https://www.sankei.com/article/20180807-LY2B4TTGOJODFO3GNF2SMN6FNM/ 【蘇我氏のルーツは渡来人? 古代の大悪人か時代の変革者か】より
「大化の改新」として覚えている方も多いだろう。古代史最大のクーデター、乙巳(いっし)の変(645年)。蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され、本家が滅亡した蘇我氏。奈良県明日香村では平成27年、この政変で自害に追い込まれた入鹿の父、蝦夷(えみし)の墓ともいわれる小山田(こやまだ)古墳が発掘され、蘇我氏の存在がクローズアップされた。一族のルーツは奈良を拠点とした「倭人」というのが学界では有力だが、「朝鮮半島からの渡来人だった」との新説が打ち出された。文楽や浄瑠璃(じょうるり)では古代の大悪人として語られる一方、時代の変革者ともいわれる蘇我氏。果たしてその実像は-。(小畑三秋)
天皇の外戚として栄華
渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖(ばん・やすし)課長補佐。県立橿原考古学研究所の研究員当時は県内の遺跡発掘を長年手がけ、1年近く韓国国立文化財研究所で研修するなど、日韓の考古学に詳しい。
新著「蘇我氏の古代学」(新泉社)で坂さんは、「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。「飛鳥時代を切り開くうえで歴史的に大きな役割を担った」と話す。
蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿が有名で「蘇我四代」と呼ばれる。日本書紀で政治の表舞台に最初に登場するのが稲目。第28代、宣化(せんか)天皇の時代に大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇のもとに嫁がせ、のちの用明、推古天皇が生まれたことで外戚として権力基盤を築いた。
稲目の子の馬子は聖徳太子とともに政治の実権を握り、第32代、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺するなど独裁色を強め、蝦夷・入鹿父子の頃に絶頂期を迎えた。2人は自らの邸宅を「宮門(みかど)」、子供らを「王子」と呼ぶなど、天皇なみに振る舞ったという。
しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、宮殿の儀式の際に天皇の前で入鹿を殺害、邸宅に逃げ帰った蝦夷も自害し蘇我本家は滅亡した。この乙巳の変を機に大化の改新という政治改革が進められ、天皇を中心とする中央集権国家の道を歩むようになった。
カギは朝鮮半島南西部「全羅道」
日本書紀は蘇我氏の横暴をことさら強調するが、朝鮮半島から仏教や先進技術を取り入れて国際国家にしようと尽力した立役者だったとする見方が、研究者の間で広がっている。
こうしたなか、文献だけでなく出土遺物から蘇我氏の姿に迫ろうとしたのが坂さん。「蘇我氏の古代学」の「はじめに」では、「文献資料については専門外だが、あえてここでは大胆に考古学と文献資料を結びつけた。結びつけないと蘇我氏は解明できない」と記し、多角的なアプローチを試みた。
平成16(2004)年の韓国への1年近い研修では、渡来人の出自を研究テーマとし、現地の遺跡や遺物を丹念に調査。韓国と奈良盆地の土器などを比較・研究した結果、明日香村北部を中心とする飛鳥地域では5世紀半ば以降、朝鮮半島南西部の全羅道とそっくりな土器が多いことに着目した。
飛鳥地域は5世紀頃、ヤマト政権の中心地ではなかったが、全羅道地域から盛んに人々が渡ってきたことが浮かび上がった。坂さんは「5~6世紀に密接な関係があった百済と倭国をつなぐ役割を果たしたのが、全羅道を拠点にした交易集団。そのなかで、飛鳥に移り住んだのがのちの蘇我氏になった」と推測する。
“未開の地”を開拓
飛鳥地域はもともと湿地帯で住みにくく、5世紀ごろまでは開発も進んでいなかった。しかし、こうした不便な土地を与えられた渡来人たちが、大陸の先進技術を生かして開発。経済だけでなく政治的にも実力をつけ、稲目の時代に権力の中枢に入り込んだという。
「渡来人としての技術と生産力を権力の源泉とし、外交でも実力を発揮。新しい時代を萌芽させたのが蘇我氏だった」と坂さん。明日香村で発掘された国内最大級の方墳、小山田古墳(一辺70メートル)こそが、一族の栄華の礎を築いた蝦夷の墓だと推測する。
ただし、蘇我氏は渡来人ではなく奈良盆地出身の倭人との説は歴史研究者の間では有力だ。第8代・孝元天皇のひ孫の武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とするとの伝承があり、明日香村に隣接する奈良県橿原市には曽我町という地名も残り、この一帯が本拠地だったとされる。
ただし、こうした説を裏付ける根拠は乏しい。坂さんは「出土遺物を通じて出自をたどる研究はほとんどなかった。遺物から見ると、全羅道の可能性が高い」と指摘。「正史としての日本書紀だけでは歴史は分からない。蘇我氏の果たした歴史上の役割を客観的にみる必要がある」と話した。
https://narasakurai.jimdo.com/%E6%98%8E%E6%97%A5%E9%A6%99%E6%9D%91/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3/ 【こやまだ 小山田古墳】より
https://www.youtube.com/watch?v=g4-2FqBCUiA
おすすめ度(☆0.0)・・・現在見学はできません。
★所在地:高市郡明日香村川原
★墳形:甘樫丘から南に伸びる丘陵上に位置する方墳
★埋葬施設:横穴式石室と思われる。
★出土遺物:溝を造成した土中から6世紀後半の土器類、溝の埋没時の流入土から7世紀後半の土器が出土
★築造年代:7世紀中頃(出土した土器より)
★発掘調査:2014年~
★被葬者:いろんな研究者から被葬者候補が出ている。主なものは以下の通り
・舒明天皇の初葬墓(菅谷文則氏)(猪熊兼勝氏)など
・蘇我蝦夷(白石太一郎氏)(小沢毅氏)など
舒明天皇の初葬墓説に疑問を呈する研究者も多く引き続き調査、研究が必要。
経過
第5・6次調査(平成26年度・2014年度) (2015.1.18現地説明会)
平成26年度(第5次調査)に実施された県立明日香養護学校の教室棟改築事業に伴う発掘調査で小山田遺跡から飛鳥時代の大規模な掘割が発見された。一辺50m以上の方墳と考えられる。橿原考古学研究所によると「榛原石」で墳丘を覆う古墳は、7世紀中頃に限定され、この時期に蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(一辺約50m)を上回る規模の墓をつくれる人物としては舒明天皇(641年没)が考えられる。舒明天皇は日本書記には滑谷岡に葬られ、後に押坂(桜井市忍阪)に改葬されたと記載されており、不明であった初葬墓がこの古墳である可能性が高いという見解が出された。ただ研究者の間では当時の権力者、蘇我蝦夷の名前なども挙げられており今後、論議をよびそうである。
第7次調査(平成27年度・2015年度) (報道発表のみ)
大規模な造成跡を確認。
第8次調査(平成28年度・2016年度) (報道発表のみ)
調査は墳丘南端部の様相と石室の有無の確認を目的に行われた。主な成果は①墳丘盛土と横穴式石室の羨道部の痕跡が検出され小山田遺跡は古墳である事が確定した。②墳丘規模は今回検出された横穴式石室が墳丘上の中軸上にあるとすれば一辺70mの方墳と推測される。
第9次調査(平成29年度・2017年度) (2017.8.26現地説明会)
今回の発掘調査で、石室の一部で羨道跡が新たに確認された。幅が2.6メートル、長さが8.7メートル。今回の調査では玄室は確認されなかったが橿原考古学研究所の鈴木一議主任研究員は、「当時の方墳では石舞台古墳の石室が最大だがそれに近い規模になる可能性がある。」としている。
第10次調査(平成30年度・2018年度) (2019.2.3現地説明会)。
今回の調査で、墳丘西端部のテラスと、地表下3m付近から約50度の傾斜がついた斜面が初めて確認され、これまでの調査で約70mと想定されていた墳丘の東西幅は、80mを超える事が判明した。これにより従来、飛鳥時代最大とされていた千葉県の岩屋古墳(同約78メートル)を上回る飛鳥時代最大の方墳であることが確実となった。また榛原石などの石材も大量に出土し、西側斜面も北側と同じく石材で覆われている事も分かった。古墳は約72mの北辺に比べ、南辺がやや長い台形とみられる。
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/ef835c032cea084d5305bb0cdecccfc9 【「夏の奈良大和路の古刹・遺跡を巡る」 後編:甘樫丘・飛鳥寺・石舞台古墳】より
前編:室生寺に続きます。飛鳥地方の古刹と遺跡を訪ねてきました。
飛鳥時代、日本の政治や文化の中心であった奈良県明日香村一帯は、今も豊かな自然が広がっているとともに、歴史的文化財が数多く残されています。
明日香村への玄関口は近鉄線の橿原神宮前駅、及び飛鳥駅で、両駅より村の広域を周遊するバス「赤かめ」が発着していました。バスは甘樫丘、飛鳥大仏、石舞台古墳の他、高松塚古墳などを経由するルートを走行していて、主要な観光スポットをほぼ網羅していました。
先に訪ねた室生寺から近鉄で橿原神宮前に着くとお昼を回っていました。駅構内で食事を済ませて東口から「赤かめ」バスに乗り、まずは飛鳥の玄関口でもある甘樫丘を目指しました。実のところ飛鳥へは20年前にも一度、レンタサイクルを使って広く巡ったことがありましたが、今回はややタイトなスケジュールだったため、バスを利用してコンパクトに回ることにしました。
橿原の市街を抜けて明日香村へと入ると、人家もまばらとなり、長閑な田畑の広がる光景が見えてきました。しばらくすると正面右手に緑に囲まれた小高い丘、つまり甘樫丘が姿を現しました。
バスを降りて案内図に従いながら甘樫丘を登る遊歩道へと進むと、木々の生い茂る中、低い階段の連なる小径が続いていて、思っていたより勾配がきつく感じられました。20年前に飛鳥を訪ねた際は、丘の手前まで行ったものの、結局登ることがなかったため、今回が初めての甘樫丘散策となりました。
甘樫丘は飛鳥時代に権勢を振るった蘇我蝦夷、入鹿親子が、かつて麓に邸宅を構えたとされていて、今も所在こそ確定されていないものの、丘を開発した遺跡も発掘されています。そもそも甘樫丘は東に飛鳥を従えつつ、西に畝傍山から奈良盆地を俯瞰し得る要所で、実力者蘇我氏が手中に収めていたのも何ら不思議ではありません。
やや霧雨の交じる蒸し暑い気候の中、樹木の匂いを感じつつ、汗を拭きながら階段を上がっていくと、甘樫丘展望台に到着しました。
丘の北側に位置する甘樫丘展望台は大変に見晴らしが良く、大和三山から藤原京、遠くは金剛山系までを望むことができました。また目を転じれば飛鳥寺を含めた明日香の集落も眺められて、入鹿の首塚までも肉眼で見られました。
しばらく奈良の景色を楽しんだ後は、丘の南方に位置するもう1つの展望台、川原展望台へと立ち寄って、丘の上から見下ろせた飛鳥寺へと向かいました。
川原展望台より飛鳥寺へ歩くとまず目にするのが、寺の西側に位置し、田んぼの中に寂しげに立つ蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔でした。645年の乙巳の変に際し、飛鳥板蓋宮で殺害された入鹿の首が飛んできた地点とされていて、塚自体は鎌倉時代か南北朝時代の頃に建てられました。
もちろん板蓋宮と首塚は600メートル以上も離れているため、あくまでも伝承に過ぎませんが、しばし首塚を拝みながら古代史上最大の政変に想像を膨らませました。
飛鳥寺は596年、蘇我馬子の発願によって創建された日本最古の本格的寺院で、当初、塔を中心に東西と北に金堂を配し、外側に回廊を張り巡らせた壮大な伽藍を有していました。しかし平安時代と鎌倉時代の2度にわたる火災によって焼失し、さらに室町時代以降に荒廃しましたが、江戸時代に入って再建されました。現在に創建当初の威容を思わせる伽藍はなく、小さな本堂を中心にひっそりとした佇まいを見せています。
とは言え、本尊の釈迦如来坐像、通称飛鳥大仏は、火災で大きな損傷を受けて後補を受けているものの、609年に造られた往時の姿を一部にとどめていて、アーモンド型の目や面長など、神秘的な飛鳥仏の特徴を目の当たりにできました。
この他、本堂には平安時代中期から後期の阿弥陀如来坐像も安置されていて、あわせて同地で出土した瓦なども見学することができました。
お寺を出た後は、明日香村でも随一の観光スポットでもある石舞台古墳を目指しました。「飛鳥大仏」バス停より「赤かめ」に乗り、岡寺前を抜けて坂道を走ると、休憩施設や茶屋や土産店も並ぶ石舞台地区へと到着しました。
石舞台古墳は日本最大級の横穴式石室を持つ古墳で、7世紀の初め頃に築かれたものの、早い段階で墳丘が剥がされたと考えられていて、巨大な石室のみが露出した姿で残されました。
石室の長さは19メートル、また玄室は長さ7.7メートル、幅3.5メートル、高さ4.7メートルあり、調査によって大小30数個、総重量2300トンにも及ぶ花崗岩で築かれたことが明らかになりました。また諸説あるものの、ちょうど天井部分が平らで舞台のようにも見えることから、石舞台と名づけられました。
石舞台は四方から近寄って見学できる上、玄室の中へと立ち入ることも可能でした。ぐるりと回って外観を眺めると確かに舞台のようにも思えましたが、まるで猫か犬のような動物が伏せている姿にも見えなくはありませんでした。
玄室の中に入ると、石の隙間から差し込む光が思いの外に眩しく映ると同時に、巨大な天井石をはじめとした石そのものの重量感がひしひしと感じられました。またひんやりとした空気にも満たされているからか、心なしか涼しくも思えました。
被葬者は明らかではないものの、巨大な石室からしても相当の実力者であることは推測されていて、現在は蘇我馬子であったとする説が有力となっています。とすれば墳丘が失われたのも、乙巳の変による蘇我氏の滅亡と関係があるのかもしれません。
さて今回の飛鳥周遊では、甘樫丘、飛鳥寺、石舞台と蘇我氏に関した史跡を巡りましたが、さらにもう1件、蘇我氏との関係も推察される遺跡を訪ねることにしました。
それが7世紀ごろに築かれ、甘樫丘南西部の橿原市域に位置する菖蒲池古墳でした。石舞台古墳より飛鳥駅方面行きの「赤かめ」バスに乗り、川原寺などを経由して野口バス停で降りると、雲行きが怪しくなって大粒の雨が降ってきました。この日は朝から雨が降ったり止んだりの天候でした。
野口バス停から歩いて古墳の方へ向かうと、小さな「菖蒲池古墳」の案内看板が見えて、石碑の立つ墳丘へとあがってみました。一帯は特に歩道なども整備されることなく、ほぼ住宅街の裏山といった様相を呈していました。
菖蒲池古墳は一辺が30メートルの方墳で、墳丘は2段で構成されていて、玄室には極めて珍しい家形の石棺2基が収められていました。今は建屋で覆われていて、入口の柵の隙間より実際に石棺を見ることもできました。
古墳の被葬者については議論があるものの、当時としては大きな墓域を有することから、隣の小山田古墳を蘇我蝦夷、そして菖蒲池古墳を蘇我入鹿とする説も存在するそうです。
土砂降りの中、何とも裏寂れた古墳を見ていると、不思議と蘇我氏の繁栄と没落の歴史が頭に浮かんでなりませんでした。この後、足元がびっしょり濡れながら岡寺駅まで歩き、京都へ戻るつもりでしたが、最後に入鹿関連で少し気になる場所があったため、大和八木駅で一度降りることにしました。
その気になる場所とは、全国で唯一、蘇我入鹿を神体とする入鹿神社で、駅より歩いて10分強ほどの飛鳥川を渡った住宅地の中にありました。
入鹿神社は廃普賢寺の南東部に建っていて、元々は同寺の鎮守社として伝わってきました。本殿は江戸初期の頃に築かれたとされていて、老朽化が進んだことから、1986年に解体修理が行われました。
神社の伝えでは、この近辺は蘇我氏にゆかりがあり、入鹿が幼少期を過ごしたとも、母が身を寄せたとも言われていて、今も周囲には曽我などの地名が残されています。
明治時代、当時の史観より逆臣の蘇我入鹿を祀る神社は相応しくないとして、祭神や社名を改めるように政府から要請されたものの、地域の人々が拒んだとも言われています。
蘇我入鹿は頭脳明晰だったとされているため、地元では学業成就の神として信仰を集めているそうです。また乙巳の変により首をはねられたことから、首の上の病に霊験があるとも伝えられています。
隣には15世紀に建てられ、国指定重要文化財でもある大日堂が風格のある姿を見せていました。あいにくの天候ゆえに誰もいませんでしたが、境内は手入れも行き届いていて、近隣の人達に大切にされている印象も見受けられました。
入鹿神社で手を合わせ、再び雨の中を橿原神宮前駅へと歩くと、18時をゆうに回っていました。朝から奈良に入り、室生寺を訪ねては飛鳥へと移動して蘇我氏の足跡を辿りつつ、入鹿神社へお参りした旅も終えて、特急に乗っては京都へと戻りました。
https://www.youtube.com/watch?v=siu0Ee24CS4
0コメント