和珥氏を考える

https://jp248.exblog.jp/29346973/ 【和珥氏を考える1⃣ー天押帯日子命を始祖として選択した和珥氏】より

和邇坂の地から春日の地へ

『古事記』では日子坐王の「母族」として設定された和珥氏だが、大和に興ったとされるその本拠について考えたい。

Wikipedia 和珥氏では、岸俊男 『日本古代政治史研究』塙書房から「その本拠地は大和國添上郡和邇(現在の奈良県天理市和爾町~櫟本町付近)と添下郡」としている。祖神の阿田賀田須命 あたかたすのみこと を祀る添上郡延喜式内社 和爾坐赤阪比古神社が和邇坂の地に鎮座している。

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和爾坐赤阪比古神社 2018年7月14日(土)参拝

和珥氏が春日の地に本拠を移し、春日臣と称した地域は現在の奈良市白毫寺町付近とされている。白毫寺町には式内社 宅春日神社 やけかすがじんじゃ があり、社伝によると、天児屋根命は神護景雲二年(七六八年)、河内國枚岡神社から大和國添上郡高窓山麓 宅春日神社に遷座し、同年の十一月九日に春日大社の地に留まられたとある。また、創祀以来春日大社禰宜家が奉仕して今日に至るともしている。

engishiki.org 宅春日神社が記す「全国春日連合会」では、宅春日神社の「宅」について、と、「諸説ある」として

 1. 難波皇子(敏達天皇の皇子)が建立した大宅寺の寺名、

 2. 支配していた豪族の大宅朝臣 可是麻呂氏の氏名、即ち大宅氏

 3. 大宅という役所名

 4. 大宅郷の地名

と、挙げている。宅春日神社の名称が大宅氏によるものであれば、またその大宅郷に大宅氏姓、あるいは春日氏姓の人々が多数暮らしているならば、もともと宅春日神社は、大宅氏、あるいは(もと和珥氏の)春日氏の氏神が祀られていたと推測できる。また、後世、権力により祭神がすげ替えられてしまう例は、これまで全国で多数見て来た。「権力」に関して云えば、現在の祭神、天児屋根命は藤原氏の氏神であるからなおさらといえるだろう。現在の式内社 宅春日神社の祭神と春日臣系氏族としての大宅氏が祀っていた頃の祭神が異なっているのは残念でしかない。(大宅氏が居住していた頃の宅春日神社は、阿田賀田須命ではなく出自変更済と思われるので、天足彥國押人命かも知れない。)

先に記した通り、宅春日神社には、「天児屋根命は神護景雲二年(七六八年)、河内國枚岡神社から大和國添上郡高窓山麓 宅春日神社に遷座し、同年十一月九日に春日大社の地に留まられた」との伝承がある。つまり、この伝承は奈良時代の神護景雲二年からのもの、春日大社の末社として確立したからこその伝えであって、それ以前に高窓山麓の地に神社がなかったことにはならない。その証として和珥氏の本拠地に鎮座する 和爾坐赤阪比古神社 と 宅春日神社 そして春日氏同族の小野氏が奉斎したとされる 添御縣坐座神社 の三社の氏子は、古来より現在まで深い交流を保って来たとしている。

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添御縣坐座神社(三碓)2021年2月20日(土)参拝

天押帯日子命を始祖として選択した和珥氏

和珥氏が氏祖として掲げる第五代孝昭天皇の子 天押帯日子命(天足彥國押人命)と、第六代孝安天皇としての大倭帯日子國押人命(日本足彥國押人天皇)の名は同母兄弟なので一対をなしている。『律令国家の基礎構造』ワニ氏に関する基礎的考察(1960)で岸 俊男は、その一対の名には、天と大倭國をそれぞれ統治する者との意が含まれ、ワニ氏の始祖である天足彥國押人命の方が兄で「国土支配の天皇」に対して「天を支配する者」という観念を、自らの氏祖をこのような形で表現したワニ氏は、皇別の氏族の中でも皇室との結合を特に誇示しようとする意識を強く持っていて、それがこのような孝昭記系譜となって記中に定着されたのではないか」としている。

と、すれば、このことが和珥氏の特性を考える一つの指標となるかも知れない。「地」を支配する弟の大王に対し、「天」を支配するとする兄を始祖として 選択した 和珥氏の観念。それは祭祀を何よりも優先する古代国家にあって、この観念は非常に重い。大倭帯日子國押人命の兄としての天足彥國押人命を始祖とした和珥氏の決意がそこに窺えると思う。この観念は和珥氏を観察する上で重大な示唆となるに違いない。

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和珥下神社(櫟本町) 2018年7月14日(土)参拝

和珥氏は天押帯日子命を始祖として「選択」したと述べたが、天押帯日子命を始祖とすること、即ち系譜仮冒でしかない。と、いうのも、和珥氏は本拠の和爾坐赤阪比古神社で氏祖 阿田賀田須命を祀っている。吾田片隅命とも書き、「和邇君の祖」と公表している。『新撰姓氏録』吾田片隅命を

「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」

としている。

吾田片隅命は、素盞鳴尊八世孫、あるいは素盞鳴尊の御子としての宗像三女神の七代孫とする説もあるけれども、実のところは、天日方奇日方命=鴨王としての櫛御方命を祖としており、三輪氏や賀茂氏と同祖。あるいは、系譜上皇別を称しているが、実態は大綿津見神系であり、安曇氏の初期分岐氏族との説も根強い。系譜も二説あるが、いずれにせよ國ツ神であることは間違いない。

(北部九州始源の系図)

大己貴命ー綿積豊玉彥命ー宇都志日金拆命ー多久置命ー穂己都久命

(阿田賀田須命までの系図)

天日方奇日方命(櫛御方命)─飯肩巣見命(健飯勝命)─建甕尻命─豊御気主命─大御気主命─阿田賀田須命

➡日下部氏についての考察②ー海人族「日下部氏」とタニハ

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つまり、和珥氏は、他の大豪族同様、系譜仮冒(詐称)しているが、始祖を孝昭天皇皇子 大倭帯日子國押人命の兄、天押帯日子命を(皇別氏族となるために)選択したことで氏族の大きな意図をそこに秘めさせたと考えている。

天を支配する和珥氏

『記』『紀』によれば、ヤマト王権成立時には政治的にも軍事的にも中心をなして活躍していた和珥氏が、その後、政治の場に姿を出さぬようになったこと、あるいは后妃を出している諸豪族の中でも特に和珥氏九人は蘇我氏と並んで一番多くの后妃を出しており、その子供の 男子は皇統に入らず、皇女が次の時代の皇妃になる という、他の豪族にはない 女系のつながり を繰り返すことが、和珥氏の特性でもある。これは、和珥氏が天皇家と並列する位置を占めていたからではないだろうか。「地」を支配する天皇家と「天」を支配する和珥氏の観念がここにも露出している。

また継体大王の擁立に際して彼の出自を疑う大和の豪族に対し、和珥氏の血統に連なる手白香皇女を大后とする、つまり女系和珥氏に婿入りとすることで継体天皇の擁立が確保されたのも、一応の史実となっている。越前を出発してから二十年も大和に入れず、その子欽明天皇において初めて大和磐余の地に宮を作ることが出来たのであり、和珥氏が 皇親的氏族 と云われる所以となっている。

初期大王家と政治的、軍事的にも密接につながっていた和珥氏だったが、天押帯日子命を氏族の祖として選択し、皇親的氏族の性格が強まるほどに、良い意味でも悪い意味でも氏族の衰退が止まらなくなっていった。また、皇親的氏族と他から称されるために「穏やか」な氏族にならざる得なかったからかも知れない。


https://jp248.exblog.jp/29361623/ 【和珥氏を考える2⃣ー式内 和邇部神社と海人族のネットワーク】より

若狭の 式内 和邇部神社(現社名 日吉神社)を訪れた。式内 須可麻神社を訪れるついでに寄ってみたのだが、そこは悲しいことに「廃社」だった。

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式内 和邇部神社(現社名 日吉神社)2022年10月1日(土)参拝

画像では「清々しい雰囲気の古社」の印象だが、参道は「杜」にまったく手が入っておらず、石段の苔で足を取られてしまうは、朽ちた古竹が倒れて往く手を阻んでいるはの惨状で、神社名を示す社標もない。engishiki.org で紹介されていた社頭掲示板も探したけれど、まったく見当たらなかった。本当にここは「日吉神社」なのかとグーグルマップで確認するほどだった。

式内 和邇部神社(現 日吉神社)の概要

だが、もしかして訪れてみたいと思われる奇特な方もいらっしゃるかも知れないので、地理的なことも示しておく。住所としては福井県三方郡美浜町佐柿29であり、「若狭國吉城歴史資料館」をナビにセットしてもらえば間違いはない。国道27号線美浜東バイパスから入り、若狭國吉城歴史資料館手前にある駐車場に車を停め、さらに手前の鳥居に向かってほんの少し南下する。社標もないので、鳥居だけが目印となる。

engishiki.org が示す由緒を見ると、「寛平元年(八八九年)坂本山王宮を勧請、山王大権現 ※ と改称」とあるので、平安時代前期末には現在の「日吉神社」の前身が出来上がっていたことになる。また、若狭 國吉城が当社の奥(山頂)にあり、神社付近は城主の居館と城下町になっていたことから、一六一五年に廃城となるまでは、佐柿の民に愛され、賑わっていたのだろうか。佐柿地区は國吉城廃城後も存在していたので、現在のように廃社同然になってしまったのは、ごく最近のことなのだろうと思うけれども。※ 山王大権現は天台宗の鎮守神であり、明治維新の神仏分離、廃仏毀釈によって「日吉神社」の名称に代えられたと推測。

このような佐柿地区の氏神「日吉神社」の現在の祭神は、(日吉神社なのだから)大山咋命だが、慶雲元年(七〇四)創社時は和邇部神社であり、祭神は和邇部臣の氏神「日子國意祁都命」(あるいは阿太賀田須命、建手和爾命)だったろうと思われる。

engishiki.org が示す武長篤行家所蔵『普光山記残片』では、

『普光山記残片』

當地ノ産土神ヲ和爾部神ト云。齊神ハ和爾部ノ祖ヲ祀ル。慶雲元年四月十四日創建ナリ。宇多天皇寛平元年、近江國坂本山王宮ノ御分難ヲ合祀ス。之レヨリ山王大権現ト崇號ス。當寺 青蓮寺 ニテ社務ヲ司ル。 道勝案スルニ、和爾部神社ハ延喜式二有リ。正保二年、酒井若狭守忠勝公御祈願ノ事アリテ、社殿ヲ御造営アリ。

「和爾部ノ祖ヲ祀ル」としている。

和邇部の里:若狭國三方郡竹田郷丸部里

engishiki.org も、「このあたりは古代に「ワニベノ里」と呼ぱれ、「ワニベ氏」が住んで、「ワニベ神社」を祭つていた。」としている。だが、現在の「日吉神社」からは、式内 和邇部神社の痕跡はどこにもない。残念ではある。

しかし、美浜町のこの地は、粟柄峠を越えて近江國高嶋郡今津方面に道が続いている。現在、粟柄峠は福井県/滋賀県境になっている。近江國は和珥氏が多く移り住んだ地なので、その一派が若狭國三方郡に「ワニベノ里」を持っているのは、至極当然かもしれない。

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式内 和邇部神社(現社名 日吉神社)2022年10月1日(土)参拝 

御大典により電燈を設置を示す石標。その電燈はもう見当たらない。

和邇部とは、和珥部、和爾部、和尓部、丸部とも書き、和珥氏の一族またはその属民(部曲)であり、畿内を始め尾張國、美濃國、加賀國等各地に分布しているが、臣姓の和邇部氏(和珥部臣)は春日氏の一族で和邇部の首長とされる。

Wikipedia 和珥氏では和珥氏の部曲 かきべ は、大和、山城國、近江國諸國から北陸中部、中国地方、他に讃岐國二部、甲斐國一部、伊豆國一部にかけて分布する丸部(和邇部、ワニベ)があるとしている。

これらの記述からは「若狭國」の和邇部が見えて来ない。

また和邇部と云えば、壬申の乱で活躍した 和邇部君手を思い起こすが、彼は美濃國出身の人物とされている。

和邇部神社創社時の慶雲元年(七〇四)、つまり文武朝、元明朝(飛鳥時代末期)には、鎮座地の佐柿地区は、「和邇部の里」だったはずである。和邇部の部民 べのたみ が暮らす里だった。付近には「耳川」が流れ、海岸まで2キロ程度。彼らは漁をしながらコメを作り、野菜も作っただろう。海岸では製塩もしたのだろうか、製塩遺跡の有無は不明である。これらの産物は大和の本拠に送られたに違いない。

「和邇部臣君手」の本貫地を探す

先に和邇部氏の人物として「和邇部君手」の名を挙げたが、「和邇部臣」ということであれば富士大宮司家を思い起こす。富士大宮司家とは富士山がご神体の 式内 富士山本宮浅間神社 の社家の富士氏前身が「和邇部臣」である。『姓氏家系大辞典』で太田 亮は以下のように「富士氏」を記している。

『姓氏家系大辞典』第五巻「フジ」319/566p

駿河國の豪族にて富士郡より起り、和邇部の後と稱す。浅間大社の大宮司家にして、初代豐麿は延暦十四年、富士郡大領となりしと傳へ、その系は次の如しと云ふ。

弓束(天智天皇三年二月丸邇部臣を負ふ)─君手(勤大壹)─弟足(從七位下、愛宕郡小領)─宗人(從七位上、駿河掾、天平神護元年七月、臣を改め宿禰姓を賜ふ)─豐麿(外正六位上、富士郡大領)…

驚きだったのは、和邇部君手が富士の和邇部臣の祖だったこと。太田 亮の『姓氏家系大辞典』を開くまで考えてもみなかった。和邇部を伴造するのが和邇部臣であり、臣姓の和邇部氏は、春日氏の一族で和邇部の首長なのだから「君手は部民の出身」と勝手に思い込んでいたのが恥ずかしい。

だが、壬申の乱の際、和邇部君手は村國男依 むらくにのをより 、身毛広と三人で美濃に先行していた。村國男依は 式内 村國神社 のある美濃國各務郡が本拠であるし、身毛広 むげつのひろ (牟宜都比呂)は、美濃國の 牟義都國造家が実家である。

…と、なると、和邇部君手も岐阜県に本拠があったと考えるのが、より妥当だと思われるが、彼の父、丸邇部弓束はどこに居住していたのだろうか。

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式内 和邇部神社(現社名 日吉神社)2022年10月1日(土)参拝

先述の『姓氏家系大辞典』第六巻「和邇部」 に、

15.美濃の和珥部臣

天武前紀に和珥部臣君手あり、此の國人也。壬申の功臣にしてその男大石も父の封四分の一を賜ふ。

と、あり、やはり君手は、美濃を本拠としていたらしい。

だが、『朝日歴史人物事典』和珥部臣君手の解説では、「尾張國知多郡を本貫とする」とある。知多郡は、所謂、知多半島であり、太平洋に面している。和珥氏はもともと海人族であるという認識ならば、本貫が知多郡でもおかしくはないが、太田 亮の『姓氏家系大辞典』第六巻「和邇部」 では

6.尾張

葉栗郡に多く、又山田郡に和爾神社、又春日井郡に和爾良の地あり。皆、此の部のありし地になるべし。

とある。太田 亮が述べる山田郡の和爾神社は存じないが、春日井市の和爾良神社は訪れたことがある。

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式内 和爾良神社 2018年2月14日(土)参拝

和爾良神社は、地元ではなぜか「かにらじんじゃ」呼ばれる式内社。愛知県春日井市上条町八丁目3619番地に鎮座。祭神は、阿太賀田須命 あたがたすのみこと 、建手和爾命 たけたわにのみこと とされている。

また、葉栗郡には和邇氏の祖、天押帶日子命を祀る 式内 若栗神社もある。しかし、美濃國の式内社を調べても天押帶日子命や阿太賀田須命等の和邇氏の氏祖が祭神となっている社が見当たらない。美濃國の式内社は、わずか三十九社であることも災いしているようにも思える。どうしたものだろうかと考え込んでしまう。

『先代旧事本紀』國造本紀 額田國造

志賀高穴穂朝御世 和邇臣祖 彦訓服命 孫 大直侶古命 定賜 國造。

しかし、ここまで来てようやく思い出す。和邇部臣君手の本貫地は尾張國などではない。美濃の額田國造が和珥氏系だった!

『姓氏家系大辞典』第五巻 額田國造

…(略)美濃池田郡には額田郷の外、春日郷もありて國帳所載の 糟河大神 も鎮座し給へり此の國造の氏神たる也。また大寶戸籍に同族多し、此の國造の治所たりしや明白なりとす。

六社神社 詳細

六社神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日美束1230番地

【祭神】速玉男大神 天照皇大神 豊受大神 春日大神 白山姫大神 八幡大神

【由緒】六社神社は国帳神社にして、美濃神名記に池田郡従一位糟川大神とあり。当春日村の総社にして其の祭神六柱中春日大神は粕川谷往古の御神宝にて古昔より 糟川大神 と崇め奉るなり。本社祭神六柱なるよりその後六社神社と奉称せり。明治六年一月郷社に定めらる。

➡野古墳群は三野前國造の奥津城、額田國造の墓域に非ず

また、Wikipedia 額田國造では、額田氏 ぬかたうじ 、姓は直。後には宿禰を与えられた者もいた。和珥氏、粟田氏、真野氏、武社國造、吉備穴國造などと同系と、しており、「宿禰」を与えられた者がいることに注目したい。

宝賀 寿男「和邇氏族概観」 では「美濃の額田宿祢、尾張の知多臣、尾張の和邇部臣は同族」との内容の記述あり、美濃の額田國造≒尾張の和邇部臣≒知多臣を裏付けている。和邇部臣君手の本貫が尾張國葉栗郡あるいは山田郡、知多郡の和邇部臣ではないかと論が転々するのもある意味、納得できる。

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式内 和邇部神社(現社名 日吉神社)2022年10月1日(土)参拝

隣り合う和邇部氏と日子坐王後裔氏族

さて、若狭の式内 和邇部神社(現 日吉神社)に話を戻そう。

上「野古墳群は三野前國造の奥津城、額田國造の墓域に非ず」で、日子坐王の後裔氏族、三野前國造(美濃國造)と和邇部系、額田國造の支配地域が隣り合っていることを述べたが、若狭の式内 和邇部神社 でも同様である。

若狭の「和邇部神社(日吉神社)」と日子坐王の児、室毘古王を祀る「式内 彌美神社」間の距離は、グーグルマップで2.7キロ、直線で2キロ程度でしかない。

「彌美神社」は嘉禄年間、つまり鎌倉時代中期に現在地に遷座しており、旧鎮座地は美浜町麻生の地だったとされるから、さらに「和邇部神社」との距離が近くなる。

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日子坐王の児、室毘古王は、『古事記』に「室毘古王者、若狹之耳別之祖」とあり、彼を祀る「彌美神社」は上のグーグルマップ画像にあるように耳川近くに鎮座。沙本毘古王、袁邪本王、沙本毘賣命(伊久米大王后)室毘古王を生んだ沙本之大闇見戸賣命を祀る「式内 闇見神社」は、美浜町の隣町である若狭町にあるのだから、室毘古王を祖とする「若狹之耳別」氏領は若狭町まで及んでいたことが理解できる。※彌美神社と闇見神社間は、16キロほど離れている。

➡若狭の古代ー須恵器生産と製塩を生業とした室毘古王裔「若狭之耳別」氏

➡日子坐王の妃 沙本之大闇見戸賣命を祀る「闇見神社」と室毘古王

先に近江國は和邇氏が繫衍した地と書いたが、琵琶湖西岸高嶋郡だけでなく北岸の塩津浜から越前國敦賀港周辺にも和邇部の分布が知られている。その塩津浜付近には余呉湖あり、その周辺一帯には日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、 袁邪本王、佐波遅比賣王、室毘古王を祀る 式内 佐波加刀神社 あり、澤道彥命(沙本毘古王)を祀る 式内 大澤神社 が鎮座している。

➡近淡海國(滋賀県全域)

➡鍛冶王としての沙本毘古王を祀る「大澤神社」

その他、日子坐王後裔一族が繫衍した地、甲斐國、三河國でも同様のことが確認される。

これらのことから海人族の日子坐王後裔一族が和邇氏族の補完的な動きをしているのではとも考える。一応、『古事記』系譜上では、始祖の日子坐王は和邇族の女性から生まれたことになっている。なので、関係があるといえばそうかもとも思えるが、日子坐王後裔一族十七氏には「和邇」を名乗る氏がまったくなく、和邇氏族諸氏と同じ氏の名を持つ氏も見られない。

だが、上記のように和邇氏族と共通の地域に日子坐王後裔が多く分布しているのも事実。

海人族のネットワークを和邇氏、日子坐王後裔諸氏が活用していた結果なのだろうと思うより他はない。

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