https://www.webchikuma.jp/articles/-/1210 【「思考の枠」から、跳び出すには?】より
諏訪 正樹
お笑い芸人や建築家の思考を探ることで、「クリエイティブ」であるためには「体感」が重要なのではないかという仮説を検証していき、そして、一般の人々がどうしたら創造的になれるのかというヒントを見つけます。AIにはまだできていない、人間だけの能力とは何か。意欲的な新書の「はじめに」を公開します。
「クリエイティブ」。なんと魅惑的な響きだろうか! 誰もがそうありたいと願う、知のありようである。「あなたの仕事、クリエイティブだったね」なんて言われたら、天にも昇る心地になる。
クリエイティブであるとは、どういうことか? そうなるためにどんなマインドセットで事に臨めばよいのか? 数々の問いが、哲学や心理学をはじめ、認知科学、人工知能など、人の知能を解明せんとする学問分野で、昔から、リサーチ・クエスチョンとして取り上げられてきたが、いまだ謎に包まれたままである。
クリエイティブであるための方法(how)はわからないのに、私たちの身体は、ときどきクリエイティブなパフォーマンスをやってのけてしまう。また、クリエイティブなパフォーマンスに接すると、それを「クリエイティブだ」と見分けることができる。
実行力も見分ける力も持っているのに、それをやってのけるhowについての認識は持ち合わせていない。「クリエイティブである」という知は、まさに暗黙知である。
私も、クリエイティブの謎に惹かれ、自らそうありたいと願う者の一人である。日常に転がる事例を対象にして、クリエイティブという知の謎に風穴を開けたいと探究を続けてきた。暗黙知だけに探究は一筋縄ではいかないし、既存の研究方法論に縛られていては深く探究することはできない。クリエイティブに関わりそうだと直感するものごとは、まな板に載せて、私なりに包丁を入れてみたりしてきた。本書はそういう一研究者の思考回路を開示するものである。
本書では、クリエイティブな知の代表格として「お笑い」の例を数多く取りあげている。例えば、漫才における「ボケ」は、普通は想定しないものごとにパッと「跳ぶ」。しかし、その跳びを見せられると、誰もが「理解できる」という感覚を抱く。「そんな跳び方ができるなんて、目のつけかたが鋭いし、世の中を捉える視点が新しい!」。そう感心して人は笑うのだ。
お笑いだけではなく、アートやデザイン、研究開発、文学に至るまで、そして日常生活においても、目のつけどころが良くて新たな視点をもたらすことは、クリエイティブであることの必要条件である。
では、どのようにすれば、素晴らしい着眼を得て「跳ぶ」ことができるのだろうか? この問いが本書の主題である。クリエイティブな所業には必ず「跳び」が存在するからといって、通常なら想定しないようなものごとへの「跳び」を画策するというマインドでは、クリエイティブな結果は生み出せないのではないか? クリエイティブなパフォーマンスをやってのける人は、「どう跳ぼうか」と試行錯誤しているのではなくて、「跳ぶこと」はあくまでも結果なのではないかというのが、私の仮説である。
ではどうすればよいのか? 「これこれこうしさえすれば……」という、クリエイティブであるための黄金ルールはない。本書で重要視しているのは、「体感に耳を澄まし、それに向き合って、身体の発露として、臨機応変に対応すること」である。
「体感」とは、外界のものごとに遭遇したときに、体内で湧き起こる体性感覚や情動である、と大雑把に捉えてほしい。例えば、家の近くを散策しているときに、見慣れない急坂に遭遇したとしよう。何か惹かれる。違和感のような引っ掛かりも覚える。とにかく上ってみることにする。何らかの「着眼」が始まっているのかもしれないが、まだ漠としている。一歩一歩地面を踏みしめて上っているとき、路面の状態や坂の勾配に応じて、足の裏や足腰に体内感覚が生じるだろう。坂道に覆いかぶさる樹々の向こうに、急に思いがけない風景が広がってきたとしたら、ピコン! と何かが弾けるような感覚や情動が湧き起こるかもしれない。
まだことばにはならない、しかしもう少しでなりかけの、体内感覚や情動みたいなものごとが、生活のあちらこちらで生まれては消えている。そういった体感に耳を澄ませて向き合ってみると、自ずと身体は反応し、自分ならではの「着眼」が生まれ、身体の発露として「跳び」がもたらされるのではないか。それがクリエイティブであることの源泉ではないかという仮説を、本書ではいくつかの事例で述べることになる。
本書のもう一つの話題は、現在ブームを迎えている人工知能(AI)についてである。コンピュータが大量のデータから自動的に学習するアルゴリズムの開発をきっかけに、研究開発と社会応用が隆盛を極め、AIロボットやソフトウェア上の人工頭脳が、近い将来人知を超えるかもしれないとまで主張する研究者もいる。ロボットと人間が共生する未来像も語られはじめている。
しかし私は、この語られ方に一抹の違和感を覚えている。本書に登場する「臨機応変」、「着眼」、「想定外」、「跳ぶ」、「体感に向き合う」、「身体の発露」といったキーワードの根底に流れるのは、「身体」と「自己」である。ロボティクス研究は、過去二〇年多くの成果をあげてきたが、言葉や感情が宿る基盤としての「身体」への知見はまだ得られていない。ましてや、「自己」が備わるようにプログラミングする手法は、未解明である。
そもそも、基本動作原理や知識を「プログラミング」するということと、臨機応変に着眼して想定外のものごとに跳ぶことは、本質的に相容れないようにも思える。つまり、AIロボットもしくは人工頭脳が、私たち人間から見ても「クリエイティブだな」と思えるようになるための道のりは、まだ随分遠いのだ。
私の違和感は、AIと人が共生するためには、少なからずAIがクリエイティブであることが必要条件ではないか、という想いから発している。私たち人間の生活がより便利に豊かになるためにAIが支援してくれることと、AIと人が共生することは異なる。どちらの未来を目指すのがよいかは、これから市民を巻き込んで大いに議論すればよい。その議論において重要なのが、「クリエイティブ」という観点だと思うのだ。
何よりも私たち自身がもっとクリエイティブになるために、そして、人間とAIの共生という未来像を喧々諤々に議論するためにも、今、「クリエイティブであること」についての研究は、重要性を増している。
本書は、身体の観点から「クリエイティブ」を見たときにどんなランドスケープが見えるかを綴ったものである。クリエイティブであるという知の姿に、今以上に光を当てるきっかけにならんことを祈る。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmbs/25/1/25_84/_pdf 【心身二元論の彼方へ──書評:黒木幹夫・鎌田東二・鮎澤 聡編『身体の知─湯浅哲学の継承と展開』】より
(ビイング・ネット・プレス、2015 年)
棚 次 正 和※
Book Review: Beyond the Mind-Body Dualism Masakazu TANATSUGU
大変な書評を引き受けたものだ。とりわけ、本書の書評には、湯浅先生自身の思想的展開と
しての湯浅哲学、その湯浅哲学に対する論者の解釈、その論者の解釈に対する評者の解釈とい
うように理解(誤解を含む)と解釈が折り重なって交錯するため、厄介さの度合いは尋常ではない。とはいえ、湯浅先生(以下、敬称略)に多少なりとも御縁のあった者として、この仕事は断り切れない、と潔く腹を括った次第である。
本書『身体の知─湯浅哲学の継承と展開』は、湯浅泰雄没後九年・人体科学会創設二十五周年
を記念して、2014年開催の第24回大会(大会委員長 鎌田東二)において企画された二つのシ
ンポジウム「身心変容と脳科学」「湯浅泰雄の問いかけたもの」を直接の契機として出版され
た。まえがき・あとがきを除けば、その構成は、以下のとおりである。
第一章 テオーリアの知とプラクシスの知の統合を求めて
「知のあり方」と哲学のありよう【黒木幹夫】、湯浅泰雄『身体論』を巡って【倉澤幸久】、
湯浅泰雄におけるテオーリアの知とプラクシスの知の統合─日本思想研究の観点から【鎌田
東二】
第二章 湯浅泰雄と現代思想─湯浅泰雄の問いを受けて湯浅泰雄の修行論と身体の知をめぐって【桑野 萌】、湯浅泰雄と近代日本の哲学─「宗教」への問いをめぐる和辻・西田との対決【杉本耕一】、生きられた経験(expérience vécue) への道─湯浅泰雄とメルロ=ポンティ【奥井 遼】
第三章 人体科学の挑戦─身体の知を掘り起こす心身問題と他者問題─湯浅泰雄が考え残したこと【田中彰吾】、代替医療と身体的実践の知【鮎澤 聡】、「〈気〉とは何か」再考─主体的経験の科学の立場から【村川治彦】、メタプシキカの探究─湯浅泰雄のユング受容とその展開【渡辺学】、超・身体論─光の存在論へ【永沢 哲】執筆者十一名による湯浅哲学に関する壮観な一大論集である。十一という数字はいささか中途半端に見えるが、実はそうではない。そこに読者が一人付け加わることによって、湯浅哲学の多面的な把握が、いわば正十二面体(十二の正五角形より成る)として完成するように編まれている、つまり最終の完成は読者の手に委ねられている、と考えることもできるからである。
では、本書の執筆者達は、いかなる視座から湯浅哲学を眺めたのか。それは〈哲学の再生〉〈身体論〉〈日本思想研究〉〈二元論の克服〉〈宗教への問い〉〈生きられた経験〉〈他者問題〉〈身体的実践の知〉〈気の再考〉〈メタプシキカの探究〉〈超・身体論〉という諸断面から考究されている。ここでは、それらの正確な要約を試みるよりも、執筆者の立場から窺える風景の特徴を点描するよう努めてみたい。さしあたり、評者が考察の手がかりにしたいのは、「身体」と「実践」という二つの鍵概念である。
冒頭の三論文は、テオーリアの知とプラクシスの知の統合に関して、その方向性を探ろうと
するものである。黒木は、科学的テクノロジー全盛の、哲学が終った時代の「新しい知のあり
方」、あるいは〈哲学の再生〉を、「プラクシスを通じて得られる高次のテオーリアの知」(実践的体験知=瞑想の技術がもたらす自己変容の知)を目指す東洋の知の伝統を考え直すことから探求しようとする。湯浅には実践を「技術」と「身体」の両面から捉えることで、実践自体の意義から遊離する側面があるとして、湯浅哲学の批判的継承を試みる黒木は、その実践を支えているものへ眼を向ける。テオーリア・プラクシス・ポイエーシス(制作)という古代ギリシアの知的活動の分類に立ち戻って、黒木が「新しい知のあり方」「実践する知」の可能性を見出したのは、プラクシスを支える認識手段としての「フロネーシス(知慮)」を発掘して、それを哲学の表層へと引き上げることである。
倉澤の〈身体論〉には、湯浅の『身体論』に関する日本思想的な注解の一面がある。湯浅に
とって身体の問題が現われてきた意味について、倉澤は、湯浅が「生きる意味の探究」とし
て赴いた近代日本哲学の思索の根底に伝統的身体論があったことを指摘する。たとえば、西田
の言う「自我の背進的没入」や「行為的直観」には、身体の修行が結びついており、「今-ここ」に身体をもって生きることを離れない。「形而上的次元と形而下的次元」の連続的な相互浸透を見た湯浅の修行論や、「プラクシスを通じて達成される、身体を持ったテオーリアの知」に眼差しを向けた身体論を評価しつつ、「身体という形而下的次元を離れないで得られた宗教体験」はこの世の中のものである、と倉澤が述べるとき、その視線はどこまでも日常的世界の身体を持った実存様態に寄り添おうとするものである。
鎌田は、テオーリアの知とプラクシスの知の統合を、ギリシア-西欧的知と東洋的知の統合
と見なした上で、そうした問題意識を湯浅が持つに至った背景を、神話研究と〈日本思想研究〉の側面から探ろうとする。湯浅が日本思想の基本骨格を看取したのは神仏習合と平安仏教であり、とりわけ密教の汎神論的多神教的特性は山岳信仰と結びついて修行の伝統を定着させた。修行を「身体の訓練を通じて精神の訓練と人格の向上を目指す実践的な企て」とする湯浅に共鳴しつつ、鎌田は、メタフィジカを探究する西洋哲学とメタプシキカを探究する東洋哲学の出会いと接続によって、湯浅が「新しい哲学への道をひらき、また宗教と科学を調和する地平へと導くことを企図した」と評する。鎌田主宰の「身心変容技法」研究は、この人体科学会創設者による哲学的思想的科学的探究の継承であると言う。
第二章に収録の三論文は、湯浅哲学の問いかけに現代思想的に応答しようとする。桑野によ
れば、湯浅哲学の中心課題の一つは〈二元論の克服〉にあり、そのための手がかりとして東洋
の身体論や修行法に着目した。修行は心身の二元性を克服する道であり、湯浅の修行論の特徴
は、その実践が人格変容・人間形成、従って「自己への問い」と深く関わる点にある。身体は、現実世界と超越的世界を媒介し、理論と実践の二元性を克服する鍵となるもので、現代人が再発見すべき知の基層である。マシア、ラインらのスペイン哲学にも同様の「身体論を軸とした心身二元論の克服」の意図が読み取れるが、湯浅が提唱した「メタプシキカの道」、つまり修行体験から得られる心身変容の「体験知を、経験科学、深層心理学、現象学など様々なアプローチで記述することを通して、より高次のテオーリアの知に接近しようとする試み」の方向を、桑野は見届けようとする。
杉本の〈宗教への問い〉は、「湯浅のその独自の視点を、湯浅における西田や和辻との対決
の検討を通して浮かび上がらせ、湯浅の仕事を近代日本の哲学の系譜の中に位置づける」際に
不可欠の視角となるものだ。「間柄」を見る和辻倫理学では、「自我」の問題(それゆえ自我
が直面する諸問題も)が追放されてしまった。
その理由に和辻の仏教思想研究、特に「無我」理解が挙げられるが、湯浅の見解では、仏教の
宗教性は、日常的経験における無我ではなく、人間性の底に隠れた超越体験の領域に至ること
にある。また西田哲学に対して、湯浅は禅体験の内容を知的思弁で論理化する企てであり、日
常的経験と宗教的経験の区別が不明確で、前者から後者への移行が問題として無自覚だと批判
した。杉本は、湯浅哲学を、日常性の次元で倫理を問う和辻と、自己の深層を訪ねて宗教に踏
み込む西田の、「両方向を批判的に引き継ぎながら…〔中略〕…二つの次元の関連を問う」と
ころに見ている。
奥井によれば、〈生きられた経験〉にこそ我々の生への洞察を深める足がかりがある。メルロ
=ポンティの現象学的身体論は、ものの意味を成り立たせ、我々の存在を方向づける働きを「生きた身体」に見出した。湯浅もその「身体図式」に言及し、存在連関の網の目の中に受肉した「中間的存在様式」の想定が東洋医学の身体観と一致すると考えるが、そこから更に神経生理学的研究の成果を考慮すべきだと説く。奥井は、この湯浅の批判がやや不当だとして、楽器演奏、描画、書字など、「生きた身体」に関する具体例の考察から、身体図式が「生きられた経験を探るための概念的な道具立て」であって、科学的裏付けを必要とする仮説ではないことを論じる。現象学的記述は、経験されざる「生きた身体」を経験しようとする身体的実践の道であり、既に自らの身体を生きている、この実存の有り様の小さな記述を重ねる道こそが、「無知の知」へと我々を連れ戻すのだと言う。
第三章は、「身体の知」の掘り起こしに関する諸論考からなる。田中の指摘では、湯浅の心
身論の考察に不十分なまま残された課題に〈他者問題〉がある。修行によって到達する身心脱
落、心身一如の状態は、自他の区別が消え去って、一切は超越的なるものの輝きによって透明
にされた全一なる光明体と化す。しかし、この自他一体の状態において他者理解がいかなるこ
とかを、湯浅は殆ど議論しない。その自他の理解は、自明な事実としての自己の心身合一の観
点と、他者の心が身体の向こう側に閉ざされた心身二元論的観点とに分裂している。田中が試
みた他者問題の仕切り直しは、言葉や行為など相互のやりとりを通じて他者理解する、その最
も基礎的なものを「身体的相互行為」、メルロ=ポンティの言う「間身体性」に見出し、行為
の「同調」と「同期」を通じて「自他の相互行為のプロセスそのものが一種の自律性を創発的
に獲得する」方向を捉えるというものである。
鮎澤は、〈身体的実践の知〉に臨床医の視点から迫る。器質的な治療を行なう現代医学と機
能的な治療を目指す代替医療の違いを確認した上で、鮎澤は生体の機能を「秩序を維持生成す
る働き」に求め、機能それ自体は観察できないのに対して、その活動や形は、生体の水分子の
ドメイン集合に見出せるとする。機能的立場からは、自我は「理性的な思惟する自我」である
よりも、むしろ「身体そのもの」である。湯浅は情動や無意識を神経活動と内蔵感覚系に結び
つけたが、鮎澤は「情動・無意識などの深層の働きこそを主体である自我として捉えた方が自
然」であり、心身二元論の克服も、理性よりも深い心身一元的なところで感じ合う感性に立ち
返ることで可能だと見る。生体が不確実な環境の中で様々な関係性を通して新しい働き方や機
能を生み出す「身体的実践による共感と機能の創出」を看取する鮎澤の立場からは、「実践の
知の本質は、日常的なもっと身近なところにある」ものである。
村川による〈気の再考〉は、「主観的であると共に客観的であり、心理的であると共に生
理・物理的でもあるような生命体に特有の未知のエネルギー」とする湯浅の「気」の理解が、
中国の人体科学研究に触れて以降、実践に伴って認識が深められる主観主義的科学と、経験領
域で感知可能とする客観主義的科学とを統合する「主体的経験の科学」へと転じたことを見届
ける。それは「一人称的な主体的身体と三人称的な客観的身体の見方を統合する新しいパラダ
イム」であった。この主観と客観の両界の間に一定の意味内容をもつ対応・同調の関係が見出
されるのが、共時性の現象である。村川の見解では、気を見えないエネルギーとして実体化し
たことで、気の主体的体験の科学の展開は阻害されてしまった。気が「主体の実践的体験を通
じて直観的に感知される」経験に立ち返り、身体運動・呼吸・内的イメージなどの誘導から浮
かび上がる身体感覚を現象学的に記述することが重要なのである。
渡辺の〈メタプシキカの探究〉は、湯浅によるユング心理学の受容過程をユングの著作と湯
浅の著作に即して丹念に辿ることから始まる。
ユングの思想が西洋人に与えた意義の一つは、西洋文化の自己相対化であり、ユングは西洋自
身の内なる歴史的な層の再活性化の可能性を開き、集合的無意識における様々な元型を発見し
て、「心的現実の立場」を標榜した。これに対して、湯浅は東洋の形而上学に深層心理学との
密接な関係を見出す立場を、アリストテレス的な「メタフィジカ」ではなくて、「メタプシキカ」と呼ぶことを提唱した。「メタプシキカ」は、「人間の内面的な魂(プシュケー)の根底を探究することを通じて、その彼岸を目指そうとする形而上学」を意味した。渡辺は、メタプシキカの応用を湯浅が構想した「日本思想史の歴史心理学」に見て取るが、実際は「観法などの瞑想法や能動的想像によって描き出された世界を分析するのがメタプシキカの大きな課題」であったとする。
永沢の〈超・身体論〉は、二一世紀の瞑想の科学による研究成果に触れながら、「一人称的
に体験される意識状態と三人称的な計測の「相関関係」に、どのような意味があるのか」と問う。湯浅は哲学的考察が進むべき方向を「メタフィジィクとメタサイキック」の統一に見たが、その統一に向かうための準備作業として永沢が着目するのは、チベット密教ゾクチェンの「虹の身体」とその「光の存在論」である。修行者が瞑想の姿勢を保った「トゥクタム」の状態で肉体が光に溶ける「虹の身体」の実例を紹介しながら、「光の存在論」を「空性と光」あるいは「法界と明知」の不二なる統一を見る。存在の土台である本体・自性・慈悲のエネルゲイアが原初の光の放射によって現象界が生じる下向きの変成や二元論的無明に言及しつつ、永沢は、「光の存在論」と湯浅の「新しい哲学」は近い関係にあるが、そこには「明知から直接に放射される光」と「プラーナの持つ輝き」との違いがあると言う。
以上、本書に収録された諸論考の特徴的な視角の一端を不十分ながら素描してみた。さて、
本書で提示された多面的な視角は、いかに整理されうるだろうか。冒頭で触れた二つの鍵概念
「身体」と「実践」を想起していただきたい。
その二項に「認識」の一項を加えると、三項関係が形成される。そこから立ち現れるのが、「主観と身体」「観照(理論)と実践」という二重の二項対立である。「主観と身体」の対立関係は、心身関係を含む人間の存在構造論へと繋がり、「観照(理論)と実践」の対立関係は、広義の行為論の地平へと通じると思われる。本書の論者達が用いた表現を借りれば、前者は「メタフィジカとメタプシキカの統一」に関わり、後者は「テオーリアの知とプラクシスの知の統合」に関わると言えるだろう。
新たな知、哲学の再生を探求する論者達の眼差しは、私見では二方向に分岐している。一方
は、主客分立以前の地平に立ち戻って、基礎的な意味形成場(知慮、今-ここ、生きた身体、
身体的相互行為、情動や無意識、感性など)である「身体の知」に注意を払おうとする。他方
は、主客分立以前(此岸)ではなくその彼岸へと超え出る方向をよりいっそう重視する。この
両方向は、一見すると正反対なのだが、修行や超越体験は、本来、彼岸へ超越しつつ此岸へ立
ち返る往還相即の運動として成立するものである。こうした否定的媒介なき、身体と不可分の
日常的意識への密着からは、真の世界創造や自己実現は生まれないのではあるまいか。しかも、この「実存からの超越」と「実存への落着(いわば絶後蘇生した実存)」は、日常生活の只中でこそ瞬々刻々実現さるべきものであろう。この日常の生活場における否定媒介的な往還相即運動、心身変容の動態と機微が、僅かな例外を除いて、本書の論究では必ずしも明確には描かれていないように思う。
多くの論者は、「身体」を生きた物理的身体、つまり肉体と同一視している。しかし、その身
体観はいささか狭過ぎはしないか。人間の身体(人体)は多次元的な重層構造をなし、高次
元から低次元へと波動干渉によってホログラフィックに情報が重層していると想定される。
肉体には、より高次の諸身体の情報が相転移的に既に畳み込まれていると考えられるのであ
る。肉体に固着した従来の固体的身体観は、抜本的な修正を迫られるはずである。流れる身体
や非局在的な身体もありえるだろう。メタプシキカは、自我と無意識の彼方にある、時空を超
えた不可視の何ものか─「霊」と呼べる不生不滅の実在─の次元を視野に収めた学ではない
か、というのが評者の見解である。「メタフィジカとメタプシキカの統一」は、メタフィジカ
(超自然学)の西洋とメタプシキカ(超心魂学)の東洋の統一を指しているが、物理的自然と心理的宇宙の彼方の地平から現前するのは、心身二元の相対を超えた霊性であろう。そこに不可視の霊性に貫かれた人間の存在構造の全貌(霊心身三元論)が浮上するはずである。
「観照と実践」に関しては、観照から観察へのテオーリアの転落に伴って、学問が論証的思
考(エピステーメ)による理論構築となり、そこにポイエーシス(制作)を支えるテクネー(技術)の介入によって科学も技術に従属する事態が発生した歴史的経緯を睨みつつ、アリストテレスの用語を借りれば、それでも学問はエピステーメ(学知)とヌース(直観)が統合された「ソフィア(叡智)」でなければならないのではないか。直観の喪失が学問的営為を恐ろしく空虚で不確かなものにした事態は、看過しえない。「テオーリアの基礎には、実は、それを支えているプラクシスがある」という湯浅の言葉は、両者の不可分の関係が修行の根幹をなすと同時に、その修行の徹底から「行為的観照」とも言うべき境位が現出することを示唆するものとも受け取れる。新たな哲学は、この「観照と実践」が交互媒介的に徹底する地平でのみ誕生するように思われる。「理論と実践」の対立を乗り越えた広義の行為論は、たとえば身口意(身体・言語・意思)の三業をも含むような行為論的射程の拡張を伴うはずであり、「テオーリアの知とプラクシスの知の統合」、つまり理論知と実践知の統合の、その根底から開かれる「行為的観照」の境位を射程に収めるのみならず、「行為的観照」それ自体の実現・実践として展開されるに違いない。驚くほど広い裾野を持つ湯浅哲学の連山は、その内奥で本山博との修行体験や彼の宗教思想が深く反響しているのではあるまいか。
こうして、上述したことは、「身体の知」そのものの見方が変容することを意味する。「身
体」は「肉体」というよりも、多次元的な重層構造をなす「人体」であり、「知」は原初的意
味が湧出する「感覚知・感性知」であるのみならず、感覚・感受・感情から具体的思考・抽象
的思考までの認識様式全体を根源から「霊(性)」が貫いたものとなる。これが一読者として評者が本書に付け加えたい最後の視角〈霊心身三元論〉である
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