https://www.shiki.jp/applause/sound/learn_more/europe.html 【トラップファミリーと激動のヨーロッパ】より
『サウンド・オブ・ミュージック』の背景となっている時代は、激動の時代です。特に、舞台となるヨーロッパは第一次世界大戦、第二次世界大戦と2度の大きな戦争を経験した、まさに歴史上の転換期となる時代でした。
一家はなぜ亡命しなくてはならなかったのか?その理由を当時の世界状況から探ってみたいと思います。
オーストリア帝国の崩壊
19世紀、オーストリアはヨーロッパ一の名門王家・ハプスブルク家が君主として統治する「オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)」という大国でした。
しかし1914年、オーストリア皇太子が暗殺されるサラエヴォ事件をきっかけに、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国とロシア・イギリス・フランスら連合国の間で第一次世界大戦が勃発。後にアメリカも参戦し、連合国側の勝利で終わると帝国は崩壊。かつての領土であったチェコやポーランドなどが次々に独立し、中世から650年あまり続いたハプスブルク家の支配も途絶えることとなりました。
その後、革命によって第一共和国が樹立します(現在のオーストリア共和国と区別してこう呼びます)。
『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台であるオーストリアとは、この第一共和国のことです。
ナチス・ドイツの台頭とオーストリア併合
第一次世界大戦における連合国の勝利は、戦勝国に空前の好況を呼びました。特にアメリカは、「永遠の繁栄」と呼ばれるほどの経済的成長を遂げます。しかし、戦争を背景に手に入れた繁栄が"永遠"のはずもありません。1929年、アメリカ・ウォール街で株価が大暴落する「暗黒の木曜日」が起こると、その影響は全世界に飛び火し、世界恐慌へと突入します。
元々、第一次世界大戦敗戦の影響で弱体化していたドイツは、この世界恐慌によって深刻なダメージを負います。失業率は30%を超え、企業や銀行が次々に倒産しました。そして、どん底まで落ち込んだ社会状況において台頭したのが、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)です。1933年、第一党を獲得すると、ドイツ共産党を弾圧して全権委任法を制定。翌1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーが総統に就任し、第三帝国が樹立されました(この"第三"とは"未来"という意味です)。
ナチスの影響は、隣国オーストリアでも強まります。これに対して、当時の首相・ドルフスはナチス勢力の排除を画策。多くの死者を出しながらも親ナチスであった社会民主党の弾圧に成功し、独裁体制(オーストロ=ファシズム)を敷きました。
しかし、独裁政権が誕生したのもつかの間、ドルフスはナチス党員に暗殺されてしまい、1938年にはドイツ軍がオーストリア侵攻を始めます。そして、オーストリア・ナチス党が政権を握ると、ドイツ軍はオーストリアに進駐。同時に、ドイツのオーストリア併合の可否を問う国民投票が実施されました。 この投票結果は、ドイツ・オーストリア両国民の圧倒的多数(99%)が賛成というものでした。この数字から、いかに当時のオーストリアにおいてナチスの影響力が強かったかがわかります。
劇中においても、執事のフランツやリーズルのボーイフレンド・ロルフなど親ナチスの人々が登場しますが、当時のオーストリアでは彼らの方が圧倒的多数であったのです。
こうして第一共和国は消滅し、オーストリアは第二次世界大戦終結までの間、いったん歴史からその名を消すこととなってしまったのです。
トラップ一家とナチス・ドイツ
さて、では『サウンド・オブ・ミュージック』の元となった実話において、トラップ一家はこの時代をどのように過ごしていたのでしょうか?
マリアがトラップ家にやってきたのが1926年。大佐と結婚したのが翌年の1927年です。この時点では、まだドイツにおいてナチス政権は誕生していません。
その後、2人の子どもを授かりますが、世界恐慌のあおりを受けてトラップ家が破産したのが1933年。ちょうどナチス・ドイツ政権が誕生した年です。
前にも触れましたが、トラップ・ファミリー合唱団が誕生して人気を博したのもこの後のことです。1936年には、反ナチスだったシュシュニク首相に招待されて歌を披露し、絶賛されます(シュシュニク首相は、政権交代後ナチスに拘束されます)。そして、翌年の1937年にはヨーロッパツアーが成功。
トラップ家に転機が訪れたのは、その翌年、オーストリアがドイツに併合されてからでした。
第一次世界大戦で活躍したトラップ大佐に、ナチスから潜水艦の艦長に就任するよう要請が下ります。これを拒否したことにより、長男ルーベルトがウィーンの病院への就職を断られてしまいます。他にも、旗を掲げることを拒否するなどナチスとの軋轢は高まり、遂にヒトラーの誕生日パーティーへの出演依頼をきっかけに亡命に踏み切ったのです。
亡命に成功した一家は、第二次世界大戦中はアメリカでコンサートや手作り工芸品の展示会を開き生計を立てていたようです(トラップ家は、歌以外にも絵画や工芸の優れた才能を持っていました)。
そして終戦後は、困窮する祖国オーストリアを救うべく「トラップ・ファミリー・オーストリア救援隊」を設立して、救援活動にも積極的に取り組んだといいます。
トラップ一家とヨーロッパの歴史年表
参考文献記載
『サウンド・オブ・ミュージックの世界―トラップ一家の歩んだ道』
ウィリアム・T・アンダーソン 著
谷口由美子 訳
求龍堂
1914年
サラエヴォ事件でオーストリア皇太子暗殺。
第一次世界大戦勃発。
1918年
オーストリア・ドイツなどが降服し、第一次世界大戦終結。
1926年
マリアがトラップ家に家庭教師としてやってくる。
1927年
トラップ大佐とマリアが結婚。
1929年
暗黒の木曜日を発覚に世界恐慌が起こる。
1933年
社会不安を背景にドイツでナチスが第一党を獲得。
1934年
ヒトラーが総統に就任し、第三帝国が樹立。
1936年
トラップファミリー合唱団が誕生。各地で人気を博す。
1937年
前年12月からのヨーロッパツアーを成功させる。
1938年
オーストリアにナチス政権が誕生し、ドイツに併合される。
トラップ一家がヴァスナー神父とともにオーストリアを脱出。アメリカへと渡る。
1945年
第二次世界大戦終結。
1947年
トラップ・ファミリー・オーストリア救援隊を設立。
1948年
バーモント州ストウで、トラップ・ファミリー・ロッジの営業を始める。
1955年
連合国による分割統治を経て、オーストリア共和国が独立。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
以前、NHKの”プレミアム10”で「サウンド・オブ・ミュージック、マリアが語る一家の物語」という番組でトラップ家の次女マリアのインタビューを放映してました。
サウンド・オブ・ミュージックはローマの休日と並ぶ私のお気に入りの映画です。
1965年のアカデミー賞5部門、ゴールデングローブ賞2部門を取った名作で、中学生の時に観てオーストリアの景色、歌、ストーリーに感動しました。
次女のマリアは高齢でしたが、チャーミングな女性で、ザルツブルグの音楽院でカラヤンと一緒だったそうです。以下にジュリー・アンドリュースが演じたマリア・フォン・トラップの記事を記します。
生まれてすぐに母を亡くしたマリアは、父の手で親戚に預けられたが、その父も九歳のときに失った。やがて預けられていた親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習った。もともとキリスト教に反感をもっていた彼女は音楽を聴きたいためだけにカトリック教会のミサに預かっていたが、やがてキリスト教に心を惹かれるようになった。
信仰を徹底しようと、ザルツブルクにあった女子ベネディクト会のノンベルク修道院に志願者として入ったが、修道院の暮らしになじめず体調を崩した。そこで院長の勧めで修道院を離れ、娘マリアの家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。
1926年にトラップ家にやってきたマリアは、もともと音楽が好きだった七人の子供たちと心を通わせるようになり、子供たちとハイキングに出かけたり、バレーボールやサイクリング、ダンスなどに興じるようになった。やがて、父親のゲオルク・トラップと心を通わせるようになり、1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげた。このとき父親のゲオルクは47歳、子供たちは長男ルーペルト16歳、長女アガーテ14歳、次女マリア13歳、次男ヴェルナー12歳、三女ヘートヴィック10歳、四女ヨハンナ8歳、五女マルティナ6歳であった。やがてゲオルクとマリアの間にもローズマリー、エレオノーレ、ヨハネスという一男二女が生まれ、12人の大家族になる。
1933年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、財産を失った。その頃知り合ったフランツ・ヴァスナーという神父は、グレゴリオ聖歌に精通しており、兄弟姉妹の歌の指導をするようになった。さらにひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ優勝してしまった。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。
1938年、オーストリアはナチスに併合された。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった(ナチ党員だったにもかかわらず一家に同情的だった執事が亡命を進言した)。一家と行動を共にすることに決めたヴェスナー神父と一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。アメリカでのビザが切れると再び一家はヨーロッパへ戻り、そこでもコンサートを行って、1939年10月に再びニューヨークへやってきた。
1940年になると大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けることになったが、その時に「トラップ聖歌隊」という名前を改めて「トラップ・ファミリー合唱団」にし、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動をおこなった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。
夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった『トラップ・ファミリー合唱団物語』(1949年、邦題:『サウンド・オブ・ミュージック』・「サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編』)や『トラップ一家の物語』(1955年)などを次々と出版し、ベストセラーになる。
1956年、ドイツの映画会社がマリアの著作の映画化と関連権利のすべてを9000ドルで買い取った。この時収入を必要としていたマリアがすべての権利を売ってしまったため、以降の映画がもたらした莫大な収入の恩恵に家族はまったくあずかることができなかった。ドイツではこの著作を元に,当時のトップ女優ルート・ロイヴェリク主演の二本の映画(「菩提樹」「続・菩提樹」)が作られ、さらにアメリカのプロダクションがその権利を買い取ってミュージカルを作ろうと考えた。そこでリチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世の売れっ子コンビが作品化を引き受け、トラップファミリー合唱団の実際の演目を使うという当初のアイデアを捨てて、完全にオリジナル曲を作ってミュージカル化した。
ミュージカルは大ヒットしたが、あまりに現実とかけ離れた物語や父ゲオルクの人物造形にマリアと子供たちはショックを受けた。やがて1965年にジュリー・アンドリュースの主演で映画化されると世界中で大ヒットした。このときもマリアは脚本家に対して、夫ゲオルクの書き方を改めてくれるよう頼んだが、結局聞き入れられなかった。
一家がコンサート活動を終えると、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の傍ら、訪問者をもてなしながら各地で講演活動を行った。
映画以上の激動の人生を送ったマリアは1987年3月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。
http://www.trappfamily.com/
豆知識
原作者のマリア・フォン・トラップ本人がワンシーンだけ通行人として映画に出演している。(『自信を持って』の曲中)
ザルツブルクで撮影された本作だが最後の山越えのシーンは視覚効果のためかザルツブルク-スイス越えルートとは全くかけ離れた場所で撮影された。このため地元民から見ると地理的にありえないラストシーンとなりこれを見た彼らは唖然とするばかりであった。それゆえ地元であるザルツブルクではこの映画はあまりヒットしなかったという。
修道女の一人、シスター・ソフィア役は王様と私などのミュージカル映画の歌の吹き替えで有名なマーニ・ニクソンである。
長女リーズル役のチャーミアン・カーは将来を嘱望されていたが本作の直後に結婚出産したため女優業を引退してしまった、しかしながら今でもこの作品の思い出話などの講演依頼が途切れることはなくそれなりの副収入になっていると本人は語っている。
当時トラップ大佐役のクリストファー・プラマーは35歳、マリア役のジュリー・アンドリュースは28歳。実話では、トラップ大佐はマリアより25歳年上であった。ちなみにリーズル役のチャーミアン・カーは、当時UCLAの学生で21歳であったが、16歳の長女役を演じた。
トラップ男爵はかつてオーストリア海軍の潜水艦隊司令官を勤めていた。第一次世界大戦中多くの戦果をあげ、その功績によりいくつかの勲章と准男爵の爵位を得ている。ドイツが男爵を引き込もうとした背景には、こういった戦歴や名声を政治的宣伝に利用する目的もあったと思われる。また「大佐」と呼ばれているが、これは誤訳であり、実際には少佐が最終階級であった。
当時20世紀フォックス社は作製した映画が失敗続き、起死回生をねらった大作「クレオパトラ」にも大失敗、倒産も間近と思われたが、この映画の大成功により経営を立て直すことができた。
このトラップ・ファミリー・ロッジを訪問したくなりました。
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