夢見る俳句

https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta02.html 【世界俳句(3)夢見る俳句(2)堀田季何】より

 今回はいきなり脱線して、一句に季語が二つ以上ある状態、季重なりについて少し考えてみよう。これは季題(※ここで云う季題は、あくまでも題であり、季語と同義ではない。同じ「ホトトギス」でも、虚子は題として、その孫の稲畑汀子は季語とほぼ同義として使っていると、それぞれの文章から推察される。季語は虚子と対立した乙字・井泉水が提唱していたので、虚子が季語の意味で季題という言葉を使っていた事はまず有り得ない)でなく、季語の問題である。例えば、季題派の虚子は、花鳥諷詠もとい季題諷詠を説き、季題を重んじたが、季感と密接に関係している季語には興味なかった。実際、季語が複数入っている季重なりの句の論評にあたり、季重なりを良いとも悪いとも言っていない。虚子選において季重なりはタブーではなかった事は、近年では、筑紫磐井や岸本尚毅が指摘しているところである。そもそも、和歌以来、季題には複合的な結題のようなものがあって、「初春霞」「蝉声夏深」「蛍火秋近」「月多秋友」といった季題がある事から、季語が複数入っている季重なりを季題派が気にしないのは当然の事かもしれない。

 虚子に限らず、芭蕉、蕪村、一茶、子規といった面々も季重なりをタブー視していなかった。それどころか、季題派にとどまらず、季感を重んじた季語派の俳人でさえ季重なりの句を作っていて、秋桜子は特に多い。結局、近代以降も、季題・季語に対する考え方はともかく、虚子や秋桜子の他にも、鬼城、蛇笏、誓子、素十、草城、楸邨、波郷、龍太といった大御所たちが季重なりの句を堂々と作っている。それも、同じ季節の季語だけではなく、異なる季節の季語が入っている季違いという類の季重なりの句もたくさん作っている。しかし、この21世紀、彼ら大御所たちの弟子や孫弟子たちが主宰や選者として、季重なりを理由に句を自動的に難じたり落したりする景を目にする事は多く、俳諧・俳句の歴史を鑑みれば、この現象は奇異に映る。

 もちろん、俳句は短歌よりも短いゆえ、無駄な季語は要らない。上記のような「蝉聲夏深」(「蝉の声」と「夏深し」)や「蛍火秋近」(「蛍火」と「秋近し」)のような組合せは俳句では成功しにくい。本意本情を思えば、「蝉の声」に「夏深し」、「蛍火」に「秋近し」がそれぞれ含まれるのがわかるからだ。そういう意味で、初心者が作りがちな「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」といったような句は、季重なりの失敗例と言えよう(「氷菓」で足る)。しかし、「秋天の下に野菊の花弁欠く」(虚子)、「枯菊の根にさまざまの落葉かな」(虚子)、「小春日や石を噛みゐる赤蜻蛉」(鬼城)、「蛍火や馬鈴薯の花ぬるる夜を」(蛇笏)、「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」(秋桜子)、「風邪の床一本の冬木目を去らず」(楸邨)、「春すでに高嶺未婚のつばくらめ」(龍太)といったような季重なりの句は、句の出来は別として、季重なりを以て没とすべき句ではない。重要なのは、季重なりでも成功しているか失敗しているか、言葉が必然か無駄か、といった事であり、季重なりを自動的にタブー視するのが愚である事はわかると思う。

 では、なぜ季重なりがタブー視されるようになってきたか。愚見だが、1970年代後半からの俳句ブームに付随したカルチャースクールや俳句教室の隆盛がその背景あるように思われる。初心者に良い季重なりと悪い季重なりを教えるのは難しい(上級者でも判別に迷う事が多いのは事実)ので、前述した「夏暑し汗かきながら氷菓食ふ」のような句を作らせないためには、一句に一つの季語と安易に指導した事は想像に難くない(指導者によっては、季重なりは大家になってからなら良いとか言った可能性もある)。これがいつの間にか教条的なもの、ルールのようなものになって行った可能性が高いと筆者は踏んでいる。師弟のつながりが強く、師風が受け継がれてゆきやすい俳句界の事、生徒側は、大成しても、季重なりを基本的にタブーだと信じ込んだまま専門俳人になっただろうし、教える側も「模範例」となるべき句を作ろうと、その時期以降、季重なりに慎重になって行ったのかもしれない。証拠というのも変だが、80年代以降、総合誌や実力俳人の句集に出てくる季重なりの句が大幅に減っているように思われる(※厳密に数えてはおらず、あくまでも推測である)。ちなみに、季重なりの反対で、季語が無くても良いと教えていた教室も少なかったと思われるが、それは無季容認派であった指導者の少なさに因る。結局、複数でも無でもなく単数の一つという指導になったようである。

 さて、21世紀現代において、季重なりを基本的に忌避する俳人たちには二つタイプがいるようだ。一つは絶対に忌避するタイプ。彼らの師の師くらいは季重なりの句を残していると思われるが、理屈抜きの教条派なのだから仕方がない。彼らの自由である。もう一つは厳しい制約を設けているタイプ。こちらは季語派に多く(※季題派だと冒頭の虚子の態度に落ち着く)、彼らの主張はまちまちであるが「季語が一句の中で最も重要な言葉であるからそれに焦点を当てたい。二つあるとぶれる」や「どの季語の季感で句を捉えればよいのかわからなくなる」や「歳時記の分類に困る。季違いの句だと本当に困る」(分類に困るからどうした、と言いたくなるが)といった意見をよく聴く。そして、彼らの妥協点として、「主季語、従季語のように強弱が明快であれば、主季語が焦点だし、その季感で句を捉えればよいし、主季語で分類すれば済む」といった意見に落ち着くことが多い。確かに、季語の主従というのは、季重なりの句を基本的に忌避する人間が容認する上で便利な概念である。

 しかし、季語の主従という概念を扱う場合、主従の判定方法が欠かせなくなる。概ね、次のような方法である。季語の主従を説く俳人の殆どは、季題諷詠でなく季語の季感を重んじる人間であるから、第一ステップとして、特定の日に限定される季語を他の季語よりも優先する。一句に「桃の花」と「蠅」があったら、「桃の花」は春だけのものであるから、「蠅」を夏でなく春の蠅と解釈し、「桃の花」を主季語とする。「時雨忌」と「冬」があったら、どちらも冬の季語であるが、「時雨忌」の方が日を限定(特定)するので、「時雨忌」を主季語とする。「月」と「スケート」なら、本来「月」は秋における最強の季語であっても、一年中ある「月」は寒月と解釈され、まずは冬にしかない「スケート」の方を主季語とする(秋のスケートとはまず解釈されないだろう)。それが難しい場合、第二ステップとして、竪題や横題の季語があれば新季語よりも優先する。新季語は明治以降にたくさん提唱ないし歳時記採用された季語であり、季感や認知が衰えたら比較的容易に排除され得るものである。「時鳥」と「サングラス」なら「時鳥」を主季語とする。「時鳥」と「ビール」だったら尚更で、「ビール」は新季語である上、一年中飲まれていて季感も弱くなっているので、迷わず「時鳥」を主季語とする。重要なのは、第一ステップが第二ステップに勝つ事である。前述の「月」と「スケート」はそれぞれ竪題季語と新季語だが、第一ステップにより「スケート」が主季語になる(第二ステップを用いると反対の結果になってしまう)。それらの方法でも駄目な場合は、第三以降のステップになるが、この辺は曖昧であり、俳人によって様々である。ここまで来ると「一句の中での働きで決める」「句に漂う季感で決める」とする俳人も多いが、それは容易な事でなく、同じ句でも俳人によって主従の決定が異なる事も少なくない。そして、それでも主従が決められない場合、季語の主従を説く俳人たちの殆どは主従の見えにくさを理由にその季重なりの句を不可とする。

 雪を月が照らしていて、「雪に月」という五音が入っている句があったとしよう。「雪」は冬以外にも見られるし、「月」は秋以外にも見られるので第一ステップは適用できない。例外として、春を示す語彙が別に入っていれば、春雪と春月と解釈され、春を示す語彙が主季語になってしまうだろう。しかし、季語が「雪」と「月」だけなら無理である。そして、いずれも新季語でないので、第二ステップも適用できない。しかも、「雪」も「月」も「雪月花」に含まれる最強の竪題季語なので、竪題と横題、比較的古い竪題と少し後の竪題といったような区別もできない。こうなると、個別の判断になると思うが、秋の句か冬の句か悩むはずである。秋雪と月の事なのか、雪と寒月の事なのか。そして、焦点にしても、雪が照らされている事と月が照らしている事とどちらを重んじるかは大いに疑問の余地がある。つまり、主従の判断はまず無理、歳時記分類は完全に無理であろう。季重なりを基本的に忌避する俳人からすれば、この状態ではどんな句であっても受け入れられないだろう。だが、「雪に月」という語句を含む秀句はないはと言えないのではなかろうか。特に、季語派でなく、両極端の季題派や無季容認派から見れば、「雪に月」という語句を含む秀句は可能であるはずだ。

 これが前回の世界俳句にどうつながるかと言えば、季語が成り立たない外国語俳句の場合(※季節性のある言葉、season wordは、和歌的ないし俳諧的な意味での本意・本情がないので季語ではない。漢字文化圏における季節性のある言葉は季語に近いが、厳密には季語ではない)、季節性のある言葉を含む句であっても実質上は無季(雑)の句であるから、季重なりは意味を持たない。また、季語の本意や本情が成り立ちにくい地域(主に海外。日本でも、沖縄等)にて季語が示すコトやモノを詠んだ日本語俳句の場合、その句は季語を含んでいたとしても実質上は超季(雑)の句であるから、季重なりはやはり意味を持たない。「季語の本意と本情はこうなのだから、それが成立しない地域においても季語は本意と本情で解釈されるべきで、季語でなくなる事はあり得ない」と主張して、サハラの蠅を詠んだ句を夏の句としたり、モスク(マスジド)の上の月を詠んだ句を秋の句としたりするのは、極めて失礼な事である。「蠅は夏で、月は秋なんだから、どういう場合でも夏と秋と解釈すべき」というのは、自分が相対した土地や人々や文化に全く心を砕かない態度であり、挨拶として最低の表現であり、そもそも連句の発句に季語が入れられた時以来の俳諧の挨拶性、精神そのものを大いに害する。きちんと、サハラの自然やイスラムの文化を理解した上で蠅や月を捉えるべきであり、いくら日本語で「蠅」「月」と表記されてもそれらは季語として機能していないのを理解すべきである。

 そうなると、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠んだ日本語俳句においてしか季語は成立せず、それ以外の地域では季語入りの日本語俳句でも実質上は雑、外国語俳句なら季語の訳や現地の季節性のある言葉を入れても実質上は雑、という事になり、俳句の世界的普及の上で季語という概念が障碍、いや、その反対、無視できるものとなるのは自明である。無論、有季の句を作るか作らないか、また、有季を俳句の絶対条件とするかしないか各自の自由であるが、国外の俳句人口が国内のを上回っているという俳句の国際化の現状を鑑みれば、21世紀において季語固執はあまり広がりのない態度であると言えよう(「伝統」という言い方もできようが)。ただし、21世紀における俳句のあり方として、無季や雑を標榜するのも同様に莫迦らしい。無季や雑というのは、有季に対する概念であり、態度の本質は季語固執と変らない。しかも、無季を標榜しては、俳句及び季語が育った「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語の有季俳句を切り捨ててしまう事になる。そこで、もっと包括的な、一種のアウフヘーベン的な態度があっても良いという考えが浮かぶ。つまりは、季に捉われない、有季や無季・雑の概念を越えた自在季の精神である。その精神を以て、従来の季(キ)語(ワード)から、どの言語どの地域でも成立し、それぞれの言語・地域文化に特有の強い力を持つ、季に捉われないキーワードへの移行が行われ得る。無論、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においては、竪題や横題の季語は大切なキーワードであり続け、自在季に基づくキーワードの概念は季語を否定しない。ただ、「日本国内の大きい範囲の地域」で詠まれる日本語俳句においても他の(雑の)キーワードがあり、他の地域や言語には(決して季語でない)多種多様なキーワードがあるという事である。

◆「世界俳句(3) 夢見る俳句(2)」:

堀田季何(ほった・きか)


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta03.html 【世界俳句(5)夢見る俳句(3)

堀田季何】より

 世界俳句とは一種の切れを伴った有キーワード自在律句に等しいと以前書いたが、今回は、日本語俳句を世界の人たちが読むための翻訳について、三つの点を基にかいつまんで述べてみたい。忘れてならないのは、日本語俳句に限らず、世界百カ国以上で書かれている俳句は、世界では翻訳を通して読まれているのだ。

 第一に、翻訳作品は選ぶものである。翻訳者は最大限努力するが、それでも翻訳に向いていない作品がある……多い。特に、日本語は系統関係が依然不明な孤立言語の一つであり、名句秀句を訳しても名句秀句にならないことは少なくない。仮に翻訳したとしても、肝心の魅力が翻訳不可能であるために徒労に終わってしまう類である。筆者は、翻訳する対象を選ぶことも翻訳者の仕事だと思っている(選ぶ権利がある場合に限られるが)。

 では、どういった要素が句の魅力になっていると翻訳の障碍になるのか。日本語俳句を例にしよう。まず、韻律である。押韻が魅力の句とかはさっさと諦めたほうが良い。印欧語の中で近い言語だと韻律もある程度移せるが、日本語俳句では無理である。意味だけ訳して、アルファベットなどで音を併記する手もあるが、悲しい。無論、音数を維持しても韻律は別物であり、言語ごとの韻律感はどうにもならないので、五七五を五七五に訳すのは愚である。英語で五七五に訳された句を読んだところで、日本語で基本定型とされている五七五の句を読むのとは違う。また、どの言語にするかによるが、文体は概ね訳せないし、語順が変わることも日常茶飯事である。当然、これが致命傷になる俳句も多い。語彙の問題もある。切字や詩語だけでなく、根本的な語彙が翻訳する言語にないことも覚悟すべきである。「おかげさまで」「いただきます」のきちんとした英訳がないことは有名だが、日本語に多数存在しているオノマトペも大半が訳せない。植物、魚、気象の名前は、存在しないか学名になるか長ったらしくなるか。日本語では一般的な語彙でも、別の言語圏ではラテン語ベースの長い学名しかなくて、翻訳すれば俳句として終ってしまうこともある。同じく、日本情緒や行事の類は訳しづらい。読者に解ってもらうためには註釈が必要になってしまう。当然、季語の本意や本情は伝わりづらく、その季語を訳せたとしても、読者に季語を本意や本情を通じて句を理解してもらうことは最初から諦めた方が良い。さらに、日本語は単数か複数かわかりにくい言語であり、作者自身がこだわっていない句も多いが、英語などに訳す際は単数か複数か決めなくてはならない。

 このような困難がつきまとうが、何も訳さないわけにはいかない。言語的制約があっても、魅力が伝わりそうな作品を選ぶべきである。経験から言えば、特殊な感覚や身体的な感覚は伝わりやすい。造型俳句的な鮮烈なイメージも伝わりやすい。欧米にも共通する思想や性癖も伝わりやすい(但し、アニミズムのような日本と欧米で似て非なる受容れられ方をしている概念は難しい)。内容の社会性や政治性は概ねすぐに伝わる。うまく訳せば、切れも残せる。逆に、そうでない句、特に韻律や言い回しが命の句は、作者の代表句であっても諦めることをおすすめする。

 第二に、翻訳できそうな作品を選んだ後は、優れた翻訳をしなくてはならない。そして、優れた翻訳には優れた言語能力だけでなく、俳句の知識が重要である。俳句に精通していない訳者だと、著名な文学者や小説の翻訳者であっても駄目な訳を量産してしまう傾向にある。三段切れになってしまったり、俳句にしては長すぎる翻訳になってしまったり、誤って瞬間性や切れを消してしまったり、対象の句の肝が解っていない訳になってしまったり、という例は枚挙に遑がない。作者自身が付ける訳がひどいことも多い。そのため、俳句翻訳の適任者は世界中、日本中で根本的に足りない。人材不足のため、別言語を経由して、訳の訳をしなくてはならないこともある。結局のところ、訳は訳だと割り切って、語順の工夫などをしながら、原句の魅力を引き出せるよう最善の手を尽くすしかない。また、日本語の俳句をある言語に訳すことその言語で俳句を書くこととは違う、という前提を理解しておくことも大事である。俳句の定義や構成要素は世界でも異なっていて、作句するときは重要だが、訳の場合はそれらに固執する必要はない

 第三に、優れた翻訳も大量に流通させなくては空しい。優れた翻訳があればそれでおしまい、ではない。優れた翻訳も、流通しなければ句の知名度・認知度は上がらず、世界的には評価されにくい。「優れた作品はファンたちが、世界中が勝手に翻訳する」というのは迷信である。先に知名度・認知度があってこそ世界中がどんどん訳してくれるのであって、その逆はない。実際、近代以降の日本人俳人は大半が海外で無名である。高濱虚子でも金子兜太でも一部の国、一部の愛好者しか知らず、蛇笏賞受賞者でもその殆どは世界にいる何十万人の俳句愛好者に知られていない。世界的に知られている俳人は、いまだに近世の芭蕉である。海外の日本学者たちが長年に亘って採り上げてきたこともあるし、世界中の学校で教えられていることもある。なお、海外で日本人の作品を流通させるとしたら、なるべく多くの言語に訳すのが大切だが、英語を通じて訳される例も多いので、英語は外せない。あと、多くの読者がいる媒体で広まることも大事になってくると思うが、それができた俳人は殆どいない。海外の俳句愛好者たちが出している専門媒体では不充分だと思う。ついでに言えば、日本の近現代の俳句史も伝わった方が良い。多くの国における俳句に対するイメージや理解は近世の発句で終わってしまっているし、日本ですでに実験されたり詠まれたりした句を知らずに海外の人たちが現代の日本語俳句の翻訳を読むのは惜しい。良い詩だとは思ってくれても、それ以上の理解が伴っていないことが多いし、何より、類想類句を判断したり、良い句と悪い句の差をきちんと見定めたりできる眼が、一部を除き、海外の愛好者たちでは養われていないからだ。

 最後に、いくつかの句の翻訳についてコメントしてみたい。

    古池や蛙飛びこむ水の音         芭蕉

 日本では俳句でなく、発句だと認識されているが、海外では古典俳句だと認識されている。いや、古典どころか、俳句とはこういう句のようなものだと理解されている。しかし、海外での紹介文や鑑賞文を読むと、蛙が春の季語だと気付いている海外の読者は1%もいない上、仏教的な悟りの瞬間のように捉えているものもあり、日本人と違った捉え方をしていることに気づく(日本でも句の解釈が割れているが)。比較的訳しやすい句ではあるものの、英語だけでも百近い訳が存在していて、蛙が単数のものと複数のものがある。

    よく眠る夢の枯野が青むまで      金子兜太

 この句には「slept well/ till the chill barren field in my dream/turned green」「sleeping well/until the dream’s withered moor/goes green」等いくつかの訳が存在する。海外の読者には、これが芭蕉の句を踏まえていることはまず判らない(芭蕉の訳を読みこんでいる読者なら別だが)ので、どう訳しても魅力が減じてしまう。その上、英語だと時間や順序の感覚がはっきりしているので、作中主体が起きているのか(もはや眠っていないのか)、まだ眠っているのか、枯野が青みはじめる瞬間なのか、すっかり青んだのか、翻訳時に決める必要が生じる。上記の二つの訳は全く解釈が違っている。

    韓国の靴ながれつく夏のくれ      小澤實

 この句はGabi Greve氏による英訳「shoes from Korea/drift on the shore –/twilight in summer」という訳があるが、K音U音R音を執拗に駆使した音の面白さは消えてしまっている(翻訳不可能)。英訳にも残っている句の魅力は、「韓国の靴ながれつく」という状況の面白さだけである。なお、「夏のくれ」が「twilight in summer」と訳されたことで、濡れている靴が夕日に照らされていることが強調されていて、日本語よりも抒情性が増している気がする。

    ふはふはのふくろふの子のふかれをり  小澤實

 こちらは英訳に向かない。「韓国の靴ながれつく夏のくれ」よりさらに韻律に頼っている句であり、句意さえも韻律と相乗効果を上げるようになっている。英語には「ふはふは」に当たる言葉がなく、しかもこの句を「ふはふは」したような音の連続で訳すのは困難であると思われる。意味だけ訳すのはもちろん可能であるが、韻律が消えてしまったら句の価値は暴落すること必至。

    ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ     田島健一

 音と言えば、この句も翻訳は難しい。力技で「ぽ」に匹敵する奇妙な音を英訳に加えることはできるが、日本語で「ぽ」が醸し出している感覚も効果も絶対に訳せない。

    浅蜊の舌別の浅蜊の舌にさはり     小澤實

 この句は、意味を翻訳することは簡単だが、語彙の面でつらい。英語圏の居住者たちにとって浅蜊はなじみのない食べ物であるため、一般的な語彙がない。「Japanese littleneck」「Manila clam」「Ruditapes philippinarum」のどれかを当てることになるが、どれを当てたところで英語圏の読者にはイメージが湧かない。ただの「clam」にするしかない(これは蛤のような食用の二枚貝全般を指すので正確ではない)。それでも、普通の英語話者にはクラムチャウダーの「クラム」のイメージしかないし、(生の魚介類に接したことのないアメリカ人等は非常に多いので)浅蜊の「舌」という概念も伝わらない読者が多いので、註釈などで説明するしかなく、それでは、訳したところで大して面白いとは思われないだろう。

    月は春かつての最寄駅に降りず     佐藤文香

 この句は、意味は大体訳せるが、「月は春」という言い回しの面白さは訳せない。それゆえ、翻訳では「かつて」という次の言葉が活きて来なくなってしまう。

    ひあたりの枯れて車をあやつる手    鴇田智哉

 実は、この句は訳しやすい。語彙にも文法にも音にも言い回しにも翻訳上の大きな問題がない。純粋に、情景を変わった言い方で描写しているというだけで、何語に訳しても情景を変わった言い方で描写している句になる。だから直訳で良い。訳しても、原句のまま不思議な感じになるし、読者が意味を理解するまでに時間がかかるのも(その謎解きが句の眼目であるのも)そのままである。

◆「世界俳句(5) 夢見る俳句(3)」:

堀田季何(ほった・きか)


https://kangempai.jp/seinenbu/essay/2019/hotta04.html  【世界俳句(7)夢見る俳句(4)堀田季何】より

 今回は、俳句が外国語で書かれる際の「行」について軽く述べておきたい。

 日本語俳句を3行で表記する場合、分かち書きの場合と多行形式の場合があり、前者は1行の俳句を多行に分かちて色紙などに書きつけたものであり、句集などでは1行として印刷され、後者は最初から多行として作られた俳句であり、1行俳句の瞬間性を犠牲にするかわり、改行による断絶を活用することができ、多行詩として機能することから句集などでは多行で印刷される。

 外国語の場合、殆どの言語において大半の俳句が3行で表記されていることは知られている。夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句2019』(コールサック社)でも一目瞭然である。しかし、これは日本語俳句を3行で表記する場合とは同じではない。なぜなら外国語俳句を3行で表記している理由がケースバイケースで違うからだ。第一に、言語的な読みやすさと関連している場合がある。1行として表記すると横に長すぎる場合が多い。2行や3行にしたほうが読みやすい。特に、2句1章の場合、2行か3行にしないと文法的に一瞬戸惑ってしまうことが多い。第二に、日本語の定型に元々ある3句構造を3行に対応させているか、対応できていなくても3の概念を引継いでいる場合がある。第三に、純粋な分かち書きの場合もある。第四に、あまりにも3行表記が多いので、惰性で3行にしている場合がある。第五に、日本語の多行形式と同じ効果を出そうとしている場合がある。第六に、行末の脚韻を狙った場合がある。

 外国語の3行形式の場合、多くの言語で、第三の分かち書きと第五の多行形式の両方が併存し得るのは、改行が息継ぎとも断絶ともなり得るからである。ただの息継ぎの場合、日本語俳句だと表記には反映せず、そのまま1字空けや読点も入れず1行で句を書く。だが、多くの言語だと読点が要求され、読点を入れるか改行するかになり、外国語俳句の場合、息継ぎのポイントに合せた分かち書きが自然と多くなる。それゆえ、改行したとしても、日本語での改行ほどの断絶感を覚えない。

 以上の6つの事由から1行は選ばれにくい。アメリカの俳人Jim Kacianが書いた「somewhere becoming rain becoming somewhere」(筆者訳:どこかになる雨になるどこか)は1行が最適であるが、普通このようにはなりにくい。(多行形式とは同義でない)多行表記が選ばれるが、3行でなく2行や4行にしてしまった方が効果的なものもある。しかし、3行が多いのは第二および第四の事由であろう。第二に関しては、世界俳句協会ディレクター兼理事長の夏石番矢は3句構造を「俳句詩学にとって最も中軸」として強く主張している。「俳句四季」2014年12月号には「俳句の新詩学⑫三句構造の力」という文章も寄稿している。

 それに対し、設立されたばかりの日本俳句協会は、「当初は、2行詩を基本型として、1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKUを提唱しています」としている。上述第一の事由と関連すると思われるが、3行を主張しないのは、句中に切れを有する2句1章の句(「1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKU」とほぼ同義)なら2行で表記すれば済むという理屈だからだろう。ただし、1句1章の句や他の特殊型の句はどうなんだろう。そもそも「1行目と2行目に『切れ』を有するHAIKU」を提唱している時点で、俳句の可能性を狭めている気がする。外国語に切字がないとはいえ、体言止めや感嘆符などによる句末の切れもあり得る。

 なお、日本俳句協会は同時に「国際的には『切れ』を有する短詩型文芸(主に1~3行詩)をHAIKUと定義します」としている。筆者は以前に、季語や定型が通じない世界俳句では切れが短さやキーワードを要請し、世界俳句とは一種の切れを伴った有キーワード自在律句に等しい、と書いたが、日本俳句協会の国際的なHAIKUに関する定義と重なる。高山れおなは、近著『切字と切れ』において、「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960~70年代に切字説から派生した一種の虚妄であると主張しているが、仮にそうだとしても、世界俳句においては「切れ」こそが本質であり、伝統でさえもあると筆者は述べておきたい。

◆「世界俳句(7) 夢見る俳句(4)」:

堀田季何(ほった・きか)◆

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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