千葉皓史 氏 「俳句と私」

https://fragie.exblog.jp/33030249/ 【句形式への信頼に充ちて。。。】より

ミツバウツギ。空木の花である。初夏に咲く白い花は緑の葉にいっそう映える。

よおし、今日から大型連休だ!って思ったのだが、そうはいかぬ。ふらんす堂は暦どおりである。ゆえに、ぼちぼち仕事をします。

っていうか、たまりにたまった仕事をする連休となりそうだ。今日だってお昼をすませてずっと仕事場にこもっている。みたい映画が1,2本あるのだけど、愛猫・日向子のこともあるし映画館には行けそうもない。

新刊紹介をしたい。

千葉皓史句集『家族(かぞく)』

四六判ハードカバー装帯有り 188ページ 二句組

俳人・千葉皓史(ちば・こうし 1947年東京生まれ)の第2句集である。第1句集『郊外』より30年経ての第2句集となった。俳誌「泉」で石田勝彦・綾部仁喜両師について俳句をはじめる。俳人協会会員。前句集『郊外』では、俳人協会新人賞を受賞している。

本句集には、『郊外』以後、ほぼ平成末年までの作品を収めた。と「あとがき」にある。

本句集を一読後、俳句の古格のもつ力強さをおもった。

俳句形式へのぞんぶんなる信頼につらぬかれた句集である。

切字、余白、簡明、季感、物の手触り。

一句はまことにシンプルにして、大きな空間をよびおこし、そこにがっつりとした物感がある。簡潔にして語りすぎず、そしてものの叙し方に固有性がある。

骨太の句集である。

 濤音のどすんとありし雛かな

この一句のなかにある切れ、その切れがおおきな空間を呼んでいる。わたしの好きな一句だ。濤音を詠んでいるのだが、わたしたちの目には荒々しい様で立ち上がってくる波の姿がみえるではないか。青々とした海原と白い飛沫、ざぶんではなく地表をゆるがすような濤音のどすん、そこから一挙に可憐にして雅なるお雛さまへとわたしたちの目は運ばれ行く。海辺の漁村に祭られた雛さまなのだろうか。すべてその背後の景色はそぎ落とされ、荒々しい春の海と白い雛様の顔がクローズアップされる。俳句という形式のみが立ち上がらせることのできた一句だとわたしは思った。

 てのひらを降ろしてもらふ雛かな

この句も雛祭りの雛を詠んだものである。上記の雛の句とおなじくらいわたしの好きな一句である。なんともこの句ははからいのない一句に見える。お雛さまをもとあったところにしまう作業(?)なのだろう。上向きになっていたてのひらをおろして仕舞うのだ。「てのひらを降ろしてもらふ」という上5中7の丁寧な措辞、ここにこめられた人とお雛さまとの関係、そしてゆったりと流れる時間、それはこの一句を詠む作者をつらぬいている時間の速度であり、日常を丁寧にいきる作者の心映えがみえてくる一句だと思う。「てのひらを降ろして」もらっているお雛さまの可憐さが一句をよむ読者にもたしかにとどく。

 はなびらの間のひろき野菊かな

これは驚いた一句である。野菊を詠んだ一句だ。作者の目の前に咲いていた野菊の様だろう。なんの説明もいらない一句であるが、野菊の様子がよくみえてくる。「はなびらの間のひろき」という表現を「野菊」を前にしたときにこんな風に除せるだろうか、つまり目の前の野菊の固有性(おおいに花びらどうしがはなれているという)を作者は詠んだのであり、そのことを詠嘆をふくめた切れ字の「かな」が決定的にしているのだ。この「間のひろき」からみえてくることは、そこにもひろびろとした世界がひろがっているということであり、野菊とその世界との関係があるということ。野菊をこんな風に詠んだ俳句をわたしはいまだ知らない。おなじく野菊を詠んだものに〈日面に一輪ひそむ野菊かな〉。作者にとって、お雛さまも野菊もだたいちどかぎりの固有なるものとして存在するのだ。

 夕風に浮かべてもらへ浴衣の子

なんとも涼しそうな一句である。浴衣姿の子ども、きっと小さい子だろう。気持ち良い夏の夕暮れ、涼しい風が吹き寄せている。風をはらむことのできる浴衣は、風の浮力を得てふっと浮き上がりそうな気配、いやこんな鑑賞はつまらない。「浮かべてもらへ」という大人の目がいいのだ。夏の一夕の子どもと大人の時間が交錯する。ほかに〈薫風を行かせをりたる子供たち〉ここでも風と子どもたちは親しい。

 秋晴を嗅ぐ老犬のするごとく

好きな一句である。「秋晴を嗅ぐ」とは思い切った措辞だ。普通はもうすこし違う言い方となる。秋気を嗅ぐかな、しかしそれでは理におちる。やはり「秋晴を嗅ぐ」がいい、その晴れ渡ったきりりと澄んだ空へ顔をむけて空気を吸うのではなく、「嗅ぐ」のである。なんの匂いがするのだろうか。そしてその様をしながらふとまるで老犬みたいだと思ったのだ。しかし、なにゆえ「老犬」なのだろうか、老犬でなくても嗅ぐだろう、わたしが思うに、作者もまた若くはないのである。老を意識した一人の人間なのだ。そんな人間が秋晴れの匂いを嗅いでいる。すこし淋しくすこし可笑しく、そしてすこしあわれ。「老犬」だから心をうつ。 

 外套の中なる者は佇ちにけり

この一句は、作者のまさに固有な叙し方が効果的に効いた一句だとおもう。詩にはなりにくい簡単明瞭にみえることがらを俳句の形式をつかって一句に仕立てたものだ。冬の外套をきて、やや武装したようにみえる人間がそこに立っている、そんな景かもしれない。しかし、形式を十全につかって言葉を重ねて、外套を着ている人間をある尊厳をもって立たしめたのだ。「けり」の切れ字がよく効いている。シンプルな景でも俳句の形式にいかにとりくむかによって、一句が重厚にたちあがる、そんなことを気づかせる一句ではないだろうか。

『家族』は私の第二句集である。

平成三年に上梓した第一句集『郊外』の序で、石田勝彦師は以下のやうに書いて下さつてゐる。

 「句集の終りの方に、次の句がある。 冬川につきあたりたる家族かな どうやら千葉君の演技は、「家族」にまで達したらしい。どういふ演技の出来映を見せてくれるか、彼の句の読者のたのしみが一つ増えたことになる」

亡師の期待にお応へ出来たはずもないが、かうして第二句集『家族』を出すまでに三十年といふ途方もない歳月が過ぎてしまつた。勝彦師の墓前と、その亡き後も親身にご指導下さつた綾部仁喜師の墓前とに、深くお詫びを申し上げなければならない。 

「あとがき」の一部を紹介した。

本句集は著者・千葉皓史さんの自装によるものである。

第1句集『郊外』に響きあわせるかたちの徹底的にこだわった装丁である。

用いた用紙は、全句集とおなじ材質で色違い。

質朴さとシンプルさそして骨太な風合いを大事にされた。

このタイトルと題字も著者によるものである。

意匠の凝ったものの多い、最近の本作りのなかではこの質朴さはかえって印象的である。

また、作者の俳句作品と響き合っている。

表紙もカバーと同じもの。

花布は、深い緑。

栞紐はあえてつけず。

 枯菊の沈んでゆける炎かな

本句集には「かな」けり」などの切字が多様されている。最近の句集にはない傾向である。

切字への信頼もまた俳人・千葉皓史の面目躍如たるものだ。

たくさんの良い句があるが、ほかにいくつか、

 冬座敷われが入つて来たりけり   この森の映つてゐたる木の実かな

 青空の端に出されし福寿草      秋風をのせてふくらむ水面かな

 亡き母のわれを想へる辛夷咲く    蜻蛉の搏つたるわれの暮れかかり

本句集上梓にあたって、刊行後のお気持ちをうかがってみた。

◯本句集上梓に込めた思い。

70才を過ぎた頃から、句作りに一と区切りをつけたいという思いが強くなりました。遅ればせながら、俳句作者として、自分の年齢ともう一度向き合う必要を感じたのです。

第一句集『郊外』は、ある時代の始まりに行き合わせた句集でしたが、第二句集『家族』はその時代の終焉に立ち会う句集になりました。これは、私がいわゆる「団塊の世代」の一員だったことを意味します。

昭和22年に生まれた私が、幸せな幼少期を過ごした事実に気づかせて下さったのは、勝彦先生です。

「彼の詠む子供たちは、いはば彼と等身大の像を結んでゐるのである。私が彼の吾子俳句を読んでしばしば感ずるのは、これは彼の生の追体験ではあるまいかといふことである。」『郊外』序より(旧仮名使い)

『家族』の選句を通じて気づいたことですが、芭蕉が晩年に到達した境地とされる「軽み」とは、誰しもが幼少期に体験する初心の日常感覚と重なり合うのではないでしょうか。いまの私の年齢になってみると、両者が無縁とは思われません。

ー俳諧は三尺の童にさせよ(三冊子)ー。

 ◯本を手にとったときの思い。

ふるさとの浜辺に帰り着いたばかりの「浦島太郎」のような思い、とでもいえばいいでしょうか。今となってみると本句集は、概ね過ぎ去った時代の暮らしを詠んだものです。勝彦先生も、仁喜先生も、故人となられました。

作り手の私は、同時代を生きた大切な読者の多くを失うことになったのかも知れない、改めてそう気づかざるを得ませんでした。本句集は、私にとっては二重の意味で「失われた月日」の作品だといえるでしょう。一句ごとの世界は、私の中でなおも生き続けていますが、そもそもこの句集は「読者」に出会えるだろうか。そう心配する自分がいました。

旧知の句友の皆様はもちろん、若い俳人にもぜひ読んでいただき、率直なご感想をお聞かせいただきたいものです。

◯これからの思い。

かつて、私の句作りを私小説的な「境涯派」の流れに位置づけて下さる方もありました。しかしながら、作者と作中の主人公との関係は、例えば役者と役柄のような、かりそめのものだともいえます。俳句の私小説的な性格を否定するつもりはありませんが、作者としてはむしろ、作品の客観性、普遍性をこそ目標としたいと考えています。

物心ついて以来、眼前に生起する日々の眺めに勝る不思議はないし、よろこびの泉も他には見当たりません。今後の句作りにおいても、写生を基本としながら、韻文性を重んじつつ、五七五を演じるつもりです。

千葉皓史さま

第2句集のご上梓、おめでとうございます。多くの人に待たれた句集でした。

こころよりお祝いを申し上げます。


https://sengohaiku.blogspot.com/2024/02/hanameguri002.html 【【鑑賞】豊里友行の俳句集の花めぐり2 千葉皓史句集『家族』(2023年4月20日刊、ふらんす堂)を堪能する。】より

 千葉皓史(ちば こうじ)さんの俳句を読めば、大ベテランの俳人であることは御理解いただけるだろう。

 1991年の千葉皓史第一句集『郊外』により第15回俳人協会新人賞を受賞。

 帯の俳句も俳句の醍醐味を存分に発揮しているので拾い読みしてみよう。

濤音のどすんとありし雛かな

 濤音は、「なみおと」とも読み、大きな波の音や 水の大きなうねりの音を意味する。その一瞬のうねりのドスンっと音が描かれて途端に雛が立ち現れる。俳句には、それだけしか描かれていないのにまるで鳥類のひなが、樹々の巣から落ちたその場の一瞬を目撃したような瞬間の文学が表出される。

 このような俳人の神業が、ふんだんに盛り込まれたこの句集で何を私は、見出せるというだろうか。あるがまま拾い読みを進めたい。

この森の映つてゐたる木の実かな

 まるで映画のロングショットの森の風景からそれを映し込んでいる木の実のクローズ・アップの映像の手法で千葉皓史俳句に惹き込んでいく。この移ろうような映像美の掌握を俳句において読み手の心までも見通すように俳句文学を創造しているようだ。

目を見せて浮かぶ蛙となりにけり

 潜水艦のような目が浮かび、こちらを見ている。それは、こちら側にも目を見せていると把握することで蛙が生存競争の大自然にあって生き物の尊厳をも浮かび上がらせている。

東京を見失ふ雪しんしんと

 東京を見失う。千葉皓史俳句の醍醐味は、これらの把握力の新鮮さ、斬新さ、そしてモノの本質を捉える観察力にある。雪がしんしんと降る中に作者は、大都市で作者自身の存在さえも希薄になりがちな大都会のその東京さえも抱擁するように雪は包み込み、己の存在さえも見失わせてしまうのか。

 兎にも角にも千葉皓史俳句は、熟成の時を経て俳句の器へ人生を注ぎ込みながら結実していく。 また観察眼に裏打ちされたその俳句文学の大舞台を共鳴句と共にごらんください。

敲いてはのし歩いては畳替           枯菊の沈んでゆける炎かな

氷水つめたき匙が残りけり           ふさふさとほほづき市の立ちにけり

青とかげ蛇籠の中を走りけり          蝙蝠の栄ゆる空の暮れかかり

春雪の割れて沈める藪がしら          秋燕の押し上げられて集ひけり

摘みきれぬ土筆の中を帰りけり         赤ん坊の手ゆび足ゆび鯉幟

蟷螂をはらふ平手をもつてせり         真ん中に立たせられたる干潟かな

馬小屋に馬の納まる日永かな           手の届くところに夜の白つつじ

踏まれずにある一日の団栗よ

 畳替の所作をしっかりと描く五感を駆使した観察力に脱帽。

 枯菊が炎として沈む。そこには、徹底した観察力の鍛錬に裏打ちされた詩的イメージ化が昇華されている。

 氷水と冷たい匙の存在感や鬼灯市がふさふさと立ち現れる。

 青蜥蜴が蛇の籠の中を走り回る様や蝙蝠の賑わいは、暮れかかる空も鮮やかさなども春雪の割れて沈む藪がしらの描写も徹底した写生、観察力に裏打ちされている。

 秋燕の飛翔の存在感を持って集いあう。その描写力。

 摘みきれない土筆の中を帰ることのユーモアさ。

 赤ん坊の手ゆび足ゆびの描写と鯉幟の配合の躍動感。

 蟷螂を払うその平手のクローズアップ。

 真ん中に立たせられる干潟での覚醒。

 馬小屋に馬が納まる。その日永。

 踏まれずにある一日の団栗がある。

 一見、この2句は、平凡に見える。だが日常を詩に持ち込む術は、達人級だ。

 手の届くところに夜の白つつじがあること。そこから俳句の読み手に委ねる業も達人のなせる業だ。描写力と言葉の喚起力がある。そこには、並々ならぬ観察力の鍛錬と人生の歳月が俳句に注がれてきたのだろう。

子の余す舞茸汁をすすりけり           うしろから息の白きを言はれけり

卯の花や子供がつかふ風呂の音          切薔薇をすくひ取りたる妻の指

春を待つ母はひとりにして置かれ         父母若き運動会が始まるよ

声ちぢむ水砲をしてゐるよ            父の亡き母の亡き草青むなり

跳びついて抱き上げらるる端午かな        いくつでも剥いてくれたる柿甘し

 千葉皓史俳句の歳月には、優れた俳句の先生方や俳句仲間との出会いの財産があったであろうことは、あとがきにも記されている通りだと私は、勝手に想像してしまう。句集タイトルにある「家族」を楽しみに見てくださった先生方の存在も大切だろう。

 子の残しものを味わうようにすする日常の俳句日記。後から抱きつかれ白い息を言い当てられる。その共有する悠久の俳句にこそ「家族」があるのかもしれない。俳人の五感が捉えた子が浸かる風呂の音も。切薔薇を掬う妻の指の妙技も。日常の荒波に急かされながら母を置く切なさも。運動会の掛け声も。水鉄砲を被弾して声が縮んだりするのも。果実のごとく跳びつく端午の成長の子の重みも。めぐりめぐって作者に何度も甘くて美味しい柿を剥いてくれた父よ。母よ。そして我が子よ。家族はめぐりめぐって地球の自転のように俳句に永遠のようにとどまるようだ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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