https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7077184/ 【物部氏=タケミナカタ?】
http://haiku.g2.xrea.com/thesis.pdf 【古代東国の地域学的研究─ 関東における柿本人麻呂に関する事蹟 ─】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6972061/ 【神話の不思議】
https://www.pref.nara.jp/63127.htm 【はじめての万葉集】より
玉襷(たまだすき) 畝傍の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし
神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あめ)の下
知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あをによし
奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る
夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に
天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は
此処(ここ)と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の
繁く生ひたる 霞立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる ももしきの
大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも 柿本人麻呂 巻一 (二九番歌)
訳 美しい襷をかける畝傍の山麓、橿原の地に都した天皇の御代からずっと、お生まれになった歴代の天皇が、栂の木のように次々と天下を統治なさったのだが、天に充ちる大和を後にして、青土よき奈良山を越え、どのようなご配慮からか、天道遥かな田舎ではあるが、石走る近江の国の楽浪の地の大津の宮に天下をお治めになったという天皇、大宮はここだと聞くが、また大殿はここだと人はいうが、春草が生い繁り、たちこめて春日の霞が煙っている、ももしきの大宮のあたりを見ると悲しいことだ。
近江荒都歌(おうみこうとか)
この歌は題詞に「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」とあり、柿本人麻呂が天智天皇の近江大津宮のあたりを通った際、その荒れた都を詠んだものです。巻一は時代順に並んでおり、この歌は持統天皇の時代の作として、「春過ぎて…」の歌の次に配列されています。
初代の神武天皇から代々天皇は大和に宮を置いていたのに、そこを離れて、「いかさまに思ほしめせか」近江の大津に宮を置かれた天智天皇の宮はここだというけれど、すっかり面影もなく、見ると悲しいことだ、と歌います。「いかさまに思ほしめせか」は挽歌によく用いられる表現で、失われたものを惜しんで投げかけられる挿入的な句です。顧みられなくなった場所に対する鎮魂の歌でもあったのでしょう。
天智天皇は六六七年三月、国防上の理由などから近江に遷都しました。六七一年天智天皇が崩御すると、六七二年壬申の乱が起こります。天智天皇の皇子である大友皇子が破れ大海人皇子(後の天武天皇)が勝利したことで、宮は近江から飛鳥に戻ります。この歌の作歌時期には諸説ありますが、少なくとも六八六年天武天皇崩御後の作であり、人麻呂が見た近江大津宮は乱から十五年程度経過していることになります。
人麻呂の作と明記されたうち、年次のわかる最も古い歌は六八九年の草壁皇子挽歌(巻二・一六七番歌)ですが、今回の歌はそれより古い可能性があります。人麻呂の最初期の長歌であるといえます。掲載には省略しましたが、この歌には6箇所にわたり「或云」という注が付されています。人麻呂の推敲ではないかと見られ、人麻呂が歌としての完成度を追求した現われと考えられています。
(本文 万葉文化館 阪口由佳)
https://dcp.co.jp/manyots/?p=547 【玉襷畝火の山の橿原の〈巻一・二十九〉柿本人麻呂】より
(前略)
壬申の乱が人々の記憶から遠ざかり、それを口にすることも少なくなった頃、柿本人麻呂は近江の国大津を通り過ぎました。荒れ果てた嘗ての都は、春草が生い茂り、霞がたてばそれとは知らず行き過ぎる人もいるほどです。中大兄皇子(天智天皇)が、なぜ突然大和国飛鳥から琵琶湖畔の近江国大津に遷都したのか、その理由については定説がありません。
中大兄皇子は、六四五年の乙巳の変の後に皇太子となり、自らが中心となって政治改革(大化の改新)を断行しました。六六一年に斉明天皇が崩御した後もすぐには即位せず、六六八年にようやく大津宮で即位します。大津への遷都は即位の前年に行われました。ですから大津への遷都が即位を目的としたものであったことはあきらかです。遷都と中大兄皇子(天智天皇)が皇太子のまま長く政務をとり続けたことは無関係とは思えません。中大兄皇子(天智天皇)は、まず先に遷都して、その後に新都で即位することにこだわっていたのです。
その理由を推し量ってみると、中大兄皇子(天智天皇)は、遠く九州から東征し、大和の国橿原で即位した神武天皇にならい、新しい都で即位することで体制を一新しようとしたのだと思います。新都がなぜ近江の国大津だったのかはわかりません。神秘主義者の天智天皇のこと、中国から伝わった風水など、呪術的な要素により決定されたのかもしれません。
乙巳の変の後、中大兄皇子(天智天皇)は次々に政敵を滅ぼし、未だ即位せずといえども事実上の最高権力者として君臨していました。遷都に表立って反対する者はいませんでしたが、豪族達の多くは、内心、神武以来の父祖の地である大和を離れることに強い不満を持っていました。中大兄皇子(天智天皇)は豪族達の不満に気づくことなく、いや気づいていたにしろ、それを無視して遷都を強行しました。実際その頃の中大兄皇子(天智天皇)は、それができるほどの絶対的権力を掌握していました。
即位して三年後の六七一年、天智天皇は病に倒れます。病床に皇太弟である大海人皇子を呼んだ天智天皇は、大海人皇子に大津京の存続を約束させようとします。しかし大海人皇子はそれを拒否、出家して吉野へ隠遁します。現実主義者の大海人皇子は豪族達の不満をよく理解しており、国をまとめるには大和へ都を還すしかないと考えていました。大海人皇子が吉野へ隠遁した後、天智天皇は息子である大友皇子を皇太子とし政務を代行させます。翌六七二年天智天皇が崩御します。それを契機に大海人皇子と大友皇子(弘文天皇)の間で壬申の乱が勃発しました。この戦いは近江存続派と大和還都派の争いでもありました。大和へ都を帰すことを望む多くの豪族達は大海人皇子に味方し、天智天皇というカリスマ指導者なき近江存続派は敗れ去ります。弘文天皇(大友皇子)は大津宮で自殺し、乱は終わりました。翌年大海人皇子は大和の国飛鳥で天武天皇として即位しました。
歴史上の出来事は、古代にさかのぼる程に資料が少なく、事実の解明に困難を来します。中大兄皇子(天智天皇)が、いかなる理由で大津に遷都したのかを解明するのも同じです。大津京への遷都に関する資料が少ない中、この柿本人麻呂の長歌は貴重な資料です。歌はそこに言葉で記された内容だけでなく、詠み人が歌全体を通して伝えたい思いがあります。柿本人麻呂がこの長歌で伝えようとしたもの、それを読み取るのも一つの歴史解釈です。
「神武天皇が橿原で即位なさってより、次々と歴代の天皇がそこで即位し国を統治された大和の地を離れ、どうしたものか、近江の大津に都を移された天智天皇の大宮(皇宮)は、ここにあったと聞くけれど、今は春草が生い茂り、春霞の中で悲しく荒れ果てていることだ」
柿本人麻呂が大津京に仕えていた人々への鎮魂の思いを詠った歌とされています。しかしこの長歌から感じ取れる人麻呂の思いは、神武以来の人代にくさびを打ち込もうとした天智天皇への「なぜあのようなことをなさったのか」という哀惜の思いです。「あの遷都さえなければ、大乱は起こらず、多くの命が失われることもなかったであろうに」哀惜の思いで大乱に倒れた人たちを鎮魂しているのです。
神武天皇以来、代々の天皇が国を統治してきた地である大和を捨て、近江国大津で新しい国家の建設に乗り出そうとした天智天皇の行為は、当時の人々(特に豪族達)には、神武以来の人代にくさびを打ち込み、歴史を中断させるものでした。それは、先祖と自分たちの繋がりが絶たれるのではないかと思うほどの衝撃だったかもしれません。当時の人々にとって、大和の地は離れてはならない聖地だったのです。しかし哀惜の思いだけをストレートに歌にすることは、はばかり多いことでした。ですから哀惜の思いで鎮魂を表現したのです。
万葉集十九巻に「壬申の乱のしずまりし後の歌二首」として次の二首があります。
大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ。<四二六○>
大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ。<四二六一>
天皇は神でいらっしゃるので赤毛の馬がはらばう田んぼを都にしてしまわれた。<四二六○>
この歌は壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)に味方し功績を挙げた大伴御行の歌です。大君(天皇)は天武天皇のことで京師は天武天皇が造営に着手した藤原京を指していると思われます。(日本書紀に天武天皇五年に天皇が「新城・にいき」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述があります)
天皇は神でいらっしゃるので水鳥のたくさんあつまる水沼を都となされた。<四二六一>
この歌は詠人知らずとされます。通説ではこの歌も天皇は天武天皇で皇都は藤原京とされています。しかし「水鳥のたくさんあつまる水沼」を琵琶湖と解釈すれば皇都(京)は大津京、天皇は天智天皇とも解釈できます。なぜ詠人が名前を出さないのか?そこに歴史解釈が存在するように感じます。
https://ogurasansou.jp.net/columns/arakaruta/2018/01/15/2377/ 【忘れられた天才歌人】より
豪族ゆえの苦難
紀貫之は『古今和歌集』の序文でふたりの万葉歌人に触れ、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ 三)を「うたのひじり」と讃え、山部赤人(やまべのあかひと 四)はそれ以上の歌詠みだと言っています。しかし『万葉集』最大の歌人である大伴家持(おおとものやかもち 六)は名前さえ出てきません。
平安時代後期になると、人麻呂を神と崇める人麻呂影供(ひとまろえいぐ)が流行します。
人麻呂こそ最も崇拝すべき歌仙と考えられていたためで、このときも家持は忘れ去られていたように見えます。万葉収録歌が多いだけの凡庸な歌人ではないのに、なぜ冷遇されてしまったのでしょう。家持を生んだ大伴氏は、大和政権発展期に政治と軍事で地位を築いた有力豪族でした。蘇我氏との主導権争いに勝ち残り、大化の改新のころには安定した勢力を保っていましたが、家持の時代には新興の藤原氏に押されており、家持の昇進が中納言にとどまったのもそのためでした。
この時期の歴史を繙(ひもと)くと、失脚した人物に大伴氏が多いのに気づきます。
政争が相次ぎ、そのたび宿敵藤原氏に敗れていたのです。いつどのような陰謀に巻き込まれて足をすくわれるかわからない、政治家としての家持はそんな状況にありました。
死しての不名誉
延暦四年(785年)九月、長岡京建設の指揮に当たっていた藤原種継(たねつぐ)が暗殺されるという事件が発生します。朝廷は大伴氏、佐伯氏の共謀であると断定。
家持も首謀者のひとりとみなされ除名(官位剥奪)処分となりました。しかし家持はこのとき、すでにこの世の人ではなかったのです。
家持は最後の任地である多賀城(たがじょう)で没しており、死後二十日以上経過していました。多賀城は末の松山で知られる陸奥(みちのく)の地。そんな遠いところで、しかも死んでしまっているのになぜ。
理解しにくい処分ですが、うわさでは息子が隠岐に流されたとき、家持の遺骨もともに流されたといわれています。
『古今和歌集』が成立したころ、中央政界はすでに藤原氏の手中にありました。
平安時代の歴代天皇はほぼすべて母親が藤原氏であり、国の中枢は藤原氏が独占していたのです。藤原氏にとって大伴氏はかつての宿敵。その一員で罪に問われたこともある家持は、
意図的に無視されることになってしまった…、そう考えられないでしょうか。
うづらなく古しと人は思へれど 花橘のにほふこの宿(万葉集巻第十七 3920 大伴宿祢家持)
(うずらが鳴くくらい)古いと人は思っているけれど花橘(はなたちばな)が咲き香る我が家がいちばんだよ
「うづらなく」は「ふる」に掛かる枕詞。地方官を歴任させられていた家持が
久々の奈良の旧宅で詠んだこの歌からは、政争とは無縁の暮らしを望んでいた
一歌人の姿が見えるような気がします。
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