出雲神話と富家伝承の謎を解く

https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/blog-entry-51.html 【出雲神話と富家伝承の謎を解く その12】より

今回からは富家伝承をベースに出雲の古代史を解析していきたいと思います。以前にネットで富家伝承を検索したところ、伝承をそのまま書き写していているケースが多く、加えて内容自体も断片的なのでうまく理解できなかった記憶があります。そうした経験も踏まえ、本論考では伝承を参照しつつも、そのまま鵜呑みにしたり、絶対視したりせず、論理的、合理的な観点から検討を進めていく予定です。

検討を進めるに当たって不可欠なのは、富家伝承と出雲の考古学的知見や各史料の記述を比較対照することです。けれどもその前段階として、そもそも富家伝承とは何ぞやと言うところから入る必要があるでしょう。

富家伝承は東出雲王家の子孫・富家が伝えた出雲の歴史であり、「出雲国風土記」や記紀などとは全く異なる視点で書かれています。記事は弥生時代を中心に置き、近代の出来事にまで及んでいますが、過去に何度か文書が失われたため、暗記して代々伝えられたとのこと。この伝承内容を知るため、大元出版の「出雲と蘇我王国」、「出雲王国とヤマト政権」などを取り寄せ参照することにしました。(注:両書籍や他の大元出版の書籍に書かれた内容を引用する際は、基本的に富家伝承と表記していきます)

富家伝承によれば、彼らの先祖のクナト族はインド南部のドラビタ族の出身で、ゴビ砂漠、バイカル湖、アムール川を経て海を渡り、樺太、北海道を経由して、津軽半島に上陸したとのこと。その後三内丸山遺跡の地にしばらく住み(注:約4千年前で遺跡の晩期頃)、後に南下して出雲に移住したそうです。

何ともはや、出だしからあまりの壮大さに度肝を抜かれました。出雲王家はイスラエルから渡来したとされる秦氏に匹敵する存在のようにも思えてしまいます。(注:秦氏の中には始皇帝や徐福の子孫と自称しているグループもある)大先祖をインドのドラビタ族とする部分は、出雲探索の基礎資料と言うよりファンタジー的世界に近い雰囲気さえ感じられます。

こうなると、出雲移住までの経緯を現実に落とし込むのは至難の業ですが、できる限りやってみましょう。まずDNAが参考にならないかチェックしてみます。研究者が出雲人のDNAを解析したところ、事前に予想された朝鮮系ではなく、遺伝的には縄文人に少し近く、縄文人のDNA を多く継承している東北地方集団の位置に似ていると判明したそうです。ここから出雲人は、東北地方から来た可能性があると確認されます。次に言葉の特徴をチェックしてみましょう。

既によく知られていますが、出雲弁の特徴は、周辺地域と異なり、東北弁に似た孤立的ズーズー弁となっています。DNAのみならず、言葉もまた東北地方と関係していました。三内丸山遺跡には六本柱の神殿らしき建物跡があります。一方、出雲の田和山遺跡からも六本柱跡が出土しており、後の回で詳しく書きますが、神殿と考えてほぼ間違いなさそうです。以上で出雲と東北の三内丸山遺跡が多少なりとも繋がってきました。もちろんこれだけでは不十分なので、考古学的な側面での繋がりがないか見ていきます。

出雲の北方には隠岐島があり、ここからは黒曜石が産出しています。そしてウラジオストック周辺の三十数カ所に及ぶ遺跡からは七十数個の黒曜石が出土し、それらを分析したところ、隠岐島の黒躍石が5割、北海道赤井川の黒曜石が4割との結果になったそうです。(注:遺跡は紀元前2000~1500年頃のもの。既に書いたように、隠岐島の黒躍石は妻木晩田遺跡からも出土しています)ウラジオストックはツングース系民族の粛慎(しゅくしん)や靺鞨(まっかつ)の地で、彼らもまたズーズー弁に近い発声をするとのこと。

上記を踏まえ九州王朝説で著名な「古田武彦氏の講演記録」を見ていきます。古田氏は富家伝承の知識はない前提で語っていますが、驚いたことに同氏は、国引き神話の三番目、北門(きたど)の農波(のなみ)の国をウラジオストックとしているのです。確かに出雲から見てウラジオストックは真北に当たります。「古田氏の講演内容」はかなり長く詳細にわたるのでここには書きませんが、是非参照してください。

富家伝承では先祖の移動に関して、アムール川河口から樺太、北海道、津軽半島上陸のルートが想定されています。けれどもウラジオストックにおける黒曜石の出土を踏まえれば、移動ルートはアムール川支流のウスリー川に沿って南下しハンカ湖からウラジオストックへと向かい、そこから海を渡って津軽半島に上陸した可能性が高いと推測します。

その場合、出雲に移住したクナト族は隠岐島の黒曜石を逆ルートでウラジオストックに送り出したと考えることができるし、北海道赤井川の黒曜石も直接ウラジオストックに送るのには都合のいい場所となるからです。(注:三内丸山遺跡からは長野や北海道の黒曜石が出土していますが、隠岐島産は出土していません。このやや悩ましい部分は、隠岐島産の黒曜石を全てウラジオストックに直送してしまったと解釈するしかなさそうです)

以上、出雲王家・富家の先祖であるクナト族がドラビタ族かどうかまでは不明なものの、少なくとも東北、さらには海を越えてウラジオストック辺りまで関係しそうな点は確認できました。

他にも日本人バイカル湖畔起源説があり、日本人はバイカル湖周辺のブリヤート人との共通点が多いとの指摘もあります。この説から4千年前のクナト族がバイカル湖付近を通過したとまでは言えませんが、参考情報にはなりそうです。もうこの辺が辿れる限界なので、富家伝承に書かれた内容に戻ります。

伝承によれば、出雲には東出雲王家と西出雲王家があって、彼らの大先祖は久那斗大神(くなとのおおかみ)だそうです。伝承ではサイノカミの父神が久那斗大神、母神がサイヒメ(幸姫)ノ命とされ、息子神にサルタ彦大神が当てられ、以上がサイノカミ三神と呼ばれたとのこと。

一般的に言って塞(さい)の神は猿田彦を意味し、村や部落の境に置かれ、外からの侵入するものを防ぐ神で、道祖神とも呼ばれています。「来るなと」言う神だから、クナト神になるのでしょう。「日本書紀」には、黄泉津平坂で伊弉冉命から逃げる伊弉諾尊が、「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したことになっています。

さて、東出雲王家と西出雲王家はほぼ交互に王と副王を出す形で統治していたとのこと。彼らは共に久那斗大神の子孫で、王家初代・菅之八耳の二人の皇子が東と西の王になったそうです。両王家は17代まで続いた後滅亡し、旧東出雲王家の子孫が時代と状況によって向家、富家、出雲家、出雲臣などを称し、旧西出雲王家が神門臣家となります。

東出雲王家に関し幾つもの名前がありややこしいので、今後は東出雲王家、富家、向家で適宜書き分けることにします。「向家」も使用するのは、主に引用する「出雲と蘇我王国」で向家と書かれているケースがかなり見られるためです。

次に向家の名前の由来を考えてみましょう。「出雲と蘇我王国」の巻末資料には以下のような記述が見られます。

正徳4年(1714年)の68代北島道孝覚書には、「向ハ平(むかい)ナリ、神代巻曰く云々、

今我避ケ奉ル、誰復タ敢テ順(シタガエ)ハ不(ザ)ル者有ランヤ、二神ヨリ授ケラレタ広矛ヲ所持テ国を平(コトムケ)シ時云々、…

向上官職ハ、右ノ平ナリ、杵築大社神前ニテ国造名代ヲ相勤メル義ハ、右の神書ニヨル…」

向上官の職は、右の「平定した国家」という由来による職務である。杵築大社の神前で国造の名代を勤める理由は、右の史書の神世の話からきている。

上記に関して二神とは「久那戸の大神」と「幸姫命」と解説されていました。残念ながら、北島道孝覚書と「出雲と蘇我王国」のいずれにも誤解があります。「日本書紀」神代巻の内容は、大国主(大己貴命)の国譲りにおいて、事代主の確認を取り付けた経津主神と武甕槌神の二神が大国主の元に戻り、国譲りを迫ったとき大国主が答えたものです。念のため「日本書紀」の記述を簡略に見ていきます。

「日本書紀」では、経津主神と武甕槌神の二神が稲佐の浜にて大己貴命(大国主)に国譲りを迫ります。大己貴命は自分の子の事代主神に問うた上で答えると返答しました。二神の使者が事代主神に問うと、父も私も勅に従い、避り奉る(世を去る)と答えたので、彼らは再び大己貴命に問い質します。大己貴命は、既に息子は世を去ったので私もそうしよう。もし私が戦えば国の諸神も必ず戦うが、私が世を去れば恭順しない者はいないと言います。

そしてこれに続く文面は、

乃(すなわ)ち、国平(む)けし時に杖(つ)けりし広矛(ひろほこ)を以て、二(ふたはしら)の神に授(たてまつ)りて曰はく、

となっていました。上記は大己貴命が国を統治していた時、杖として用いた武器の広矛を二神に差し出すとの主旨で書かれており、これは国の統治権を天孫に献上すると言う意味です。従って、北島道孝覚書の神代巻からの引用文、二神ヨリ授ケラレタ広矛ヲ所持テ国を平(コトムケ)シ時、は全く逆の意味で書いていることになります。しかも大国主は西出雲王家の主王ですから、本来は神門臣家が向家になるべきはずであり、この部分も筋が通りにくくなっています。

また二神は経津主神と武甕槌神であり、「久那戸の大神」と「幸姫命」ではないので、この部分は富家伝承の誤りとなります。出雲国造家も富家も間違った内容を書いている訳ですから、書籍を読む際は鵜呑みすることがないよう注意が必要です。

そうした問題は見られるものの、大国主が国を平(む)けし時の(むけ=統治)に由来して、両王家を代表する形で向家の名前にしたと理解すれば何とか納得できる話にはなります。但し、向家の名前はどんなに早くても第8代大国主以降のものになり、より現実的に考えれば、東出雲王家消滅後に向家を名乗ったことになりそうです。(注:富家伝承によれば、出雲の大祭に参加した人々が、土産を向家に捧げるようになった。それが倉にあふれたので、以後人々は向家を富家と呼ぶようになった。とのこと)

いずれにしても、この東出雲王家・向家(富家)と西出雲王家・神門臣家の2者に出雲臣(出雲国造家。後の出雲大社宮司家)が絡む形で古代の出雲は展開することになりそうです。出雲国造家が出雲臣を称したのは、富家伝承によると、3世紀以降、ホヒ家(=天穂日命の後裔で後の出雲国造家)に出雲臣の苗字を使うことを、富家が許したから、だそうです。ここに至る迄の事情はあれこれ書かれていますが、長くなるので省きます。

次回は富家伝承に書かれた出雲王家の基本事項を見ていきます。


https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/blog-entry-52.html 【出雲神話と富家伝承の謎を解く その13】より

今回は出雲王家の基本事項から見ていきます。出雲王家・主王の職名は「大名持」で、主王には富家と神門臣家からほぼ交替で就任しています。大名持は大国主の別名かと思ったら職名でした。また副王の職名は「少名彦」(注:記紀に見られる「少彦名」の表記ではない)となります。次に出雲王家の系図を見ていきましょう。これは「出雲王国とヤマト政権」の巻末に掲載されていたもので、見慣れない名前も多いのですが、取り敢えず以下に書いていきます。

出雲主王(大名持)の系図

図の数字は主王就任順。【 】内の名前は「日本書紀」の表記名。赤は東出雲王家(富家)出身、青は西出雲王家(神門臣家)出身で色分けしました。

1菅之八耳 【八箇耳】-2八島士之身【八島篠】-3兄八島士之身【八島手】-4布葉之字口巧為-5深渕之水遺花-6臣津野【八束水臣津野命】-7天之冬衣-8八千予(大国主)-9鳥鳴海(事代主長男)-10国押富-11速瓮之建沢谷地身-12瓮主彦-13田干岸円味-14身櫓浪-15布惜富取成身-16簸張大科戸箕-17遠津山崎帯-(野見宿袮)-(富家)…(土師八島)…(菅原是善)-(菅原道真)

(土師八島) …(大枝朝臣家)…(大江広元)…(毛利元就)

前回で書いたように、初代・菅之八耳には皇子が二人いて、西と東に分かれたとのことです。17代で両王家は消滅します。富家伝承には消滅年代が書かれていないものの、卑弥呼の死去年代と関係付けているので、あくまで伝承によればですが、250年前後に両王家が消滅したことになります。(注:富家伝承が250年頃とする両王家消滅年代は間違っていると考えます)

野見宿祢は「出雲と蘇我王朝」では東出雲王家17代の副王に相当する形で名前が書かれています。上記系図で重要な人物は8代八千矛ですが、名前が幾つもあってややこしいので、8代主王・八千矛と副王・事代主を以下のように整理しました。

西出雲王家(神門臣家)出身の八千矛(やちほこ。本名)→出雲王家8代主王になる→主王としての職名は大名持→一般的な名前は大国主。

東出雲王家(富家)出身の八重波津身(やえなつみ。本名)→出雲王家8代副王になる→副王としての職名は少名彦→一般的な名前は事代主。

この二人の名前は頻繁に出てきますので、以降は一般的な大国主と事代主で表記する予定です。但し、八千矛の名前で史料などに出てくる場合は、八千矛(大国主)と表記します。

神門臣家の推定系譜は以下となります。

1国常立(久那斗大神)-2八島篠-3布葉之文字巧為(主王系図で4代に相当)-4八束水臣津野(主王系図で6代に相当) -5赤衾伊努意保須美比古佐倭気-6八千矛(大国主。主王系図で8代に相当)-7阿遅須枳高日子-8鹽冶毘古能-9速甕之多気佐波夜遅奴美(主王系図で11代に相当)-10甕主彦(主王系図で12代に相当)-11身櫓浪(主王系図で14代に相当)-12遠津山崎帯(主王系図で17代に相当。ここで西出雲王家滅亡)-13出雲(神門)振禰(出雲国造家系譜で第11世)

重要人物は赤字としています。東王家の王宮は松江市大庭町に、西出雲王家の王宮は真幸ケ丘の北方(出雲市神門町)にあったとのこと。(注:「出雲王国とヤマト政権」では、真幸ケ丘にあり智伊神社鎮座地の出雲市知井町とする)西出雲王家の場合多分王宮の移動があったのでしょう。

既に書いていますが、参考までに出雲国造家系譜も記載しておきます。重要人物は赤字としています。

出雲国造家系譜

始祖 天穂日命-第2世 武夷鳥命(たけひなどり)-第3世 伊佐我命-第4世 津狭命-第5世 櫛瓺前命(くしみかさき)-第6世 櫛月命-第7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)-第8世 櫛田命-第9世 知理命-第10世 世毛呂須命-第11世 阿多命 別名:出雲振根-第12世 氏祖命(おほし)初代出雲国造 別名:鵜濡渟(宇迦都久怒)-第13世 襲髄命(そつね)野見宿禰 相撲の元祖-第14世 來日田維命(きひたすみ)別名 岐比佐都美-第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)-第16世 意宇足奴命(おうそまぬ)別命:游宇宿禰-第17世 国造出雲臣宮向 出雲姓を賜わる-第18世 国造出雲臣布奈-第19世 国造出雲臣布禰-第20世 国造出雲臣意波久-第21世 国造出雲臣美許-第22世 国造出雲臣叡屋-第23世 国造出雲臣帯許-第24世 国造出雲臣千国-第25世 国造出雲臣兼連-第26世 国造出雲臣果安-第27世 国造出雲臣広嶋 

上記では第26世が果安となっています。けれども、他の系図で25世や24世が書かれていないものがあり、果安を25世や24世とする系図もありました。出雲主王系図、神門臣家系図も含め、どれもそのまま鵜呑みにはできないので、あくまで参考資料的なものとして扱うべきでしょう。

そこで、鵜呑みにできない一例を挙げてみます。主王系図で野見宿禰は17代副王となり、彼は垂仁天皇の時代の人物なので、垂仁天皇陵の築造が4世紀末である点を踏まえると、300年代後半の人物になります。一方8代主王の大国主は、富家伝承に従えば紀元前219年頃に死去したことになります。その場合、17代から8代までの僅か10代分で600年もの時代が経過したことになり、これは逆立ちしても不可能なので、明らかに間違いがあり年代補正が必要となるはずです。

系図の年代に関しては後の回で補正するとして、ここからは富家伝承のハイライト部分に踏み込んでいきましょう。富家伝承によれば、大国主と事代主の死去に至る経緯は大略以下のようになっています。

出雲国造家系譜の第2世 武夷鳥命(たけひなどり)が西出雲王家出身8代主王・大国主に、「海童が海で鰐(サメのこと)を捕えて騒いでいる」と告げた。鰐は出雲では神聖な動物なので、大国主は武夷鳥命と共に薗の長浜(稲佐の浜の南)に出向いた。すると海童たちは大国主を取り囲み船に引きずり込んだ。その後、大国主は行方不明になった。

武夷鳥命は東出雲王家出身8代副王・亊代主(注:副王なので主王系図には出てこない)に、「大国主が薗の長浜で行方不明になったので一緒に探してください」と言って、事代主を船に乗せた。船が弓ヶ浜の粟島(米子市彦名町)に着くと、海童が取り囲み裏の洞窟(静の岩屋)に幽閉した。大国主も猪目洞窟に幽閉されてしまった。

(注:海童とは徐福が連れてきた少年たちのこと。静の岩屋に関しては「米子観光ナビの粟嶋神社」を参照ください。ここには八百比丘尼伝説もあります。観光ナビに粟嶋の位置を示す地図画像も出ています)

以上から、大国主と事代主は武夷鳥命に騙されて幽閉されたことになります。

参考情報ですが、島根県大田市静間町垂水1765に静之窟があり近くに「静間神社」が鎮座しています。静之窟は『万葉集』巻二に「大なむち、 少名彦のいましけむ志都の岩室は幾代経ぬらむ」(生石村主真人)と歌われ、大巳貴命(大国主)、少名彦命(事代主)の二神が国土経営の際に仮宮とされた神話の洞窟だとのこと。どちらも同じ名前の洞窟ですが、一つは事代主が幽閉され、もう一つは大国主と事代主の仮宮なので、随分意味合いは異なります。

この事件により、東西出雲王家の主王、副王の二人がほぼ同時に亡くなります。(注:富家伝承では二人の死去を枯死と表現していました)なお天穂日命と武夷鳥命は徐福渡来の先遣隊として出雲に入ったとされています。従って、あくまで伝承によればですが、事件が起きたのは徐福が渡来したとされる紀元前219年頃の話となります。(注:天穂日命と武夷鳥命を徐福渡来の先遣隊とする富家伝承の見解は間違いと判断します)

猪目洞窟の位置を示す地図画像。

猪目洞窟は「出雲国風土記」の出雲郡宇賀郷に、「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」と書かれています。大国主の遺体は後に発見され、北山山地の竜山に埋葬されたとのこと。この重要な場所はどこになるのでしょう?

大国主が死去後に埋葬された場所は出雲市大社町鷺浦に鎮座する「御陵神社」ではないかと思料します。この場所は写真を見ただけでも、人を畏怖させるような雰囲気が漂っています。酔石亭主の記憶に過ぎないので間違いがあるかもしれませんが、地元の方が絶対に行かないとされる場所があり、多分それが御陵神社のことだと思われます。

そう考えるのは、大国主を死に至らしめた武夷鳥命を祀る神社に「伊奈西波岐(いなせはぎ)神社」があり、同社の神官が年に一度御陵神社に赴いているからです。伊奈西波岐神社の祭神は稲背脛命(いなせはぎのみこと)ですが、これは武夷鳥命の別名で合祀神が八千矛神(大国主)となっており、二人とも事件の関係者です。神官は多分、武夷鳥命に対し恨み骨髄で亡くなった大国主の荒御魂にお詫びすると共に、その魂を鎮める目的で御陵神社に足を運び鎮魂の儀式を執行しているのでしょう。

御陵神社の位置を示す地図画像。

伊奈西波岐神社の位置を示す地図画像。

大国主の遺体(注:遺骨でしょうが)は後に出雲大社の裏の八雲山に移され、そこには磐座があるとのこと。(注:事実かどうかは不明)ここは残念ながら禁足地となっているので入れません。出雲大社境内では三本束ねの柱跡が三か所発掘されており、また出土した土器や勾玉から4世紀後半には何らかの祭祀が行われていたと推定されています。(注:出雲大社本殿の平面図「金輪御造営差図」では柱が全部で九か所になっている。残る六か所は建物等があり発掘できない)

ここまでの経緯から判断すると、出雲大社の祭祀は大国主の霊を鎮めるためのものだったと言えそうです。代々の出雲国造家(現出雲宮司家)は自分たちの大先祖によって幽閉され亡くなった大国主の霊に詫びるため、そしてその荒御霊を鎮めるため、今も出雲大社で祭祀を続けていると言うことなのでしょうか?もっと後の回でこの間の事情を考察してみたいと思っています。

また大国主を最初に祀ったのが雲南市三刀屋町給下865に鎮座する三屋神社です。詳細は「しまね観光ナビ」を参照ください。

大国主と事代主の枯死事件が起きたのは、既に書いたように紀元前219年頃となります。けれども、富家伝承が語るこの年代は実年代から大きくかけ離れているので年代を補正する必要があります。そのためには、一つの年代を設定(固定)した上で検討する必要があるでしょう。

野見宿禰は東出雲王家17代副王で、この人物は「日本書紀」では垂仁天皇の記事の中に登場していました。垂仁天皇陵は4世紀末頃の築造とされているので、野見宿禰を385年頃に死去した人物と年代固定してみます。

次に野見宿禰から一代当たりの在位を15年に設定した上で、時代を8代の大国主まで遡ってみます。(注:徳川幕府でも一代18年程度となるので15年は妥当だと思われます)すると大国主の死去は250年。初代菅之八耳の死去は145年になりました。

妻木晩田遺跡では、2世紀の前半になると、四隅突出型墳丘墓の突出部が大きく張り出した墳丘墓になってきます(洞ノ原8号墓)。同遺跡の拡大期が出雲王家主王初代・菅之八耳の死去年ともほぼ一致してくると思えませんか?

そして、妻木晩田遺跡は既に書いたように3世紀半ば頃突然終焉を迎えます。同遺跡を東出雲王家の拠点と考えれば、その終焉時期と東出雲王家・亊代主、西出雲王家・大国主の死去年はほぼ一致します。大国主は西出雲王家出身の人物(神)ですが、西谷墳墓群の築造が終わるのもほぼ同時期です。

ここまで出雲の弥生時代から古墳時代までを遺跡や墳墓の各年代及び考古学的事実、記紀などの史料から見てきました。それらは以下のような年代観で整理することができます。

①四隅突出型墳丘墓の突出部が大きくなり始めるのが2世紀前半頃。

②四隅突出型墳丘墓が大きくなるのが200年前後。

③四隅突出墳丘墓の築造と、関係する各遺跡の終焉が250年頃。

④垂仁天皇の時代に出雲の神宝を管掌した物部十千根や野見宿禰が登場し、実年代では300年代後半頃。

これに富家伝承の年代観を補正してリンクさせてみます。

①初代の菅之八耳の死去年(145年頃)前後に四隅突出型墳丘墓の突出部が大きくなり始めた。

②200年前後から突出部が張り出した大型の四隅突出型墳丘墓が築造され、出雲は繁栄の時代を迎えた。これは6代臣津野(推定在位205年‐220年)から7代天之冬衣(推定在位220年‐235年)、8代大国主(推定伊在位235年‐250年)にかけて出雲の領土が拡大した時代に相当する。

③従って、富家伝承に見られる8代主王・大国主と副王・亊代主の死去は、紀元前219年などではなく、250年頃に起きた現実、すなわち四隅突出墳丘墓築造の終了及び関係する各遺跡の終焉を反映していると理解される。

④出雲東西両王家の実際の消滅時期は物部十千根や野見宿禰が登場する垂仁天皇の時代になり、380年頃と推定される。

上記のように、出雲における遺跡や四隅突出墳丘墓築造の推移と、富家伝承に書かれた内容は、伝承年代を補正すればほぼ完全にリンクしてくると理解されます。上記に含めていない紀元50年頃における青銅器祭祀の終了、四隅突出型墳丘墓築造とその祭祀の始まりをどう富家伝承にリンクさせるかは後の回で検討します。

念のために出雲国造系譜でも見ていきましょう。この系図によれば野見宿禰は第13世で事代主を拘束した武夷鳥命(注:「日本書紀」で二神の使者として事代主に国譲りを確認しに行った稲背脛(いなせはぎ)のこと)は第2世となっています。野見宿禰を385年死去で計算すると武夷鳥命の推定没年は220年ですから、ややずれはありますが、まあ許容範囲内と言えるでしょう。

以上から、富家伝承における事代主と西出雲王家出身8代主王・大国主、東出雲王家出身8代副王の枯死事件を現実に落とし込めば、250年頃における妻木晩田遺跡と西谷墳墓群の終焉の時期に相当している、と理解されることになります。

そして富家伝承によれば東西両王家の消滅も250年頃ですから、二人の王の死をもって両王家は消滅したと誤解させられてしまいます。ところが、250年と言う年代そのものは富家伝承における東西両王家の消滅年代に合致してはいますが、後に続く17代までの王たちとの整合が取れなくなります。

この不整合を整合させるのは簡単で、上記したように17代副王野見宿禰の推定死去年である385年の少し前の380年頃が東西両王家の実際の消滅年代と理解すればいいのです。(注:野見宿禰は王家消滅後もしばらく生存している)

「その11」のまとめ部分で、記紀や「出雲国風土記」に書かれた大和王権による出雲侵攻、神宝の奪取は380年頃と推定され、東西出雲王家消滅に相当する可能性がある。と書きました。(注:詳細は「その9」に書いています)

大和王権の出雲侵攻と神宝奪取は各史料に何度も書かれるほどの大事件ですから、この事件こそが出雲王家の消滅と考えても何ら違和感はなく、またそう理解しないと矛盾や不整合が起きてしまうのです。従って、①~④の考古学的事実と富家伝承をリンクさせた修正年代観が正しい可能性は高いと言えるでしょう。

あれこれ書きましたが、富家伝承のハイライト部分を検討する中で、ようやく出雲に秘められた謎の全体像が姿を現し始めたようです。けれども、ここで気を抜くことはできません。8代主王・大国主と副王・亊代主が死去した枯死事件の余波はさらに続くからです。どうなったのかは次回で見ていきましょう。


https://xn--tiqrk360irhv.fc2.net/blog-entry-53.html 【出雲神話と富家伝承の謎を解く その14】より

富家伝承によれば、大国主と事代主の枯死事件は出雲の人々に深刻な影響を与えます。両王家の分家は出雲人の約半数を引き連れて、大和へ移住。その際、岐神(さえのかみ。塞神)信仰も持ち込みました。東出雲人は葛城山東麓(御所市)一帯を開拓し事代主を祀る一言主神社や鴨都波(かもつば)神社を創建します。

西出雲人は南葛城方面に入り、アジスキ高彦を祀る高鴨神社、大年神や高照姫を祀る御歳神社を創建しました。(注:神社の創建が紀元前は有り得ませんし、250年頃でも考えられません。上記各社の創建は移住した人々の後裔の手になるものと理解されます。但し、何らかの形、例えば磐座祭祀の形などで先祖の祭祀は行われていたはずです)

西出雲人が創建したとされる高鴨神社の詳細は「高鴨神社ホームページ」より以下抜粋・引用します。

当神社は全国鴨(加茂)社の総本宮で、弥生中期より祭祀を行う日本最古の神社の一つです。主祭神の阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)、 その御名を迦毛之大御神(かものおおみかみ:「大御神」と名のつく神様は天照大御神、伊邪那岐大御神と三神しかおられません。)と申され、死した神をも甦らせることができる、 御神力の強き神様であられます。それゆえ病気平癒、初宮、大祓い等、甦りに関する信仰が深く、また人の歩む道を目覚めさせてくださる神様として全国より篤く御崇敬を受けております。

「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しています。当神社の神域は鉱脈の上にあることも重なり、多くの「気」が出ていることでも有名です。

弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。 また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶように なりましたが、ともに鴨一族の神社であります。このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・ 播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。

高鴨神社の位置を示す地図画像。

続いて「鴨都波神社ホームページ」より以下抜粋・引用します。

鴨都波神社が御鎮座されたのは、飛鳥時代よりもさらに古い第10代崇神天皇の時代であり、奈良県桜井市に御鎮座されている「大神神社」の別宮とも称されています。おまつりされている神様は、「積羽八重事代主命」(つわやえことしろぬしのみこと)と申され、大神神社におまつりされている「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の子どもにあたる神様です。そもそもこの葛城の地には、「鴨族」と呼ばれる古代豪族が弥生時代の中頃から大きな勢力を持ち始めました。当初は、「高鴨神社」付近を本拠としていましたが、水稲農耕に適した本社付近に本拠を移し、大規模な集落を形成するようになりました。そのことは、本社一帯が「鴨都波遺跡」として数多くの遺跡発掘によって明らかになっています。

鴨都波神社の位置を示す地図画像。

ここで留意すべきは、両王家の分家の大和移住は富家伝承に書かれている紀元前3世紀ではなく、250年頃になり、この時点で出雲を代表する四隅突出型墳丘墓の築造や主な遺跡が終焉を迎え、出雲人の約半数が大和に移住した点です。いかに大国主と事代主の死去が出雲に大きな衝撃を与えたかが理解されます。富家伝承には書かれていませんが、この時点で出雲両王家の勢力は相当縮小したものと考えられます。

「日本書紀」によれば、天照大神(原像は卑弥呼)の孫・瓊瓊杵尊が葦原中国に降臨する前に、天穂日命は出雲に派遣され国譲りの交渉をするも、大国主神に取り込まれ、3年経っても帰って来ませんでした。富家伝承には、当初天穂日命と息子の武夷鳥は大国主に仕えていたとあり、3年経っても帰って来なかった理由説明にはなりそうです。但し富家伝承では、天穂日命と武夷鳥は徐福の先遣隊(秦国からの渡来人)になっており、「日本書紀」の記述とは整合しません。

これらを踏まえ現実に見合うように整理すれば、卑弥呼の死去年は247年か248年頃なので、250年代になって台与が大和に移住する際、出雲に対して大和への移住を勧めたとなります。出雲と関係のある北九州勢力に強制的な意図はなかったと推測されますが、派遣された天穂日命と武夷鳥が出雲の実権を握ろうとして独自に動いたとしたらどうなるでしょう?手っ取り早いのは出雲両王家の主王と副王を拘束し亡き者にすることです。

北九州勢力は出雲王家に大和移住を勧誘していた。王家側はその勧誘に悪意はないと考えていたが、出雲を我が物にしたいと思っていた天穂日命と武夷鳥は主王と副王を拘束し亡き者にした。これに衝撃を受けた両王家の分家と出雲人は出雲を離れることを決断。大和へ移住したとの筋道が描けそうです。

この推論が正しいかどうか何とも言えませんが、ある程度筋は通りそうな気はします。さてそこで、本当に彼らが移住したか確認するため、鴨都波神社の内容をWikiから引用してみましょう。

積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である。大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大物主の子に当たることから、「大神神社の別宮」とも称される。

社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建した。一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡で、弥生時代の土器や農具が多数出土しており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかる。

事代主神は元々鴨族が信仰していた神とあります。事代主は元々東出雲王家出身の副王のはず。なぜ、元々鴨族が信仰しているのでしょう?

出雲では神のことを「かも」と発音していました。神魂神社を「かもすじんじゃ」と呼ぶのはその名残とも考えられます。それは上記した高鴨神社の由緒からも確認されます。だとすれば、出雲の神(かも)を信仰する人々だから神(かも)→鴨(かも)になったと理解してよさそうです。また大賀茂都美命(おおかもすみ)の「都美」は富とも読めそうで、「大いなる富家の神」を意味しそうな名前となり、東出雲王家との関連を暗示しているような雰囲気もあります。要するに鴨族は出雲人だったから事代主を主祭神としたのです。

ただこれだけでは、出雲人が大和に移住した確定的根拠にはなり得ません。Wikiによればこの一帯に鴨都波遺跡があるとのことなので、遺跡の中から何らかの根拠を探すしかなさそうです。と言うことで、「鴨都波遺跡」を見ていきましょう。特に遺跡の中にある1号墳が面白そうです。

鴨都波遺跡は弥生時代前期から古墳時代後期にわたる非常に長い期間営まれてきた遺跡です。未盗掘の鴨都波1号墳と名付けられた「方墳」は、南北20m・東西16mで築造時期は古墳時代前期中葉(4世紀中葉)となります。

大和の古墳としてはあまりにも小さすぎますが、副葬品に特徴があって、4面もの三角縁神獣鏡が出土しており、意匠も特殊なものとなっていました。さらに大形碧玉製紡錘車形石製品も特筆されるでしょう。これは碧玉製の石製品で、イモガイなどの貝製の装飾具を模倣して作られ、儀仗などの器物の装飾に用いられたとのこと。中央には小孔が穿たれ、上面には匙面状の刳り込みが施されています。「紡錘車形石製品の写真と解説」も参照ください。

こうした石製品は北陸などが主な生産地で、例えば加賀市片山津玉造遺跡辺りから運ばれてきたのかもしれません。碧玉製の紡錘車形石製品が北陸で生産されたとすれば出雲の影響を考慮する必要があります。また古墳の小ささに反比例するかのような副葬品の数々にも注意を払うべきでしょう。

石川県を含む北陸は四隅突出型墳丘墓の築造もあり、出雲の影響を受けた地域とみなせます。鴨都波1号墳のような方墳はこの時期の大和ではほとんど見られず、四隅突出型墳丘墓の築造が終了後の出雲に特徴的な古墳ですから、この方墳が大和と出雲の繋がりを明示しているように思えます。

ただ、遺跡自体は弥生時代前期から始まっており、先住民である葛城族の地に出雲系が入ったと見るべきでしょう。出雲系は大型古墳を築造して目を付けられないよう、うんと小さくして、その規模に反比例する豪華な副葬品を並べて築造したことになります。

方墳の存在と副葬品の特殊性に鑑みれば、250年頃における出雲勢力の大和への進出は実際にあったと判断できそうです。但し、方墳の築造は300年代半ばと推定されていることから、例えば出雲両王家消滅(注:380年頃)の後に出雲の人々が大和へ移住し、そのすぐ後に死去した首長的人物の墓を造った可能性も多少は残ります。(注:この場合、大和王権により出雲両王家が消滅し、その後出雲人が大和に強制移住させられたので、ごく小規模の方墳しか築造できなかったとの筋道も立てられます)

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