古代氏族

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12289441447?query=%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F%E3%80%81%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%B0%8F 【源平藤橘を先祖に持つ武将は「朝臣」を名乗りました。物部氏、秦氏、蘇我氏を先祖に持つ武将は「朝臣」でなく「宿禰」を名乗ったのですか?大伴氏、佐伯氏を先祖に持つ武将は「朝臣」でなく「連」を名乗ったのですか?<大友家持は連でした>】より

ベストアンサー hec********さん

結論から言うと、「途中で改姓していなければ」そのまま同じカバネを名乗っていることがほとんどです。しかし後述する通り八色の姓に伴う賜与、その後の氏人の行状などによる賜与があるため、必ずしも「同じカバネを名乗っている」とは断言できません。

また、八色の姓の制定に際して賜与されたカバネは主要氏族に対してのみ与えられており、八色の姓制定前の支流に関しては別のカバネが賜与されている事例も多く確認されています。また、全例とは言えないかもしれませんが中央政庁に関連しない氏族に対してはカバネが賜与されない傾向がみられ、その場合は古いカバネをそのまま名乗っていたり、無姓である(もしくはそう推測される)事例も確認されています。

物部氏は本宗家とされる石上氏(物部守屋の兄である物部大市御狩の系統)が朝臣を授与されていますので、その系統は基本的に朝臣となっています。しかし、大連を輩出した物部氏以外にも物部氏の子孫は広範に分布しており、その中には平安時代に宿禰姓を授与された物部中原氏や連姓を賜与された物部斯波氏などの事例の記録が確認されています。但しこれらの氏族が物部氏と同族関係にあったかは定かではありません。

秦氏は本宗家は八色の姓の制定の際には忌寸を賜与されているとされ、実際に多くの秦氏は忌寸を名乗っていますが、奈良時代に大秦公→秦忌寸と改氏姓を行った秦島麻呂や秦宿禰を名乗る秦永原(後に惟宗朝臣に改氏姓)、秦忌寸→時原宿禰→時原朝臣と改氏姓を行った時原春風などの事例もあり、また秦永原や秦直宗・直本兄弟など秦氏の人物が同時に16名惟宗朝臣に改氏姓しており、そのカバネはどの支流の末裔かでバラバラです。例えば地下家として残る秦姓三上氏は秦宿禰と伝わっています。

蘇我氏も本宗家とされる石川氏→宗岳氏→宗岡氏は朝臣を賜与されて朝臣を名乗り続けているのですが、確認できる限り同族とされている後裔は軒並み朝臣を名乗っています。

大伴氏の場合は大伴御行の代に八色の姓の制定に伴い宿禰を賜与され、更に応天門の変を経た伴保平(淳和天皇:大伴親王の忌諱にて大伴氏→伴氏と改姓しました)の代に朝臣に改姓されました。このため伴保平以降の大伴氏末裔については基本的に朝臣を名乗っています。

一応google検索では「大伴連家持」とするblog記事が1件だけ確認されましたが、家持出生前に大伴御行が宿禰を賜与されており、該当blogで原典としている『万葉集』でも調べ得る限りでは「大伴宿禰家持」の記載になっています(添付画像は元暦校本の『万葉集』の引用です)ので、「大伴連家持」を名乗ったことはないと思われます。

佐伯氏も同様に大伴氏と同時に宿禰を賜与されており、その後は明確に改姓を行った記録が見つかりませんでしたので宿禰のままと考えられます。佐伯氏は佐伯連と佐伯直があるのですが、後者は佐伯鈴伎麻呂(弘法大師空海の兄です)が没後に宿禰を賜与されたため、やはりその後は宿禰を名乗っているものと思われます。

「八色の姓」制定以前の古代日本における姓(カバネ)の役割については諸説あり、朝廷内での職掌を示すものという説、それぞれの氏族の出自を示すものとする説(皇別・神別・諸蕃によってカバネの傾向が異なる)とあります。

しかしいずれにしても「八色の姓」で制定されたカバネの賜与においてはその氏族が重視されたことが指摘されており(「詔曰、凡諸應考選者、能検其族姓及景迹、(中略)若雖景迹行能灼然、其族姓不定者、不在考選之色」『日本書紀』天武天皇十一年八月条)職掌というよりは室町時代以降で言うところの家格に近い意味合いであったと考えられています。

最上位の真人は親王家で、朝臣・宿禰・忌寸が堂上家、道師・臣・連・稲置が地下家といった感覚で理解すると近いのかもしれません。

この八色の姓制定以降のカバネは不変のものではなく、特に桓武天皇以降は個人の行状をもとに新たに賜与されることも多く、逆に「格下げ」が行われることはかなり稀でした。従ってカバネはどんどん上昇していき朝臣で頭打ちになっているケースが多く確認されています。

格下げになった数少ない事例としては小槻氏の事例があります。地下家の両局として知られる壬生家の本姓が小槻なのですが、この小槻氏は当初は小槻山君とカバネが「君」でした。小槻山氏には八色の姓制定により新たにカバネが与えられることはなく小槻山君のままであり、875年に小槻山今雄・有緒の兄弟が阿保朝臣を賜与されるまで続きました。この阿保朝臣は今雄の息子の阿保経覧は継承したのですが、経覧の弟とされる当平に関しては阿保朝臣から小槻宿禰に改氏姓をしています。さらに当平の弟の糸平に至ってはそもそも阿保朝臣を名乗った記録すら確認されていません。そして阿保経覧の子孫は現在に残らず、壬生家は小槻当平の末裔ですのでそのまま小槻宿禰を名乗り続けています(子孫の著した『小槻孝亮宿禰日次記取要』『晴富宿禰記』などから窺えます)

この朝臣→宿禰という記録上ほぼ唯一の格下げの理由は定かではありませんが、息速別命後裔の氏族に764年に同じ阿保朝臣を賜与された阿保人上が存在しており、小槻山君の祖先である於知別命はこの息速別命の同父兄弟(ともに父親は垂仁天皇)であるため間違えて賜与したのかもしれません。

なお、この小槻山今雄は阿保朝臣を賜与される前年に近江国栗太郡から京に居住地を移している記録があり、八色の姓制定以降はカバネの賜与に中央政庁への勤務が条件としてあったのかもしれません。

hec********さん

実際、武家で「朝臣以外」のカバネを持つ一族の末裔を名乗るのはかなり数が少なく、近世大名の中では安倍貞任末裔とされる秋田氏(三春藩主、カバネなし)や多々良姓大内氏の支流を自称する山口氏(牛久藩主、宿禰)、伊予橘氏末裔で越智姓とされる稲葉氏(臼杵藩・淀藩主他、宿禰)と一柳氏(小野藩・小松藩主、宿禰)、有道姓本庄氏(桂昌院の実家、宮津藩・高富藩主、宿禰)くらいでしょう。

もちろん他に出自が怪しいのは徳川氏を始めどっさりいますが、自分で名乗っていないのでカバネには反映されません。上記の一族もほとんど小大名で朝廷の記録に残ることはほぼ皆無ですので、実際に朝臣以外のカバネを名乗っている記録が見つかりませんでした。

1個確実なのは、伊藤博文が越智姓を名乗っており、明治4年の姓尸不称令以前の官員録では「越智宿禰博文」の記述を見つけることが可能です。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11103865621?query=%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%B0%8F%E3%80%81%E4%BD%90%E4%BC%AF%E6%B0%8F 【大伴氏や佐伯氏が勢力を失っていったのはなぜですか?藤原氏とどんな違いがあったのでしょうか(e_e)】より

ベストアンサー  cre********さん

欽明天皇の時代に大伴金村が失脚して以降、大伴氏は中央政界でのヘゲモニーを失う事に成ります。

只、元来が武家的氏族であった大伴氏自体のプレザンスが消えて無く成った訳では無く、丁未の役・乙巳の変・壬申の乱等古代社会を大きく揺さぶった争乱が起こる度に、彼等大伴氏の姿が見え隠れします。

此の時期の大伴氏は傭兵集団化して居た、有り体に言えば用心棒稼業で凌いで居たのだろうと思われます。

奈良期に入り、大伴氏からは旅人・家持の親子を始め人物が輩出した事から、何かと彼等の事が言及される事が在りますが、其れ等は概ね藤原氏に代表される政権中枢に対する造反者としてであって、当時の大伴氏内外の血の気の多い雰囲気が伝わって来る様な所が有ります。

中臣氏から分離した藤原氏が、天皇家と血縁を深め一体化する事で権力を掌握したのに対して、常に実力で抵抗し挑戦し続けたのが大伴氏と言う構図に成るかと思います。

奈良〜平安に懸けての頃には特にソウで、結果的には其の都度血祭りに挙げられ根絶やしにされて来たと言って良いかと思われます。

止めが応天門の変で、伴大納言善男の失脚を以って事実上中央政界からは消える事に成ります。

其れ以降の伴氏は、河内源氏との縁を頼りに細々と生きて行く事に成ります。

大伴氏とは同族と言われる佐伯氏は、久米氏同様に大伴氏には従属する立場に有り、大伴氏に付き合う形で、遅くとも平安の前半期には離散する事に成る様です。


http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/167.html【兵庫県の新羅神社(9)】より

四本の柱により、囲まれた場所が聖域であり、やがてヤシロの意味となった。現在のように七年に一度行われるようになったのは桓武天皇の時からといわれる。蝦夷の征伐に霊験あらたかということで軍神として社殿の立て替えを七年毎に行ったのが起源という。しかし、この諏訪の地方では古くから祖神・氏神であり、鎮守の神、農耕の神であった。諏訪大社の歴史には持統天皇が勅使を派遣し、国家安寧と五穀豊穣を祈念したことが、「持統紀」五年(六九一)の条に見られる。神社の祭神は大国主命の二男・健御名方命(たてみなかたの)と八坂刀売命(やさかとめの)である(健御名方命の母は越の国の沼河媛命である。八坂刀売神の兄神は八重事代主命)。なお、廣峯山の麓、白国の背後の廣峯谷と増井谷の間に南ら延びる尾根があり、その先端に大歳神社がある。そのすぐ上に白国宮山古墳があり、埴輪などの出土品があった。二基の古墳があったが、古墳封土の流出があり、現在は場所を確認できない。樹木が繁り場所の特定も困難である。ここから出土した埴輪は地元の中学生が調査により、採集したものであるが、その中に「鶏形埴輪(とりがたはにわ)(頭頸部)」と呼ばれているが、この埴輪の出土は播磨でも数例にすぎず、貴重品である。須恵器、甕、壺、杯蓋などから五世紀末と言われている。他には、姫路市の兼田古墳群、高砂市の時光寺古墳などがあるのみ。下山するときは増位山を回っておりた。

随願寺の境内が増位山の麓まで続いており、参道を下ると、麓には随願寺の伽藍の一宇であった「念仏堂」(播磨西国四番札所・境内の手洗石は石棺蓋を利用したもの)がある。随願寺から歩くこと約一時間。念仏堂を過ぎ姫路藩墓地をすぎると、白国のバス停に着く。

4 姫路市白国にある佐伯(さえき)神社

「佐伯神社」があるのは白国というバス停の少し手前、増位山の麓の白国二丁目である。神社は増位川(廣峯山から流れている。姫路城の近くで船場川と一緒になり夢前川に注ぐ)を挟んだ対岸にある。川沿いの石垣の上に境内があり、コンクリートの壁で神社の境内を囲ってある。壁の内側に立てた「佐伯神社」と大きく墨書された白板の看板が壁の上に見えるのですぐそれとわかる。神社の正面の川に架かった橋は木造の格子になってい広峯神社社殿るが年数がたち風化したような土色である。橋を渡る。境内の入り口の両側に丸い大きく太い石柱の上に木造の切り妻屋根を持つ灯籠が建っている。私が佐伯神社に興味を持ったのは、三井寺(園城寺)の宗祖・円珍の祖が佐伯氏であることと、既に見たように、播磨別(はりまわけ)の祖といわれる稲背入彦命(国別(くにわけ)明神)の孫阿曽武命(白国家の祖)の子阿良津命が播磨国の初代国造となり、佐伯直の姓を賜り佐伯氏となったという伝承である。四国は瀬戸内海を挟んで山陽地方の国々と一帯の文化圏をなしている。特に河内や大和に近く、淡路島を含む播磨灘を中心にした地方には一つの文化圏があったと思われる。三井寺の宗祖・智証大師・円珍の生誕地の讃岐国と播磨地方とは家島諸島などを介して陸続きのような位置にある。

① 神社と由緒

神社の境内には直径二mくらいありそうな椋(むく)の木の巨木があり、一〇mくらい残して切られている。姫路市の立札があり、保存樹であることが書かれている。それ以外にも大きな背の高い木々が繁っているが、境内はあまり広くない。社殿は小さく橋をわたるとコンクリートで固めたような巾一mくらいの平石を敷いた参道が二〇mくらい続く。左手に自然石を積み上げたような石灯籠が立ち、背後に椋の大木が聳える。正面の参道の先にある拝殿は瓦屋根で入母屋造。間口三間くらいで一間が空いているが、両端の下半分は白壁で囲まれている。奥行き二間くらいある。下半分は白壁で囲まれ、あとは空間である。正面・梁に〆縄と紙垂がかけられている。八脚門のような形である。鳥居はない。奥に小さな石の段があり、流造の小さな本殿が石の上に置かれている。覆屋の中である。建物内部の建材は外見と違い、拝殿の中は立派な太い木材を使用しており、建物で梁の上には土器や陶器が飾られている。神社の境内にある大木を削ったような板に書かれた「佐伯神社由来」に、「佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。

佐伯神社と大木 / 佐伯神社入口と社殿孝謙天皇の御代天平宝字二年(七五八)命の子孫の佐伯宿祢芸胡多というお方が出月岡という地に祖先の阿良津命をお祀りになられたのが、佐伯神社の創立であり、佐伯大明神として崇め奉りました。天皇の思し召しにより、佐伯姓を白国姓に改め、白国宿祢と申し上げる事になりました。阿良津命は白国の地を開かれた国造・稲背入彦命の曽孫にあたらせられる。今、境内に高くそびえる椋の大樹は長い歴史を物語っています」と記載されている。この由緒書によれば、この神社の祭神は白国宿禰である。「神社の由緒」については、白国郷土史愛好会「ふるさと白国」にも「第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている。姫路市教育委員会「文化財シリーズ7・増位山を訪ねて」には、「「播磨鑑(はりまかがみ)」に佐伯神社の略縁起がのっている。それによると、この付近は古い時代から佐伯氏―白国氏の社域であったようである。亨保十九年(一七三四)当時は、「野狐禽獣の栖(やこきんじゅうのすみか)」になっていたのを、子孫の白国宗得(むねとく)が社壇を建立して佐伯社を再興したと見えている」と記載されている。案内板によれば、当社の神事は、一月一日新年祈願祭、五月八日花まつり、九月一日は八朔まつり、十月九日例祭とある。

② 佐伯直について

智証大師・円珍の母親は佐伯直の出であり、父親の姓・因支首(いなきのおびと)(稲置(いなぎ)に由来するという)は景行天皇の皇子の神櫛(かみくし)皇子が祖であるといわれる。この佐伯氏は播磨や讃岐、阿波などに居住の佐伯氏族と同じ氏族に属する。佐伯氏なる氏族の祖は、景行紀に「神櫛皇子は讃岐の国造(くにのみやつこ)の祖である」と記載されており、「姓氏録」・右京皇別に「讃岐公は景行天皇の皇子神櫛別命(かみくしわけのみこと)の後也」とある。また、和泉国・皇別には「酒部公は讃岐公同祖。神櫛別命の後」とある。神櫛皇子の弟が稲背入皇子で播磨別の祖である。また、左京諸藩の項に秦酒公が太秦公宿禰(うずまさのきみすくね)の後とある。秦酒公と秦酒公(はたのさけきみ)が同一人物かどうか不明であるが、秦氏は同じ景行天皇の子孫ということになる。両者とも酒造とみられる。しかも秦氏と同祖ということにもなる。酒部公・讃岐公は新羅系渡来人であるといえる。景行天皇自身の父である垂仁天皇は半島と縁が深い崇神(御間城入彦五十瓊殖(いにえ))天皇の皇子であり父の垂仁も北陸や丹波国などとの縁の深い天皇である。御母は丹波道主王の女(たにわのみちぬしのおおきみのむすめ)であり、景行天皇は近江国の高穴穂宮(大津市穴太(あのう))に住み、そこで亡くなったと紀には記載がある。なお、「姓氏録」右京皇別の項には「酒部公・讃岐公同祖。大鷦鷯天皇(おおささぎの仁徳)の御世に韓国から渡来した人」とあので、秦酒公、酒部公ともに半島からの渡来人であることになる。酒人については、近江の坂田郡の上申書(天平十九年・七四七・十二月二十一日付)「坂田郡司解」に、郡の大領(長官)・坂田酒人真人新良貴(さかたのさけひとまひとしらき)と記されており、近江の坂田郡には坂田酒人氏が居住していたことが知られる。この氏は「姓氏録」・左京皇別の「息長真人同祖(おきながまひと)」とあり、応神天皇の皇子に祖をもとめている。一方で「開化記」には針間の阿宗君(あそのきみ)の祖は息長日子王(おきながひこのおほきみ)であるとしているので、開化天皇の時代に既に針間国は存在していたことを示す記述がある。そして「景行記」には景行天皇が吉備臣等(きびのおみら)の祖(おや)、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の女(むすめ)、名は針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)を娶り生ませる御子、櫛角別王(くしつぬわけのおほきみ)、次に…小碓命(をうすのみこと)、亦の名倭男具那命(やまとおぐなの)…次に神櫛王(かみくしのおほきみ)…とあることも既に針間国(播磨国)の存在を示すものである。更に、「姓氏録逸文」には景行天皇の子の稲背入彦の後。孫の阿良都別命(あらつわけのみこと)男・豊島は孝徳天皇の御世(六四五~六五四)に佐伯直の姓を賜る…との記載がある。阿良津命(あらつのみこと)は白国神社の祭神・阿曽武命(あそたけるのみこと)の子で、応神天皇の時に父を祭神に加えている。阿良都別命は阿良津命の後であろうか。その子の豊島の時に佐伯直となったとしている。佐伯直は「姓氏録(右京皇別)」に記載があり、概略は「景行天皇の皇子稲背入彦命の後なり佐伯直の男・御諸別命が成務天皇の御代に針間国の中を分けて之を賜った。之により針間別と名づけられた。さらに、男・阿良都命(あつらのみこと)、一名を伊許自別という―は応神天皇が国堺を定める為に、針間国・神崎郡に巡行の折に、岡部川の上流に住む日本武尊が東国平定の折に俘にした蝦夷の後裔が居住していたことを知り、この国を針間別(後に佐伯直と為す)に賜り、針間のほか、安芸、阿波、讃岐、伊予も同時に賜った」と記載されている。仮に、この伝承の通りであるとすれば、讃岐の佐伯氏は播磨の佐伯氏のと同族ということになる。しかし、一説に蝦夷の後裔ということにもなるが古墳時代頃を記述した「記紀」の表現は大和国(やまとのくに)の王の敵は皆、蝦夷(えみし)あるいは熊襲(くまそ)、土蜘蛛(つちぐも)などと呼んでいる。智証大師円珍の祖・佐伯氏は白国氏(新羅訓・新羅国氏)でもあり新羅との係わりがあることになり、円珍が新羅明神を三井寺の守護神として祀ったとしても話の辻褄はあう。更に、稲背入彦命の父・景行天皇が都を志賀・高穴穂宮に置いたといわれる大津市穴太には旧跡がある。


https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80167 【古代最強の豪族・蘇我氏が改姓した石川氏、高官につけなかった長津の生涯と、古代氏族の終焉】より

蘇我氏が改姓した氏族

 かつて触れたところであるが(倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』中公新書)、『日本文徳天皇実録(もんとくてんのうじつろく)』巻六の斉衡(さいこう)元年(八五四)十二月甲寅条(三日)の石川長津(ながつ)の卒伝も印象深い。

この日、木工頭正五位下石川朝臣長津が木工寮の中で頓死した。月次祭および神今食などの神事は、所司に通例のとおりに奉祭させた。長津は、中納言正三位兼宮内卿豊成(とよなり)の孫で、正四位上武蔵守河主(かわぬし)の子である。弘仁十年三月に内舎人となった。弘仁十二年二月に右京大進となった。弘仁十三年六月に修理大進となり、閏九月に民部大丞となった。弘仁十四年正月に遷任して皇太后宮少進となった。四月に従五位下に叙され、五月に大和介となった。天長八年七月に木工助となった。天長九年正月に従五位上に叙された。承和十年三月に加賀介となった。嘉祥二年十一月に正五位下に叙された。仁寿二年二月に木工頭となった。卒去した時、行年は七十歳。長津は性質は工巧を能くし、恪勤を宗とした。故に頻りに工官を歴任した。遂にその寮の中で生を終えた。先祖が貯積した文書は数千巻で、一舎に秘蔵していた。かつて他人に貸すことはなかった。死んだ後、何処に灰滅(かいめつ)したかはわからない。

 石川氏の官人を扱うのも、はじめてである。石川氏は、古代最強の豪族であった蘇我氏が天武朝の末年に改姓した氏族である。

 一般的には、蘇我氏は大化改新の端緒となった皇極(こうぎょく)四年(六四五)の乙巳の変で滅亡したと考えられているが、決してそんなことはない。蘇我氏の氏上が飛鳥系本宗家の蝦夷(えみし)(および入鹿[いるか])ら、河内系蘇我氏の石川麻呂(いしかわまろ)に移動したに過ぎないのである。

 石川麻呂家が大化五年(六四九)に滅亡した後も、その弟たちが陰に陽に七世紀の政治史の主役となった。連子(むらじこ)が斉明(さいめい)朝の大臣として何の咎もなく死去した一方、赤兄(あかえ)や果安(はたやす)が天武(てんむ)元年(六七二)の壬申の乱で大友(おおとも)王子方の率いる近江朝廷の重臣となったことで、天武朝では連子系のみが生き残ることとなった。

 連子の子である安麻呂(やすまろ)たちは、天武朝末年に「蘇我」の名を捨て、河内の地名にちなむ「石川」を新たな氏の名として再出発した。

 乙巳の変の後も、蘇我氏は多くの女性を大王家に后妃として入れており、持統(じとう)・文武(もんむ)・元明(げんめい)・元正(げんしょう)・長屋(ながや)王など、蘇我系の皇族は八世紀前半の天皇家嫡流を形成してきた。それは文武の嬪であった刀子娘(とねのいらつめ)が産んだとされる広成(ひろなり/広世[ひろよ])皇子や長屋王家が滅ぼされるまで続いた。

 しかし、聖武や孝謙(こうけん/称徳[しょうとく])といった藤原氏系の皇族が皇位を嗣ぐようになると、石川氏の勢力も衰えていった。

 そこで石川氏は、律令国家の実務官人である弁官を歴任することで、その地歩を固めようとしたのだが、奈良時代後半になると、その地位も藤原氏に圧されるようになった。

 平安時代に入ると、石川氏はますますその地位を低下させ、わずかに五位程度で諸司の次官や下級官司の長官、地方の次官程度の官人しか出せなくなっていた。

 延暦(えんりゃく)四年(七八五)に生まれたこの長津の生涯も、中下級貴族にふさわしい官歴であった。弘仁(こうにん)十年(八一九)に内舎人となって官人としての見習いを始めたが、その年にはすでに三十五歳に達していた。その後、弘仁十二年(八二一)に三十七歳で右京大進(右京職の第三等官)、翌弘仁十三年(八二二)に三十八歳で修理大進(修理職の第三等官)、次いで民部大丞(民部省の第三等官)、弘仁十四年(八二三)に三十九歳で皇太后宮少進(皇太后宮職の第三等官)、そして大和国の次官である大和介に任じられた。

 ここからしばらく任官例が見えないが、それは弘仁十四年に従五位下に叙されたためであるかもしれない。五位となると貴族の仲間入りであるが、その高位にふさわしい高官に就けることは、ためらわれたのであろう。卑官ならば数々の官を歴任した長津であったが、高官には任じてもらえないとは、かつての蘇我氏を知る者としては、気の毒でならない。

 長津が次の官に就いたのは、八年後の天長(てんちょう)八年(八三一)、四十七歳で木工助(木工寮てんちょうの第二等官)に任じられたときであった。実はこの職場が、長津にとってもっとも性に合った所であり、最期の場も木工寮だったのであった。

 木工助をいつまで務めたのかは定かでないが、承和(じょうわ)十年(八四三)には五十九歳で加賀介に任じられ、おそらく任地に赴任したのであろう。そして九年後の仁寿(にんじゅ)二年(八五二) に六十八歳で木工頭に任じられた。工巧に秀で、真面目に精勤した長津としては、まさに天職を得た気分だったことであろう。

 しかし、二年後の斉衡元年、七十歳で寮中で頓死してしまった。もしかしたら年甲斐もなく張り切りすぎた末の過労死の類だったのであろうか。

 残念なのは、父祖以来、秘蔵してきた膨大な文書がすべて散逸してしまったということである。これも石川氏自体の没落を象徴的に表わすものであろう。

 なお、元慶(がんぎよう)元年(八七七)、石川氏はふたたび姓を、しかもみずから望んで宗岳氏に改めた(『日本三代実録[にほんさんだいじつろく]』)。「宗岳」は、後世は訓で「ムネオカ」と訓(よ)むようになり、「宗岡」「宗丘」などの字も充てられるようになるが、当時は音で「ソガ」と訓んだはずであり(「慶滋」[後世の「ヨシシゲ」]を「カモ」と訓んだのと同様である)、石川氏は、古代の栄光の氏の名をふたたび称することになったのである。

 実際には中下級氏族にまで地位を低下させていた石川氏が、はるかな過去の氏の名を称することによって、一体何を得ることができたのであろうか。過去の誇りの歴史を冠することによってのみ、氏としての存立基盤を求めようとしたこの氏族の姿に、藤原氏(しかも嫡流のみ)以外の古代氏族の悲喜劇が集約されていると言えよう。「古代氏族の終焉」は、かくも皮肉な末路を我々に曝(さら)してくれるのである。

 しかも改姓後の宗岳氏は、ほとんど六国史に見えない。六国史は基本的に五位以上の官人しか登場しないので、宗岳氏が五位以上に上ることはほとんどなくなったのであろう。

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