https://note.com/motoaki_iimori/n/nee638fb2b0fa 【関係の糸を引き裂き、自由な存在を撒き散らせ─02 「無縁」の原理】より
本連載01では、『君の名は。』と〈物語〉シリーズを対比的に考察した。
存在に深く食い込んだ関係性ではなく、無関係的な軽やかな存在のほうへ。運命的なムスビの線から、自由な乗り換えへ。
ムスビから乗り換えへの乗り換えこそが、本連載の目指すところだ。
1 「無縁」の原理
ムスビという縁を断ち切り、自由な乗り換えを可能にするもの。それはかつて「縁切寺」と呼ばれた。
歴史学者の網野善彦は、『無縁・公界・楽』のなかで、江戸時代の縁切寺をはじめ、日本におけるさまざまなアジール(避難所)を考察し、そこに「「無縁」の原理」というものを見いだしていく。
現代とはちがい、江戸時代、女性には離婚を要求する権利がなかった。他方で夫は、自由に離婚を言い渡す権利を有していた。妻は、特別な事情を除き、自ら離婚することが許されていなかったのである。そこで、夫との絶縁を望む女性は縁切寺へと駆け込んだ。その敷地に、身につけたものをなんであれ投げ入れたとたん、追手は手出しができなくなる。そうした寺のしくみがあったのである。
網野はこのようなアジールの事例を、江戸時代から戦国期、古代へと歴史をさかのぼって収集する。それらは「無縁」「公界(くがい)」「楽(らく)」といったことばで表現されているが、網野はそこに「「無縁」の原理」という一貫したものを見いだす。
「無縁」の場に立ち入ったものは、たとえ罪人であっても、一切の世俗の縁から断ち切られ、自由に生きることが許された。「無縁」の場は、それ自体が世俗の縁から断ち切られている。そして、そこに立ち入った者もまた、縁が断ち切られることになる。縁を切断し、自由な存在へと変貌させる力。それが「無縁」の原理だ。
網野は、場所だけでなく、ある種の人びとのうちにも「無縁」の原理を見いだす。とりわけ強調されるのは、「職人」や「芸能民」だ。こうした人びとは、さまざまな集団のあいだを自由に遍歴する。彼らがなににも属さない「無縁」の者であったからこそ、そうした遍歴が可能になったのである。
『無縁・公界・楽』の中間地点にあたる第11章では、「無縁」の特徴があらためて整理されている。全部で8つの特徴が挙げられるが、ここではとくに5つ目の特徴を確認しておくことにしたい。5番目の特徴として掲げられるのは、「私的隷属からの「解放」」である。網野は、いくつかの文献を引用したあとでつぎのように述べる。
・・・・・・これらの文言は、私的な主従関係、隷属関係が、無縁・公界・楽の場には及び難いことを明らかに示している。だからこそ、公界の場は、主持の武士が住むことを拒否しえたのであり、また下人・所従、あるいは欠落ち百姓の走入る場となりえたのである。
あらゆる隷属関係が断ち切られた場が「無縁」の場だ。しかもその特徴は、場だけのものではない。
人に即しても同様である。公界者・公界往来人は、大名、主人の私的な保護をうけない人々、私的な主従、隷属関係から自由な人々であった。
「無縁」の人もまた、「無縁」の場と同様に、私的な隷属関係から断ち切られた存在であった。彼らは、忍野メメのことばで言えば、「人は一人で勝手に助かるだけ」という外的関係の世界を生きる人びとだ。彼らは、自由な存在だったのである。
2 「無縁」の原理の諸段階
網野は、膨大な資料を引用し、綿密に証拠を重ねることによって、「無縁」の原理という一般原理が日本の歴史のうちに根付いていたことを描きだす。ところが『無縁・公界・楽』の最終章では、そうした実証的な作業から一気に解放されたかのように、形而上学的とさえ言いうるほどの大胆な仮説を提示している。
網野は、「無縁」の原理が日本人だけでなく人類一般のうちに息づくものであるという見通しをたて、その発展・衰退の段階を描きだす。この段階を簡単に確認しておこう。
まず第0段階として、「原無縁」の段階がある。人類のもっとも原始の段階では、「無縁」と「有縁」は未分化であり、「無縁」の原理は潜在的な状態にとどまる。「「無縁」の原理は、その自覚化の過程として、そこから自らを区別する形で現われる。おのずとそれは、「無縁」の対立物、「有縁」「有主」を一方の極にもって登場するのである」。そのように、網野は考える(あまりに形而上学的な発想だ!)。
第1段階である「聖的・呪術的段階」は、こうした自覚化を経ることによって現われる。この第1段階において「無縁」の原理は、呪術的で、さまざまな神にむすびついた「聖なるもの」として現出する。
ここからさらに、「無縁」の対立項である「有縁」の側が国家という組織を生み出し、それによって「無縁」の側にも組織化が介在することになる。これが、第2段階の「実利的な段階」である。網野は、つぎのように述べている。
「原無縁」の衰弱の過程は、ここにいたって本格的にはじまるが、それとともに、「無縁」の原理の自覚化の過程も進むのである。アジールの第一段階、「原無縁」の色、なお著しく濃い、聖的・呪術的なアジールと、広範に重なり合いつつ、第二段階のアジール、実利的なアジールが出現するとともに、自覚化された「無縁」の原理は、さまざまな宗教として、組織的な思想の形成に向っての歩みを開始する。
第1段階では、原始の「原無縁」はまだ鳴り響いているが、第2段階にいたってその共鳴が弱まり、それとともに「無縁」の原理は組織化された構造をもつにいたる。それが、「無縁」「公界」「楽」と呼ばれた、組織だったアジールである。
だがこれは、すでに第3段階である「終末の段階」へのはじまりでもある。「「有主」「有縁」の世界を固めた大名たちによる、「無縁」の原理のとりこみはより一層進行し、国家権力の人民生活への浸透も、ますます根深いものになってくる」と網野は言う。国家権力の側、「有縁」の側からすれば、自らの支配の空白地帯である「無縁」の場を、放置しておくことはできない。それゆえに「無縁」の場は、「有縁」の世界の権力者たちによって徐々に取り込まれていってしまう。
当然ながら、現代にはこうしたアジールは存在しない。たとえ犯罪者であってもそこへ駆け込めば、すべてがチャラになってしまうような法の空白地帯。そういったものを抹消し、すべてを法のネットワークのうちに取り込むことによって成り立っているのが、近代以降の社会である。
3 無縁・公界・楽・ヤックル
さて、以上のように網野が描いた「無縁」の原理を、具体的なイメージで表現したものとして、宮崎駿監督『もののけ姫』を挙げることができる。『もののけ姫』が描くのは、「無縁」の原理が生き生きと満ちた中世日本の世界だ。
(網野自身が『もののけ姫』におけるアジールに言及している。網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』岩波書店、2013年、31-34頁)
もののけ姫 - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
もののけ姫。 原作・脚本・監督 宮崎 駿 プロデューサー 鈴木敏夫 音楽 久石 譲 主題歌 米良美一 声
とりわけ、タタラ場はアジールそのものである。劇中のタタラ場には、銃製造の技術をもつハンセン病患者や、世俗の世界に行き場をうしなった多くの人びとが住む。彼らはみな、世俗の縁を断ち切り、製鉄という職人的な仕事に従事している。タタラ場は、「無縁」の原理を体現したユートピアである。
(余談だが、『君の名は。』の糸守町には、劇中に映る「糸守の文化」によれば、じつはかつて「蹈鞴(たたら)製鉄場」があった。糸、ムスビ、縁を象徴する糸守町は、かつては「無縁」を象徴するタタラ場でもあったのである)
『もののけ姫』のうちには、他にもさまざまな「無縁」を見いだすことができる。とくにヤックルの存在は重要である。主人公の少年アシタカが、なににも属さない「無縁」の人として、あらゆる存在のあいだをかけまわることを可能にするのは、ヤックルの存在だ──無縁・公界・楽・ヤックル。
しかも、ヤックル自身もまた「無縁」の存在であると言える。ヤックルは、アシタカに飼いならされた、たんなる家畜ではない。自ら判断し、自らの意志で行動しているように見える。山犬に育てられた「もののけ姫」サンが、ヤックルに対して「好きなところへ行き、好きに生きな」と語りかけるシーンがある。それでもヤックルは、自らの意志でアシタカとともに行動しているのである。
とはいえ、「無縁」の存在であるヤックルとアシタカの関係は、乗り換え不可能な絶対的な絆ではない。物語の終盤でアシタカは、負傷したヤックルを残し、山犬に乗り換えて、サンのもとへと向かっていく。
サンとアシタカの関係も、「無縁」の存在どうしの関係だと言える。それは、『君の名は。』の三葉と瀧のように、運命の糸、ムスビによって緊密に結ばれた関係とは異なる。物語の最後、アシタカはサンとの別れ際に「サンは森で、わたしはタタラ場で暮らそう。ともに生きよう」と語りかける。「無縁」という間隙によるこの距離が、ふたりの固有の関係をかたちづくっている。
4 「無縁」の帝王・シシ神
劇中で最大強度の「無縁」者だと言えるのは、シシ神だ。彼は、人間と神々との争いにいっさい無関心である。敵/味方ということにまったく興味がない。人間や森の神々は、シシ神のおこないになんらかの意図を読み取ろうとするが、彼はじっさいにはたんに気まぐれで、生き返らせたり、死なせたりしているだけなのかもしれない。彼は、自分の首を奪った人間を追いかけて、山々を荒らしつくし、最終的には朝日を浴びて消滅してしまう。かんぜんに縁を断ち切り、どこかへ去ってしまうのだ。
真の「無縁」者、端的に無関係な存在は、「関係/無関係」という対立自体とさえ無関係である。この区分に対して無関心なのだ。まったくの無関係なポジションにいるかと思いきや、とつじょ関係してきて場を撹乱する。だがその者は、気づけばすでにどこかへと立ち去っているのだ。
今回の主張をまとめよう。糸井重里が考案した『もののけ姫』のキャッチコピーを踏まえて言えば、それはつぎのようになる。
生きろ。「無縁」の原理を。
ムスビの縁を断ち切り、「無縁」の人として生きること。鮮やかな乗り換え、遍歴をつうじて、自由に生きること。それが、網野の「無縁」の原理を考察することで示したかったことである。
連載最終回の次回は、この「無縁」の原理をさらに網野以上に一般化し、実在一般にかんする原理として思考することにしたい。
▶▶ 連載03 退隠する対象
本記事は『中央評論』311号所収の拙論「ムスビと乗り換え──関係と無関係の思想をめぐる試論」を元に再編集したものです。同誌はあまり流通していない大学内向けの雑誌であり、また刊行から時間が経っているので、noteにて公開いたしました。同誌の特集「リアリティの哲学」には、拙論以外にもおもしろい論文がたくさん含まれているので、機会があればぜひ手にとってみてください!
https://note.com/michihisahotate/n/nf623dae9b04f 【『中世の国土高権と天皇・武家』付論「 網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」】より
保立道久の研究雑記
網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究
はじめに
ある百科事典の網野善彦という項目には「網野の歴史研究、あるいは歴史観はしばしば「網野史学」と呼ばれる。それは彼の研究が、従来の学界からみるとあまりにも異端であったからだ。たとえば『無縁・公界・楽』(一九七八)や『日本中世の非農業民と天皇』(一九八四)などでは、天皇の支配権力がどこまで及んでいて、その基盤はどこにあったのか、そして支配から外れる場所(アジール)の存在などに目を向けた。また、『日本中世の百姓と職能民』(一九九八)などでは、従来の歴史学が軽視してきた海民や職能民の存在に着目し、ともすれば支配階層の貴族・武士と被支配層の農民しかいなかったように一般に思われていた中世社会観を一変させた」(『日本大百科全書』永江朗執筆)とあります。世間的にはこれが一般的な見方なのでしょうし、網野さん自身もこういうように自説がまとめられることに、しいて抵抗はされませんでした。そこには十分な理由があります。しかし、研究史のレヴェルでみると、網野さんはけっして「異端」であったというとことはありません。そうではなく、やはり網野さんの仕事は様々な研究者との関係の中で形成されてきたものだったと思います。
網野さんはご自分でよく理論は苦手であるとおっしゃっていましたが、私は正確には御自分の仕事を研究史の中に位置づけることを好まれなかったのだと思っています。私は網野さんが重戦車にたとえられるのを聞いたことがあります。たしかに網野さんは歴史学内部の研究史の理論的な筋道を確認することから出発するというのではなく、むしろ意識的に過去をみないようにしながら、新しい史料の蒐集と多分野の読書を支えとして、自己の信じる方向にすさまじい勢いで突進される方でした。それとも網野さんの見ている過去が他者とは違っていたというべきことなのかもしれませんが、今日は、それをさらに後ろから見ていた世代の一人として、網野さんの学説を歴史学の研究史の全体の中に位置づける作業をしてみたいと思います。これがいわば網野さんを歴史学の側に取り戻す作業の一つとなれば幸いです。
Ⅰ前資本制的所有の諸形態と「無縁」「無所有」
網野さんの議論は「無縁」をめぐって展開しました。それを「社会構成史」の側から位置づけようとした場合に、その中心は所有論としての「無縁論」になります。次ぎに引用するのは『無縁・公界・楽』の中で、いわゆる「平民百姓」の性格について論じている部分ですが、これが網野さんの所有論の枠組みです。
「私的隷属民・私有地等の場合も、そこに作用する『無縁』の原理の強弱、その在り方によって、さまざまな形態がありえたように、平民ー『自由民』の場合も、『自由』『無縁』の側面を具体的に示す共同体と、隷属の側面を示す人間・土地・生産手段等の私的所有の、それ自体および相互の矛盾のあり方により、もとよりきわめて多様な存在形態をとる」(『無縁・公界・楽』増補版、二四四頁、なお、以下同書よりの引用は頁数のみを示します)
つまり「共同体=『自由』『無縁』」、「私的所有=隷属」というのが、網野さんの図式です。この「自由=共同体」という図式は、戦後の歴史学の一部で無意識の前提とされていたもので、そこには人間の集団的結合というものに対する相対的に楽観的な展望、歴史意識が伏在していたといわざるをえないと考えます。もちろん、網野さんはむしろ「共有」と「私有」の境界に「無所有」という形態を設定することでそこを突破しようとしました。網野さんは、それを「私的所有」のほかに、「前近代的所有の多様なあり方を単に人間相互の共同体との関わりからではなく、自然との関係からも生ずる呪術的・宗教的な制約をふくめて、広く人類的な視野から研究を進めてみる」と説明されています(三二五頁)*1。ただ、以前も批判しましたように、網野さんは少なくとも論理的には「無所有」を「自らがその一部であることを否応なしに知らされている時期における人間のあり方」「自然に対する人間の畏敬をこめた謙虚、敬虔な姿勢」(三三一頁)という積極性においてのみ指摘する傾向があり*2、私は、これは「自由=共同体」というナイーブな図式の変型であるという側面を否定できないと考えています。
しかし、私は、その上で、網野さんの所有論としての無縁論によって、人類史的な所有の諸形態として「私有財産・共同体所有・無所有」の三つが提示されたのはきわめて重大なことであると考えます。そこで、これについて簡単な概念図を書いてみました。以下、便宜のために、戦後の歴史学の研究史・理論史との関係で、これを解説した上で、網野さんの議論の検討に入っていきたいと思います。
この図の左側には、所有の主体が集団的か、私的かという基準、上側には、所有のヒエラルヒーの中で従属的か、自立的かという区分基準を置きましたので、2×2の組み合わせですから外枠部分は四類型になります。そして、この外枠にかこまれた内部、「無所有」の部分を、網野さんが「境界領域の所有」ともいっているのを採用して「境界的所有」という用語で表現しました。
まず外枠部分を説明しますと、①集団支配、②共同性、③私的支配、④自由な個性の四類型となります。こう書くと単純な図式ですが、こういう区分をする上での、基本的な考え方は、まず前資本制所有に集団所有と個人所有の二つの側面があることを確認し、さらにその中を階級性によって従属的か、自立的かということで区分するということです。前資本制的な所有の構造は、このような集団的所有と私的所有の絡み合った構造からできあがっていることになります。歴史家にはよく知られていることですが、このような所有の特徴の類型化は戦後早い時期に提出された戸田芳実さんの意見によったものです。戸田さんは従来の「古典的な」、歴史理論研究は②と③の部分のみにのみ着目していた。つまり「集団所有をもっぱら非階級的な共同体に結びつけ、私的所有をもっぱら階級関係にむすびつけることによって前資本制的所有の二側面を分離する傾向が強かった」と述べています。そうではなく、戸田さんは①の所有の集団的側面がもつ階級的な支配機能、そして④の個人的所有における勤労的な小経営生産様式を重視するべきだ、この四類型の全体を問題にするべきだと論じた訳です(戸田芳実「アジア史研究の課題」)。戸田さんの意見は栗原百寿氏のいわゆる「小経営生産様式論」を歴史家として具体的に取り上げたものとして有名な訳ですが、今から考えると、戸田さんの意見が先駆的であったのは、その段階で、冒頭に引用した網野さんの「私的所有=隷属」「共同体=『自由』『無縁』」という図式にも反映しているような「古典的な」図式を批判した点にあったというべきだと思います。戸田さんの「小経営生産様式論」は、むしろ「集団的な階級的所有」の議論と一対のものであったことが重要です。
そこで戸田さんが注目すべきであるとした①と④の部分について、マルクスの議論によって、もう少し敷衍しておきます。現在の研究段階でマルクスから議論を始めざるをえないというのは、マルクス死後、もう一〇〇年以上も経っているのですから、率直にいって残念なことです。けれども現在の段階でも歴史理論の議論をおこなう際にマルクスから再出発せざるをえないというのが、歴史学の現状ですし、私は、とくに網野さんや戸田さんの研究を読もうという以上、彼らが依拠したマルクスやエンゲルスの議論の再点検から開始すべきことは学者としての仁義であると考えるものですので、御許しください。
まず①の集団的な階級的所有については、たとえば『資本論』には土地所有の形態として「アジアやエジプトなどでのように共同体を代表する人」による所有が人類史上の所有の重要な類型として挙げられています(『資本論』ⅢDIETZ、六四七頁)。後にもふれますので、この「代表」という用語に留意しておいていただきたいのですが、これが階級的集団支配ということになります。私は、このような階級的集団所有の問題を歴史上の社会構成の問題として押さえておくことは、20世紀の自称社会主義なるものが独特な階級的社会、一種の全体主義的な階級社会であったといわざるをえないという経験からみて重い意味があると考えてきました。戦後の歴史学においては、この問題の検討はいわゆるアジア的生産様式の議論として展開され、大事な意味をもっていたのですが、残念ながら所有論としての議論は、「アジア的古代」についての議論にのみ限られてしまい、社会構成体論全体には展開しませんでした。確認しておきたいのは、結局のところ、網野さんの意見も、こういう「社会主義」の問題、あるいはそういって悪ければ人類史の未来社会の構成をどう展望するかという問題と深く関係していたことです。もう少し時間があれば別だったでしょうが、網野さんは「現存社会主義」について発言することは自分の役割とはされていませんでした。しかし、網野さんは何らかの未来展望抜きでは本来の意味での社会構成史的視角、そしてそもそも歴史学的な視野そのものが成立しないことをよく知っていました。
次に④の「自由な個性」の領域についてですが、『資本論』の本源的蓄積の章には次のようにあります。
社会的・集団的所有の対立物としての私的所有は、労働手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応じて、私的所有も異なる性格をもつ。一見したところ私的所有が示している無限にさまざまな色合いは、ただこの両極端のあいだに横たわる種種の中間状態を反映している。労働者がその生産的活動の手段を私的に所有しているということは、農業または工業における小経営の必然的帰結であるが、この小経営は、社会的生産の苗床であり、労働者の手の熟練や工夫の才や自由な個性が磨かれる学校である(『資本論』ⅠDIETZ、七八九頁、対応のフランス語版)。
つまり、私的所有といっても、「非労働者」の私的所有と「労働者」の私的所有が存在しているのであって、この「他人の労働の搾取にもとづく」所有と「生産者の自己労働」にもとづく所有は「原則上、非常に異なった二種類の所有」として区別しなければならないということです(『資本論』ⅠDIETZ、七九二頁)。前資本制社会における、私的所有の諸形態はきわめて多様ですが、本稿では、前者はしばしば領主的な大土地所有として存在し、後者が小生産様式にもとづく小土地所有を意味するとしておけばいいと思います。問題は、ここでいう「労働者がその生産的活動の手段を私的に所有しているということ」、「自由な個性」の条件としての「小経営」の問題も、周知のように、社会主義における「個人的所有の再建」という問題とからんで、戦後の歴史学の理論史(および社会科学の理論史)において最大の論争問題だったことです。これについては周知のことですので、特に解説する必要はないと思います。ただ、歴史学の研究史の問題として、網野さんの議論を考える際に、この問題での戸田さん、そして稲垣泰彦さんの議論との関係が重要なことは後に述べる通りです(なお、ここに登場する「社会的・集団的所有」という用語について、これまで実際上は原始的共同体の自由にひきつけて解釈される場合が多かったように思います。これはむしろ戸田のような見解にそって所有の二側面として、一般的に「社会的・集団的所有」と「私的所有」が対置されていると考えるべきものです)。
以上が右にかかげた概念図の外枠部分についての簡単な説明です。これは前資本制的所有の構造的側面を表示しているといってよいでしょう。これは、その枠組みによって社会構成が形作られるという意味で構造的所有と表現してよいような所有のあり方であると思います。しかし、網野さんの研究の画期的であった点は、あくまでもこの概念図の内側の部分、つまり「無所有」あるいは「境界的所有」の部分の理解であり、そして、それを位置付けた上で、外枠部分の理解がどう変わってくるかという問題でした。ここで「境界的所有」というのは、まずは前資本制的な所有の構造的な外枠=構造的所有と対置した意味ですが、構造的所有が「限定された空間」に対する所有であるのに対して、境界的所有は「開放された空間」に対する所有であるということもできます*3。網野さんは「境界領域の所有のあり方が、田畠・屋敷などの土地所有と異なる特質を備えていたことは当然といわなくてはならない」*4といっています。「境界領域の所有」=境界的所有というのは、概念図をみていただければわかりますように、同時に共有と私有の境界であり、また自然と囲い込まれ占有された大地との境界であり、あるいは集団と集団、共同体と共同体の境界であるということになります。
このような問題について網野さんと並ぶような実証的・体系的な議論を行ったのは永原さんだけです。永原さんの荘園制支配の理論においては、第一に、荘園村落においては個別村落の相互間に成立する「広い村落共同体的結合」「地域的結合」が弱く、荘園制支配は小村共同体間の結合の契機を吸収することによって成立しており、第二に同じように、荘園制支配は、共同体間に存在する真空地帯に対する支配、そこに展開する社会的分業の支配を重要な根拠としているという理解があることはよく知られています(『日本の中世社会』、岩波書店、一八五頁、二二〇頁)。網野さんが、永原さんの議論のこの部分に対しては具体的な対応をしていない事情は本稿の全体の中からくみ取っていただくほかありませんが、これは、本稿にとっての中心問題ですので、理論的な説明をふくめて検討はすべて本論に譲ることにします。ただし、ここで石母田正『日本の古代国家』における境界領域論との関係についてだけはふれておきたいと思います。網野さんはこの石母田の議論にふれて「共同体の首長が支配者に転化する道と、共同体の階級分化による道の分岐とともに、こうした『境界領域』に対する支配、あるいは社会の関わり方が、それぞれの国家の性格を規定しているのではないかと思われる」と述べています*5。ここにはエンゲルスの「階級社会形成の二つの道」論から石母田正の議論へという網野さんの議論の根底にあったものがよく現れているといってよいと思います。しかし、それは第二次世界大戦後の歴史学の理論史においては、「アジア的生産様式」や「小生産様式論」のような、ともかくもまとまった議論さえないままで過ぎたものであるといわざるをえません。網野さんが、このような理論状況、あるいは石母田さんの理論的位置をどう考えていたか、正確なところはわかりません。ただ、私は、一九七八年に『無縁・公界・楽』、一九八四年に『日本中世の非農業民と天皇』の二冊を執筆し、後者で石母田さんに対する厳しすぎるとも思えるような批判を行った後、一九八七年に「境界領域の支配と国家」(『日本の社会史』第二巻)を執筆した時、網野さんは、石母田さんの議論を再評価し、そこに、一度、立ち戻ったように思います。結局、網野さんにとっても、少なくとも理論の問題としては、石母田さんの議論との交錯こそが、最大の焦点だったのではないでしょうか。
ただし、石母田さんの議論が、過去の社会、過去の日本社会の理解と天皇制論を最大の焦点としていたのに対して、網野さんにとって最大の問題であったのは、すでに現在の資本主義社会そのものでした。網野さんにとっては、現在の資本主義というのは、境界領域に属するような「『空間』が、『無所有』の自然をふくめて、ほとんど全くないかの如く見えるまでにいたった」(三三二頁)社会、つまり少なくとも自然の内在的な階層性は別として、外在的な空間として現れる境界領域をすべて分割した社会構成、「誰のものでもない領域」がすべて「誰かの所有」に転化してしまった社会としてとらえられていました。網野さんのおっしゃりたかったことは、確実に、この「誰のものでもない領域」を社会の内部に復権せよ、それによって自然と人間に直接に向き合えという将来社会に関わるメッセージであったと思います*6。ともかくも私にとって、現在の理論史上、学説史上の焦点が「石母田ー網野学説」にあるというとらえ方は*7、ここに根拠があります。
Ⅱ国土高権と「人民の本源的権利の倒錯的代表」
さて、前記の概念図の外枠部分から検討を開始しますが全体像を議論するためにも、また研究の現状からいっても、おのおの階級的支配の側面、つまり①と③を検討していくことになります。まず①の階級的な代表支配、集団支配についてです。
網野さんは「共同体の自然的本源的権利を一身に体現した、いわば全共同体の首長としての天皇」の国土高権が、その基礎に存在する共同体の「本源的権利」を「吸収・倒錯」させたところに成り立つという対抗関係を想定しました*8。天皇制は、山野河海、「大地と海原」に対する「本源的権利」と、境界領域としての市庭や交通路に対する非農業民の「本源的権利」の双方を倒錯的に代表するという訳です。このうち後者の市庭の問題は後にふれることなりますが、前者の山野河海の所有について前提されていた仕事が戸田さんの論文「山野の貴族的領有と中世初期村落」(一九六一年発表)*9であったことはいうまでもありません。戸田さんは、この論文で「本来生産者の集団的所有であった土地が、国家的所有によって代置されているという、律令制支配のアジア的な特質」を指摘し、それを前提とした荘園制支配においては「村落共同体の機能の一定部分は領主権の内部に吸収され、領主は村落共同体の組織を媒介環として農民の支配を実現している」と論じています。そこでは「領主の法であると同時に村落共同体の法である」というような支配と公共性の密接な関係が指摘されています。
この戸田の論文が、非農業という用語を日本の歴史学にはじめて持ち込んだものであることは歴史家にはよく知られていますが、網野さんの議論の立て方自身も、この論文から大きな影響をうけています。つまり、網野さんが「戸田のいう通り、荘園領主の支配はそれ(村落共同体)を吸収・倒錯させたところに成り立っているのであり、それ故に天皇の支配権と異質のものではありえなかった」としているように*10、「倒錯的に代表する」という論理は、直接に戸田さんの「集団的所有の国家的所有による代置」という議論に依拠していました。ただ、この「体現(=代表)」という用語は先ほど引用した『資本論』にもでてきましたが、明らかにエンゲルスの『反デューリング論』(暴力論)のいわゆる「階級社会形成の二つの道」の部分や、マルクスの『資本制生産に先行する諸形態』(『資本論草稿集』②一二一頁)などによったもので、これは網野さんがご自身でいわれるような国民的歴史学運動の後に歴史理論を勉強し直したことの結果でしょう。
しかし、永原さんがいうように、網野さんはこの問題をイデオロギーと統治権支配の問題にひきつけて議論してしまい(永原『二〇世紀日本の歴史学』二二三頁)、結局、領有論・所有論として詰めることはありませんでした。このような山野河海の領有は、戸田さんが論じたように地域の領主的階層によって構造化されるものです。そのような権限の根拠は、彼らが共同体的行事を執行するような共同体の代表であったからにほかなりません。代表とは人間集団の代表として社会的機能を執行する地位ですが、彼らは他の共同体そして自然自身に対して共同体を代表します。そしてそれによって彼らは「自然を擬似的に体現することによって生産者を把握する」、「民衆に対する自然の規制力を社会関係の規制力に転化する」というのが戸田さんの見解です*11。前近代の社会関係が強い自然規定性を帯びているというのはマルクスの観点ですが、それが領主の代表機能を通じて社会関係に浸透するというのが重要です。そして、前近代の公権力がもった自然に対する代表機能は、もとよりイデオロギー的、統治的側面が主要な側面となるとはいえ、このような実体的な地域的領有関係の媒介なしに実現しません。地域公権力さらに王権による「大地と海原」の領有とは、それらを上位者として集中する構造を前提にしているはずです。網野さんの議論にはこの点が顧慮されておらず、この意味では永原さんが「網野君は非農業民論のような独自の世界を開拓するが、その半面で領有論を捨てている。(中略)中世の支配や国家のあり方をとらえようとしても一挙に天皇や権門体制だけに的をしぼるわけにはいかないでしょう」*12と指摘しているのは正しいというべきでしょう。
網野さんは(戸田さんのみでなく大山喬平さんの理解も援用して)領主支配が共同体的諸機能を吸収することに成立根拠をもつという問題を重視していましたから*13、網野さんが山野河海についての議論で領主支配にしかるべき重点をおいた理論構成をとらなかったのは不思議なことです。これは領主制論と網野さんのかかわり方の全体の問題となりますし、戸田さんと大山さんの見解にもかかわらず、領主支配が共同体的諸機能を吸収する側面の研究は実際上は進展しなかったといわざるをえない面も問題となります。しかし、それを別とすると、私は網野さんの議論が微妙な誤差をはらんだのは、その所有論が「共同体=『自由』『無縁』」という側面を枠組みとしていて、階級的な集団的所有という問題を理論的に詰めていなかったことに関係していると思います。これは後にも触れることになりますが、網野さんは階級的な集団的所有のもっている社会的な強制力についての理論的整理が不十分で、もっぱら共同体の平等の側面に注目し、その根拠となる自然の「無用・無縁」な圧倒的な力が、同時に領主諸階層による共同体規制、自然的拘束の物質的な基礎ともなることを理論的に位置付ける点が曖昧であったように思うのです。
Ⅲ領主のイエ支配と「私的所有の発展=進歩」図式批判
次ぎに概念図の下段、私的所有の問題に進みます。なお、ここでも、階級的支配の側面、つまり概念図でいえば③の私的支配の側面が中心となりますが、この階級的な私的所有に対する網野さんの批判は強烈なものでした。つまり、『無縁・公界・楽』の最後の一節、「日本の人民生活に真に根ざした『無縁』の思想、『有主』の世界を克服し、吸収してやまぬ『無所有』の思想は、失うべきものは鉄鎖しかもたない、現代の『無縁』の人々によって、そこから必ず創造されるであろう」という訳です。私はこれ自身は網野さんが自称されていたように、「老マルキスト、老エンゲルス」の言説としては十分に理解できるものだと考えます。晩年の網野さんは「近代の進歩思想」一般に対する強い批判を述べることが多くなり、最後の著書である『日本の中世6 都市と職能民の活動』では「マルクス主義の発展段階説」について「あまりにも単純・貧困で、とうてい不十分といわざるをえないことが明確になってきた」と述べていますが*14、マルクスの学説自身を否定した訳ではありませんでした。マルクス・エンゲルスは「私的所有の発展=進歩」とするような一九世紀の野放図な文明史観・発展史観、いわゆる近代化理論に対する最大の批判者、そもそも「文明」というもの自体に対する根底的な批判者でした。エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の文章を引用しておきます。
「文明は、古い氏族社会の力にはとうていおよばなかった事柄をなしとげた。しかし、文明がそれをなしとげたのは、人間のもっともけがらわしい衝動と欲情をつきうごかし、人間の他の資性の全体を犠牲にしてそれを発展させることによってであった。あからさまな所有欲こそ、その最初の日から今日まで、文明の推進的精神であった。一にも富、二にも富、そして三にも富、しかも社会の富ではなくて、この一人一人のみじめな個々人の富、それが文明の唯一の決定的な目的であった。(中略)。文明の基礎は一階級による他の一階級の搾取であるから、その全発展は一つの不断の矛盾を通じて進行する。生産のあらゆる進歩は、同時に、被抑圧階級すなわち大多数者の地位における退歩である」(『家族・私有財産・国家の起源』二三〇頁)。
網野さんが「私的所有の発展=進歩」というような「あからさまな所有欲」を中心に歴史を論ずること、近代化論的な図式を拒否し、「生産のあらゆる進歩は、同時に、被抑圧階級すなわち大多数者の地位における退歩である」ような矛盾をふくめ、「人間にとっての本当の意味での『進歩』とは何か」(三三三頁)こそを問題にしたことは、彼らの世代にとってはむしろ自然なことでした。私は、この点で永原さんの網野説批判には賛成できません。永原さんは「従来の社会構成史論が、もっぱら私的所有の発展史として問題をとらえてきた」ことは正しい。「やはり私的所有、『有主』的世界の進展こそが歴史における進歩の基本的契機である」。網野さんは「生産力の発展を基軸とする社会発展史という視角・方法をとることをやめた」という形で批判を展開しました*15。もちろん、永原さんの批判には領主支配や小土地私有の評価などをめぐって十分な実質上の理由がありましたが、しかし、こういう所有の集団性や私的所有の階級性を度外視したような永原さんの定式化は、永原さんの理解する社会構成史であっても、必ずしも「古典的」な理解ではないと思います。生産諸力は所有の集団的・私的諸形態、そしてその境界領域をふくむ全域、つまりさきほどの概念図の全域で運動するものであって、生産諸力と生産関係=所有関係の矛盾なるものはその全体においてとらえるべきものです。私は永原さんの理解とは異なって、生産諸力の展開は、むしろ後にふれる境界的所有の場、無縁の場のほうこそを固有の地盤としているとさえいうべきものと思います。
ともあれ、永原さんの批判の仕方と網野さんとのすれ違いは、きわめて残念なものでした。御二人の研究史上のぬきんでた位置からして、このすれ違いは生産的な論争を不可能にし、また「戦後歴史学」というものは「私的所有=進歩」図式と生産力一元論に過ぎなかったというイメージを固めてしまう結果をも招いたと思います。御二人はなくなるまで、仲間として、あるいは先輩・後輩として、他からはうかがえない親密さと率直さを持ち続けていたことはよく知られています。それだけに残念です。この問題はいわゆる「戦後歴史学」の学史や方法論の全体にかかわるものですが、しかし、網野さんの研究の内在的な検討にとってはやや副次的な事柄ですので、ここでこれ以上ふれることはしません。
問題にするべきことは、「私的所有」の問題が、実際には、六〇年代の領主制論争にかかわって議論されていたことです。いうまでもないことですが、『無縁・公界・楽』の焦点にはいわゆる領主制論の批判がありました。網野さんは領主制論について「領主が土地を私有しており、武力などの経済外強制的な強制力をもっているのだから(年貢・公事などを)とれるのが当たり前だという観点が無前提なまま根底にあったのではないか」といっていますが(「日本中世史研究の現在」一九七九年発表『中世再考』日本エディタースクール出版部、一九八六年再録)、網野さんの仕事が優れていたのは、この「通俗的」な常識に対する批判をつねに初心に戻って突き詰める姿勢を維持し、それを通じてたとえば「年貢・公事」論それ自体についてなど、大胆な議論を提起するのに成功したことにあります。
ただ、このような批判は領主制論者の中での内部批判としてたとえば戸田芳実さんなどの見解でも一般的なものでした。戸田さんは「中世領主がもっぱら暴力をもって地を占領して農民を収奪し(中略)ということで領主の土地所有と支配の確立を説くことができるのならば、研究は方法的にいたって容易になるであろう」と網野さんと同じようなことを述べた上で、いわゆる領主的土地所有の本宅ー敷地的形態の議論を展開しています*16。これをうけて、石井進さん、大山喬平さんの仕事をはじめとして、時々「新領主制論」などと呼ばれることがありますが、領主的な私的土地所有と「イエ支配」の構造を明らかにする作業が様々な成果をおさめました。
今日の稲葉さん、山本さんの報告を聞いていますと、網野さんの論争相手、いわば「主敵」はあくまでも永原さんであったということがよく分かります。網野さんにとって批判するべき領主制論というのは永原さんのことなので、網野さんは戸田・石井・大山などの仕事の中で提出されている個々の論点をむしろ前提としているようにも思えます。また論理的には、戸田・大山・石井と網野の志向性の間に相似する側面があったことは明らかです。それは領主的土地所有の対極に存在する④の勤労的な小所有、小経営生産様式の問題のとらえ方において網野さんはむしろ戸田・大山に近い立場をとっていた以上、当然のことでした。つまり、網野さんは、研究の初期段階では永原さんの見解に近い立場をとって、小経営の自立性を低く評価するところから出発しました。しかし、六〇年代に展開した稲垣泰彦さんによる松本新八郎氏の名田経営=家父長的奴隷経営説に対する批判*17、また戸田さんの「平民百姓の地位について」*18など、小経営の自立をより早期から評価することが一般的となった研究状況の中で徐々にその所説を変化させ、一九七〇年代後半以降は、むしろ誰よりも強く、法的諸側面もふくめての「自立」説、「平民」=「自由民」論を強調するようになったのです。
そういうことですから、網野さんと領主支配論の関係は、とくに「新領主制論」において交錯する部分がありました。たとえば網野さんは領主の私的所有の内部には「竈の神の支配下にある場としての『無縁性』」が存在したとします。私的所有の根拠には「家族集団のもっている共同体的な性格」*19があったという訳です。網野さんは私的所有=家父長的支配の側面と共同体的関係=親族関係の側面の結び目に領主のイエが成立すると考えていたのでしょう。戸田さんにも相似する発想があります。戸田さんは「敷地支配と人格支配とは密接な関係にあること、そのことから領主の敷地が一種の治外法権的な不可侵性を帯び」るとしており、これが網野さんの議論の前提となっているのですが*20、戸田さんの議論は、その上で、領主的土地所有の内部に直接に主人の給養をうけるような形で人格と身体を支配されている所従・下人を発見し、そのような身体的自然の組織の仕方が土地所有の根拠となっていることを論じています。そこではあくまでも領主支配の筋を確認することが中心になっていますが、しかし、戸田さんは同じ論文で本宅ー敷地に広がった「領主・所従・下人の結合」が「農村共同体的な神事」を通じて共同体支配に展開すると述べています。詳しい展開はされていないのは網野さんと同じですが、山野支配に関する戸田さんの論理を延長すれば、領主の私的所有は、田地の所有関係においても必然的に土地に対する集団的な占有・所有を代表する側面をともなっていたはずです。
実は、私は戸田さんの見解の延長線上で、網野さんのいう竈神の問題を考えたことがありました。つまり、たとえば、領主のイエの下人と結ばれた男は「従者聟」といって領主の下人所従と観念されるなど、領主の下人所従が地域の住人と婚姻関係、血縁関係をもつのはよくあることです。その場合、領主邸宅でしばしば離屋となっている釜殿が地域の下人の男女の逢い引きの場所となり*21、また領主夫婦の性的結合を象徴する竈神が地域における氏神祭祀の場となっているなど*22、「釜」「竈」は領主的土地所有の本宅ー敷地的形態をつらぬいて存在する血縁紐帯を象徴する位置にありました。この領主のイエの構成員と地域社会住民の氏族的関係という問題は、今から考えますと網野さんの提言と共通するものになっていたことになります。このようにして、戸田さんの見解は、領主の家政組織と氏族的な血縁紐帯や共同体との間の連接性を確保した議論として理解することもできるのです。
こういう研究史上の事情との関係で興味深いのは、石井さんが、網野さんの見解に対して痛烈な批判を述べていることです。石井さんは『中世の風景』という座談会で*23、アジールとしての「イエ」の背後にイエの無縁性を措定する網野さんの意見に対して「どうもよく分からない」と疑問を述べています。これはしばらく後の書評でも「弁証法というものがわからないからだ」といわれそうだが、「’無縁’’無主’の原理によってはじめて’有主’や私的所有の世界が成立し、それを媒介として発展するという’背理’’矛盾’」という説明は抽象的にすぎると繰り返されています*24。網野さんの竈神についての見解は、「私的所有の原点である家の性格」と「アジール(=無縁の場)としての家のあり方」は、それと同時に「無縁・無主の原理と、有縁・有主の原理が、ここではもっとも密着した姿で現れる」(二二一頁)という生な論理の形で語られていますので、石井さんの違和感もやむをえなかったと思います。石井さんは網野さんのいう私的所有はあまりに近代的な絶対的所有権として措定されすぎているのではないか。その一方で無縁なるものは現代的な管理社会からの自立と反発という観念とダブルイメージになっており、そういうものとして過去に投影されているのではないか。その上で、両者の相互規定が言葉の上だけで「密着」「矛盾」と強調されているところに問題の難解さの原因があるとまでいっています。その上、さらに進んで、こういうイメージ論だから「(無縁の世界の)内容は今一つ不明瞭である」「これらの世界の具体像が生き生きと描き出され」たとはいえないのだと追撃しています。つまり網野さんがいう「無主」と「有主」の世界の対比には実際には現代的なイメージが持ち込まれているというのですから、これは石井さんの黒田俊雄さん批判を思い起こさせるような、方法的にはきわめてきびしい批判だと思います。
たしかに私的所有を支える位置にある血縁紐帯、そして、その実態をなす男女の性的関係・生殖関係は一つの自然関係、身体的自然の関係ですから、たとえばどのような配偶者選択が行われるか、子供の誕生や性別如何などをふくめて、それは本質的には自然力の偶然、その意味で人間にとって自然規定的な「無縁」の関係として存在しているということで、網野さんの話しの筋は通っています。しかし、これは抽象論としては理屈が通っているとはいえましょうが、論理のみになっています。そして、論理の問題としても、私は、網野さんの議論は、前章でふれた対象的自然の問題での処理と同様、血縁紐帯の共同的で「無縁=平等」の側面のみをとりあげ、それが領主による身体支配の手段ともなるという側面を看過しているように思います。
網野さんは、結局、戸田・石井・大山・河音の世代の新しい領主支配の研究方向に対して、論理的にも、また具体的な領主像を提起するという側面でも、内在的な議論に入りこむことはなかったのです。私は石井さんの批判はそれに対する不満を表現するものだと感じます。
Ⅳ境界的所有=「無所有」と前近代商品論
以上、少し脇道に入りましたが、最後に「無縁」の問題自身に入りたいと思います。概念図の中段に残しておきました「無所有」の問題です。これは網野さんの言い方では、「自然と人間との本源的関係」が生な形で現れている局面のことです。ですからそれは「共同体」そのものではなく「共同体的な社会関係の根底にある」ような関係です(三三一頁)。
まずさきほど省略した概念図中断部分の理論的な説明から始めなければなりませんが、ここでも出発点はマルクスの歴史理論になります。これは網野さん自身が明言されていることで、網野さんは、マルクスのヴェラ・ザスーリチへの手紙から、このような関係が前近代社会における根源的な自由の条件、「人民生活の自由のかまど」であるという考え方を学んだといっています。マルクスが『新ライン新聞』に書いた有名な入会権の論文の一節で「貧民階級のこれらの慣習の中には本能的な権利感覚が生きており、その慣習の根源は確固として正当なものである」、「貧民階級」は「私有財産がもはや手放さないものを、私有財産から引きはなす」「自然力の偶然」に対して「本源的に人道的な親しみやすい力を感じる」(『マルクス・エンゲルス全集』①一三八頁)と述べているのが同じ趣旨であることも以前指摘したところです*25。そして、網野さんの「無縁論」がマルクスの歴史理論に依拠したものであることは、研究史的にも確認されていることです。つまり、永原さん自身が『無縁・公界・楽』の書評*26で、「無縁の原理」が「根源的には原始的な自由民の在り方と連なる性格のものであったことには異存はない」「根底には氏のいうような『無縁』にもとづく自由が伏流していることはたしかな事実である」といわれていることが決定的です。前述のように永原さんの共同体間関係についての議論は網野さんの「境界領域」論と理論図式の問題としては通底するところがあった訳ですから、この確認にもとづく議論が深められなかったのは残念なことでした。また、こういう網野さんの見解の背景に「未開」性に重点をおいて日本社会の歴史的特質を考えようという石母田正氏の学説との深い関係があることは明らかで、その意味でも網野さんの問題提起は研究史に位置づいているものです*27。
人間は、圧倒的な力をもって人間を規定する「無縁・無用」な自然自身を所有することはできません。それ故に、その自然力自身は「無所有」な性格をもっているとしかいいようがありません。逆にいうと無所有というのは人間の所有形態を示す用語ではありえないのですが、網野さんが日常用語の意味で「誰の物でもない」という関係を表現するのに無所有という用語を使うのは了解可能です。網野さんがいうように、それが「実態としても無所有」に近く、しかも「’だれのものでもない’という関係を表現するには’共有’という概念では表現し切れないものが残る」のです。
ただ、無所有というのは、たしかに積極的な規定ではありませんので*28、前述のように、私は、このような所有形態は、「境界的所有」というように表現するのがよいように思います。境界的というのは、前資本制的な所有の構造的な外枠、構造的な所有と対置した意味で使用していますが、概念図をみていただければわかるように、それは同時に共有と私有の境界であり、また自然と囲い込まれ占有された大地との境界であり、あるいは集団と集団、共同体と共同体の境界です。またマルクスで恐縮ですが、右の入会権論文で、マルクスは入会権の対象となる「枯れ木」などのような自然物について「この所有対象物は、その本性上、私有財産となるべき性格をもちえないものであり、さらに、その本質がきわめて自然発生的でその定在が偶然であるために、先占権に帰属」する。「ある種の財産は私有財産とも断定できないし、そうかといって共有財産とも断定できない、きわめてあいまいな性格をもっており、中世の諸制度によくみられるような私法と公法との混合物であったという点に、すべての貧民の慣習的権利の根拠があった」(『マルクス・エンゲルス全集』①一三六頁)などと述べています。こういう「共有・私有」のどちらにも入れにくいような所有、無占有・所有状態を含みこみ、あるいはそれに近接するような所有形態はたしかに存在するもので、「境界領域の所有」=「境界的所有」と呼ぶのがよいという訳です。
さて、このような境界的所有は、所有主体の側から特徴づけると、縄張り的・テリトリー的所有、あるいは「庭」的な所有とも表現することができます。網野さんがこのような所有形態について、「境界領域の所有のあり方が、田畠・屋敷などの土地所有と異なる特質を備えていたことは当然といわなくてはならない。それはいわば『縄張』といいかえてもよい『所有』の形態であり」「自然をさまざまな人間の活動に即して『庭』と捉えるかかわり方」*29であるといわれる通りです。そして、このテリトリー的所有をさらに大きくわけると、第一は、自然的なテリトリー所有、第二は社会的なテリトリー所有の二つになります。問題は、最後に述べますように、この二つのテリトリー的所有の関係になるのですが、まず第一の自然的なテリトリー所有というのは山野河海などの境界領域における生業の領有諸形態です。これについては、春田直紀さんや白水智さん、高橋美貴さんなどによって大きく議論が進みました。季節的な自然的テリトリー的所有ということになります。これらについては私も論じたことがありますのでここでは、それ自身についての説明は省略します*30。
第二の社会的テリトリー所有は、「市庭」「売庭」「檀那庭」などの社会的空間に対する所有です。それは所有主体の特徴からいえば「芸能的=職能的所有」(つまり特定の社会的分業、職能にそって発生する所有)と表現することもできるでしょうが、このうちで理論的に処理しなければならない問題の中心は市庭でしょう。網野さんは「『市庭』が世俗との縁の切れた『無縁』の場であることは、すでに拙著の中でもふれており、勝俣鎮夫氏の指摘する通り、それは『神仏』の世界に近接した場ということもできるが、人は自らの生産物をそうした人の力をこえた『聖なる場』ー『市庭』に投げ込むことによって、それを『商品』としたのである。そしてその『価値』を表示し、それ自体、商品交換の手段、支払いの手段としての機能を果たす物品、『貨幣』は神仏に捧げられ、世俗の人間関係から完全に切れた『無縁』の極地とでもいうべき『物品』でなくてはならなかった」と述べています*31。
これを考えるためには、前近代の商品論の整理、それ故に、やはり現在の段階ではマルクスの商品論の検討が必要となります。経済学はこういう人類史というレヴェルでの経済史についてすっかり興味を失ってしまったようにみえますので、少しづつ自身で勉強をしているのですが、その中で、最近、網野さんの右のような議論に通ずる問題を見いだして網野さんの直感の鋭さにあらためて驚いています。やっかいな話しなのですが、少しおつきあいを願いますと、『資本論』の交換過程のところにありますように、商品は販売者にとって直接的な使用価値をもたない「無用」なものであり、逆に購買者にとって有用なものとして登場します。マルクスによれば、これが、商品交換の基礎条件です。もちろん、市場で交換される生産物がおもに自然的な剰余である場合は、これは自然的な無用性の延長に過ぎません。しかし、それが商品生産にともなうより社会的な意図された無用性である場合は話しが異なってきます。
網野さんはこれについて「まず人間は自分のための食べるものを生産して、満腹して、余った物、余剰生産物を市庭に持っていって商品として売るというのが、自給自足から商品経済へという考え方のこれまでの経済史の基本的な見方でしょう。こういう見方は、考えてみればずいぶんエゴイスティックで卑俗な人間観だと思います」と述べています*32。たしかにそういう段階論では商品交換の実相は明らかにならないでしょう。そもそもエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』が述べているように、商品生産は文明とともに展開しているものです。日本でも平安時代以前から、手工業生産のほかにも、たとえば繊維産業、塩業、漁業、果樹生産などを含む相当広範な生産分野が少なくともその一定部分は商品生産として交換目当てに、自己にとっての直接的使用価値をさしおいて生産されています。そして、こういう意図された「無用性」というのが商品生産にとっては本質的なものなので、その中から「『無縁』の極地とでもいうべき『物品』」、それ自体としては無用なものとしての銭貨が登場するということになります。『資本論』によれば、商品というのはそのような「無用」性をはらんだものとして「外的で譲渡されうるもの」であり、網野さんの卓抜な指摘をかりれば「外財」であるのでして(「外財について」『日本中世の非農業民と天皇』)、人々は、市庭で「外財」をもったもの同士として「物の私的所有者・相互に独立の人格」として向かいあうことになります。そこでは所持物がそれ自身としては「無用」なものであることが独立性の物的条件となっている訳です。別の言い方をすれば、直接的生産と生活過程にとっての「外財」を交易する場所であるということが、市庭の人間関係に「相互に他人である」という性格を与える訳です。
けれども同時にこれは共同体的な関係を前提としています。つまりこういう関係は本来的には共同体と共同体の間、共同体の境界領域で成立します。人々はたしかにそこで「他人同士」として向かいあうのですが、しかし、それが現代の市場でない以上、彼らは共同体あるいは特定の集団の一員としてその境界領域に出かけ、そこを縄張りとして占取する訳です。市庭=境界領域は、こういう意味でも共同体的な場であるとともに私的な場である。マルクスの言い方ですと、「私法と公法との混合物」であるということになっている訳です。私は、前近代の市庭は、本源的にこういう相互独立性と共同性を兼ね備えているものだと思います。その意味で網野さんが「市庭=無縁=自由」ということを強調することは理論理解として十分にありえることです。
このような貨幣の登場や市庭の存在は、そこでは交換がすでに一つの規則的な社会的過程になっているということを意味します。それは商品生産関係が生産者自身からは疎遠な関係として、マルクスの言い方ですと一つの社会的自然として存在していることを意味します。それは多かれ少なかれ、単なる市場交換ではなく、貨幣補給、貨幣流通、市場網、債権・信用関係、商人組織などを含み込み、生産者に対して疎遠で拘束的な関係になるのです。そしてそこで人々を強制するのは、彼らが生産したものが、それ自身としては「無用」なもので、市場的関係の中でその価値が実現されるかどうかは「命がけの飛躍」になるからです。この「無用性」は、社会的な無用性であるという点で、形態は違うとはいえ、網野さんのいう「無縁論」の基礎に位置する「自然の偶然的な力の無用性・無縁性」と同じことです。ここに、自然の無用性・無縁性のみでなく、市場の無用性・無縁性が二重化して人々を強制するという経済的関係の運動をみることができるのではないでしょうか。そして「交換のための交換が、諸商品のための交換から分離する」(『資本論草稿集』①一二三~一四頁)ということになれば、商品交換過程の中には投機と高利が入りこみます。そして前近代でも商品交換の内部の無用性が発現して販売と購買の対立的連鎖が解体されてしまう問題、つまり近代の用語でいえば恐慌状況も発生します。恐慌は前近代でも近代でも一つの必然的な関係として富者をも貧者をも襲う「無縁」の力であるということになります。自然的な無縁性・無用性の問題と同様、私はそれをすべて「無縁」=自由・平等といっていいとは考えません。社会構成論の観点からみた、その事情は「さいごに」で述べます。しかし、以上はたしかに網野さんが無縁論という形で述べたことが経済学の問題としても興味深い点をついていたことを示すように思うのです。
さいごに
最晩年の網野さんは、「封建制論」なるものの根底的な再検討をはじめとして、スターリンによって教条化された疑似科学、いわゆるロシアマルクス主義の歴史理論の清算を明瞭に打ち出し、きわめて高い調子で、新しい人類史の理論的理解の構築を呼びかけました。私は『日本資本主義講座』以来の歴史科学方法論の蓄積は、全体としてはロシアマルクス主義に解消できない学術的内実を確保していると考えます。この点の確認と継承を正面から問題とすることなしに、「新しい人類史の理論」が可能であるとは考えません。この点で見解を異にするのですが、しかし、疑似科学の跳梁を許した学界の責任は明瞭に存在するという点で網野さんの意見を尊重せざるをえません。網野さんがこういう立場から「この課題は遡れば古代社会論、降れば資本主義社会論、社会主義社会論の根本的検討まで展望しつつ解決される必要がある」(「戦後の戦争犯罪」『歴史としての戦後史学』日本エディタースクール出版部、二〇〇〇年)とすることも了解します。しかし、歴史の研究者としては、これと関係して、網野さんが、鎌倉時代後半以降の社会について「資本主義」という言葉を使用してその特徴付けを行ない、資本主義という規定自身についても、それを「近代」と直接に重ね合わすのではなく、根本的に再検討するべきであると述べたことは、大きな驚きでした。
私は、今、十分な意見を持ち合わせていませんが、この問題は、結局のところ、社会構成なるものをどのように規定するかという問題に関わってくると考えています。それは端的にいえば、社会構成を考える上で、網野さんが問題提起した「無所有」「庭的所有」「境界領域に対する所有」の位置をどう考えるかということです。私は、前資本制的な社会構成においては、全体としてこの領域が社会構成のあり方を大きく特徴づけていたことは疑いないと思います。もちろん、社会構成の中軸をなす所有関係の客観的構造という意味では、構造的所有の側面が依然として重要です。所有関係にふくまれる社会的強制の体系は、この構造的所有の組織なしには機能しません。しかし、そのような構造的所有は、つねにより動的な性格をもつ境界的所有との関係の中で存在し、形成され再編されるものと考えるべきでしょう。とくに重要なのは、この境界的所有の場において存在する二つの所有形態、つまり自然的なテリトリー所有と社会的な職能的・分業的なテリトリー所有が二重化して一体となって存在していることです。以前指摘したように*33、両者は経済的本質を異にしています。網野さんは両者を区別した上で統合するという整合性をもった説明をしていません。しかし、共同体と共同体の間に広がる空間を場所として、その両者が市庭や交通路を焦点として一体化されたネットワークのように広がっていく実態を直感的にとらえていました。境界的所有の世界は、開発と社会的分業の世界が対象的自然と接触する位置にあって人間諸力を編成する場として、そのようなダイナミックな構造をもっているのであって、その意味では、網野さんが、このような世界に「社会の深部、人民生活そのものの中に生き、そこからわきでてきた力」(二二一頁)、「その世界の生命力は、まさしく『雑草』のように強靱であり、また『幼な子の魂』の如く、永遠である」(二六三頁)と述べるのも理由があったといわざるをえないと思います。
もちろん、そこにある「無縁」なるものが、他面で経済学的には「無用性」という即物的な実態をもち、対象的自然の無縁・無用の力という意味でも、市場関係に内在する無縁・無用の力という意味でも、厳しい自然的・社会的な拘束性を意味したことは強調しなければなりません。網野さんはこの問題を理論的に整理した形で提出しませんので、永原さんから「ロマン主義」という批判をうけることになります。かって大塚久雄氏は、マルクスがエピクロスのいう「世界の空隙」の真空地帯を商業と高利の棲む極北の世界と描き出したのにならって、共同体間に存在する「社会的真空地帯」の中においては、人々は「人は人に対して狼」という状況の中に孤立無援のままに投げ出されると述べました*34。また永原さんも、そこに依拠して庄園制下の社会的分業の世界を同じような世界として描き出しました*35。たしかに、境界的所有の世界は、しばしば真空の力によって人々を構造的な支配と所有の世界に強制的に張り付け、追い戻すのであって、それによって構造的な支配・所有と境界的な支配・所有の世界は一つの所有体系を構築し、社会構成体を形成することになります。このような視点も重要ではないでしょうか。少なくとも、その両者なしにには、社会構成論は成立しないことは明らかで、そして、網野さんの議論は、それをバランスよく、整合的に説明できていません。もちろん、歴史家のなすべきことはまずは境界領域に目を凝らすことでしょう。生産諸力の展開=社会的分業の展開を計量可能な「力と技術」と考えるのみでなく、むしろこの境界的所有の領域を固有の地盤としていたものとして具体的にとらえるという課題が歴史の変化を追跡するための最大の前提であるからです。もし、これをしも、生産力一元論であるという研究者がいるのならば、私は、それは社会構成論の成立不能を自己承認するに等しいと思います。
さて、最後になりますが、そもそも歴史の研究というのは、議論の下準備のために膨大な時間とエネルギーを使うもので、理論的な理解、そしてそのレヴェルでの論争というのは、それが真剣であればあるだけたいへんに複雑なものとなります。それ故に、以上に述べたような研究史の中枢をなした人々の相互関係を理論上で整理していく作業はけっして楽しい作業ではありませんでした。とくに網野さんと永原さんの関係について、どのように論じるかについては動揺を繰り返しました。私は永原さんの議論と網野さんの議論を安易に折衷できるとは考えませんし、永原さんの議論に違和感を感じる点が多いのも事実です。永原さんは網野さんの研究の論理性についてとくに厳しく、「歴史認識における論理の整合性の重要さ」*36を強調しています。私も、所有論という論理レヴェルからみると、永原さんのいわれることはやはり認めるべき点があり、網野さんの議論が整合的でないことは確かであると考えるものです。しかし、そもそも網野さんは所有論の枠組みを論理的に展開しようという意図を棚上げにしてでも、実態を彫り上げることに集中しようとされたので、御二人の論争は、結局のところ実りなく終わったといわざるをえません。作業をしていてつらかったというのが率直なところです。
とはいえ、私たちの世代にとっては、網野さん、永原さんの仕事をふくめて、本稿でふれてきたような多くの新しい古典的な仕事があり、それをうけつがなくてはならない。その中で、全体を捉え直すことが可能となるにちがいないとい希望ももてると思うのです。
*1この部分は、石井進氏の『無縁・公界・楽』に対する批判に対して反論された部分で、研究史上、重要なので全文引用しておきたい。「石井氏が指摘された通り、本文の表現はまことに稚拙ではあるが、このように書いたのは、私的な所有権がまずそこを神の住む場、だれのものでもない『無所有』の場として囲いこむことによってはじめて形成されてくること、そうであるが故に、私的所有は長年にわたって、その出発点のこうしたあり方に制約されつづけてきたことをのべたかったからにほかならない。こうした前近代的所有の多様なあり方を単に人間相互の共同体との関わりからではなく、自然との関係からも生ずる呪術的・宗教的な制約をふくめて、広く人類的な視野から研究を進めてみることは、今後のきわめて興味深い研究課題となりうるであろう」(三二五頁)。ここでは網野さんは「前近代的所有の多様なあり方」を「私的所有」「共同体所有」「「無所有」を表現する自然との呪術的な関係」という三つの領域に区別して論じようとしているようにみえます。この文章は後にもふれるような石井進さんの批判に対する応答として書かれたものなのですが、ここでは、網野さんは、「私的所有」や「単に人間相互の共同体との関わり」のような、ともかくも特定の有用性によって囲い込まれた所有ではなく、自然の裸の力には呪術で対応せざるをえない、そういうような関係をとらえなければならないといっている訳です。
*2保立「網野善彦氏の『非農業民と天皇』論について」(一九八七年発表、『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四)。
*3山本幸司『穢と大祓』(平凡社選書、一九九二年)による。網野『無縁・公界・楽』三一四、三三二頁を参照。
*4網野「中世『芸能』の場とその特質」(『日本論の視座』小学館、一九九〇年)三〇七頁
*5網野「中世『芸能』の場とその特質」(『日本論の視座』小学館、一九九〇年)二九八頁
*6「誰のものでもない領域」、共有でも私有でもない、開かれた社会=自然領域をどのように位置づけるかは、未来社会論にとって根本的に重要なものであると考える。
*7保立「『社会構成論と東アジア』再考」、前掲『歴史学をみつめ直す』所収
*8網野「天皇の支配権と供御人・作手」『日本中世の非農業民と天皇』九九~一〇〇頁。なお、本源的権利という言葉を網野さんが使用するのは厳密には正しくないことは、保立前掲「網野善彦氏の『非農業民と天皇』論について」で述べた。その趣旨は、本源的には人類は自然に対する権利をもたないものとして発生したといわねばならないということである。網野さんの議論には、これをふくめて社会関係における自然規定性の評価が甘いところがあるという私の意見自身は変わっていない。なお、網野さんは「本源的権利」という言葉を徐々に使用しないようになり、「無所有」「庭」などの言葉を重視するようになった。
*9戸田『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九六七年、所収
*10網野前掲「天皇の支配権と供御人・作手」一〇〇頁
*11戸田「中世文化形成の前提」注八前掲書、三二四頁
*12永原「私の中世史研究」『永原慶二の歴史学』吉川弘文館、二〇〇六年
*13網野『日本中世の民衆像』岩波新書、一九八〇年
*14網野『日本の中世6 都市と職能民の活動』(中央公論出版社、二〇〇三年)。最晩年の網野さんが「マルクス主義」批判という用語で語ったのは網野さんが、「世界史の基本法則」としての封建制範疇を放棄し、それによってロシアマルクス主義を最終的に清算したと考えたことを表現している。網野さんは『無縁・公界・楽』の段階では「原始社会ー奴隷制社会ー封建農奴社会ー資本主義社会」という図式を「私的所有の深化・発展を論理的にあとづけた」ものという限定つきであれ、「現在のところ、最もよく考えぬかれた定式であることは間違いない」とし、他方で、それとならんで、共同体や宗教組織が「無縁・無所有」の世界を自覚化していく過程に関わる共同体に関わる「法則」「無縁の法則」があったと主張されていた。網野さんは、この二元論の清算を「マルクス主義」批判という形で述べたのである。ギリシャ史の太田秀通氏のような「戦後歴史学」の代表的理論家たちは、すでにロシアマルクス主義とその四段階図式自身を否定する立場を明らかにしていたから、私などの世代にとっては、このような網野さんのこだわりは理解しにくいものであった。しかし、網野さんにとっては「マルクス主義」とは松本新八郎氏が主導した「世界史の基本法則」の議論(報告者、松本・高橋幸八郎・塩田庄兵衛、歴史学研究会一九四九年度大会報告)そのものであり、その中核である「封建制論」が維持されている限りは、これが生き続けていると考えたものと思われる。この事情については網野『日本中世に何が起きたか』(洋泉社新書版)の「解説」で私見を述べた。
*15「書評『無縁・公界・楽』」『史学雑誌』一九七九年六月、「書評『日本中世の非農業民と天皇』」『同』一九八四年一二月
*16戸田「中世の封建領主制」一九六三年発表、『日本中世の民衆と領主』校倉書房、一九九四年所収、
*17「東大寺領小東庄の構成」一九六七年発表、『日本中世社会史論』東京大学出版会、一九八一年、再録
*18一九六七年発表、『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年再録
*19『中世の風景』中公新書、一四七頁、一九八一年
*20戸田前掲「中世の封建領主制」。なお、この部分が網野のアジールとしての家と竈神の議論において直接に参照されていることについては、『無縁・公界・楽』二二五頁。
*21保立『中世の女の一生』洋泉社、一九九九年
*22保立「領主本宅と煙出・釜殿」「巨柱神話と天道花」『物語の中世』東京大学出版会、一九九八年
*23前掲中公新書、一九八一年
*24「『新しい歴史学』への模索」一九八三年発表、『中世史を考える』校倉書房、一九九一年再録
*25保立「歴史経済学の方法と自然」『経済』二〇〇三年三月、前掲「東アジアと社会構成再考」
*26注一四前掲永原論文
*27保立「日本中世社会史研究の方法と展望」(『歴史評論』一九九一年一二月、五〇〇号)。なおこの点は石井進「社会史の課題」(一九九五年発表、『石井進著作集』第六巻、岩波書店再録)でも確認されている。
*28安良城盛昭氏は、この点をとって、「無所有論はつきつめていえば、無所有なのだからそもそも所有形態を論ずる必要がなく、所有がなかったから人は自由であったというのである」として網野さんの議論を批判しました。たしかに網野の「無所有論」には未整理なところがあり、この論争を経過することによって、網野は「境界領域の所有」などのより発展した議論に至ったと考えられます。それ故に、この論争それ自身が無意味であるというのではありませんが、しかし、安良城の批判自身は、①マルクス・エンゲルスは「原始の自由が無所有に基礎づけられているなどといった背理的な主張は一切行っていない」、②「共有説・私有説の二つだけが学説という名に値し」、社会科学の常識は「人間とは所有する動物のことである」という人間の本質論にある、③「マルクス・エンゲルスが『原始の自由』について語る時は常に、それが共有に基礎づけられている」というもので、これは網野さんの議論の意味をすべて否定するものでした(安良城、前掲「網野善彦氏の近業についての批判的検討」『天皇・天皇制・百姓・沖縄』吉川弘文館一九八九年)。しかし、安良城さんの主張は乱暴なものであったといわざるをえません。ここにあるのは安良城氏の理論理解であっても、社会科学の理論史を反映したものではありません。「無縁・無用」の自然のもつ力=「自然力」が、「原始の共有」「原始の自由と平等」の基礎的な条件であり、そのようなものとして前近代を通じて存在するということは否定しようのないことです。そして、網野さんが反論しているように、人間は対象的自然を所有・支配するのみでなく、自身が「動物の一種、自然の一部」であり、それも「人間の本質を考えるさいのもっとも基底的な事実」であることは原則です。
*29網野「中世『芸能』の場とその特質」(『日本論の視座』小学館、一九九〇年)
*30保立「中世前期の漁業と庄園制」『歴史評論』三七六号、一九八一年。なお、そこでも述べたように、テリトリー的な所有の重層性とゲヴェーレの重層性は一方は自然所有の平面的重層性、他方は自然所有の階層的重層性という形で統一的に理解される。
*31「宗教と経済活動の関係」(一九九七年発表、『日本中世に何が起きたか』洋泉社、二〇〇六年)
*32網野・石井進対談『米・百姓・天皇』大和書房、九九頁
*33保立「網野善彦氏の『非農業民と天皇』論について」、前掲『歴史学をみつめ直す』所収
*34『大塚久雄著作集 第七巻 共同体の基礎理論』四一頁、
*35永原慶二「村落共同体からの流出民と荘園制支配」(『日本中世社会構造の研究』岩波書店)
*36永原「私の中世史研究」『永原慶二の歴史学』吉川弘文館、二〇〇六年、四九頁
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