http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/tomio_maruyama.htm【奈良・富雄丸山古墳の謎解き に参加する】より
鳥見一族の戦力を考えてみる。
富雄丸山古墳は、富雄川沿いの豪族・鳥見一族の造営と推定しているが、彼らの勢力・戦力は如何ほどなのか?
→ 実は大和の土豪連合の盟主で、強力な戦力を有していたと推定している。
建振熊命が、(鳥見一族の出という)低い身分ながら神功皇后に認められたのは、
人望があり、卓越した指導力をもった人物だったから、と思われる。
大和盆地の在地豪族は、経済的実力はつけたが身分が低い為、大豪族の横暴に苦しんできた。
彼は、そのような土豪4族をまとめ、その盟主として 神功皇后側に参加したと推測する。
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この時代、富雄丸山古墳の他に(前方後円墳に匹敵するほどの武器類などを伴った)円墳(図:青色タグ)が3つ大和盆地に出現している。(注1)これらは、富雄丸山古墳と同じく、忍熊王との戦で功績を認められた土豪の円墳と思われる。
①佐紀盾列古墳群の マエ塚古墳(50m) ②天理市の 上殿古墳(30m)
③高取町の タニグチ1号墳(20m)
特徴は、鳥見一族のナガスネヒコ同様、逆賊として神武天皇に討伐された豪族と、エリアが重なること。
①は、添県波多(ソウケンハタ)の丘岬(赤膚山)の新城戸畔(ニイキドベ):女性首長
②は、和珥の坂下の居勢祝(コセノハフリ) :祝= 神官、シャーマン → 女性首長?
③は、臍見の長柄(ホソミノナガラ)の丘岬(御所)の猪祝(イノハフリ)
高尾張邑(タカオハリムラ)(葛城)の土蜘蛛
建振熊命は、鳥見一族を盟主に、神武天皇の大和侵入に抵抗した気骨ある4土豪からなる「ナガスネヒコ維新軍」を編成し、神功皇后軍に加わり、神功皇后のクーデターの中核として働き、忍熊(天皇)を支える大和の旧体制の大豪族に対抗した。
そして将軍に抜擢され、勝利し、その大功績で巨大な円墳を認められ、結集した3豪族も武器類などを伴った円墳の造営が認められた。
忍熊王や大豪族に従った土豪は、負けて円墳を造営できずに、記憶から忘れ去られた。
又、同時期に造営された (大和盆地から東国や日本海に向かう)交通路の要衝の近隣2円墳(図:緑色タグ)の豪族も、命の軍勢に加わったと推察される。
④精華町の 鞍岡山3号墳(40m):短甲、鉄剣などの武具が出土してる。
・この古墳の木津川対岸の丘陵上には椿井大塚山古墳(3C後半:175m、後円部径110m、32面の三角縁神獣鏡、10㎏以上の水銀朱が散布)が位置してる。
⑤京田辺市の 興戸2号墳(28m):内行花文鏡3面が出土してる。
彼の軍勢は、祖先同様に勇猛で結束が固く、神功皇后から厚い信頼を得ていた。親衛隊長を務めていたのかもしれない。
前方後円墳ばかしに目が行くが、今回は、大和盆地の円墳の主たち がクーデター軍の主役だった。
当時、彼は代々伝わる、鳥見一族の棟梁の世襲名「 鳥見の長髄彦 」又は別名 登美彦 を名乗り、そう呼ばれていただろう。
饒速日命に従った、古から続く誇り高き一族の 族長の名前 である。
大円墳に埋葬される際に、朝廷は、いくらなんでも長髄彦では記録上 都合が悪いと、一代限りの贈り名として、
栄誉名の「 難波根子建振熊命 ※」を名付けたのではないか? 子孫は改名して丸邇の姓となっている。
※建振熊は、熊を退治した猛々しい武人 の意味で、熊は忍熊王を指している。これは業績名で素性が見えない。
建は、建御名方神、建沼河別命、倭建命、熊襲建 などがある。
※難波根子、とは 「応神天皇を支えた忠臣」という意味。難波は(応神天皇の難波大隅宮から)天皇を指す。
難波根子は特別な尊称で、誰にでも与えられるものではなく、応神天皇の彼に対する気持が表れている。
→ 朝廷は「難波根子建振熊命」を与えることで、本来の出自・素性を隠し、封印したように感じられる。
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古事記で活躍する将軍・建振熊命 の正体は、鳥見一族の長・第17代鳥見の長髄彦 と推定された。👀 ↓
富雄丸山古墳は、富雄川沿いの豪族・第17代鳥見の長髄彦 の墳墓 である。 👏 😊
巨大円墳なわけは、贈られた尊称名「建振熊」が示す 忍熊王を倒した大功績による。 (2023年05月20日)
※第17代は、初代と区別するために付けた便宜名称。
「長髄彦」は、饒速日尊を奉った代を基準に、(神武天皇より古く)天皇家に2代だけ加算した世代とした。
※富雄丸山古墳の少し上流に添御県坐神社があり、祭神の一つは長髄彦で、彼を祀ったのが鎮座の起源と伝わっている。
注1:月刊 大和路ならら(2023年5月号) 特集 富雄丸山古墳の謎に迫る
「富雄丸山古墳の被葬者像」 寺沢和子氏
だ龍文盾形銅鏡 は どういう意図で作成されたのか? 2023年 4月 1日
盾形銅鏡 は3つのシンボル(盾、鏡、三角形)で構成されており、その意図は明白だ。
〇盾 は守るためのツール。 →被葬者が武人であるがゆえに、この形に作成された。
〇鏡 は、祀られる人の象徴。 (天孫降臨の際にアマテラスがホノニニギに三種の神器を持たせ 『この鏡をそのまま私の魂と思って、 私の前で拝むように大事に祀りなさい。』 (古事記) と語ったのが始まり。)→二つの鏡は、忍熊王との戦いで将軍・建振熊命が守り抜いた母子、神功皇后(上の鏡)と、 その子の応神天皇(下の鏡)で、二人を祀っている。
〇三角形 は大和朝廷のシンボル。 元々は饒速日命のシンボルで三輪山をシンボライズしたもの。(鋸歯紋、三角縁神獣鏡、吉備の特殊器台などに使われてる。)→二つの鏡を囲む鋸歯紋は、二人を守る(饒速日命ゆかりの)将軍・建振熊命の意思を示している
蛇行剣(237cm)は、どういう意図で作成されたのか?
この蛇行剣は、盾形銅鏡の上に水平に置かれていた。破邪の為の剣と考えられているが、他の蛇行剣は65cm程度なので、この237cmの長さはフツーではない。盾形銅鏡と同じく、シンボル性の極めて高い破邪剣だろう。
ところで、鳥見一族の特徴・シンボルは何だろう?饒速日尊、長髄彦といった一族の伝承と、富雄川沿いが根本領地 という二点が挙げられる。
この剣の蛇行と長さ が意味するのは、直線の剣では無く、川をイメージした蛇行シンボル と考えられる。鳥見一族を象徴する 富雄川をシンボライズした剣 と考えると、その長さが納得できる。富雄川一族のシンボルの 長大な蛇行剣が、盾形銅鏡の2つの鏡を上から守護している。
↑
上の記述から、別案A が浮かんだ。 《 葬送用として、”祀る鏡に、破邪の剣(蛇行剣)を一剣添える” を基本と考える。 》
①盾形銅鏡には鏡が2つある。蛇行剣は二剣添えねばならない。 ②鏡2枚は盾で一体化されてる。二剣も一体化すべき。
∴二剣分の長さの蛇行剣が作られた。 ⇒ 考え方としてはありそうだが、理屈っぽく、後付の解釈用に思える。
実際は2剣分どころでない長さだ。 せっかく思いついたので記した。 (2023年04月06日)
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別案B
長髄彦は蛇神を信仰する一族で、神武天皇は金色の鵄(トビ)に守られ勝った、という”蛇vs鵄”の 神武の大和平定説話があるそうだ。
”蛇vs鷲”だと、アフリカ・サバンナに生息し、長い足で草原を駆け回りヘビの頭を蹴って捕食する「ヘビクイワシ」が連想される。
蛇神信仰に根拠があるならば、蛇行剣は、長髄彦の「蛇をシンボライズした長大な剣」という仮説もあり得るなぁ。 (2023年08月18日)
参考: 富雄の金鵄伝説
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盾形銅鏡、蛇行剣共に、丸山古墳の被葬者の功績を讃えて作られ、一緒に埋葬された オリジナルな葬送用器具である。
当時は誰もがシンボルとしての 盾・二つの鏡・三角紋、長い蛇行剣 の意味を理解していた。
被葬者を知るものが途絶えた今、 ”私はこういう者だ”、とのメッセージを 掘り出された盾形銅鏡と蛇行剣のシンボルが送ってきている。
将軍 建振熊命 様 あなたは思い出されました。
神功皇后軍と忍熊王軍の戦い ルート図 2023年05月27日
神功皇后は、凱旋した大軍を九州の地で解散し、仲哀天皇の遺骸及び皇子(誉田別尊)を伴い大和に向け出航した。忍熊王の兄・香坂王は東国の兵を集めた。忍熊王(忍熊天皇)は大和に残っている豪族に出陣を要請した。神功皇后は武内宿禰に命じて皇子を、彼の故郷・紀伊国に避難させ、皇后の船団はまっすぐ難波を目指して上陸した。
①摂津の斗賀野の南方・住吉で両軍は戦い、神功皇后軍が勝利した。忍熊王軍は淀川沿いに宇治まで退却し、陣容を立て直した。それを見た皇后は紀伊の皇子の元に向かい、武内宿禰ら群臣と作戦を練り、皇子は、建振熊命を将軍に任命した。
建振熊命一行は、紀の川を遡り、御所市辺りから大和に入った。大和盆地を抜け、木津川沿いに、南から宇治の忍熊王軍を攻めた。
②山城・宇治の忍熊王軍は強固で戦線は膠着した。建振熊命は謀略によって忍熊王軍を破った。
③逢坂で忍熊王軍は最後の抵抗を試みたが、敗れた。
④近江の篠波で追い詰められた忍熊王は入水自殺した。
「古代史の復元」より(2023年05月27日 追加)
※応神天皇陵(誉田山古墳) 墳丘長:425m、後円部径:250m。日本第2位の前方後円墳。
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忍熊王の反乱(366年)は、神功皇后が大和の忍熊天皇に仕掛けたクーデターだった。
東国からも兵を集めた、古代日本の岐路を左右した 天下分け目の合戦だった。
忍熊天皇についた豪族たちは処分された。彼らの豪族系図(物部氏 ※1、大伴氏ら)がこの時期で寸断され、古墳の築造も途絶えた。
新たに築造された古墳は、神功皇后に従い 功績のあった豪族たちだった。富雄丸山古墳もそういった古墳であった。
物部氏、大伴氏 →(忍熊王の反乱:17代長髄彦の活躍)→ 葛城氏、和邇氏
後の世にも同じような天下分け目の合戦があった。 クーデター・壬申の乱(672年)だ。
壬申の乱 は良く知られているが、忍熊王の反乱 は知られていない。
今から1657年前に起きた忍熊王の反乱が、富雄丸山古墳・築造の謎を解くカギとなっている。富雄丸山古墳をきっかけに、忍熊王の反乱と、建振熊命、第17代鳥見の長髄彦などが 世に知られることを願う。
(※1:物部氏の系図の謎 :五十琴 その後2代の欠落は 「古代史の復元」)
建振熊命が 謎の人物 なため、「仮説B」を考えた。 2023年6月1日
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「仮説A」は、(第17代)長髄彦 = 建振熊命。
「仮説B」は、長髄彦と建振熊命は 別人。
→ならば 何処かに(富雄丸山古墳を上回る)建振熊命のご陵があるハズ であり、それを探すことにした。(富雄丸山古墳が、在地の豪族・第17代長髄彦の墓であることは AB共に変わらない。)
見失われた建振熊命のご陵は、
①4世紀後半に築造。
②墳長200mを越える前方後円墳で、後円部径は110mを超える。副葬品として武具類等が収められている。
③場所は、神功皇后のご陵のそば。又は、神功皇后陵を向いて造営されている。
↓
すると、佐紀盾列古墳群の「佐紀陵山(みささぎやま)古墳」墳長207m、後円部径131m、4世紀後半築造 が浮かび上がった。(※注)
↓
この古墳は、
①(佐紀盾列古墳群)最古の神功皇后陵の次に築造されている。また神功皇后陵のすぐ後ろで、神功皇后陵を向いている。
②被葬者が垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命とされているが、彼女は神功皇后より先に亡くなっていてこの比定は不自然。
③大型の盾形埴輪が出土しており被葬者は武人かも。
④和邇の祖の陵とすると、この地は和邇一族のエリアなので合点がいく。
また、武内宿禰の室宮山古墳(墳長238m、後円部径148m)、富雄丸山古墳(円径長109m)と比較しても、中間で規模のバランスが取れている。
■仮説Bに立つと、
建振熊命は、新羅遠征に参加していた古くからの神功皇后の武将になる。一方、長髄彦は彼の部下となる。
長髄彦は(大和の円墳豪族を纏めて)神功皇后軍の傘下に入り、皇后に気に入られ、将軍の片腕として忍熊王戦で大功績をあげた者となる。
仮説Bは、佐紀陵山古墳の被葬者を変えるので、明確な根拠が必要だが、それが無いのが難点だ。なにせ女性の墓を男性の墓、と (笑)
※注
他に怪しかった200m越え巨大古墳( みな忍熊王との戦で大功のあった人物? )は、
①島の山古墳(川西町):4C末-5C初頭 墳丘長200m、後円部径105m 向きが違う
前方部からは、首飾り、腕輪などの装飾品が出土し、前方部の被葬者は女性とみられる。
後円部は不明だが、大功を考えると武内宿禰Bの子(で葛城襲津彦の兄)紀角宿禰が妥当と思われる。
②巣山古墳(馬見古墳群、広陵町):4C末 墳丘長220m、後円部径110m 神功皇后陵を背に造営。
葛城氏の拠点地域で被葬者は葛城氏の首長説(武内宿禰)があり、和邇氏の祖の建振熊命には合わない。
古墳の主軸は(13㌔先の)御所市長柄を指していることが判明。長柄は葛城長柄襲津彦の本拠地で、古墳被葬者は彼と推定する。
③築山古墳 (大和高田市) :4C末 墳丘長210m、後円部径120m 向きが違う。
古墳の向きは、饒速日のラインに沿っており、武人や大王家とは異なる、特別な祭祀者の墓かもしれない。気にかかる。
<参考1> 系 図 (「古代史の復元」)
・仁徳天皇の時代に、飛騨高山で両面宿儺という怪人が朝廷に背いたので、難波根子武振熊命が両面宿儺を討伐した。(日本書紀)
「古代史の復元」は、建振熊命は数代連続の系統名と。忍熊王と戦ったのは2代目で,両面宿儺を討伐したのが5代目?と。
<参考2> 年代推定 (「古代史の復元」より)
278年 第11代垂仁天皇即位
298年 第12代景行天皇即位
310年 第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命死す
325年 第13代成務天皇即位
328年 第14代仲哀天皇 即位
332年 第14代仲哀天皇死す
333年 神功皇后・摂政となる。皇子(誉田別命)誕生
346年~364年 神功皇后新羅遠征
366年 忍熊王の反乱
367年 第15代応神天皇即位
372年 百済王から「七支刀」と「大鏡」が応神天皇に贈られる。
387年 応神天皇・難波大隅宮を造る
380年~ 第17代鳥見の長髄彦死す → ①富雄丸山古墳が築造
389年 神功皇后死す → ②佐紀五社神古墳に葬られる
390年~ 建振熊命死す「建振熊」名を贈られる→ ③佐紀陵山古墳に葬られる
394年 応神天皇 崩御
397年 第16代仁徳天皇即位
400年~ 武内宿禰死す → ④室宮山古墳 に葬られる
<参考3> これまでに推定した神功皇后の幕僚とその古墳
参謀・武内宿禰 室宮山古墳 (墳長238m、後円部148m):葛城氏の祖
将軍・建振熊命 佐紀陵山古墳(墳長207m、後円部131m):和珥氏の祖
軍人・葛城襲津彦 巣山古墳 (墳長220m、後円部110m):葛城氏の始祖
軍人・紀角宿禰 島の山古墳 (墳長200m、後円部105m):紀氏の祖
軍人・17代鳥見の長髄彦 富雄丸山古墳 (円径長109m):大和の土豪連合の盟主
(その他)
祭祀者・中臣烏賊津連 築山古墳 (墳長210m、後円部120m):中臣氏の祖
大三輪大友主君 金比羅山古墳 (円径長 95m):大三輪氏の祖
(感想)
↑の幕僚の(忍熊王との戦の)功績は、後円部径で推し計れる、とすると、富雄丸山古墳は、将軍・建振熊命に次ぐ径になる。
つまり、身分が低い 17代鳥見の長髄彦が、戦闘面に関しては一番の大功績をあげた人物、ということ。
彼が神功皇后軍に加わらなかったら、神功皇后は忍熊王には勝てず、応神天皇は存在せず、歴史は全く変わっていただろう。
富雄丸山古墳の巨大さは、歴史を動かした象徴としても存在している、と感じた。 (2023年06月16日)
2023年8月21日
佐紀盾列古墳群 の 航空レーザ測量の結果 が公開され、築造時の姿そのままの、200m級巨大前方後円墳群の写真が見れる。
全体写真↓の他に、それぞれの古墳について、赤外線写真図 と 等高線図 の二つが公表されており、画期的で素晴らしい。←神功皇后陵: 五社神(ごさし)古墳 (墳丘長267m)
写真左上の舌状台地の先端部を削って造られてる。
・第14代仲哀天皇の皇后陵←佐紀陵山(みささぎやま)古墳 (墳丘長207m)
その下の、双子のような右側の古墳。
・右側が佐紀陵山古墳(第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵)
・左側が佐紀石塚山古墳(第13代成務天皇陵) (墳丘長218m)
左から 五社神古墳、佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳 ~ ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳
佐紀陵山古墳だけは、大王家ではなく、応神天皇から特別に許された(和邇氏の祖)将軍・建振熊命の陵では?、と推測しており、
難波根子と称されるにふさわしい 丁寧な造りが感じられる。
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航空レーザー写真では、(樹木で覆われた古墳を丸裸にして)その地形上でどう造営されたかの構造が見える。
陵山古墳→石塚山古墳→神功皇后陵 の造営順序(Wikipedia:五社神古墳)が、神功皇后陵→陵山古墳→石塚山古墳 と推定できる。
①台地の先端部を削って造営され、目立つ高台に位置する 一番巨大な五社神古墳が、一番古いタイプと考えられる。
②その神功皇后陵を向いて、低い位置から 神功皇后陵を祀るように、陵山古墳が造営されている。
③その後に何かの理由で、残った狭いスペースに急いで造ったのが 石塚山古墳と思われる。
・土地利用上の制約により不自然な接触が起きている。また、等高線図を見ると、乱れていて雑な造りが感じられる。
・スペース内に小さく収めるのではなく、陵山陵より大きく造営しなければならない、という意図を感じる。
接触した造り方はご陵を冒涜してて、普通ではない。親子、兄弟といったファミリー的関係があって許される設計だろう。何かな?
《 データ・メモ :Wikipedia 》 (写真の左から順に)
・五社神古墳 4世紀末葉 (第14代仲哀天皇の皇后神功皇后陵に治定) 墳丘長267m、後円部径190m
・佐紀石塚山古墳 4世紀後半 (第13代成務天皇陵に治定) 墳丘長218.5m、後円部径132m
・佐紀陵山古墳 4世紀後半 (第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵に治定) 墳丘長207m、後円部径131m
・ヒシアゲ古墳 5世紀中葉-後半(第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命陵に治定) 墳丘長219m、後円部径124m
・コナベ古墳 5世紀前半 (第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓参考地) 墳丘長204m、後円部径125m
・ウワナベ古墳 5世紀中頃 (第16代仁徳天皇の皇后八田皇女の陵墓参考地) 墳丘長270-280m、後円部径128m
佐紀古墳群の南に位置するのが、
・宝来山古墳 4世紀後半 (第11代垂仁天皇の陵に治定) 墳丘長227m、後円部径123m
佐紀古墳群の東半分の ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳 は 仁徳天皇の后たちのご陵とされている。
推定では、
・397年(仁徳元年) 仁徳天皇が即位。翌年葛城襲津彦の娘の磐之姫(いわのひめ)命を皇后に。
・407年(仁徳22年)(異母妹)八田皇女(やたのひめみこ)を妃に迎えたいが皇后は承知せず、翌年皇后は山城の筒城宮に別居。
・414年(仁徳35年) 磐之姫命が亡くなり、翌々年奈良山に葬った(平城坂上陵)。 → ヒシアゲ古墳
・415年(仁徳38年) 八田皇女は皇后に。 ~431年(履中5年)亡くなる。 → ウワナベ古墳
・427年(仁徳40年) 仁徳天皇は崩御。
Q1.先妻・磐之媛陵は、「ヒシアゲ古墳」が治定なのに、「コナベ古墳」も陵墓参考地になっている。一人に二つの陵とは意味不明?
Q2.後妻・八田皇女は、「ウワナベ古墳」が治定でなく陵墓参考地になっている。
Q3.「コナベ古墳」は、5世紀前半とのことだが、出土した埴輪からは更に古く4世紀半ばとも言われ、ならば磐之媛陵(416年)はあり得ない。
(出土した円筒埴輪の型式がⅢ式で、340~379年相当とのこと)
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当時、先に結婚した妻を “こなみ”、後妻を “うわなり” と呼んでいた。(古事記にも、神武天皇の宇波那理が出てくる。)
「ウワナベ古墳」は “うわなり・後妻” に通じ、「コナベ古墳」は “こなみ・先妻” に通じる、と宮内庁は考えていたのか?
「コナベ古墳」はそれとは無関係で、応神天皇の后の「小なべ姫(おなべひめ)」の陵では?、と推測している。
彼女は丸邇の比布礼能意富美(日触使主)の娘(建振熊命の孫)で、ここは和邇一族の地で、建振熊命の陵山古墳も近く、陵の造営はおかしくない。
小なべ姫のご陵があるため、仁徳天皇の后たちのご陵は、河内でなく、この地に造営されたのかもしれない。
「コナベ古墳」の位置は中央で、他の二つに先駆けて最初に築造されたと思える。 (2023年9月11日 )
注:「ウワナベ古墳」の八田皇女は、応神天皇と后・宮主宅媛(やかひめ)(宮主矢河枝比売)との間の娘で、仁徳天皇の異母妹。
古事記には応神天皇と宮主矢河枝媛(やかわえひめ)の出会いが語られてる。(頁末「古事記物語」 目次→宇治の渡し)
「小なべ姫」は、宮主宅媛の妹で、同じく応神天皇の后。(二人は建振熊命の孫娘)
⇒ 妹のコナベ古墳があるなら、姉の宮主宅媛のご陵もこのエリアにはあるハズ 、と考えると→ 石塚山古墳に到達する。時代的にもあり得る。
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佐紀盾列古墳群は、推論の結果 以下のようになった。 (2023年9月13日 )
被葬者 新・推定被葬者 墳丘長
・五社神古墳 第14代仲哀天皇の皇后神功皇后陵に治定 → 第15代応神天皇の母・神功皇后 墳丘長267m
・陵山古墳 第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛命陵に治定 → 和邇氏の祖・難波根子建振熊命 墳丘長207m
・石塚山古墳 第13代成務天皇陵に治定 → 第15代応神天皇の后・宮主宅媛 墳丘長218.5m
・コナベ古墳 第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓参考地→ 第15代応神天皇の后・こなべ姫 墳丘長204m
・ヒシアゲ古墳 第16代仁徳天皇の皇后磐之媛命陵に治定 → 第16代仁徳天皇の皇后・磐之媛命 墳丘長219m
・ウワナベ古墳 第16代仁徳天皇の皇后八田皇女の陵墓参考地→ 第16代仁徳天皇の皇后・八田皇女 墳丘長270-280m
神功皇后陵と、その下に双子のように寄り添っている陵。
不思議な光景の謎がやっと明らかにされた。
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寄り添っている陵は、和邇氏の祖・建振熊命と その孫娘・宮主宅媛だった。
神功皇后陵を敬い、その下に造営されている。
応神天皇の意向により、母の神功皇后と、母と自分を支えた忠臣・難波根子と、(彼の孫である)愛后、とがここに眠っている。
佐紀古墳群とは、そういった古墳群であることが明らかになった。
(なお ご陵から南西(裏鬼門・未申)方向には、長大な破邪剣を持った鳥見の長髄彦の富雄丸山古墳が築造されている。)
応神天皇自身は自分の陵をどのように考えていたのか? それがわかる大発見がありました。→ 応神天皇の大三角形 (2023年9月22日)
(印象記)
報告書表紙のレーダー測量図からは、大和盆地の中央を、南から北に秋篠川に沿い、平城山の西端を木津川に抜ける古代の街道が見える。
大和盆地を抜けて、木津川沿いに宇治へ行き、日本海、東国に至る古代のメインルートの、大和の出口だ。
この街道は秋篠川に沿っており、左岸に垂仁天皇の巨大なご陵を見て進むと、平城山丘陵の西端に位置する佐紀古墳群に至る。
川沿いに、段丘上の佐紀石塚山古墳、佐紀陵山古墳の下を進むと、丘陵が現れ、上に巨大な五社神古墳が出現する。
街道を通る人々を見下ろしている。この丘陵を回り込んで進むと木津川に出る。大和盆地を抜けたのだ。
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本稿冒頭に掲載した 「富雄川流域と富雄丸山古墳」の地図(Google Earth)を見ると、
(📌富雄丸山古墳 ー 📌神功皇后陵)を二等辺三角形の底辺とする、その頂点に 緑色の宝来山古墳が見える。
この古代の街道筋は、その宝来山古墳の東(右)側にうっすらと、まっすぐに北に向かって神功皇后陵に通っているのが、窺える。 (地図に飛ぶ)
※謝意:航空レーザー測量図のおかげで上記の推論が可能になり、クラウドファンディングに感謝しています。
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「富雄丸山古墳の謎解き に参加する」を終えて(感想) (2023年5月5日)
本稿のタイトルは、
「富雄丸山古墳の謎を解く」「謎解きに挑戦」といった大それたものでは無く、「謎解きに参加する」という軽いものです。
昔住んでいた富雄が舞台なので、多数の仮説の中の一つでも、と、富雄川史観 (?) で参加しました(笑)
人によりアプローチの仕方は様々だろうと思います。
私の仮説では、次の3点がクリアされていることが必要と考えました。
①土地との繋がり
円墳は、在地の豪族が、自分の領地内で築造する墳墓であり、富雄丸山古墳も例外ではありません。
どんな一族の墳墓なのか、の説明が必要です。
②大きさの説明
普通サイズと違う巨大な円墳です。何故、巨大円墳なのか、の説明が必要です。
③被葬者と在地豪族との係わり
被葬者は、確かに在地の豪族一族の出である、との説明が必要です。
極端な情報不足のなか、これはハードルが高いです。しかし、今回はピースがうまくあて嵌りました。
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アップ(2023/2/3)して良かった、と思った返信が ツイッターで直ぐにありました。
『2023年2月9日: @awagaduさん
謎解きとても面白かったです。👍
私は鳥見小、富雄中出身です。笑
駅の落雷の時は、ピアノのレッスン中で家になかなか帰れなかった思い出が….
浅川マキいいですねー。』
あの富雄の落雷↓を知っていた方が居たという 驚きと喜びでした。
【 後 記 】
富雄は、1969年~1975年にかけての私の青春の思い出の地だ。
ここからは、私の思い出の備忘録なので、目を通す必要はまったくありませんので ご注意を!!
・当時の近鉄富雄駅は、初夏になると入口の天井にツバメが巣を作り、ヒナのフンが落ちるので 通勤には注意が必要だった。
もちろん駅員さんは、巣を撤去するなどはせず、危険の注意板を置くだけで、ノンビリした時代だった。
・竹に花が咲き、竹藪が枯れ始めた。その年は災害が起きる、と地元の若い女性から言われていたが、夏に起きた。
強烈な落雷が近鉄の架線に落ち、走ってる車両を通して線路に下り、火の玉となって転がって富雄川の鉄橋に至り、
鉄橋下のガス管を襲って破裂させたのだ。ガスが漏れ出て町に危険警報が鳴り響いた。
・富雄駅の商店街とは反対側には、三輪そうめん工場跡に長屋が数棟あり、親友のOさんなどが住んでいた。
そこの井戸は、底が浅く、底から湧水が噴出し井戸から流れ出ており驚いた。
・富雄の町には小さな通りの商店街があった。電気店、食料品店などの他に「とみお文化教室」があった。
英語や、お茶、作法 などを教えていた。お茶は石州流で、借景を使った庭園で有名な宗元・慈光院へ行ったこともある。
ある正月、初釜に招かれた。座敷では上座の先生の横に座らせられた。目の前には2列で対面した若い女性たちが
ずらっと並んでいて、その和服姿が眩しかった。終わって団欒になり、彼女たちがワイン(当時は赤玉ポートワインだった)を
注いでくれ、いい気になって飲み、すっかり酔っ払ってしまった。男一人だけだった楽園の思い出だ。
・この「とみお文化教室」は今も続いている。
富雄丸山古墳を調べていて富雄が懐かしくなり、昔お世話になった地元のHさんが健在かと 電話してみた。
今は83歳でお元気で、教室は始めてから 65年目になる、とのことでホームページを教えて戴いた。
・Hさんのスナックで知り合った親友Oさんとは よく史跡めぐりをした。飛鳥の牽牛子塚(あさがおづか)古墳の玄室が印象的だった。
彼と、当麻寺を経て、二上山に登って大津皇子の墓を見ての帰りの山道でのこと。
ラジオで秋の天皇賞を聞いていたら、伏兵のヤマニンウエーブが勝って 彼は枠連で万馬券を当ててしまった。
天皇賞史上初の万馬券だ。急いで富雄に戻って、今井さんち(寿司屋)で祝杯をあげた。
・Oさんは、私の結婚式に東京にまで来てくれた。
出会った当時は大阪外大の6年生か7年生で、SFが好きで、吉本隆明が好きで、淺川マキが好きで ウマがあった。
あだ名はパンチョでチョビ髭を生やしていた。後に息子がフィギアでショーグンと呼ばれ有名になってからチョビ髭を剃ってしまった。
末っ子に甘い親馬鹿だ。代々、信〇と名乗る 有名な戦国武将の一族。
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