Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
いのちで見て
3月3日が桃の節句で、5月5日が端午の節句。古代中国では、月と日に同じ奇数が重なる日を忌み嫌い、その日には邪気を払うために、さまざまな行事を行っていました。
「端午」とは「はじめの午の日」を意味し、5月の最初の午の日(5日)のことです。
菖蒲の節句とも言って菖蒲湯をしますが、節句は旧暦のことなので、ほぼひと月早く、まだ、菖蒲の花も咲き揃ってはいません。桃の節句に、まだ桃が咲いていないのと同様です。現代の暦とズレているとはい、季節の先取り感がいいですね。
節句というのは植物が関わっています。桃や菖蒲のほか、七草もありますし、7月7日にはホオズキの根を煎じて飲むという古い習慣もあり、9月9日は、いわずと菊です。
自然界、特に植物を目印に季節の移り変わりを知り、稲作をはじめとする暮らしを営んでいたということですね。
植物の能力や植物に心、魂はあるか、ということも長く研究されています。植物に嘘発見器を接続して、「植物は思考を読み取り、感情的に反応している」と発表したのがバクスター効果と言われるものです。
最近では、植物は季節の訪れを夜の長さで予知することが実証的に明らかになったようです。
植物への感謝と関心ですが、同時に、生きるとはどういうことか、心とはなにか・・・というテーマの一環のようにも思います。
宇宙をコスモスと呼ぶことに思いがいきました。古の人は敬虔に自然界から学んでいたのですね。花びらが規則正しく並んでいる様子(=秩序)からです。秩序とは、(=神とは)大自然の姿にほかならないということを実感できていたからでしょう。
いのちで見て、いのちで考えることを教えてくれています。
節句から感じたことです。
Facebook相田 公弘さん投稿記事
おはようございます。穏やかな朝の足利市です。今日は「端午の節句,菖蒲の節句」です。
邪気を払う為、菖蒲や蓬(よもぎ)を軒に挿(さ)し、粽(ちまき)や柏餅を食べて、菖蒲湯に入ります。
「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、「午」は「五」に通じることから、元々「端午」は月の始めのの五の日のことでした。その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになりました。
日本ではこの日、男性は戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じ蘢って田植えの前に身を清める神聖な儀式の日でしたが、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝うようになりました。
日々是好日、素敵な一日でありますように!😄
http://makabe.jp/?page_id=6 【真壁の歴史】より
概要
茨城県西部に位置し、地元で産出する真壁御影石による石材加工業と農業が盛んな町である。歴史は古く、真壁氏が本拠として真壁城を築いたことに始まり、後に佐竹氏の家臣となった真壁氏が氏幹の代に出羽国秋田に移った後、浅野長政が隠居料として同地などを拝領し真壁藩を立藩。浅野長重の代に笠間藩へ加増移封された後も陣屋がおかれた。陣屋があったところを中心として、市街地には古い町並みが広がっており、国の登録有形文化財建造物の数は100を軽く超える。また、各家や商店などでは2003年から町おこしによる雛祭が行われることで知られる。町南部にある筑波山は、県内でも観光地として有名である。
2005年10月1日、近隣の岩瀬町、大和村と合併し、桜川市となった。
歴史
真壁地区は、奈良時代末期には常陸国真壁郡と呼ばれており、承安年間(1172年頃)常陸大掾多気直幹の四男長幹が分家し真壁氏を名乗った後、真壁氏の城下町として成立したといわれています。
その後真壁氏は約430年間この地を支配しましたが、慶長11(1606)年真壁地区は、浅野長政の隠居料としての領地になります。長政死後、三男の長重が真壁を相続しますが、この人物が現在の町割りを完成させたといわれています。
その当時完成された道路の道筋や幅員は、現在もそのままで、十字路が変形している部分や、通りも見通しがきかないよう途中で微妙に変化させているなど、江戸期の城下町特有の道筋が残っています。
https://www.tsukubabank.co.jp/corporate/info/monthlyreport/pdf/2022/02/202202_01.pdf 【真壁のひなまつり】より
「真壁のひなまつり」は、町おこしを考える数名の住民有志による「寒い中、真壁に来てくれる人をもてなせないか」というひと言から始まりました。2003年 1月、有志たちがお雛様を飾っていると、それを見た近所の家や店にも雛飾りの輪が広がり、いつの間にか 40軒もの
家や店にお雛様が飾られていました。翌年以降もお雛様を飾る家や店は増え続け、雛人形をはじめ石や花の雛人形など、様々な雛人形を展示する一大イベントとなり、毎年約 8万人が訪れています。
真壁のひなまつりの魅力の 1つは、おもてなしの心にあふれていることです。雛飾りが人々の目を楽しませるだけでなく、それぞれの家や店が、お茶を振る舞ってくれたり、昔語りを聞かせてくれたりと、心づくしのおもてなしで迎えてくれます。それはまるで人と人の関わり
が薄れた現在において、“人の和”の大切さを教えてくれる物語のようです。
もう 1つの魅力は真壁地区の町並みにあります。桜川市真壁地区は、江戸時代から明治・大正にかけて文化・産業の地として栄えたことから、隆盛を誇った商人たちによって建てられた蔵や門などが現在でも 300余棟残っています。そのうち 102棟が国の登録文化財に指定されています。
また、桜川市が歴史的建造物や町並みの保存に努めたことから、平成22年、まちの約17.6haが、茨城県では唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地区」へ選定されました。
「真壁のひなまつり」は、例年2月上旬から3月3日まで開催しています。
本稿作成時点、今年のひなまつりは、新型コロナウイルス感染防止のため規模縮小で開催する予定ですが、感染が急拡大しており、「中止」となる可能性が高まっております。訪問する際
には、桜川市観光協会ホームページ「真壁のひなまつり詳細情報」(右QRコード)を必ずご確認ください。
https://4travel.jp/travelogue/11106963 【陸の孤島の おひな様/時の狭間にて【真壁のひなまつり 和の風 第14章】】より
茨城県の西に真壁という小さな町があります。
真壁は奈良時代の末には歴史書にその名が記された古くからある街道町で、城下町の町並みが今なお残り、江戸時代には番所が置かれた交通の要所でもありました。
しかし、押し寄せる時代の波はいつしか真壁を【陸の孤島】へと変えていきました。
真壁の町はつくば市からは車で1時間という距離にありながらも、真壁には公共交通機関ではアクセスすることができません。
20年ほど前までは路線バスや鉄道という足がありましたが、人口の減少に伴う利用率の低下により、バス路線・鉄道路線は順に廃止され、真壁は行政から忘れられた地域、時の狭間に取り残された町…となっていきました。
そんな真壁でしたが、そこにはまだ多くの方々、古くからの真壁の地域に暮らしてきた町の人達が居ます。
行政が何も行動を起こさないならば、自分たちで町おこしをしよう!
町の人達が考えたのは、真壁の城下町に古くから伝わる雛人形の利用。
真壁は古い歴史のある町で、町の各家々には由緒あるお雛様たちが人知れずに眠っていました。そのお雛様を町おこしの起爆剤にしようと町の人達は考えたのです。
そして、今から14年前に有志による【真壁のひなまつり 和の風】が始まりました。
最初は、お雛様の飾りつけは数件のみでしたが、14回目を迎える2016年には、160軒以上の家々がお雛様を個性豊かに展示し、おもてなしの心で真壁地域にお雛様を見に来る旅人を迎えてくれます。
江戸時代から脈々と伝わる享保雛や人形雛などのお雛様を、昔の家の特徴を生かしながら飾り付け、寒い北関東の地に暖かい春の風を呼ぶ【真壁のひなまつり 和の風】。
友人と共に【真壁のひなまつり 和の風 第14章】へと行ってきました。
エリア 桜川(茨城)
この日の始発バスの利用者は10名程度と思いの外、少ない。
この日は朝から雲行きが怪しかったのが観光客の出足に影響を与えたのかもしれない。
真壁までのバスには、バスガイドさんが一緒に乗ってくれる。
行きのバスのガイドさんは、まだ新人さんかな…と思える位初々しい方で、つくば市から真壁に行く道中に、地域の事を色々と話してくれた。
地域の産業である筑波石や真壁石のこと、美味しいお米の話や日本の北限の蜜柑の生産地があること等様々なトピックがあったのだが、面白かったのが『はにわの西浦』情報。
この沿線には埴輪の専門店があり、そこの埴輪が面白い!ということだった。
埴輪の紹介は、若いバスガイドさんの発想ならではの沿線紹介だったのだが、確かに面白かった。
バスがそのスポットを通り過ぎるのは一瞬で、あまりゆっくりと埴輪を眺めることはできないのだが、かなりツボに嵌った。
お店の前だけではなく、自宅と思われる家の前庭、そして埴輪を製作する作業場の窓の高さを更に超えて高く積み上げられた埴輪たち。
古典的な古墳出土品風も有れば、前衛的なエンジェル埴輪や河童埴輪なんかも置いてあった。
我が家に庭はないので埴輪は置けないが、この埴輪屋さんは絶対に見に行く価値(買えないけど、ごめんね〜)がある気がする。
バスの車窓からは筑波山の姿が見える。
ひなまつりの頃の筑波山と言えば、山麓の梅園が有名だ。
千本を超える梅の木が山肌を埋め尽くすその景観は見事とのことなので、もし時期が合えばひなまつりと合わせて一緒に梅園にも行こうかと思っていたのだが、この日はまだまだ3分咲とのこと。
筑波の梅園の見頃は2月下旬からのようだ。
筑波山 自然・景勝地
(略)
真壁の町のお雛様はそのジャンルも様々で、こちらは【佐藤家】のネズミの嫁入りひな人形。
栄養ドリンクの空ボトルを芯にして作られている。人形は、地域の方たちが作られたということ。可愛らしい作りで、地域の皆がひなまつりを楽しみにしてきているのが伝わってくる。
真壁の町はその昔は城下町、宿場であったところで、その町中には古い家々が立ち並ぶタイムスリップしたかのような町並みも残されている。
そんな町並みの中でちょっと変わっていたのが、洋風石造り風の建物:【旧真壁郵便局】。
現在は国の指定文化財のため郵便局としては使われてはいないが、中の見学は可能だ。
この旧郵便局の紹介で洋風石造り風…と書いたのには訳がある。
実はこの郵便局の基本構造は木造建築で、外壁は石の様に見えるセメントだという事。
昭和2年に建てられた建物は、当時の建築の流行を真似たもの。
限られた予算の中で時代の最先端の建築を作ろうとした当時の建築家の方に拍手!
セメントと聞かされていなければ、石造りだと思ってしまう。
旧真壁郵便局 名所・史跡
展示されているお雛様は様々で、こちらは石屋さんが作った石雛。真壁石:御影石(花崗岩)の産地でもある真壁町らしいお雛様だ。ひな人形たちが微妙に四頭身なところが、なんだか漫画っぽいのかも。
旧真壁郵便局のある通りには郵便局以外にも古くからの建物が残っていて、写真の【旅籠ふるかわ】もそんな家だ。
旅籠ふるかわのお雛様の展示方法は少し変わっていて、家の2階部分にお雛様を飾っている。
真壁の町並み 名所・史跡
江戸時代から変わらぬ道幅 by ウェンディさん
道行く人が屋根の上を見上げて眺めるお雛様。
このお雛様は、私と同い年…と云う事で、なんだか親近感♪
きっと、お年頃の娘さんがいらっしゃるのだろう。変わり雛としては狐の嫁入り雛…なんていうのもある。変わり雛としては狐の嫁入り雛…なんていうのもある。
こちらはネコ雛。地域の方たちの手作り雛なのだろう。
お宅によっては吊るし雛と共に、婚礼の時に着た花嫁衣装の展示もあった。
金糸をふんだんに用いた花嫁衣裳。
もしかしたら代々受け継がれ、次の世代のお嫁さんがまた袖を通すのかもしれない。
お雛様の展示方法は様々で、昔の文庫蔵を展示スペースとしている家も有った。
蔵の中の細い階段を雛壇に見立てているのは【川島洋品店】。
川島洋品店の蔵の中には昭和初期のころのお雛様たちが飾られている。
でも、このお雛段、何か変かも…?
変なところ…それは、主賓のお内裏様とお雛様がいない。
お二人がいる筈の最上段で澄ましているのは三人官女のお嬢様たち。
お雛様は何処に…と思って探してみたら、ひな壇の一番下で、酒盛りを楽しんでいた。
昭和初期のころのお雛様は、こんなにユーモアのセンスに溢れていたのだとビックリ!
川島洋品店土蔵 名所・史跡
我が人生に悔いは無い♪竜宮城へと迷いこんだお雛様★手の込んだテーマ展示に思わずクスリ♪と笑いが・・・ by ウェンディさん
更に驚いたこともあった。
それは、ひな壇の隅にお雛様たちのその後の様子まで演出されていたこと。
竜宮城で楽しい日々を過ごしたお内裏様とお雛様。
ほんの数日の滞在と思いきや、現実界へ戻ってみれば、あっという間に100年の月日が過ぎていた。
更に、乙姫様からお土産でもらった玉手箱に入っていたのは、成長促進薬。
玉手箱の蓋を開けると同時に、二人は白髪のお爺さんとお婆さんに…早変わり。
でも、年老いたお内裏様とお雛様の表情はとっても楽しそう。
竜宮城で過ごした日々に後悔はなく、これからまだ100年位は人生楽しもう〜という意気込みが感じられる。
年をとってもニコニコしていられるって、素晴らしい事だと思う。
川島洋品店の道路向かいにあるのは、古い土蔵つくりの【川島書店見世蔵】。
この見世蔵の中には古い時代のお雛様たちが沢山飾られていた。
古い箪笥を雛壇に利用したひな飾り。
お雛様というと5段飾りといった豪華できらびやかな衣装を着たお人形さん達をイメージするが、実は、その昔は素朴な人形が始まりだったそうだ。
煌びやかなお人形さん達は上流階級のみが愉しむことが出来た娯楽で、江戸時代の町屋でのお雛様の飾りつけは、きっとこんな感じだったのだろう。
享保雛と呼ばれるお雛様。
最初に見学した江戸後期から明治の古今雛と比べ、その衣装が質素だ。
享保時代の頃は江戸中期の時代で、質素倹約が第一とされたころ。
お雛様にもその特徴が表れている。
川島書店見世蔵 名所・史跡
江戸時代の町人文化のお雛様 by ウェンディさん
川島書店の吊るし雛は、江戸時代の赤ちゃん用のベッド・メリー・モビールみたいだった。
ベッド・メリー・モビールとは、ベビーベッドの上に吊るす赤ちゃんをあやすためのクルクル回るおもちゃのこと。
古典的なモチーフが素敵だ。
真壁の町には旧家が数多く残っているが、その中でも一番歴史があるのが【中村家】。
江戸時代のお雛様で、つるつるしたお顔は享保雛の特徴を備えている。
しかし、お雛様の着物は享保雛にしては少し豪華な感じ。
享保時代でも後期なのかもしれない。
こちらは【根本米穀店】に飾ってあった大正時代のお雛様。
大正時代の流行は、お花を背負ったスタイルだ。
【森家】のお雛様は、明治時代のお雛様。
こちらのお雛様は、三人官女や五人囃子…みたいに一般的なひな人形ではなく、お爺さん、そして狆引き官女(狆:チンを連れた官女)もいる。
そして、なんだかみんな楽しそうな雰囲気だ。
実は、現在普及している5段飾りなどの一連のお雛様一式セットが確立されたのは、比較的最近で大正時代・昭和の初めのころから。
デパートが女の子の節句にと言ってセット販売したのが、現在のひな人形スタイルの始まりとのことだ。
それ以前の時代では、女の子が生まれると人形屋さんへと出向き、自分のお気に入りのお雛様をひとつひとつ集めていくのが普通だった。
きっと、このイキイキしたお人形を集めた当時の森家の奥さまは、活発な方だったのではないかな…と勝手に想像してしまう。
真壁の町で飾られているお雛様たちの種類は多いのだが、中にはここでしか見られない…という少し変わったお雛様たちもいる。
そんなお人形さん達が居るのが【民芸の里 一喜】。
こちらのお雛様の特徴は、そのお顔。
よく見ると、お内裏様とお雛様の口には歯が描かれている。
歯に特徴があるのは三人官女たちも…。
三人官女たちは既婚者のしるしとして、鉄漿(おはぐろ)で歯を黒く染めている。
歯があったり、鉄漿をしているひな人形は、初めて見たかもしれない。
何処のお宅の吊るし雛も素敵なのだが、私がいいな…と思ったのは、【橋本旅館】の吊るし雛。
吊るし雛というと様々なモチーフの人形が吊るされている物が多いが、橋本旅館にあったのは、毬を吊るした吊るし雛。
球だけで構成される非常にシンプルな吊るし雛なのだが、その形のシンプルさが毬の色を引き立てている。
(略)
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