在しています。例えば、わびさびは未完成なもの、欠けたものに感じる美しさです。俳句はその短さから、全てを言い切らない「不言の芸術」であるとも称され、時に曖昧さを伴って、鑑賞されます。この美意識は他の文化ではあまり見られません。俳句はHaikuとして、様々な言語に翻訳されており、これらの題材を用いて、文化比較研究を行うことで、「多様性」を示します。
また、俳句は圧縮された最小限の表現を用いていて、美の核心にも近いと考えています。物理の世界では、原子、原子核、核子、そしてクォークと、小さい世界を探索することによって、様々な物質や現象を知ろうとしてきました。同様に、美や芸術の領域でもその小さい世界に迫っていくと俳句にたどり着き、ここから美の核心を明らかにできるかもしれません。具体的には、俳句の美の評価を高める要因を1つずつ解きほぐし、脳科学の知見も用いながら、共通で活性化する脳部位を示していきます。
(2023年8月 追記)
これからのプロジェクトでは,2つの方向でAIを活用していきます。1つ目に,AI生成俳句を実験題材とします。季語や字余りなど細かい統制がなされた俳句を大量に利用でき,それらと人間作俳句を比較することで,人の芸術鑑賞スタイルや美意識に新しい示唆を与えることができます。2つ目に,分析にAI,特に自然言語処理の技術を利用していきます。例えば,俳句を鑑賞している際の発話をテキストデータとして収集し,そこで登場する言葉の特徴や単語間の関係性に注目します。それによって,これまでの心理学実験の基本であった単純な点数データでは明らかにできなかった複雑な心理状態を明らかにすることができるかもしれません。
What research topics are you currently working on?
現在、俳句の「曖昧さ」に注目して研究しています。俳句は文字数、つまり情報量が少ないがゆえに、多くの曖昧性を生み出します。目の前の事象をすべてを言い切らない(言い切れない)ことによる芸術のおもしろさがあると考えています。
昨年度、私たちは、参加者の方に俳句を段階的に評価してもらう実験室実験を行いました。具体的には、俳句を上五・中七・下五と段階的に提示して、曖昧さを感じた度合いと美を感じた度合いを評価してもらいました。その結果、「曖昧さの解消(最初に抱いていた曖昧さが鑑賞の過程で減少すること)」が俳句の美しさを上げるということが明らかになりました。つまり、曖昧性は最初はあった方がいいが、ずっと曖昧なままがいいわけではなくて、それがどこかで解消することで美しいと感じられる、ということが分かりました。
これから、この結果を脳機能の観点から検証しようと考えていて、MRIという脳画像を記録できる機器の中で、俳句の鑑賞と評価を行ってもらう予定です。曖昧さを感じた時に活性化する脳部位の活動の減少と美を感じた時に活性化する脳部位が関連していれば、曖昧さの解消が美に繋がるということの根拠になります。
(2023年8月 追記)
昨年度,人間俳句,AI俳句,そして人間とAIの共創俳句を比較する研究の論文出版を行いました。そこでは,人間とAIの共創俳句が最も高い美しさの評価を得たという興味深い結果を示したのですが,実験に参加したのは俳句の非熟達者でした。これからは,俳句熟達者 (例えば,句会の主宰者) にAI俳句を鑑賞,評価してもらうことで,AI俳句の発達についてさらに深い理解が得られるとともに,熟達者と非熟達者の鑑賞スタイルの相違などを明らかにできると考えています。
Why are you challenging Academist?
挑戦した理由には、経済的な側面と社会的な側面があります。
まず、今年ライフステージの変化によって、これまで免除頂いていた授業料を払うことになりました。新たに授業料分の資金を作りながら、これまでと同水準の研究をしていくことに難しさを感じ、クラウドファンディングの挑戦を決意しました。
また、私は研究が大好きで、生涯をかけてやっていきたいと思っています。同時に、社会と繋がり、研究者に関わらず多様な面白い方々と会ったり、お話したりすることがとても好きです。そのような繋がりから、研究のことを高校生や学校の先生向けに話す機会を頂いたこともありました。その中で、博士課程生や研究者と話す機会がこれまでありませんでした、といった声をよく聞きました。つまり、研究者が、社会と繋がる機会が少ないのではないか、という問題意識を持っています。このクラウドファンディングは、そんな社会に広く「美しさ」の研究を知ってもらえる機会であり、かつ、自分自身も、自分の研究を分かりやすく伝えるためのいいチャレンジになっています。
Facebook竹元 久了さん投稿記事 🌷【あいまいな日本とは、?】
抜粋(長文)
🔵西欧では理解しがたい感覚
他国の人が日本にきて、感覚的におどろくことには、日本の湿度の高さがあるようです。
そして、次に 清濁あわせ飲むという気質。
三つめには、西洋からはアニミズムともとらえられている自然への畏敬の念と多神信仰と陽を拝むという点です。それらが日本人の心の奥深くに浸透しているという、この三点こそ、西洋のキリスト教や 中東のイスラムには理解しがたいところではないでしょうか。
🔵日本人にとってはあたりまえ多湿
な~んだとおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。そうなのです。
この三点は、日本人にとってはあたりまえのことであり、なにもいまさらという共通した感覚なのです。日本の湿度も外国で暮らしてこそ、その違いに気づけます。
水のしたたる緑濃い、有り難い環境も生まれた時からいる者にとってはあたりまえのことなのです。
🔵あるがままをうけいれる心清濁あわせ飲む心
地域で子育てをしてきた思いやり、村意識、連帯意識もわずらわしいといえばそうかもしれません。
しかし、その本質をしれば、障害者もあたりまえのこととして暖かく受け入れ、子供も神からの預かりものとして尊び慈しみ育ててきたという、あるがままをうけいれれる広い心、魂の本質を知る美徳を持っていたと思うのです。
着物から布団布へ、ゆかたからおむつや雑巾へと、おくどさんや火鉢の灰で道路の穴ぼこを埋めるなど、日本の豊かな緑の山々も日本人が、慈しんで守り育ててきたものなのです。
どんなものの生命も尊っとぶ環境保全、リサイクル型のライフスタイルを持っていたわけです。
そして、陰陽一対、表裏一体 身土不二などの思想は清濁あわせ飲む気質となり、西欧の完全主義や黒白をつける主義、根こそぎ主義からみると、そのあいまいさは、とても理解しがたいものととられるに相違ありません。
🔵子も神からの預かりもの多神信仰
日本人こそ自然と一体になって自然と自分とをしきらず、内も外も一緒、出入り自由で過ごしてきたと思います。
「史記」にもあるようにあらゆるものに神を見、音霊の響きに神を感じてきたのです。
聞こえ見える神だけでなく、大宇宙のおおもとの隠れ身の神々を述べているのは「史記」だけだとも言われています。
そして「一寸の虫にも五分の魂」四つ足は食べないとか、八百万の神とか、お地蔵様とか、道祖神とか、ご神木とか・・・これらが、ただの風習だけでなくその心や魂を、日本人は無理なく無意識下に感じれとれる心をまだまだ持ちあわせていると、私には,思われるのです。
🔵日本とは
しかし、この三点こそ、他国にとっては感覚的に理解しがたい″日本のあいまいさ″をつくってきたところではないかと思われます。
しかし、この三点こそ、古来よりの(一)瑞穂の国、(二)浦安の国、といわれ(三)日の本、といわれてきた日本のおおもとを示すものであるようにわたしには思われるのです。
🔵精神的次元
これらの点は、実は精神的にかなり高い次元を表わしている事柄のように私は思っています。
ですから、西欧的な物質的対立的な世界の国々からみると理解しがたい日本、感覚的にもも理解できない、あいまいな日本として、とらえがたく映っているところではないかと私には思われます。
というのも、この精神的なとらえ方が、西洋とでは、表と裏のごとく違うので、西洋人には、とても理解しにくいところだと私には思われるのです。
しかも、日本人自らも、もはやその古来よりの日本的な心を忘れてしまっているので、今やその心は形骸化しつつあるようにわたしには感じられ、残念に思われるところです。
特に、その日本の心は、戦前に軍国教育や軍部により歪められてしまったので、へたに日本的なものというだけでアレルギーを持っている方も多いように思われます。
そして、ひたすら西欧化の道をひた走り、追いつけ追い越せをめざした戦後に生まれアメリカ的戦後教育、3S政策をうけてきた多くの日本人にとっては、本来の日本の精神的な心は既に無意識領域にまで追いやられてしまい、ごくごくわずか残っているにすぎないと思われるのです。
それ故に、今や、その信念のなさや自信のなさとを会わせもって、その大切と思われる日本の精神の次元の高い事柄もただ ″あいまいさ″ として笑われてしまう状況になってしまっているように私には思われるのです。
🔵日本人のアイデンティティー
人間にとって、胎内での265日、一日が千年につく進化の過程でうける自然の気は、その人の気質を決定する程に重要なものです。
そして、母親の血液という物理的なものの大切さも勿論ですが、母親の精神的なものも大いに胎内でうけて生まれてきます。
これが、昔からいわれている「胎教」の大切さです。
「三つ子の魂百まで」という、三才までの急激な成長の折りの養育のあり方も、その人の後の性格を決定しかねないほどの影響力を持ちます。
ですから、大きく人間としてのあり方も、その民族の遺伝子の記憶からくる血統的なものと、個々の魂のあり方からくる霊統的なもののふたつのからみあいともいえます。
そこで、人間が大きく成長する為には、その基礎とも規範ともなる民族的な支えがまずは必要とされます。
日本人にとってそれは、太古の響き、大和言葉の響きを伝える”日本語”だと私は思うのです。
宇宙と同様、人間にとっても「はじめに言葉ありき」なのです。
そして言葉からうけるより根源的な響きこそ、その民族の性質を形作ってきたものではないでしょうか。
そして、その言葉の波動がよく響きあうあ、湿度の多い日本の気候も又、日本民族の拠り所となるものであり、それら全てをうけた太古からの魂ともいえる大和魂」ともいうものが、まずは日本人としてのアイデンティティーといえるものだと私には思われるのです。
🔵民族にとって言葉の大切さ
どの民族にとってもまず、その言語の響きはその民族を何千年も培ってきた波動であり、民族の母なるもの、その人間にとっての根源的なものといえましょう。
そして、日本人にとってはまず古代縄文からの大和言葉のひびきであり、その言葉の響きあえる魂こそ、日本人のアイデンティティーといえるものであると思います。
そして、人は母胎を基礎とし、基盤として、自分を形づくり、根っこから十分に栄養を吸収し、消化して、大きく育ってこそ、改めてそこを土台にし、のりこえて、大きくジャンプできるのです。
そして、今度は世界に通じる、まさに人類共通の普遍的な宇宙意識というものに繋げていけるものといえましょう。
日本人のアイデンティティー
(一)瑞穂(みずほ)の国
🔵水のしたたる日本
日本は湿度の多い国です。
5年半前に家族で1カ月半アメリカをキャンピングカーで横断したことがありました。
あちらのカラカラの空気と乾燥した大地は色気も水気もなくて、バリバリのしわしわおばさんになって帰ってきました。 そして7月の日本に着くと、これまた湿度70%で、プールにつかったままという感じの水気たっぷりの空気に溺れそうになりました。
さほどに、日本は水気のしたたる国と思い知りました。
でも人間の体の水気も65~70%ですから、日本の空気は体内と同じく、みずみずしく生命の育まれる環境にあるのです。
放っておいても雑草がおいしげる有り難い国なのです。
水もしたたる美人というごとく、日本はもともと水のきれいな、水のしたたる国土なのです。
しかし、現代の日本人は生まれた時から、自然から遠のいて育っていきます。
かような温室育ちですから、先祖が感じていた自然への畏敬の念や、神を敬う気持ち、感謝の心を忘れるにつれて、この恵まれた日本の自然環境とそこに住む人間とがじつは不二のものであるという感覚を忘れてきているのではないでしょうか。
自然環境と人間が切りはなされていくにつれて、環境への思いやりや後始末
ということも忘れてきました。
世界でも有数の恵まれた環境にぬくぬくとつかっていながら、その有り難さに気づこうとせず、畏敬の念も遠のき、傲慢になってきているのではないでしょうか。
●🔵瑞穂の国″″水と火の国″日本
湿度とは水気であり、水は″瑞(みず)″であり、日本は昔から″瑞穂の国″といわれていました。瑞は瑞祥(ずいしょう)の″瑞″で、めでたいしるしのこと。
そして勿論″水″であり″雨″であり″天″でもあります。
水こそ生命をやしない育てるのになくてはならないものであり、″生命の火(炎・ほ)″を燃やすには水が必要とされるのです。
そして″ほ″とは、炎の″ほ″です。又、傑出して秀れている、伸びゆくものという意味をもつ言霊(ことだま)です 。日本は水のあふれる国、生命を養い育てる水と生命の炎の燃える国なのです。 水と火は表裏であり、陰陽であり、めでたいしるしのあらわれいづる国であると、古来より言われてきたのです。
🔵日本を作った米こそ完全食物
又、瑞穂の″穂″は、″禾″果本科の米に恵まれている国の意味なのです。
米こそ、その字からも分かるように、四方八方の気を全て持つ素晴らしいエネルギー源の食物です。
そし実そのままの、米文化こそ、魂に気づける近道であること。
昔から修行者は精進食をしました。禾本科(禾)を口にすることは″和″の精神を分かること。
ですから、日本人が米の有り難さを忘れ、米を食べなくなってきた頃から、どんどん日本の伝統のもつ良いところまで、忘れられてきてしまったように思われます。
(二)霊(ヒ)の元 日本
🔵霊の元″日本
そして、瑞は″みいづ″つまり″霊出づ″ともいえるのです。
これは霊の出現を意味しています。つまり霊の生まれた誉(ホま)れある国。
古来よりの古神道でいえば″日本こそ地球で唯一霊の降りた傑出して秀れた国″という素晴らしい意味をもっている国名なのです。
霊の生まれた国、魂に最も近い国、″霊の元の国″それが日本だということなのです。
″日本(ひのもと)″は、″霊(ヒ)の元″であり″霊的なおおもと″であるという誉れとプライドを日本は古来より持っていたようです。
🔵霊の故郷は日本
光は東方より来たり、と古今、西欧でいわれてきていました。
もともと光であり霊的なものは、東洋より発したということが、西欧でも昔から伝えられているところです。 又、日本の古神道などでも言われているようです。
しかし、本家本元である日本人は、昔も今もそれを忘れてしまったのだともいわれています。
マヤ文明の子孫があの空中都市の文化を忘れ去ったように・・・。
聖徳太子の「日生ずる処の天子・・・」の頃はまだ覚えおられたかもしれません。
🔵日本の神霊が世界に散らばった
日本の古神道に言わせると、地球の霊的な大もとは霊の元から派遣された魂であり、その霊的な分家である世界各地の魂はまだ歴史も浅く、それらを覚えているのだそうです。
だから、日の出る東方をめざして、叙福もマルコ・ポーロも不老不死の妙薬を求め、輝くジパングを捜してやってきたのだそうです。
これも、壮大なる古代ロマンの一つかもしれません。
ですから、ジンギス・ハンも2回も神風の吹く日本に畏怖を抱き、二度とやって来なかったのかもしれません。
太古日本の神々が世界各地に散っていったという壮大なスケールの神話の伝承も伝え聞かれるところです。
🔵日本の霊的な許容量は広大であること
昔から次々と他国の文化をとりいれながらも、それらをみごとに自分のものとして消化してきた日本の実力の根源は、そもそも日本のもつ心の広さではなかったでしょうか。
霊的な親ともいえる程の霊的許容量の大きさに根ざしているという背景があるからのようにも思わされる所です。
これこそ、清濁あわせ飲めるという背景であり、他国の人が脅威にも感じ、戦後″さるまね″といわれながらも西洋の科学技術を消化吸収して、トランジスタをはじめより高度で精妙なテクノロジーへと高めていけた優秀な能力もここに根ざしているように感じられるところです。
🔵素晴らしい日本語
例えば、中国の漢字が仏教伝来とともに伝わった時も、太古の大和言葉の言霊の響きは、何千もの漢字にみごとふりわけられたのです。つまり、縄文の太古からの響きは、宇宙の響き、自然の響き、生命の響きともいえる根源的なものでありながら、且つ細分化された漢字全てを用いてあらわせたほどの、内容の深みと幅を持っていたといえると思います。ここにもすばらしい消化吸収と融合がみられます。
🔵平仮名は大和言葉の響き
平仮名の発明も元々50音の響きもっていた大和言葉があったからこそ、平仮名が上手に用いられるようになったのです。 この平仮名こそ、大和言葉の復元ともいえるものです。
そして日本語こそ、大和言葉の響きと漢字との二つ、陰と陽とのすばらしい融合ともいえる完成度の高い言語であると私には思われます。
太古の大和の響きの平仮名を混じえた日本語があったから、日本人の意識も知能も精神性も、世界の内でより優れて高い程度を維持し続けてこれたのではないかと、日本語の陰陽のバランスの良さに私はおそれいってます。
🔵太古の響きは神々の名という真言(マントラ)にある
大和言葉は、太古縄文の響きをもつ言葉です。
そして、平仮名混じりの日本語は太古の響きを伝える原初的な言語といわれています。
「始めに言葉ありき」と聖書も述べているように、始めに響きが、波動が、うなりとなって風がおきて宇宙の創成は始まったのです。
大和言葉の響きは宇宙の大元の響きともいえるものです。
ですから八百万の神々の名前の響きは、太古宇宙にみちみちていた言霊の響きであり、さまざまな作用をもつ真言(マントラ)をあらわす力のあるものなのです。
🔵大和魂
大和言葉の響きのもつ霊的な世界。それが、いわば「大和魂」ともいうものなのです。
しかし、聖徳太子が人間のエゴの防波堤を作らんがために仏教を取り入れ、形を作り、目にみえる段階をもうけたりしたことは、これまでにない人間の欲望を増し、外へと目を向わせ、権力や財力、名誉、地位, 知識、競争心などこの世の中のことごとに心を向けて、あまたの政治的な争いに血も流されるようになってきました。
又、徳川三百年の儒教の悪影響も人間本来の自由を忘れさせ心を檻に閉じ込めてしまったかのようにみえます。 明治以後の富国強兵からはじまり戦前の軍部が誤って行き過ぎてしまった ″大和魂″の一億総懺悔の下で、戦後は、その大切な日本の、太古からの心の芯である日本の″魂″までも売り渡したかのように大和心は姿を消し、アメリカの消費文明が使い捨て文明に圧巻されるようになったのです。
🔵大戦後の科学教育
そのうえ、霊的なものや心や魂や神などの内面的なものは、それらが分からない西洋科学によって、非科学的にものはあやしいとされて切って捨てられ、さわるべからずのレッテルをはられてしまいました。
そして、一般人が自然な信仰心を持つことさえ、うさんくさく、宗教くさいものとして眉をひそめられてきたので、ますます日本人にとって自分の拠り所となる魂を見失われ、心の芯が虚ろになってきたと思われます。 そして、狭く表面的な科学の枠のなかで、心を忘れた急激な経済発展をしてきた日本は、自分自身のアイデンティティーの欠如にも気づかず、ひたはしりに走ってきました。心の空洞にむなしい風をふかせたまま、日本人としての心を喪失し魂まで追いやってしまったのです。
(三)浦安の国日本
🔵霊的なプライドの高い日本
日本のことを昔、浦安の国といっていたことをご存じですか(神武記にあり)。
浦とは裏であり、心のことを表しているのです。
表が″面(おもて)″であり表面であり、裏こそ″内面″″目にみえない心″であり大切なものであること。そして、日本は古来より″浦安の国″、″心安らかな国″としての霊的な自負をもっていたわけです。
🔵裏の大切さ
″霊出づ″でも述べた様に、裏も内面のこと、霊的なことを言っています。
奥のこと、秘めたこと、隠されているもの、裏こそ大事としていたのです。
裏とは、前でなく後ろです。裏とはみえない心をいうのです。
うらさびしい、裏方、裏がき、裏切る、うらむ、うらやむ(心病む)、裏づけする、うらなう(裏なす・心をよむこと)、裏腹、うらもとなし(心許なし)、うらぶる、裏話、裏金・・・・・。
🔵黒白の世界は未熟
うららか・・・浦島太郎の行った竜宮こそ、時や空間の支配をうけない心の故郷だったのかもしれません。浦島とは心の島、霊的な国。そして、そこにはもっと深い意味もよむことができます。日本人の感性には、いつもこの表裏一体であり、こちらとみれば、またあちらという、ものごと全てに表裏あり、陰陽ありをみてきました。黒か白かとはっきりできないものごとの微妙な両面を感じとれる感性を持っているのです。宇宙の摂理がまさにそれなのです。皆、同じ生命なのです。
全てを包括するものが宇宙であり、又それは全にして一でもあります。ですから、どちらともいえないという思いがいつもその根底にあるわけです。
敵か味方かという争いも上の次元から見ると、ありありと裏も表もみてとれるのですから笑止千万なのです。西欧的な黒白で断ち切る世界、自分の判断の枠しか認めれない世界は、大変に危うい世界であり、対立や戦争を産むものであり、次元の低い世界であり未熟な思想だといえましょう。
☀これからは 女性が 文明のたてなおしを
🔵これまでの文明は男性意識、表層意識
いわば、古事記でいいますと、見えない神が七柱ありまして、つぎに対をなす神が、五対で十神あります。その最後の一対がイザナギの神イザナミの神でありこの五対の神々は
二神で一対であります。陽陰一対でありますが、順序があります。
先にきた男性文明で、ここまで追込まれてしまった現代文明は、次に来る女性の文明で建て直しをされねばならないと、わたしには、おもわれるのです。
🔵女性がジャンプし気づく時
しかし、そこには、新たな女性的な価値観に目覚めなくてはなりませんし、そして新しい皮袋がいります。
何より女性が、自分自身の価値に目覚めねばならない時が今きているのです。
女性がこれまでの男性意識から抜け出して、より包括的な、日本的な心といえる
ものに女性的な意識により目覚めて、自信をもって生きていかねばならない時がきていると私には,思われるのです。
新たな女性的価値観とは、生命の意識であり、共生の意識なのです。
皆が一人一人が違ってて、あたりまえだということを知識でも、感性でも分かりあうことです。
そして、違っていることを尊重しあい、違いを互いに学びあい、育ちあい、高めあって、喜びあう意識のあり方です。
これまでの男性的な意識、敵対意識や上下関係やそして物質的、世間的にとらわれる意識ではありません。いわゆる女性的な母性の心であり、精神的な意識、それも広い愛と感謝の心、慈しみ育む心だと、わたしは思うのです。
🔵自信のない時は感情に左右される
女性は、男性のエゴが勝手気ままに踊るのにつごうのよい価値観を押し付けられてきました。 そして、男性の足元に卑下するごとき気持ちで、奴隷の悲しみの心で生きてきた人が多かったでしょう。
それは、自分の真実の価値に気づいていなかったのです。
男性と対等である女性としての、自分自身の本当の価値というものにきづいていない焦燥感、自分の内的な芯である魂にであっていない空しさは、怒りや苛立ちを生み、自分自身を確立できていない思いは他人の幸せを妬みをすねたり、ひがんだりするなどします。
芯に気づいていない時は、表面的な感情にふりまわされがちになり、真底からの喜びになかなかであえないものです。
🔵順序であって、対等である
ですから、大和の国日本は古来より、男が前で女が後ろ、男が表で女は裏、男は表玄関で女が奥、男が外で女は内・・・(フェミニズムの人が聞いたら怒りそうな書き方ですが)。
これは、あくまで順次であって陽陰で一対、表裏一体ということをあらわしているのです。
どちらが偉いとかではなく、全く平等なのです。男と女は互いに支えあい、助けあってこそ共に豊かに生きていけると私は,陰陽の考え方でそう思っています。
男性女性の性だけでなく、気質の陰陽もあることもわかっていただきたいと思います。
たとえば、真にその人間性に目をむけるなら、その人の気質の向かうほうでの、陰陽なりの役割分担もされてくるともいえましょう。
いわゆる男尊女卑的な考えは根本を取り違えているのではないでしょうか。
男だけが偉いかのようにとりちがえて、怒っていらっしゃる女性も多いようです。
しかしながら、ここに気づいていただければ、いらぬ対立意識はうまれないでしょう。又、自らをよしとする自信もついてくるともいえましょう。男性側に偏っている現代の意識と同レベルで反発していると、次は自分で自分の首をしめかねない状況に陥るかもしれないことに気付いていただきたいと思われます。
🔵奥の方こそ大事
子供を産む性である柔らかで力の弱い女性は、ごつくて強い男性に守らせるのですよ。
二人の子供ですからね。乳をふくませている時、お腹の大きい時、外をかけまわれませんからね。ですから、食べ物を見つけて運んでくる人、お金を稼ぎ運んでくれて、外周りのことをしっかりしてくれて、いらぬ心配をしなくてよい配慮をしてくれる、よき働き手である男性が対として、つれあい(パートナー)として必要とされるわけです。
むしろ奥の方が重要であり、大切なのです。奥は上(かみ)であり、神であり、髪の長いうちのカミさんこそ亭主にとっては怖い存在なわけなのです。
トリこそ真打ちです。右は切り、左は抱く手です。男は右に刀を持ち、女は左に赤子を抱きます。玉座の右が右大臣で左が左大臣、舞台は向かって左が下手、右が上手、玉座からみて左の方が重要なのです。
左大臣もおひげの方で右大臣は若いほうと、御簾の奥におわします・・・とお後にひかえている方がじつは重要人物で、大切な方なのです。
アマテラスオホミカミもイザナミの左目を洗ったときに生まれた神です。そして、日のアマテラスオホミカミも水のスサノオノカミもともに力をあわせて世界を支えておられと神道ではいってるように聞きました。
🔵女性が自負と自信を持つ
何故、こんなに男性が暴走してしまったのか。それは、女性が自分の真実の役割を知らずにいたからです。女性が自分のなんたるかをしらず、卑屈になり、自覚と自信を失っていたから、女性としてのブレーキ役が果たせなかったのです。大切な内なる心を受け持ち、生命を産み、預かり育むという大切な役割と意識を持っている大事な性であることを自らが忘れてしまっていたのです。男性という性の役割より以上に、人類を育て存続させるためになくてはならない重要な役割を受け持っているというプライドが萎えてしまっていたのです。
心の支えとなることで、男性を仕えさせ、女性としての役割を果たすという自負と喜びを持って生きることすっかり忘れてしまったのです。男性と対等にその役割を受けもって、世の中に貢献し、実は後見として、男性を操って動かしていくのだという程の自負とプライドを育ててこなかったのです。エゴの強い男性のつごうのよいように教育されてしまい、女性の意識は目覚ぬまま泣き寝入りをしてしまっていたと私は,思うのです。
「世の女性よ 今こそ 真実に 目覚める時です
自信と自負をとり戻す時がきたのです」
🔵世界にはばたく日本
日本人が世界に通じるものとなるには、何より真実の″大和魂″への回帰が必要だと私は思います。阪神大震災でも基礎が深く丈夫なたてものは壊れませんでした。また、見える所の新しく軽くてしなやかな建物もたおれませんでした。植物も根を十分にはれば、大きく育ちます。人間も同様です。日本人はまず日本人としての魂の基礎固めをした上で、その上に柔軟で軽やかな新しい心、とらわれらない自由で楽な心を構築するならば世界に通じるたくましい人間となれるでしょう。
そして、本来の大和魂は21世紀の新人類の魂のあり方を指針するものだと私は思います。
🔵古きを訪ねて新しきを知る
日本人としてのアイデンティティーの確立を基盤として、現代ではその目覚めた新しい感覚を、新しい皮袋に注ぐことが必要となります。それは、決して敵対意識や根こそぎ意識、統一意識や上下意識ではありません。
それは表面的な形や固さでなく、見えない心と心が響き合う意識です。共振作用で相互にメジャーな方向へと響き会いながら、相乗作用でさらに高めあっていけるものです。
そして、宇宙や自然にひとつとして同じものがないように、それぞれの響きの違いを楽しみながら、互いを尊重しあいながら、違いを生かしあって助けあって、心から心へと広がっていけるものなのです。
心と心で響きあえる、感じあえる、その広がりが今、世界中で響きあおうとしているのです。
そして、その響きを一番難なく感じることのできる民族は、大和言葉の響きを言語とし、宇宙と自然と共感できる″大いなる和の精神″を自ずと身につけてきている私たち日本人といえるかもしれません。
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