https://goto.nagasaki-tabinet.com/spot/61684 【勘次ケ城跡】より
勘次ケ城跡は、富江町南部の低い溶岩台地上の海岸部に構築された砦状の遺構です。「山崎の石塁」ともよばれ、1970年に県の指定史跡になりました。
今から150年ほど前、大工の勘次が河童と築いた石の城という説や、大きな施設でのぞき穴などがあることから倭寇のアジトとして築城されたという説があります。迷路のような石積みが巡らされ、その延長は180mに及びます。
現在はそのミニチュアがすぐ近くに作られていますのでご覧ください。
https://www.fullygoto.com/sightseeing/kanjigashiro/ 【勘次ヶ城跡】より
「勘次ヶ城跡」は富江半島の山崎海岸にあります。石塁の名匠と呼ばれる大工の勘次がカッパと共に1人で作ったとの逸話も。
この「勘次ヶ城跡」を築いた際に用いた石は、日本古来の築城に使用していた大石ではなく、1人の力で処理できるような石を使用していることから、そのような話が生まれたとも言われています。
城跡というイメージよりも砦のような形状をしており、「海賊のお宝の保管として利用されていた」という話や、人骨が発見されたことから「祭祀場に使われていたのではないか」という様々な憶測がされており、まだまだ未解明のミステリアスな建造物。
石塁には草木が絡み、人工的な建造物と自然とのコラボレーションが魅力的です。
http://shinkoukou.blog.fc2.com/blog-entry-424.html 【勘次ヶ城~五島・福江島の城を巡る~ 】より
こんにちは
地元九州長崎では先週から台風と秋雨前線の影響でせかっくの連休なのに雨ばかり、コロナも相まってお手上げです(涙)
ところで、最近このブログ作成にも利用しているデスクトップパソコンで突然エラーが発生して、勝手にリブートしたりして困ってます。
もう、10年近く使っているのでそろそろ交換時期なのでしょう。パソコンは自由にパーツを選んで組み立てることができて男心をくすぐる面白い機械なので(昔流行ったオーディオセットみたいな感じ)、大体毎回自作して作ってきたのですが、今年後半にWinodws11がリリースされるようなので、それに合わせてまた自作してみようかと思案中。
さて、五島・福江島の城めぐり、4城目は福江島の南端にある「勘次ヶ城」をご紹介します。
江戸時代末期にこの福江島に住んでいた勘次という船大工が名前の由来らしいです。
説明板によると、勘次は腕のいい大工で、富江藩の大船を建造中に突然行方をくらましてしまい、捜しまわったところ玉之浦の海岸に正気を失った姿で見つかった。その後間もなく人目を避けるようにこの石塁跡に居住するようになり、「この石塁は毎夜河童と共に築いたものじゃ」と村人たちに語っていたらしい。
この城の石塁は中世の大陸貿易や倭寇の活動拠点、または江戸時代の抜荷(密貿易)の拠点であったと考えられているようです。
この勘次が正気を失った理由は、説明板にも記載されていますが、こちらの「長崎県の河童伝説(勘次ヶ城)」のほうが詳しく書かれていますので、ご参考まで。
①勘次ヶ城のすぐ近くの海岸沿いに築かれている石像。勘次とその仲間をイメージしているのでしょうか。
②勘次ともう一人は河童でもよかったのかもと。
③駐車場のそばに説明板と後ろにトイレ。トイレも勘次ヶ城の雰囲気にあわせて礫を張り付けています。
④駐車場。6~7台ぐらい駐車できます。ただ、この駐車場までしばらく離合不可な道が続くのでご注意下さい。
⑤説明板
⑥トイレの隣に勘次ヶ城のミニチュアが作られています。お城というよりも倉庫に見えます(汗)、大きく3つの区画で成り立っているようです。
⑦往時はミニチュアよりも高い石壁が作られていて木造の屋根が乗せられていたではないかと。ちなみに、長崎県五島市出身で宮崎駿作品の多くに美術監督や背景として参加していた山本二三さんの美術館が五島市にあって今回訪問してきました。ちょうど「五島百景 五島列島展」が催されており、そこに勘次ヶ城の想像図が展示されていたのですが写真撮影禁止でした。この勘次ヶ城の想像図を掲載したサイトが無いか探したところ、この五島列島展のホームページの中に「名建築の空想イラスト図鑑」を紹介したページがあって、その中に勘次ヶ城を再現した絵が掲載されていましたのでリンクを載せておきますね(リンク)。
⑧前置きはさておき、さっそく本物の勘次ヶ城へ、壁の厚さが1.5mはありそうです。大砲での攻撃を想定してそう。
⑨ちょっとした小部屋があります。
⑩南隅から撮影。
⑪続いて西隅
⑫建物の内部へ、手前に崩落した石が残されていますが、現在でも人の背の高さまで石壁が残されているので、往時はかなりの高さまで積み上がっていたのでしょう。
https://www.eonet.ne.jp/~nagasaki/kappa/gotou4kp.htm 【勘次ヶ城(かんじがしろ)】より 下五島・南松浦郡富江町(とみえちょう)山崎(やまさき)
「勘次ヶ城」は、富江町の東端山崎の海岸にあり、長崎県指定史跡です。
この石塁は、勘次という者が河童と力を合わせて苦心の末に立派な城を築いたと言われている。
勘次ヶ城
明治以前は森林地帯で、山崎へ入植したのは明治9年、女亀に入植したのが明治33年で、五島藩時代はこの辺境までは目が届いていませんでした。
山崎石塁(せきるい)(勘次ヶ城)
勘次ヶ城にある倭寇像 13世紀から16世紀にかけ、北九州や瀬戸内海を拠点とし、朝鮮半島や中国大陸を侵した海賊は、かの地で「倭寇(わこう)」とよばれ恐れられていた。
この山崎石塁の構造は、当時、明国沿岸に築かれた海賊の築城と同型といわれ付近には、倭寇ゆかりの八幡瀬や唐人瀬があり、明銭・陶器破片・人骨が出土している。
富江の豪族田尾氏は、松浦党に属し、ここを出城として海賊・密貿易で勢力をのばしたといわれている。
その後、廃城に勘次という男が住んでいたことから、俗に勘次ヶ城といわれている。
昭和45年1月16日 長崎県教育委員会指定
勘次は富江の有名な大工であったが、ちょうど富江藩の命令により大江富江間の道路建設中に突然、姿をくらませてしまった。 この時勘次の年は三十才位だった。多くの人夫による捜索により玉之浦村の小川でやっと見付けはしたものの発狂してどうにもならなかった。
しかし、富江に連れ帰って間もなくして、山崎に住み付くようになった。
勘次の発狂の原因は父の代からの信仰を怠けたからだという。
つまり、勘次の父が山崎郷海岸で難波した唐人船から塔載していた金箱を拾ったが、それには、唐人の幽霊が乗移っていたが、賢い勘次の父はこの幽霊に向かって
「貴殿はその上に坐っていても伺にもなるまい。それより私にその箱を与えたならば、毎日貴殿の供奉を続けましょう。どうか私にそれを譲って下さい。」といったら幽霊はこの話を解して海中に姿をからました。
この金箱には銭が六貫目もあったので勘次の家は栄え、父も勿論、供養を怠らなかった。
ところが、勘次は父の死後、仕事にのみ熱中して供奉することを忘れ怠ってしまつた。その為、唐人の幽霊のたたりで急に発狂してしまったというわけである。
勘次は山崎郷に住み付くようになってからは、クブキを背に負って村中を歩きまわり食物を乞うていた。与えられた食物は少しも残さず食い尽くしていた。また、米飯を与えられると、謝礼として一滴の水も漏らないという立派な桶を贈ったという。
この様な生活をしながら夜はずっと河童と一緒に力を合わせて山崎に立派な「勘次ケ城」を築き上げたのである。
<五島 熊本商科大学民俗学研究会 昭和47年2月発行より>
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