『無縁・公界・楽(むえん・くかい・らく) ―日本中世の自由と平和

https://ameblo.jp/warabemonjya401/entry-12472497078.html 【「無縁・公界(くがい)・楽」  網野善彦】より

「無縁・公界(くがい)・楽」  網野善彦

1978年6月初版のこの本を読みました。無縁と公界と楽ってほとんど同じ原理、機能なんですね。

@江戸時代、女性に派離婚権がなかった。妻が積極的に離婚の決意を貫くための最も有効な手段は、縁切り寺への駆け込みであった。 へー。

@江戸前期には、かなり多くの尼寺が縁切りの機能をもっていた。 へー。

@罪人と牢獄同様、社会から縁を切られた、あるいは自ら縁を切らざるを得なかった人々が、江戸時代、陰惨な境遇をしいられたのは事実であろう。しかし、このような場合でも、縁を切った先に、逆転し、裏返された、「自由」が存在したことも事実ではあるまいか。

社会の機能の中に、逃げ込める場所があるかないかって重要だよな。

どんな組織仕組みでも、そこになじまない、収まらない人はいるはずだしね。

@戦国時代までさかのぼると、縁切りの原理は、江戸時代に比べてはるかに強力となり、単に夫婦の縁だけではなく、主従の縁、貸借関係の縁などなどまでも、切る力を持っていた。それゆえ、罪科人だけでなく、下人・所従・奴婢が主人の手から逃れて走り入る寺も少なからずあった。

面白いねー。

僕はその後昭和の任狭の世界も、世間から縁をきらざろうえないひとたちに、別の自由を与えていたと思う。そして任狭の世界には、任狭のせかいなりのルールがあった。

僕は今の平成の世は、世の中みんなが学級委員みたいになりやがって、外れ者が、逃げ込む場所がない世の中になっちまってると思う。

だから、精神的に病んだり、自殺したりする奴が多いのかも。

街にも、光の街の周りには闇の街が必要。人間なんて、そんな奇麗奇麗じゃいきていけねーもんだからね。

平成の世に置いても、ロックの持つ役割は大きいよな。

@若狭の正昭院は鋳物師の住む金屋にあり、鋳物師・猿楽・山伏のような、広義の「芸能」(中世前期まで、「芸能」の語は、こうした手工業者や宗教者までも含む、広い意味をもっていた)に携わる人々の寄進によって支えられていた事実を注目すべき。

芸能は、やっぱり、まつろわぬものと関わりがあるね。

渡来人の秦氏から繋がる、出雲の神々とも繋がる、トヨなどに繋がるまつろわぬものとつながるよなー。

@遍歴する「芸能」民、市場、寺社の門前、そして一揆。これらはじつはみな、「無縁」の原理と深い関係を持っている。

@勧進上人と無縁とは関わりがある。

@戦国時代、無縁所が、公界寺と呼ばれていた。

面白いね―。

@弁財天で有名な相模の江の島は、戦国時代、「公界所」であった。

@江の島の人びとは、主を持つことを許されなかった。つまり、逆にいえば、江の島中の者は、主従の縁の切れた人々だったのである。それゆえ、外部の争い、戦闘と関わりなく、平和を維持することができたのであった。まさしく、江の島は、「無縁」の場だったのであり、「公界所」という言葉は、この場合は、「無縁所」と同じ意味、同じ原理を表現している。

わお。面白いなー。

@室町鎌倉時代、お互いに争い合う大名たちの間を往来する使僧の中に、禅僧が見出される。これは彼らが、「敵味方の沙汰に及ば」ぬ「公界者」だったからにほかならない。

無縁の者、「公界者」にしてはじめて、戦乱の渦中にあって「平和」の使者たりえたのである。

とはいえ、戦国時代以降、こうした人々に対する大名の警戒心は強まり、「無縁」の場が次第に狭めらていったのと同じように、これらの人びとの「自由」な活動も不可能になっていく。

@中世都市の自治、その自由と平和を支えたのは、無縁、公界の原理であり、公界者の精神であった。へー。

@戦国時代の「無縁」「公界」「楽」 の特徴

 不入権、地子・諸役免除・自由通行権の保証・平和領域、平和な集団・私的隷属からの解放・賃貸関係の消滅・連座制の否定・老若の組織

@寺社の門前には市が開かれたが、これは、神仏の支配する「無主」の場であり、「無縁」の原理を潜在させた空間だったからだ。それゆえここには市がたち、諸国を遍歴する無縁の人があつまったのである。

@平安末から鎌倉~南北朝期にかけて、「職人」の特徴の一つは広範囲にわたって遍歴することろにある。おのずと、「職人」にとって、市、宿の自由通行の保証は生活そのものの否応のない要求だった。

こうした「無縁」の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形を取っていた。多くの「職人」が供御人となっていた理由はそこにある。

出雲の神々、八幡神との関係なんかももっと知りたいなー。


https://www.keiomcc.com/magazine/review28/ 【『無縁・公界・楽(むえん・くかい・らく) ―日本中世の自由と平和』】より

著者:網野善彦

「エンガチョ」遊び。幼い頃に誰もが一度は経験したことのある、なにげない遊びの解説からこの本は始まる。不浄なものに触れたり、踏んだりした子供を「エンガチョ」とはやし立てながらからかう一種の仲間はずれ遊びだが、この遊びには不思議なおまじないがある。両手の親指と人指し指でくさりの輪をつくり、誰かに「エンきーった」といってそのくさりを切ってもらうと、もう「エンガチョ」はつかなくなる。

網野善彦氏は、この遊びの意味を深く洞察することから、「縁を切る」ことで、それまでの世俗のしがらみや不幸から逃れられる「縁切りの原理」へと推論をすすめ、やがて壮大な仮説とその検証作業へと入っていくのである。

網野氏は日本中世史、日本海民史を専門とする歴史学者である。どちらかといえば、歴史家として道の真ん中を歩いた人ではないだろう。生涯を通して異端・傍流の側に身をおいた人かもしれない。彼は、渋沢敬三(渋沢栄一の子息)が戦前に設立し、「歩く巨人」と称せられる宮本常一らの活動拠点となった常民文化研究所の出身である。常民文化研究所は、歴史の表舞台に出ない“普通の人々”の暮らしに関わる記述を丹念に掘り起こし、整理・記録することを使命としていた。網野氏はその系譜を継ぐ最後の人だとも言われている。

私は学生時代、歴史系サークルに所属し、木地師、タタラ師、サンカといった山の民や漂泊する技術者集団について興味を持って調べた時期があった。初期の柳田國男や宮本常一の著作を手繰る延長線上で網野善彦氏を知り、氏の著した何冊かの本も書棚の一隅を占めている。特に岩波新書『日本社会の歴史(上・中・下)』は新たな日本人像を描いた通史として話題になったので、網野氏が、傍流ではあっても歴史学の世界で確固たる地位を有する人だという認識はあった。しかし素人にはあまりにスペシフィックな内容の本が多かったので、正直に言うと「おもしろそうだけでよくわからない人」という印象があった。

そんな私が、この本を読んだのは、皮肉にも昨春の網野氏の死がきっかけだった。逝去の半年程後出版された中沢新一の『僕の叔父さん網野善彦』という本を手にしたのである。不明にも、中沢新一が網野氏と姻戚関係にあったことを、この本ではじめて知ったわけだが、何よりも『無縁・公界・楽』が網野氏の代表作で、生涯を貫く主張が結晶した歴史学創造の書であることを知り、そしてその本をまだ自分が読んでいなかったことに愕然しつつも早速頁をめくってみたのである。

この本の主題は、人間が本来的に持っていた自由と平和の原理が、日本の自然の中で生きてきたわれわれの祖先たちの生活に及ぼしてきた、はかり知れない影響の大きさと、中世に興隆をみた後に近世・近代に衰微していったその原理の再生への展望を表現することであった。網野氏によれば、この書で解き明かそうとする自由と平和の原理は、近代西欧で花開いた民主主義原理としての自由と平和ではなく、またその原型モデルとされる古代ギリシャやローマの市民社会の自由と平和でもない。もっと原始的で、無自覚的なものだが、それでいて人間の創造的な営みを可能にする場を構成し、エネルギーを供給する力強さを持つ概念である。

人々は進歩の中でさまざまな規律や社会的枠組みを作り出してきた。しかし、その一方で、自らが作った規律や枠組みからはみ出ようとする根源的なエネルギーをもあわせ持っていた。たとえば「エンガチョ」というラベルを貼ることで、分類や管理のための枠組みを構成しつつも、「縁を切る」ことでその管理から自由になることもできる二項背反的な社会を許容してきたというわけだ。

本のタイトルである「無縁・公界・楽」というのは、いずれも、規律や身分といった世俗社会の中で、自由で平和な活動を保証される特異な意味空間を表す言葉である。男尊女卑が制度化された近世にあっても、女性からの離縁を可能にした「縁切り寺」。社寺の境内や辻で開かれた「市」。自由な移動を制限された時代にあって、一種の通行手形を持って山野を遍歴した芸能民、職人、宗教集団の存在がそれにあたるという。

「市」は平安末期から鎌倉・室町期に起源を持ち、戦国時代には「自由都市 堺」に代表される自治機能すら持つこともあった。漂泊の芸能者や宗教集団は、やがて能や狂言、歌舞伎を生み出し、法然、親鸞、日蓮といった宗教家を輩出した。

中世の日本には、全国いたるところに「無縁・公界・楽」があり、“普通の人々”によるエネルギッシュな活動が営まれ、時の経済や文化の一翼を確かに担ったのである。

一方で、「無縁・公界・楽」は“貧・飢・賎”に満ちた厳しい世界でもあった。俗権力は無縁・公界・楽の場や集団の存在を認めつつも、その活動範囲を極力狭く限定しようとしたし、一般社会から排除された差別の世界に押し込めようとした。自由な境遇とは、野垂れ死にや餓死と背中あわせの現実でもあった。

「無縁・公界・楽」の原理は、意識化された社会機能ではなかったので、公の文書や史書に記録が残されることが少ない。また、徳川幕藩体制による管理社会の浸透により、その存在そのものが著しく衰微してしまった。網野氏はわずかに残された残滓を、それこそ落ちた針を探すがことくの執拗な文献読み込みで見つけ出し、照射を当て、独自の解釈を加えることで理論として形成した。本書が「新たな歴史学創造の書」と言われる所以である。

さて、この本がわれわれに語りかける根源的な問いは何であろうか。現代社会は、精緻な計画や管理システムによって実現した効率化社会の究極の到達域に達していると言われている。いまほど自由・自律が産み出す創造的エネルギーが希求されている時代はないだろう。多くの企業で「自由と自己責任マネジメント」の旗頭のもと、組織と個人の関係性原理の再構築が進んでいる。「無縁・公界・楽」の原理には、“自律と保証”の二つの側面があった。“普通の人々”による自由と自己責任に基づいた自律的なセルフマネジメントシステムの存在とその活動を俗権力が保証をするという緩やかな保護政策のバランスの妙が決め手になっていた。そのバランスがわずかに傾くだけで一瞬のうちに崩壊する脆弱な社会システムでもあった。現代のわれわれは、この高度な関係性原理の構築ができるであろうか、われわれの知恵が問われている。

また、組織と個人の関係性原理の再構築とともに、われわれは自由や自己責任の社会が宿命的に持つ不安定さ、弱者への視点の欠如、敗者への差別観にも気づきはじめている。

「無縁・公界・楽」の原理は、華やかな文化や宗教の創造の裏側に、無数の貧困・飢餓・差別という負の側面を受け入れざるをえなかった。“普通の人々”が主役である時代とは、実は“普通の人々”の中から産み落とされる一握りの天才が時代を変える可能性を秘める一方で、無数の“普通の人々”の屍が累々と積み重ねられる厳しい世界でもある。現代のわれわれは、その緊張感に耐えることができるだろうか、われわれの勇気が問われている。

(城取一成)


https://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/4a6094f27ff80050b133e97d3cfe4eb8 【黄金の國【アテルイ編】~2~アテルイ登場】より

ここで東北における水田稲作の歴史的変遷を、ざっとおさらいしてみましょう。

青森県田舎館村の垂柳遺跡には、今からおよそ二千年ほど前の水田の跡があります。弥生時代中期、西暦1世紀に入るか入らなないかくらいの頃、津軽地方にすでに稲作が伝播していた。

寒さは厳しいと言っても、夏には関東と同じぐらいまで気温は上がる。少し工夫さえ凝らせば、津軽でも稲作は出来得た。しかしその後気候が寒冷化するに伴い、津軽の人々は稲作を捨てたようです。

元々東北は、春と秋にマスやサケが川を遡上してくるし、山中には木の実や山菜などの幸が豊富にあった。縄文時代中期頃の遺跡、三内丸山遺跡では、栗の木を栽培していた跡が見つかっており、リスクの大きい稲作に頼らずとも、十分に豊かな暮らしは出来ていたのです。

北東北に稲作が定着し難かったのは、苦労もリスクも大きい稲作に、抑々の必要性を感じなかったし、魅力もなかったからでしょう。

それでも仙台平野あたりでは、水田稲作は弥生時代の始まりと共に行われていたようです。

4世紀には仙台平野に、大和の文化の影響を受けた前方後円墳が作られています(雷神山古墳、遠見塚古墳)。稲作を通じて“豊か”になった土地の豪族が、大和の影響の下に築いたものでしょう。        

         中央が雷神山古墳。右上は小塚古墳。

         1975年撮影。現在、古墳の周囲は撮影時より都市化している。

5世紀になりますと、仙台平野からポンと跳んだ、岩手県の胆沢平野に、最北端の前方後円墳、角塚古墳が出現します。水田稲作を通して権力と経済力を手にした豪族が、大和の文化の影響の下に築いたものでしょう。このように、古墳時代中期頃には、岩手県内陸南部の辺りまで、水田稲作は「ある程度」定着していたのです。                   

                    角塚古墳

しかし大和は、それでは“足りない”と思った。奥羽全土を公地となし、奥羽の民すべてを公民とする。そこにはある種の、悲壮な使命感すら覚えます。それは結果的に、東北の民の自由意思を貶めた。誇り高き東北の民、心優しき東北の民は、雄々しき戦士(弓士→ユミシ=エミシ)でありました。

我が故郷を守るため、先祖伝来の愛しき大地を守るため、彼らは立ち上がりました。

砦麻呂の乱の後、朝廷は征討軍を派遣しますが、この征討軍の士気は最低だったようです。時の光仁天皇は再三、征討行動を取るように要請しますが、軍は言を左右にしてなかなか行動を起こさない。ついに冬季に入り、「今年はもう動けません」と報告してくる始末。光仁天皇は激怒し、やむなく征討軍は、東北の冬に軍を動かすという愚をやらかし、案の定大敗を喫してしまいます。

光仁天皇は事実上の敗北宣言をすると、桓武天皇に皇位を譲位されました。

後を受けた桓武天皇は、時間をかけて軍の再編成に務め、並々ならぬ決意で事に臨みます。

そうして砦麻呂の乱から8年後、延暦7年(788)満を持した桓武天皇は、征東将軍に紀古佐美を任命し、五万三千の大軍をもって反乱鎮圧にあたらせます。

これに対するは、胆沢の民の族長、大墓公阿弖流為。

その頃の東北には、国家と呼べるようなものはなく、小部族がそれぞれの地域を治めている状態だったと思われます。阿弖流為(以後アテルイと表記)はその部族を連合させ、部族連合の長となって、大和の軍勢に立ち向かったのです。

大墓公、これは「おおはかのきみ」「おおつかのきみ」「たものきみ」等々の読みがあって一定していませんが、大きな墓、ということで連想されるのが、上述した角塚古墳です。

アテルイは、かつて胆沢地方一体に勢力を持ち、角塚古墳を築いた一族の子孫だったのではないでしょうか。その血筋から、他の族長達からも一目置かれる存在だった。

もちろん、部族連合の長たるにふさわしい器量を持った人物でもあったでしょう。

征討軍対部族連合軍。両者は北上川畔の巣伏(岩手県奥州市)で激突します。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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