https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B2%A1%E4%BF%AE 【高岡修】より
高岡 修(たかおか おさむ、1948年9月17日 - )は、日本の詩人、俳人。十代の頃より詩・俳句・小説を書き始める。昭和43年(1968年)現代俳句誌「形象」に参加、最年少同人となり、前原東作、前原誠、岩尾美義に師事。のち同誌の主幹に就任。[1]詩集に『犀』『蟻』など20冊、句集に『剝製師』など9冊。南日本文学賞・土井晩翠賞・小熊秀雄賞・現代俳句評論賞・現代俳句協会賞などを受賞。[2]文庫に『高岡修詩集』(思潮社版現代詩文庫)、『高岡修句集』(ふらんす堂版現代俳句文庫)。思潮社の現代詩文庫とふらんす堂の現代俳句文庫の両方にその名を冠する、唯一の存在である(2021年10月現在)。[3]現代俳句誌「形象」主幹。出版社ジャプランを経営。[4]
評価
藤沢周(小説家)は高岡修の俳句をこう評している。「高岡修が死をもたらそうとしているのは、明るみにある安穏とした既存の言語体系に編み込まれたすべてのもの、と、まずはいえるだろう。近現代の言語は、「死」すらもが鉤括弧にくくられ、夥しい指紋に汚れたイメージしかないではないか。「死」といい、「彼岸」といい、すでに名づけられた上での「死」「 彼岸」に寄りかかる認識自体に、俳人は殺意を覚えるのである。その凄まじい句業は、言語世界へのテロルとも呼びたくなるほど激越、かつ革命的でもあるのだ。」(「殺界―俳句という殺人―高岡修論」『高岡修句集』(現代俳句文庫76 ふらんす堂)より)[5]
城戸朱理(詩人)は高岡修の詩をこう評している。「ふつう、日本語によるシュルレアリスティックな詩とは、非日常的で、どちらかと言えば生硬な語彙を用いて、語と語の衝突から新たなイメージを立ち上らせるものがもっぱらだが、高岡修においては、一見したところ、平明なセンテンスが立ち上げるイメージと意味が、つづくセンテンスによって異化され、新たなイメージと意味を生じさせる独自の方法がとられている。おそらく、その詩は、和合亮一の意味のねじれから新たなイメージを立ち上げるというダイナミックな詩法と並んで、日本語における最良のシュルレアリスムの達成と呼ぶことができるだろう。」(「孤独が貫くもの」『高岡修詩集』(現代詩文庫190 思潮社)より)[6]
来歴
1948年9月17日 - 愛媛県宇和島市生まれ
1962年 - 鹿児島市に移住
1965年 - 国立鹿児島工業高等専門学校電気工学科に第2期生として入学 在学中より詩・俳句・小説を書き始める
1968年 - 現代俳句誌「形象」に参加 前原東作・前原誠・岩尾美義に師事
1970年 - 国立鹿児島工業高等専門学校電気工学科中退
1990年 - 第18回南日本文学賞受賞 (詩集『二十項目の分類のためのエスキス・ほか』)
1991年 - 「形象」復刊とともに編集長に就任
1994年 - 前原東作死去とともに「形象」主幹に就任
2001年 - 第27回南日本出版文化賞受賞 (『現代 鹿児島短歌大系』の編纂により)
2005年 - 第46回土井晩翠賞受賞(詩集『犀』)
2007年 - 第27回現代俳句評論賞受賞 「蝶の系譜-言語の変容にみるもうひとつの現代俳句史-」
2008年9月17日 - 南泉院(鹿児島市花尾町)にて還暦逆修生前葬を行う 法名・詩岳修道居士
2009年 - 現代俳句評論賞選考委員に就任 (2014年まで)
2012年 - 現代俳句協会理事に就任
2016年 - 第71回現代俳句協会賞受賞(句集『水の蝶』)
2018年 - 現代俳句協会賞選考委員に就任[7]
2021年 - 第54回小熊秀雄賞を受賞(詩集『蟻』)。「いつの頃からか「蟻」をテーマにした詩集を書きたいと思っていた。」「20冊は詩集を出したいと思っていた私にとって、結局、『蟻』は19冊目の詩集となった。ぎりぎりのところで目的を果たした」とコメントしている。[8]
著書
詩 集 『晩餐図』(86年) 『水の木』(87年) 『紙の空』(88年) 『二十項目の分類のためのエスキス・ほか』(89年) 『死とメルヘン』(91年) 『鏡』(93年) 『梨花の時間』(01年) 『梨果の時間1』(03年) 『犀』(04年) 『屍姦の都市論』(05年) 『蛇』(06年) 『火曲』(09年) 『幻語空間』(10年) 『季語生成』(12年) 『月光博物館』(13年) 『火口の鳥』(14年) 『胎児』(16年) 『原始の人』(18年) 『蟻』(20年) 『一行詩』(21年) 『微笑販売機』(23年)[9] 全詩集『高岡修全詩集1969~2003』(03年)
文 庫 思潮社版現代詩文庫『高岡修詩集』(08年) ふらんす堂版現代俳句文庫『高岡修句集』(14年)
句 集 『幻象学』(02年) 『蝶の髪』(06年) 『透死図法』(08年) 『高岡修句集』(10年) 『果てるまで』(12年) 『水の蝶』(15年) 『剝製師』(19年) 『凍滝』(20年) 『蝶瞰図』(22年)[10] 『蟻地獄』(23年)[11]
評論集 『死者の鏡-新純粋俳句論のための手紙-』(11年)
編 著 『新編知覧特別攻撃隊』(09年)
小 説 『虚無のみる夢 -新虚無僧伝-』(15年)
監 修 『西郷隆夫の「一点」で囲む』(18年)[12]
https://fragie.exblog.jp/23530027/ 【最小のものに最大の驚きあり】より
今年もたくさんの方々から年賀状をいただいたが、俳人で漫画家の小林木造さんのお年賀はあまりにも素敵でわたしは傍らに飾っておくことにしたのだった。
手書きの絵も木造さんらしくてとてもいい。
そしてこのファーブルのことばがすばらしい。
最小のものに 最大の驚き あり ――ファーブル
この味わい深い年賀状をわたしはときどき見ては心を慰めることになるだろう。
聞けば木造さん、いま「犬の糞」を主人公にした漫画を描いているらしい。
ある雑誌に四コマ漫画で描いたところ好評だったので、書き続けているということ。
さらに伺えば、脇役には「鳥の糞」と「牛の糞」が活躍し、この年賀状に描かれている鳥たちもその主人公を取り巻くものたちのひとつであるという。
見れば見るほどこころが和んでくるのだ。いいよなあ……
「犬の糞を主人公にした四コマ漫画なんてないでしょ?」って木造さんは言う。
木造さんとは、以前はよく一緒に武蔵野をあるいた。
彼は蟻やバッタやさらに小さなものを見つけてそれを子どものように観察する。わたしたちには見えないものがよく見えるのだ。
(犬の糞の物語か……)いったい、どんな世界が展開されていくんだろうか……すごく面白そうである。今日も新刊紹介をしたい。
昨年の暮れに刊行させていただいたのだが、好評でいまはすでに品切れの状態である。書店からの返品待ちである。
著者の高岡修(たかおか・おさむ)さんは、1948年愛媛県宇和島市生まれ。ということは芝不器男と郷里をおなじくするのだ。俳誌「形象」の主幹であり既刊句集は五冊(『幻象学』『蝶の髪』『透視図法』『蝸牛領』『果てるまで』)ある。この度の『高岡修句集』にはこの既刊句集五冊より精選したものと『果てるまで』以後の作品が収録されている。ほかにエッセイ「俳句における詩的言語論(抄)」を収録、解説は作家の藤沢周さんが寄せられている。
高岡修さんは、現代詩を書く詩人でもある、あるいは詩人として知っておられる方のほうが多いかもしれない。正直申しあげて、わたしもそのひとりであった。今回この句集を刊行させてもらい既刊句集を五冊ももつ俳人であり、2007年には現代俳句評論賞を受賞されているということを知ったのだった。こちらの認識不足である。詩人としては2005年に土井晩翠賞を詩集『犀』で受賞されている。
彼の世へのまばたきとして蝶ひとつ 炎天にいて鳥影に殴られる
ひとの尾を洗う音する日曜日 肉欲の光(かげ)を出てゆくかたつむり
昼顔をひとつずつ摘み遠くなる 独楽まわる芯に澄みゆくノスタルジー
性愛は殺戮に似て紫木蓮 闇よりもその闇ふかき白菖蒲
山ざくら声ことごとく暮れのこす 空蟬に野があつまってきて濡れる
かたつむり踏めば怒濤を踏むごとし きさらぎの鳥きさらぎの光(かげ)を食み
右手置く一万年後の春の辺に 手袋が手を脱ぎ捨てているソファー
わたしの好きな句を引いてみた。物の手触りがあり季語が効いていて(無季もあるが)ことばに無理をさせていない、そんな感じがするものだ。感覚の裏付けをもてるものというべきか。しかし、この句集の魅力はもっと別のところにあるようだ。
もっと違う視座から読まれなくてはいけないのかもしれない。
高岡さんは、その「俳句における詩的言語論」でこう書く。本書を読んでいただくのが一番いいのだが、すこし乱暴な引用になるが、紹介したい。
むしろ俳句は、書かないという意志において書く文学行為である。小説や詩のような言語を重ねるという行為を捨て、短歌形式の完璧な韻律美をさえ捨てた。書かないという意志において書くという、世界の表現史上に類例のないパラドクスは、しかし、その作品の内界に、怖るべき高度と広さを獲得した。すなわち、俳句という形式が必然的に身体化した言語の質とその構造によって、それは進化し体現されたのである。(略)
蝶墜ちて大音響の結氷期 富澤赤黄男
(略)、この章句のもつ真の意味はこれまで明らかにされてこなかったように思う。しかし、この章句の指し示す意味の全貌にこそ、真の俳句性や真の俳句言語の在りようが明らかなのである。と書き、これまでのこの俳句について書かれた「二物衝撃」論について言及し、あるいは「切れ字」についての考察をへてつぎのように結論するのである。
二物衝撃空間とは詩のもっとも原初的な発生場所である。それは、できるかぎり遠い関係にある二物が配合されるときに生じる超現実世界である。それゆえ、その現前それじたいがすでに現実世界を越えている。蝶の作品においては全ての構造が真正なる二物衝撃空間としてある。すなわち、「蝶」と「結氷期」、「蝶」と「墜ちて」、「蝶」と「大音響」、「大音響」と「結氷期」という具合いにである。つまり、この作品世界の全てがすでに現実世界を越え、人間世界を越えているのである。
「超現実世界」(シュールレアリスム)としての俳句だということだ。
そういう視座から高岡さんの俳句は読まれてなくてはならないのかもしれないが、わたしはあえて言えば現実的な手触りをしかと身に覚えるそんな句に惹かれた。
作品は著者を離れて一人歩きをしていくものであるからあるいはどう読まれてどう好まれてもよいのかもしれないけれど。
解説を書かれた藤沢周さんは、こう書く。力のはいった論であるが、こちらも一部のみ引用になってしまうことをお許しいただきたい。
タイトルは「殺界―俳句という殺人―片岡修論」。
(略)俳人・高岡修。
高岡修が死をもたらそうとしているのは、明るみにある安穏とした既存の言語体系に編み込まれたすべてのもの、と、まずはいえるだろう。近現代の言語は、「死」すらもが鉤括弧にくくられ、夥しい指紋に汚れたイメージしかないではないか。「死」といい、「彼岸」といい、すでに名づけられた上での「死」「 彼岸」に寄りかかる認識自体に、俳人は殺意を覚えるのである。その凄まじい句業は、言語世界へのテロルとも呼びたくなるほど激越、かつ革命的でもあるのだ。
「明るみにある安穏とした既存言語体系に編み込まれたすべてもの」への殺人者である。つまりわたしの読みなどは、この殺しの対象とすべきものかもしれないな、とちょっとゾクッとした。
藤沢周さんが鑑賞されている俳句を紹介したい。
彼の世へのまばたきとして蝶ひとつ 春暁を横抱きにして殺意くる
春山へ斧の動悸を持ってゆく 黄金の蜥蜴が出入りする愁い
身の涯ての瀑布のとても白いこと 花舗のくらがり亡命の白鳥を犯し
俳句が「世界の表現史」を殺し、言語と認識の座標を解体した時、地平線すらも、言葉の未遂となって消え入る。だが、そこにこそ、世界の実相が浮かび上がるのだ。途方もない言葉のテロルで、言語地図が姿を変えた今、こんな一句にさらに戦慄する
殺意なら森商店の裏にある
俳句は物を言わないという意志において書く文学である。そこにはむしろ、書くということへの激しい意志が要求される。そのことを私は、本書に掲載した評論の冒頭に「世界の表現史上に類例のないパラドクス」と書いたのだった。
その詩の極北としての俳句世界の現前を、私は半世紀近くもめざしてきた。だが、いまだに道は遠く、険しいままだ。この一書を遥かなる詩界への一里程とするほか仕方がないようである。
「あとがき」のことばである。
未だ書かれざる一句を切望し、俳句という詩型に立ち向かう著者の姿がみえてくるばかりである。
月下とはりんどうが飲む水の音 高岡 修
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