近江の鉄〜息長氏・和邇氏〜

https://tetsukosei.blogspot.com/2016/05/blog-post_35.html【和邇氏と鉄生産メモ】より

近江の鉄〜息長氏・和邇氏〜

【鉄を制するものが天下を制す】

★朝鮮半島で最も鉄で栄えたのが伽耶をはじめとする金官伽耶である。

鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された金官加耶をはじめとする加羅諸国は、4世紀にはその最盛期を迎えたと思われる。金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる多量の騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。

金官加耶がすでに4世紀には強力な騎馬軍団をもっており、政治的・軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だったことを伺わせる。

金官伽耶は倭国との関係も強く、九州王朝(磐井)を後背部隊として従え、新羅へ深く攻め入る。この時代(3世紀~4世紀)の伽耶地方と九州は伽耶の鉄を介してひとつの国の単位になっていた可能性が高い。

★大伽耶が押さえた5世紀~6世紀の半島の鉄

金官伽耶の衰退と同時に連合を組んで伽耶地方を押さえたのが大伽耶連合である。

加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。

五世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官加耶の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。

須恵器(陶質土器)、馬具、甲冑などの渡来系文物の系譜は、五世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。

出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海加耶を出身とする秦氏(はたうじ)などは、ヤマト朝廷と関係を持ったため、その代表的な渡来氏族とされている。

大伽耶連合も562年には新羅に併合され、ここで伽耶の鉄の歴史は終止符を迎える。

★日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのは

(日立金属HPより)

日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。

それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れるが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ると、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当であろう。


https://jp248.exblog.jp/29482247/ 【近江坂田の息長氏② 継体天皇と息長氏の関係を考える】より

近江坂田の息長氏②

日子坐王の第三妃:息長水依比賣命 おきながのみずよりひめのみこと の出身氏族としての息長氏をもっと深く知りたいとして近江坂田の息長氏を取り上げている。今回は継体大王と息長氏から考えてみたい。

継体大王と息長氏の関係を考える

近江坂田の息長氏① 舒明天皇(息長足日廣額天皇)の壬生の氏族 では、舒明天皇の父、押坂彥人大兄皇子は、自分を育ててくれた(父の母族としての)息長氏を信頼し、嫡男の養育にあたらせたのではないかということで話を終えた。押坂彥人大兄皇子の母は敏達天皇皇后の廣姬であり、息長眞手王を父としていた。息長眞手王は、稚渟毛二俣王──息長沙禰王と続く息長系王族を母族としていた。

            伊勢大鹿首小熊──菟名子夫人

                      ├──糠手姬皇女

               欽明天皇──敏達天皇  ├──息長足日廣額天皇

                      ├──押坂彥人大兄皇子

稚渟毛二俣王──息長沙禰王──息長眞手王──廣姬

息長氏は政治の前面に出ないとされているが、舒明天皇の殯記事で見られるように飛鳥時代では天皇の「身内としての氏族」として知られていた。舒明天皇の 壬生の氏族 として、また、八色の姓 で 眞人 姓を得て隠然たる実力を有していたと思われる。その背景には何があるのだろうか。

敏達天皇皇后廣姫 息長陵(村居田古墳) 2017年3月19日(日)参拝 滋賀県米原市村居田

共通の祖であり、姻戚関係でもある息長氏

近江坂田の息長氏① 舒明天皇(息長足日廣額天皇)の壬生の氏族 で記したように息長氏と継体大王は、いずれも應神大王の孫の意富富杼王 おおほどのおほきみ を共通の祖とする(同祖の)関係にあった。

應神大王──稚渟毛二俣王──意富富杼王─┬三國君、羽田君、息長君

                    ├坂田君、酒人君、山道君

                    ├筑紫之末多君、布勢君

                    └継体大王

しかも継体大王は、息長眞手王 おきながのまてのおおきみ 女 むすめ 麻績娘子 おみのいらつめ を娶っている。息長氏とは 姻戚関係 でもあった。

息長氏が史上に確実な姿を現わすのは、「息長眞手王」以降

『福井県史』通史編 第二章 第二節「息長氏の性格」で、白崎昭一郎は「息長氏が史上に確実な姿を現わす のは、息長眞手王の娘、麻績娘女が継体の妃の一人となり、また同じ眞手王の娘、廣姫が敏達皇后となってからであろう」と述べている。同じ息長眞手王の娘が姉、妹にしろ、祖父と孫に嫁ぐのはあり得ないので、これは作為、あるは誤伝だろうと思われるが、息長氏から妃と皇后が出たのは間違いないだろう。

また、白崎昭一郎は「継体の息長氏出身説は多くの学者によって説かれている」として岡田精司『継体天皇の出自とその背景』を紹介している。その中で岡田は「継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。彼の出自は『古事記』の所伝通りに近江にあり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力を握った。」としている。

「息長氏」とは

  一、朝廷において格別の待遇を受けている氏族。

  二、神話や伝承の時代に出現する氏族。

  三、皇統譜、継体大王と特別な関係がある氏族。

この三条件を満たす氏族として、息長氏が継体の出身氏族であるとしている。

① 七世紀末に天武天皇は、豪族を新たに八種にランクづけし「八色の姓」※1を制定。その最高位の「眞人」を賜った氏族が息長氏。 ※1近江坂田の息長氏① 舒明天皇(息長足日廣額天皇)の壬生の氏族

② 應神の母、神功皇后の実名は「息長帶比賣命」と言い、息長氏の出身。夫の仲哀が神罰で亡くなった後、熊襲征伐、三韓征伐を行い、應神を生んだ後、仲哀の嫡男、次男である麛坂皇子、忍熊皇子を討伐し、自ら摂政を行った。

③ 継体は近江か、越前の出身と見られているが、息長氏は近江國坂田郡を本拠とする氏族。 息長眞手王の娘「廣姬」が継体大王に嫁いでいる。 應神の妃のひとりに「息長眞若中比賣」という息長氏の妃がいる。 継体天皇は(息長氏を母に持つ)「應神の五世孫」と称している。

息長氏=継体の出身氏族

このように、息長氏は天皇と密接に絡んだ系譜をもっている。 こうした点を根拠に、岡田は継体の出身氏族を「息長氏」と特定した。さらに 岡田は、息長氏は琵琶湖の湖上交通路を支配することによって掌握した経済力を勢力基盤として、近畿北部から北陸、東海へかけての地方豪族の連合を背景に皇位を簒奪したと推定している。

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米原市近江はにわ館(滋賀県米原市顔戸)の古代豪族息長氏の説明 2021年4月10日(土)撮影

もちろん岡田の主張する 息長氏=継体の出身氏族 を全面的に支持することに対しては不安があるし、議論の余地もあるだろう。しかし、「應神五世孫」は間違いないことと思われるし、息長氏は、この継体の父方の親族であり、その立場から「王族」の扱いを受けていたと推測している。

さて、問題は、継体の祖としての應神が出現する以前、それも時代にして何百年も前から「息長」の名を冠する王族の存在が複数回に渡り『古事記』に語られていること。

日子坐王の第三妃としての息長水依比賣命を初出として息長宿禰王、またその子としての息長日子王と息長帶比賣命の姉弟、さらに倭建命の子の息長田別王、倭建命の孫としての息長眞若中比賣など。息長氏が「眞人姓」を持つ氏族、つまり應神大王の孫の意富富杼王に始まる氏族であるならば、これらの人物の存在は説明がつかなくなってしまう。これらの所伝をどのようにとらえるべきかが問題 となる。

次回は、日子坐王と「息長」を冠する王族たちを取り上げて考えたい。

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