怺へきし涙の数の桜かな  髙柳克弘

https://www.osaka-c.ed.jp/blog/mikunigaoka/kochoblog/2024/02/29-252636.html 【卒業式で、思わず涙が溢れてしまいました...】より

 本日10時から、第76回卒業式がありました。コロナ禍の影響をモロに受けた76期生が三国丘高校を巣立っていきました。壇上に立って卒業生の答辞を聴いていると、思わず涙が溢れて止まらなくなりました。楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、寂しかったこと...正直になれなかった自分、仲間に助けられた自分...語り尽くせない想い出が教えてくれた「感謝」の心。様々な経験を全部前向きに捉えていく卒業生の成長の軌跡が記憶の中の印象的なシーンと結びつき始めたら、頬に熱いものを感じました。答辞を聴きながら壇上で泣いている校長なんて見たことも聞いたこともないので流石に申し訳なくてハンカチで拭うこともできず、流れる涙をそのままに最後まで聴いていました。

 卒業式の式辞はいつも悩むのですが、今回は特に何を伝えれば良いのか悩み抜きました。それぞれに個性はありますが基本的には真面目で頑張り屋さんの三丘生たちが新たな学びを求めて卒業していくのですが、その後に待っている社会の荒波を考えた時、伝えなければいけない言葉は何か...と考えに考えた結果書き上げた式辞がこれです。少し長いですが、興味を持っていただけた方は読んでみてください。

 76期生のみなさん、卒業おめでとうございます。今日はみなさんの門出を祝うため、三丘同窓会・後援会とPTAからご来賓のご臨席をいただいております。お忙しい中お越しいただき、心から感謝を申しあげます。今日の卒業式は、極力、コロナ禍前の式典に近づけることを意識し、より多くの保護者の皆様にお越しいただけるようにいたしました。在校生を含め、ここにお集まりいただいたすべての皆様の温かい気持ちで76期生を送り出したいと思います。

 早速ですが、私からは、卒業生のみなさんに、魔法の言葉を贈ります。この言葉の効果をより深く感じてもらうために、まずは、高校生活を振り返ってもらいましょう。最初は、嬉しかったことや楽しかったことだけ思い出してください。合格発表、文化祭、体育祭、修学旅行...次から次へと思い浮かんでいるんじゃないでしょうか。次は、辛かったことや苦しかったことだけ思い出してください。受験勉強、人間関係...一つ浮かんだらだらどんどん連想しているのではないでしょうか。

 高校時代を振り返った感想はいかがですか。いろんなことがありましたよね。これがあなたの高校時代です。では、これから先はどうなると思っていますか?まさか、自分の未来には良いことしか起こらないんだ!と思っている人はいませんよね。逆に、こんな自分には悪いことしか起こらないに決まってると悲観している人はいませんか。直近のことを言うと、希望する大学に合格し意気揚々という人もいるでしょうし、正直言ってそんな明るい気分じゃないよ...という人もいると思います。

 既にみんなの三倍以上生きてきた人間として言います。ずっと調子の良い人生なんてあり得ません。それは幻想です。ずっと悪いことしか起こらない人生もありません。それも幻想です。「人生は山あり谷あり」です。ここまでわかっていただいた上で、そろそろ魔法の言葉を発表しましょう。「最後はハッピーエンド」 これが魔法の言葉です。

 人生の最後が山であろうと谷であろうと、自分の人生の最後はハッピーエンドだと決めてしまうのです。そうすると、どんなに辛いことがあってもその先に希望の光を見ることができます。どんなに苦しい時もその苦しさが永遠に続くものではないということを知っているからです。

 実際のところ、あなたがハッピーエンドかどうかなんて誰かに決めてもらうことではありません。決めるのは他の誰でもなくあなた自身です。だから「最後はハッピーエンド」と今から決めてしまったとしても何の不都合もないのです。

 そんなことを考えていたら、喜劇王チャップリンの言葉を思い出しました。「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」苦難の人生を歩んだチャップリンだけに味わい深い言葉ですが、もしかしたら彼は、自分の人生の最後はハッピーエンドだと決めていたのではないかと想像します。〈遠くから見た人生〉即ち「自分の人生の全体像」は喜劇だと言っているのですから、最後はハッピーエンドに決まっています。バッドエンドの喜劇など誰も観たくないからです。

 最後に一つだけ宿題が残りました。あなたにとって、幸せとは何でしょうか。自分にとっての幸せが何かわからなければ、ハッピーエンドを考えることもできません。私は教職しか知りませんので、生徒が笑顔になることが自分の幸せだと思って生きてきました。みなさんは何が幸せですか。それを明らかにしていくことがみなさんに課された宿題です。

 76期生のみなさんへの私からのメッセージは以上です。

 最後の最後に、もう一つだけ、とても大事なことを言います。よく聴いて忘れないようにしてください。何度も何度も「最後はハッピーエンド」という魔法の言葉を自分に言いきかせているのに、やっぱり辛い時、やりきれない思いが洪水を起こしてしまった時は、ここに帰ってきてください。三国丘高校はみなさんの「家」です。

 だから、76期生のみなさんを送り出す最後の一言はこれにしました。

 「いってらっしゃい」「元気でな」


https://shop.gyosei.jp/library/archives/cat01/0000017650 【卒業やカーテン淡き保健室

克弘】より

(『教育実践ライブラリ』Vol.5 2023年1月)

 子どもの頃、国語のテストの「作者の言いたいことを答えなさい」という質問文に、「知るかよー!」と思った経験、ありませんか?私もその一人でした。それが今年、まさかの「作者の言いたいこと」を作者自身が答える、という体験をすることになるとは……。

 二〇二一年に、児童文学『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』(ポプラ社)を刊行しました。いじめのために教室に行けなくなった中学生の主人公・ソラが、保健室登校をする中で俳句好きのハセオに出会うことで、句会に誘われ、人を傷つけることも救うこともできる言葉について考えを深めていく、というストーリー。主人公とその友人の名前は、紀行文『おくのほそ道』の旅をした芭蕉と曾良の名前から取りました。

 俳句を取り扱った児童文学は珍しかったのでしょう、幸い好評を得て、第七十一回小学館児童出版文化賞を受賞することになりました。また、二〇二二年度の桜蔭中学校、学習院女子中等科(帰国子女対象)の入試問題にも引用してもらいました。

 子どもの作る俳句は、素直なところが魅力的です。もう二十年近く、読売新聞でKODOMO俳句というコーナーを担当していて、そこに寄せられてくる小学生の俳句は、とにかく自由、奔放。おそらく、本当に俳句が作りたくて作っている子どもは稀で、多くが学校の先生から言われて作らされているのだと思うのですが、「めんどくさいなー」と思いながら適当に作っているスタンスが、いい具合に肩の力が抜けているために、はからずも面白い句が生まれるのです。

 そのように子どもの俳句に触れてきた経験が、執筆の契機でもあったので、担当の記者さんに受賞と入試問題採用のことを報告したところ、「ぜひ記事にしたいので、入試問題を作者自身で解いてもらって、国語の入試問題に備えている受験生へのコツを教えてもらえないだろうか」という依頼がありました。

 作者自身が作者の気持ちを答える、というのは、はじめての体験です。少年時代に、「作者の言いたいことを答えなさい」に「知るかよー!」と思った一人ではありますが、もうそれではすまされない。久しぶりに学生時代に戻った気持ちで、それぞれの入試問題に、取り組んでみました。模範解答は、あえて知らないままにして。

 けんめいに解答を仕上げて(試験時間よりはるかに長く掛けてしました)、記者さんに送り、やがて掲載記事が送られてきました。そこには、私の解答と、中学校の解答例が並んで載せられていました。

 それを見て思ったのは、やはり作者の思い入れが、強く出てしまうな〜ということ。たとえば、「作者が『ヒマワリの種』を『大地のパワーのおおもと』と言い換えているのはなぜだと考えられるか」という問題。ソラは、自分の顔のほくろをヒマワリの種に譬えた俳句をハセオが詠んだことにショックを受けるのですが、対話するうちに、傷つけたかったわけではないとわかり、仲直りをします。そこで、誤解のもとになったヒマワリの種を捨ててしまわないで、「大地のパワーのおおもと」と呼んで、握りしめるという場面なのですが……。学習院女子中等科の模範解答では「話を聞くうちにハセオの気持ちがソラにも伝わり、ヒマワリの種が特別な力や元気の出るもとのように思えてきたソラの気持ちの変化を表しているから」と、まさに簡にして要を得た解答。一方、作者である私の解答は「二人の友情がいっそう深まり、俳句活動も熱を帯びていくことを暗示している」という、「書かれていないこと」にまで踏み込んだ内容になってしまっていました。

 「作者が……言い換えているのはなぜだと考えられるか」という問題なので、作者がそう言っているんだからそれでいいのだ!と開き直ることもできるのでしょうが、あくまで文章というのはそれ自体で独立したもの。読者の解釈が作品をよりよく見せるのであれば、作者はむやみに主張せず、ただ引き下がるのみ。やるべきことをやったらあとは若者に任せてすっと音もなく去ってゆく、クリント・イーストウッド監督の映画の主人公のようにふるまうべきなのです。

 先日、記事にしてくださった記者の方との忘年会がありました。そこで、記事の話になった際、微酔の勢いで「実際に先生方に採点してもらいたいですね〜」と気軽に振ってみたところ、実は某大手予備校の先生に採点をしてもらった、と言うではありませんか。

 「えっ、何点でしたか?」と思わず前のめりになって聞くと、いかにもすまなさそうに、「書くべきところが書いていなかったということで、百点満点換算で五十点でした」。

 全国の受験生の皆さん、「作者の言いたいことを答えなさい」、作者も答えられないんだから、どうか間違っててもがっかりしないで、気持ちを切り替えてね。


https://note.com/bunkahyakkaten/n/n5c1b9da9e6c6 【熱も体温もない紙の上に魂を乗せる厄介さ【2022/3/20放送_俳人/俳句雑誌「鷹」編集長 高柳 克弘】】より

3月20日の文化百貨店にお越しくださったのは、俳人・俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さん。番組MCの山崎晴太郎が、かねてから興味を持っていた俳句の世界について、2週に渡って伺います。

【パーソナリティ】

セイタロウデザイン代表・アートディレクター 山崎晴太郎(@seiy)

【今週のゲスト】

俳人/俳句雑誌「鷹」編集長 高柳 克弘さん

1980年、静岡県浜松市生まれ。早稲田大学教育学研究科博士前期課程修了。藤田湘子に師事。第19回俳句研究賞受賞。句集に『未踏』(第1回田中裕明賞)、『寒林』。評論集に『凛然たる青春』(第22回俳人協会評論新人賞)、『どれがほんと? 万太郎俳句の虚と実』『究極の俳句』。児童書に『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』。2017年度、2022年度「NHK俳句」選者。「鷹」編集長。読売新聞朝刊KODOMO俳句選者。中日俳壇選者。早稲田大学講師。

▶︎“余白をきちんと読み取ってもらえるか”を句会で確かめる

【山崎】僕はデザイナーという仕事をやっているんですけども、30歳を越えたあたりから、自分のルーツみたいなものを表現の軸に持ちたいと思って、水墨画や生け花をやってきました。もう1つずっと心の中にあるのが、俳句。仕事がデザインなので、ビジュアライズするというか、画的なアプローチでやることが多いんですけど、画的に言葉を紡いでいると感じているのが俳句なんです。

実は父親が俳句好きで、幼少期にお風呂場で覚えさせられたりしていて、音やリズムが印象に残っていたんですが、なかなか体系立てて学んだりチャレンジする機会が無かったんですけど、そろそろ踏み出してみようかなと思って、俳句に関する方をお招きしました。

今回のゲストは、俳人・俳句雑誌『鷹』の編集長の高柳克弘さんです。よろしくお願いします。

【高柳】よろしくお願いします。

【山崎】リスナーさんも俳人の方と喋る機会って、あまり無いと思うんですよ。

【高柳】そうですよね。

【山崎】早速ですが、どういう風に俳句をつくっているのかを教えていただいても良いですか?

【高柳】実は俳人の仕事の中で、俳句をつくる割合が一番低いんですよね。他人の句を見て良い句を選んだり、俳句をやりたいという方を集めて教えたりと、つくる以外の仕事がほとんどなんです。ついつい、句作が埋もれそうになるので、自分でも気を付けています。

【山崎】そうなんですね。自分で納得のいく句って、どのくらい出来るんですか?

【高柳】「これぞ!」というものが、一生の中で十句つくれたら一流の俳人だと思いますね。

【山崎】それに向かって、ずっと頭で言葉を紡ぎ続けているんですね。

【高柳】その十句を生み出すための修行、トレーニングという感じですかね(笑)

【山崎】自分では良い出来だと思わなくても、素晴らしい句だと言われることもあるんですよね。

【高柳】そうですね。俳句って作者自身が、その句の良さをよく分からないんですよ。だから句会があって、そこで人に見てもらって、そこで評判の良い句を「これが良かったんだ」という感じで残していく。句会の面白さが、そこなんです。自分が名作だと思ったものが酷評されたりもするし、逆に数合わせとして書いた句がすごく受けたりもするんですよね。だから、自分では分からないんですよ。

【山崎】そういうものなんですね。

【高柳】余白がとにかく大きいので、その余白を「きちんと読み取ってもらえるかな?」という所なんですよね。自分ではこういう想いを込めたんだけど、それがきちんと伝わっているかというのは、実際に投げてみないと分からないものなんですよ。

▶︎せっかくなら借り物の言葉ではなく、自分の俳句をつくって欲しい

【山崎】高柳さんは『鷹』という俳句会に所属をされていますけれど、句会(結社)とはどういうものなんですか?

【高柳】お茶やお花の流派に近いですね。色んな考え方の人がいて、その人が先生になってお弟子さんを集めて、グループをつくるわけですよね。それが結社と呼ばれるもので、主流なのは高浜虚子という人が大きくした『ホトトギス』ですかね。

【山崎】教科書に出ていましたね。

【高柳】「遠山に 日の当たりたる 枯野かな」という句が教科書に出ていたと思うんですけど、その人は“客観写生”を唱え、主観をとにかく抑えて風景を淡々と書くべきだと言ったんです。そのうちに、そういう教えに反発する弟子も出てくるわけです。「もっと感情を込めたい」「自分の人生哲学や社会の事を詠みたい」と、虚子の元を離れた人がまた1つ大きな流れを作ったりして……。

すごくざっくり言うと、客観派と主観派で大きく分かれている感じです。

【山崎】『鷹』は、どういう方向性なんですか?

【高柳】私の所は、完全に主観派の流れです。“自分の心を表現しよう”みたいな所ですね。俳句には色んな考え方がありますけども、私の場合「自分の言葉で表現して欲しい」というのがベースにあります。どうしても、我々は借り物の言葉を使って、普段から生きていると思うんです。けれども、俳句にもそれが出るとね……。

例えば、富士山が水面に逆さまに映っているのと、すごくキレイですよね。これを“逆さ富士”と言うんですけど。

【山崎】そういう風に言いますよね。

【高柳】「逆さ富士だ!」と思うと、それをそのまま俳句に使いがちなんですけど、僕は“水に映る”という事を伝えるには、色んな表現があるんだよと話しています。“逆さ”も1つだし、“映る”というのも有りなんだけど、あえて決まり文句を使わないで「水に映る」という事を表現してみましょうとやっていくと、段々ありきたりの言葉ではなくて、自分の言葉が出てくるようになるんです。せっかく俳句をつくろうと思ってくれたんだから、個性のある自分の俳句をつくって欲しいんですよね。

【山崎】自分の中から、言葉が出てくるようにするという事ですよね。

【山崎】今日は、高柳さんに宇多田ヒカルの『花束を君に』を選んでいただきました。

【高柳】大学生に俳句を伝える時に、たまに引用というか流している曲なんです。“どんな言葉を並べても真実にならない”というフレーズが出てくるんですけど、それを言葉にするという矛盾した歌詞なんですよね。

言葉は辞書に載っている時点で、どんなものでも“オリジナルではない”じゃないですか。例えば、告白をする時の「好きです」という言葉も、全然オリジナルではないですよね。だけど、そこに自分の想いを乗せて、その人の声で言うことで、言葉に魂が乗っていくと思うんです。

だけど、俳句や文芸は、基本的に紙の上に書いていることで勝負をしないといけないので、そこには熱も体温も無いんですよね。自分が楽しいとか、あなたが好きですという事を書くだけでは全然伝わらないので、そこの言葉を工夫していく必要があるんですよ。十七音の型の中で、楽しかったら“楽しい”という言葉を自分なりにアレンジをして、楽しいと言わずに楽しさを伝えないといけない。その言葉の厄介さみたいなものを自覚して欲しくて、いつも流している曲です。

▶︎俳句界全体を時代に合わせていくために書いた『そらのことばが降ってくる』

【山崎】ビギナーに俳句の魅力を伝えるという意味では、昨年の9月に『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』という、小学校高学年から中学生に向けた小説を刊行されました。

中学に入り自分のコンプレックスをからかわれ、保健室登校になってしまったソラ。

保健室で、風変りな同級生・ハセオと出会い、“ナゾク”という俳句遊びに誘われる。

ハセオの熱意によって、俳句に興味をもちはじめるソラ。

そこに加わった、はつらつとした少女・ユミと一緒に俳句に触れるうち、ソラはどんどん、その表現世界に魅せられていく。

そして、学校で企画された新春の俳句大会。思い切って、傷ついた自分の心と向き合ったソラが作った句はー。

【山崎】先ほどの話にあったように、自分の言葉・自分の心を出していくというお話ですよね。児童向けの小説を書かれたきっかけは、何だったのですか?

【高柳】やはり、俳句の世界が高齢化しているという事があります。若い人の言葉をどんどん取り込んで、俳句界全体を時代に合わせてブラッシュアップしていかないといけない。そう考えている中で、小中学生にとって俳句はハードルが高いのかなという所があったので、物語や自分と同年代の登場人物を通して、俳句の楽しさを知ってもらえれば良いなという事で書きました。

【山崎】子供たちに俳句の魅力を伝えて、未来の俳句人口を増やせればという事なんですね。実際に書かれて、いかがでしたか?

【高柳】俳句をつくるのとは、少し違う感じですね。俳句は、あまり理屈が無いんですよ。

「叱られて 目をつぶる猫 春隣」。

久保田万太郎という、劇作家で俳句も達者だった方の句なんですけど、“春がそろそろ近づいている”“猫が怒られて目をつぶっている”って、この2つは何の関係も無いですよね。だから「何で?」と思うんですけど、その「何で?」と思わせる所にも面白さがあるんですね。でも、小説はそれではいけないんですよね。

【山崎】ストーリーラインが、必要ですもんね。

【高柳】そうなんですよ。登場人物にある出来事があって、それが伏線としてこういう行動に出るんだとか、きちんと理が通っていないといけないので、そこが俳句と小説の違いで苦戦したところではありました。

【山崎】読んだ子供たちからのリアクションはどうでしたか?

【高柳】結構、お手紙とかを頂きました。俳句は宿題でやらされてつまらなかったんだけど、もう一回やってみようと思ったという事も書かれていて、俳句のイメージが変わったと言ってもらえるのは嬉しかったですね。俳句に興味の無い主人公が、どうやって俳句に関心を持っていくのかという心の過程に、共感してもらえれば良いなと思います。

▶︎俳句が大事にしているのは“会得の微笑”

【山崎】もう少し、俳句について伺いたいと思います。季語があるのが俳句、季語がないのが川柳という風に理解している人が多いと思うんですけど、その認識で大丈夫ですか?

【高柳】同じ五・七・五ですもんね。諸説はありますが、それで結構かと思います。どちらも“笑い”を大事にする詩形ではあるんですが、笑いの種類が違うとでも言うんですかね。川柳の笑いは、“膝を打つ笑い”という感じなんですけど。

【山崎】サラリーマン川柳とか、そういうものをイメージしますよね。

【高柳】そうなんですよ。一読して、クスッと笑えるようなものですね。

俳句の笑いを難しい言葉で表現した人がいるんですけど、“会得の微笑”だと。「ふむ。そうか、なるほど……。にやり」というような笑いだと言った人がいます。ですので、声に出しての笑いではなく、唇がグッと上がるくらいの塩梅という事でしょうか。

【山崎】ウィットに富んだ感じなんですかね?

【高柳】そうですね。知的なものも含めた笑いですかね。それで、お互い共有して納得し合うという“静かな笑い”かな。

【山崎】なるほどね。話しを戻しまして、俳句を俳句たらしめるのが“季語”ですけど、すごくたくさんありますよね。俳句をやりたいと思って歳時記を買ったんですけど、「多い!」と思って、そのまま閉じてしまいました(笑)

【高柳】閉じちゃったんですね(笑)

【山崎】昔から残っている季語、今の時代だからこそ季節性を帯びる言葉と、季語にも色々あると思うんですけど、どうすれば季語になるんですか?

【高柳】文部科学省が決めているとか、誰か偉い人が決めているとかではなくて、俳句をつくっている人達がどんな言葉にポエジーを感じるのか、どういう言葉なら良い俳句がつくれるのかなという事で認められていきます。本当に、草の根からというか“人々の合意”で決まっていくような形ですね。

【山崎】分かり合える人が増えていくと、季語としてどんどん広がっていくんですね。

【高柳】そうですね。最近の季語ですと”花粉症“。

【山崎】確かに、季節感がありますね。

【高柳】これは、かなり根付きましたね。逆に無くなっていく季語もあります。例えば、今まさに問題になっている“マスク”。

風邪を引きやすくなる時期に着けるもので、冬の季語として載っていたんですけど、もう2年もの間、みんなが年中マスクをしていますよね。そうすると、特に小中学生には季節感が無くなっているのではないのかなと思います。「マスクは1年中着けるもの」だと、これからの若い人たち・子供たちが認識をすると、もしかしたら10年~20年後の歳時記から、マスクが無くなったりする可能性もある。

【山崎】なるほどね。俳句をしない人は、そこまで言葉の持つ意味や季節性と日常的に向き合っていないと思うんですよ。「みんな適当に喋っているなぁ」みたいに、感じていたりしますか?

【高柳】それは無いですけれど(笑) コミュニケーションツールとして使っているから、みなさんにとって、言葉は道具ですもんね。

“活字離れ”と言われていますけど、インターネットの時代なのでSNSなどを通じて、すごく文字量を読んでいると思うんですよ。もの凄い情報を処理している分、「この裏の意味はどういうことか?」とか「この表現は隠された意図があるんじゃないか?」と、言葉1つ1つの意味を熟読する機会が無くなっている感じはする。

それこそ、政治や大きな権力がうまい言葉を使いますから、その言葉の裏に潜んでいるものを察知できる子供達が増えてくれると良いなとは思っています。一俳人の妄想に過ぎないですけど、俳句を通してそういうスキルが身に付くのではないのかなと思っています。

▶︎些細な部分に隠された意味を探る面白さ

【山崎】先ほどのお話は、まさに十七音の奥にある世界や、言葉の余白みたいな事ですよね。

【高柳】そうなんですよ。日本語って、ちょっとした一言でイメージが全く異なったりしますからね。松尾芭蕉が旅立つ時に、弟子との別れに詠んだ句で「行く春や 鳥鳴き魚の 目は泪」というのがあります。別れを惜しんで鳥が鳴いてくれている、水の中の魚も泣いてくれているという事なんです。

私は、“目に涙を浮かべる”から、最初は“目に泪”だと思ったんですよ。でも、よく見てみると芭蕉は“に”ではなく、“は”を使っているんですよね。同じじゃないかと思われるかもしれないですけど、“目に泪”と“目は泪”って違いますよね。“目に泪”だと、目の端に涙が浮かんでいるくらいなんだけど、“目は泪”というと目の全体が涙みたいに捉えられますよね。

【山崎】確かに、面積のニュアンスが違いますもんね。

【高柳】面積が違うということは、涙の量が違う。それだけ悲しみの深さが違うということなので、“に”か“は”という、一見どうでもいいような事にこだわっていくと、裏の隠された意味があったりして面白いですよね。

【山崎】それは面白いですね。名句と呼ばれるものがいっぱいあって、何となく型みたいなものも存在する一方で、それを脱却して自由につくっていこうという流れがあると思うんです。その辺りの2つの対比を、高柳さん自身はどう考えていらっしゃいますか?

【高柳】時代によって変化していく、どんどん新しくなっていく必要があるのかなと思うんですよね。今は基本的に、古典の授業でやるような“文語”、それから“切れ字”ですよね。“や・かな・けり・にけり”みたいな、古い言葉を使うのがスタンダードになっているんですけど、10年~20年後の俳句は分からないですよね。もしかしたら「や・かな・けり」ではない、「だね」や「じゃん」みたいな、新しい切れ字が生まれているかもしれないとも思うんです。

俳句の世界が小さい所で固まるのではなくて、どんどん新しい所で新しい人の言葉を取り入れることで、活性化していくという事はあるので、頭ごなしに「風流ではない」とか「本式ではない」とか「正統派ではない」と言って、退けていくのは辞めておこうと思っています。

私自身は、「や・かな・けり」が好きなので、何十年後の人も使っていて欲しいと思うんだけど、それだけだとね……。

【山崎】変えてはいけない部分や守らないといけない部分もあるので、そういう二面性みたいなものはありますよね。俳人の方としっかりお話をするのは、初めてだったんですけど、すごく楽しいですね。あっという間の時間でした。すぐにでも俳句を始めたい気持ちになっています(笑)

今回のゲストは、俳人・俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さんでした。

といった所で、今週の文化百貨店は閉店となります。

次回、FMヨコハマからお送りする最後の文化百貨店は、引き続き高柳克弘さんにお越しいただき、自身の俳句感を伺いながら、山崎晴太郎の文化百貨店感についてもお話します



https://note.com/bunkahyakkaten/n/nd2c8a31ccd44 【俳句は、曇った世界を叩き割って晴れさせてくれる“バール“!?/文化を突き詰め、“人間“の話をした5年間【2022/3/27放送_俳人/俳句雑誌「鷹」編集長 高柳 克弘】】より

Fm yokohama(84.7MHz)から毎週日曜日深夜24:30~25:00にお送りするラジオ番組『文化百貨店』。

3月27日の文化百貨店のゲストは先週に引き続き、俳人・俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さん。今回は、近著『究極の俳句』と高柳さんご自身の俳句感について伺います。また、5年間に渡る文化百貨店を通じて、MCの山崎晴太郎が感じてきた事についてもお話します。

【山崎】今週は、もう少し高柳さんの俳句感を深掘りしていきたいと思います。早速ですが、昨年5月に出版された評論集『究極の俳句』。これは、どういった内容のものですか?

【高柳】俳句は、“高尚な文芸”や“伝統的な文芸”だと、現代では思われているんですよね。それによって、風通しが悪くなっているというか、閉塞しているのではないかと思う所があるんです。

例えば、「松尾芭蕉の頃の俳句は、前衛的な芸術だったのではないか?」というような、俳句が本来持っていたものを忘れていけないのではないかと。それ故に、対極にあるような言葉をぶつけた時の“思いがけない衝撃や意外性”、“常識を打ち破っていくようなもの”が、究極ではないのかという事を問いている本なんです。

山崎】想像できるような言葉の繋がりではなく、全然違うものが組み合わさった時に、何か新しいものになるのではないかという事ですかね。

【高柳】そうですね。いかにも“文学っぽい世界”ではなく、全く違う所から飛び込んでくるみたいなイメージですかね。

【山崎】『究極の俳句』を拝読しましたが、すごく面白かったです。僕は、次の知性への入り口を用意してくれるような、“数珠繋ぎ”になっていくのが良い本だと思っているんです。だから本を読むときには、そのポイントをドッグイアしているんですけど、1冊に1つあれば良いぐらいなんです。だけど、この本にはたくさんドッグイアが付きましたよ(笑)

【高柳】ありがとうございます。

【山崎】俳句をこんなに体系立てて整理をしたことが無かったので、すごくいいヒントをいただいたなと感じています。本の中には、有名な句もたくさん出てきますし、色んな俳人が紹介されていますが、特に影響を受けた人や句はあったりしますか?

【高柳】大学生の時に出会った寺山修司ですね。劇作家として知られていますけど、若い時には俳句や短歌に熱中をしていたんです。そんな彼の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」という句があるんです。

五月の空に鷹が浮かんでいる。見ても自分を支配してくるような力があるし、例えそこから目をつぶったとしても、なお自分を統括しているような感じがするという、青春期の沸々とするマグマみたいなエネルギーを、全て鷹に委ねたような句なんです。これは、地上に居るちっぽけな自分と、空を舞う崇高な鷹という距離のある物を激しく自分の中でぶつけているんですよね。この句が、「俳句はすごい!」と思うようになったきっかけでした。

【山崎】それは、俳人になろうと思ったきっかけでもあるんですか?

【高柳】はい。寺山修司の俳句を読み漁って、「いつかは寺山みたいに!」と思ったんです。あとは大学3~4年生の時に、松尾芭蕉に関心を持ち始めたのも大きいですね。やはり俳句を研究していると、どうしても最終的に芭蕉に行き着くんですよ。芭蕉も「予が風雅は夏炉冬扇のごとし」というカッコイイ事を言っているんです。

自分の俳句は、夏に使う囲炉裏、冬に使う扇だと。「何の役にも立たない」と、自虐的な事を言っているように見えて、逆に自分を奮い立たせているように思うんです。それこそ、「俺は凄いことをやっているんだぞ!」という決意表明のような言葉ではないのかなと。

世の中に役立たないからこそ、「皆が信じているものでは無い、違う価値観を自分は持っているんだ」と、いつかどこかで今自分が抱いている価値観が、役に立つかもしれないと思っていたのではないかと感じるんです。

【山崎】「俳句とは何ですか?」と聞かれたら、現時点では何と答えますか?

【高柳】こう言って良いのか分からないんですけど……、“バール”。

【山崎】工具の!?あの、こじ開けるやつですか?

【高柳】開けるというより、“叩き割る”ですね。曇りガラス等があって先がよく見えない時に、それを“叩き割って、見晴らしをよくするもの”という感じがします。なぜバールかというと、私自身は俳句に対して、“硬くて強いもの”というイメージがあるんですよね。短い分、ギュッと力が濃縮されていて、密度が高い。一言だけで、読んだ人の偏見や先入観という曇りをパッと払ってくれる。

自分もそういう俳句に勇気づけられましたし、曇りを晴れさせてくれた印象があるから、自分もそういう句を詠みたいなと思います。

例えば桜を詠むとしても、皆が集まって「綺麗だな」「美しいな」と言うけれど、美しさの奥にはもっと違うものがあるのではないのかと思っています。そういうものをバールでバンッと割って、固まった印象が飛び散るというイメージが近いですね。

▶︎バイヤーをするなら、季語にちなんだ美味しいものが届くサービスを

【山崎】ゲストの方みなさんに聞いてきた、定番の質問です。僕、山崎晴太郎とコラボレーションをするとしたら、どんなことをしてみたい、もしくは出来ると思いますか?

【高柳】最初は素敵な句帳とかを作ってもらうのが無難なのかなと思っていたんですけども……。山崎さんは、建築もされているんですよね。それなら、街づくりをしたいな。今、街並みって、どこもほとんど一緒じゃないですか。もうちょっと、駅ごとに特色を出しても良いのかなと思うんです。

それこそ俳句には昔から季語があって、身近な季節を感じる言葉になっていますよね。だけど今は、例えば“桜ビル”という名前がついていても、実際はまったく桜っぽくなかったりする。

【山崎】名称が、ただの記号になっていますよね。

【高柳】そうなんですよ。初めての街に行って、「桜ビルってどこだろう?」と探しても、桜っぽくないレンガ造りのビルだったりするから、方向音痴の私は迷うんですよ(笑) もうちょっと建築に自然を取り入れて、かつ融合的な街並みをつくっていただけると、私は迷わず桜ビルまで行くことが出来るかなと。みんなにとっても、良くなるのではと思うんですよね。

【山崎】自然観を取り込むという事が、俳句には大事なんですよね。

【高柳】そうですね。自分の中だけで考えを巡らしても、仕方がないものですね。自然に目を向けると、自分が思いもしなかった美や価値があったりするんですよね。

デザインでも麻の葉文様が、『鬼滅の刃』の禰豆子ちゃんの模様として流行っていますけど、それは自然のモチーフをデザインに生かしているという事ですよね。そういう事を建築で、山崎さんと一緒に出来ないかなと思いました。

【山崎】建物の名称とリンクする部分は、ファサードなんかで表現したりはしているんですけど、分かりづらいところはありますよね。個人的には、素材感は建築でもプロダクトでも、すごく大きい問題だと思っているんですよ。

僕はどちらかというと自然素材が好きで、建築も木造軸組という昔ながらの大工さんが建てるようなものを専門にしていたんです。だけど大きいものを造ろうとすると、自然素材から鉄骨などのケミカル素材にどんどん置き換わっていくんですよね。そうすると僕の感覚では、素材が時間を内包しなくなる。

【高柳】時間が変わらないということですか?

【山崎】汚れてはいくんです。だけど“わびさび”ではないけど、時間の経過が美しさに投影していかない。自然素材は、過ごす時間自体を美しさとして吸収していくんですよ。

【高柳】革ジャンとかも、長年着ていると味が出てきて良いと言いますもんね。

【山崎】そういう美しさがどんどん無くなってきているのは、残念だと思いながらも、それが無いと経済は成長していかないという……。難しい話なんですけど、それに抗うのも、つくり手の責任の1つなのかなと思いますね。

もう1つの定例の質問です。この番組のコンセプトである、“文化を伝える架空の百貨店”があったとして、バイヤーとして一画を与えられたら、どんなものを扱いたいですか?

【高柳】ワクワクして色々考えたんですけど、 “季語チケ”というのを考えてみました。

【山崎】きごちけ?

【高柳】季語のチケットです(笑) 売り場には紙のチケットしか置いてなくて、購入したら四季折々に、お家に季語の美味しいものが届くみたいなものです。

【山崎】それは、すごく良いですね!

【高柳】春は桜餅や草餅が届いたりとかね。夏だったら……アイスクリームは溶けちゃうか(笑) 素麺とか、そういう季節の折々の良いものが届くチケット。

【山崎】なるほどね。普通にサブスクで行けそう(笑) 季節の行事や、季節を味わうという行為がどんどん減ってきていますもんね。

【高柳】前倒しし過ぎている感じもしますよね。クリスマスなんか、すごく早くから始まっていますからね。

▶︎言葉を道具や武器として使うのを一旦やめませんか?

【山崎】前半にご紹介した『究極の俳句』や、先週ご紹介した児童小説『そらのことば降ってくる』を見ていると、高柳さんが現代の言葉や俳句の在り方に一石を投じているような印象を感じました。現代の言葉って、結構ドラスティックに関わり方も変わってきている気がするんですけれど、今の言葉をどう見ていらっしゃいますか?

【高柳】ますます“効率的”にというか、“合理的”に使われている感じがしますね。“部下を動かすための言葉”みたいなのがあったりするじゃないですか。こう言えば相手がこう動いてくれるというのは、完全に効率を考えていますよね。

それはそれで、ビジネスの場では必要なのかもしれないですが、言葉自体は生き物みたいなもので、音や臭い、形を持っているものだと思うんですよね。それを1つ1つ吟味するような、ゆっくりした時間の流れが欲しいなと感じているんですけど、句会にはそういう時間が流れているんですよ。

現代は、言葉をマシンガンみたいに打って効果を確かめて、「これが効かなかったから、次へ」という風にやっている感じがするので、言葉を道具や武器みたいに使うのを一旦置いて、“まったりした使い方をしませんか?”というのは、俳人から提案したい事ですね。

【山崎】タイムラインがすぐに埋め尽くされて、言葉がどんどん流れていきますもんね。

【高柳】次から次へと流れていって、追いかけられないですよね。

【山崎】それに、今はライトな言葉が多いですよね。

【高柳】そうですね。でも言葉って、本来は表には出ていないものを裏に大きく抱えているんですよね。直接的ではなく、間接的であるというか。だから、「何が言いたいのか?」という所を読み取る力が、これから試されるのかなと思いますね。

【山崎】それは必要な力ですよね。2週に渡ってお話をして、デザイナーと俳人には似ている部分があるなと思いました。概念化していない世界というか、言葉が与えられていない世界みたいな中に、新しい意味や概念を見つけて、新しい表現として立ち上げていく所に、共通点があるのかなと感じました。

高柳さんのおかげで、俳句をようやく始められそうなマインドになれたので、すごく嬉しいです。俳句をやること自体が、僕の日常のメッシュみたいなものが変わって、デザインや表現にもフィードバックされていくんだろうなと確信しています。

今回のゲストは、俳人、俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さんでした。ありがとうございました。

高柳克弘さんのリクエスト

宙船 / TOKIO

▶︎山崎晴太郎が5年間で気づいたこと

【山崎】2017年の4月からスタートをした文化百貨店ですが、残すところ数分となりました。文化人の方々にお話しを伺って、感性や知識を拡張していこうという事で進めていたんですけども、5年間で126名のゲストに来ていただきました。

僕自身、番組をきっかけに音楽をつくってレコードを出したり、他にも色んな取り組みを一緒にやるようになったり、すごく良い出会いがたくさんありました。それに、自分が知らなかったジャンルというか通って来なかった世界でも、深いお話を聞ける機会も多かったので、すごく刺激になりました。

文化百貨店というタイトルなので、文化的な切り口からゲストを紐解いていくんですけど、どのジャンルの文化と向かい合っても、結局は“人間の話”をするんだなと思っていました。どんなジャンルの人も、文化を突き詰めていくと、必ず人間とぶつかるんだなというのは、この番組を通じた大きな発見でした。

▶︎山崎晴太郎が文化百貨店でバイヤーをするとしたら?

そして、ゲストの皆さんに聞いていた「文化を伝える架空の百貨店でバイヤーをするとしたら?」という質問に、自分でも答えてみます。文化百貨店の最終回という事を踏まえて言うとしたら、ジャンルではなく“人を切り口にした展示”ですね。

この番組のゲストは、基本的には“肩書”で来ていただいていますよね。だけど話しをしていくと、その肩書の周辺にその人を構築しているものがたくさんあって、僕らが肩書から感じたり知ったりしているものって、その人の一側面でしかないんだなと。だから、その人の全体像が分かる空間をつくりたいですね。

365日・365名みたいな形で、その人がどういう所で過ごしたとか、実はこんな食べ物が好きだとかね。そうすると、「こんな高尚な事をしているのに、B級グルメ派!?」というような発見があったりして、そういう振れ幅も含めて、人の魅力を感じてもらえるのではと思いました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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