秦河勝・景教・マニ教・弥勒信仰

http://izumokagahyugaise.blog.fc2.com/blog-entry-374.html 【秦河勝・景教・マニ教・弥勒信仰】 より

前回の続きです。

マニ教という今は消滅した世界宗教がありました。

成立は3世紀で、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、グノーシス主義を混合したような教義だったらしいです。開祖はペルシャ人のマニという人で、その名前をとってマニ教と呼ばれています。

ユーラシア大陸のほぼ全域、北アフリカにまで広がったにもかかわらず、マニ教は発祥地ペルシャで迫害を受けた(マニ自身も殉教)うえ、布教先のローマ帝国でも迫害を受けます。「信者はペルシア国外にも拡大・増加し、特に西方では、ローマがキリスト教を国教とする以前にローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力とな」り、「中世初期の教父として知られることとなるアウグスティヌスもカルタゴ遊学の一時期マニ教を信奉し、聴問者となったが、その後回心してキリスト教徒となった人物である」 といいますから驚きです。

中国へは唐代に伝わりましたが、唐の皇帝からも迫害を受けたようです。その後、一部が弥勒信仰と習合して白蓮教(浄土信仰の一種)に発展。白蓮教にはもともと終末思想がありましたが、後に変質して革命思想を持つ反体制集団となり、元代末に起こった大規模な農民反乱(紅巾の乱)を起こします。そのリーダーだった白蓮教徒(当時)の朱元璋が元朝を倒して明を建国したわけですが、朱元璋は自分が皇帝の座につくと一転して白蓮教を弾圧。マニ教も明代に徹底的な弾圧を受けて歴史の表舞台から消えました。

マニ教は白蓮教とともに地下に潜伏して秘密結社化。清代には再び白蓮教徒が中心となって反乱を起こします(白蓮教徒の乱)。しかし白蓮教は清代に各地で新宗教を名乗ったため、清朝では、反体制的な宗教を一括りにし、邪教の代名詞として白蓮教と呼んだようです。白蓮教と呼ばれていても、マニ教とも白蓮教とも関係ないものが含まれていたということでしょう。

度重なる弾圧によりマニ教も白蓮教も消滅したと思われましたが、「秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれ」「1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる」 。中国では、「マニ教→白蓮教→義和団」という流れがあったということらしいです。ひょっとすると今もあるのかもしれません。中国共産党が法輪功を大弾圧した理由も、この流れが背景にあると疑ったせいでしょうか?

以下はウィキペディアからの引用です。 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

マニ教(マニきょう、摩尼教、英: Manichaeism)は、サーサーン朝ペルシャのマニ(216年 - 276年または277年)を開祖とする、二元論的な宗教。

Mani_.jpg やさしそうな人ですねー。 ヽ(・∀・)

ユダヤ教・ゾロアスター教・キリスト教・グノーシス主義などの流れを汲み、経典宗教の特徴をもつ。かつては北アフリカ・イベリア半島から中国にかけてユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教であった。

(中略)

マニ教では、ザラスシュトラが唱導したといわれる古代ペルシアの宗教(ゾロアスター教)を教義の母体として、ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトストラ)、釈迦、イエスはいずれも預言者の後継と解釈し、マニ自身も自らを天使から啓示を受けた預言者と位置づけ、「預言者の印璽」たることを主張している(後述)。

また、パウロの福音主義から強い影響を受けて戒律主義をしりぞける一方で、グノーシス主義の影響から智慧(グノーシス)と認識を重視した。さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。同時に、享楽的なイランのオアシス文化とは一線を画し、禁欲主義的要素が濃厚な点ではゾロアスター教的というよりはむしろ仏教的である。

出典 : ウィキペディア 『マニ教』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

3世紀にペルシアのマニによって創唱されたマニ教は、諸教混交の平和的ないし普遍的な世界宗教として当初は西方へ、やがて東方へと信者を増やしていった。マニ教は、パルティアからサーサーン朝にかけてのギリシア・ローマ、イラン、インドの文化の接触と交流の一産物とみなすことができ、西はメソポタミア、シリア、小アジア、パレスティナ、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、そして中国にまで伝播した。

中国には694年(長寿3年)に伝来し、「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記された。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立した。これには、西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻)との関係を良好に保つ意図があったともいわれている。こののち、漢字によるマニ教の経典もあらわれ、特に8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた。マニ教徒は、中国では「白衣白冠の徒」と称された。

出典 : ウィキペディア 『唐代三夷教』から『マニ教(明教)』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

マニ教が中国に伝わったのは、景教よりあとのこととされていますが、発生は景教よりずっと古く3世紀ころです。伝わった範囲も景教より広く、ユーラシア大陸全体、地中海沿岸やインドまで広がっていたようです。そのため、ローマ帝国から迫害も受けました。 

弓月君は中央アジアから、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したと考えられていますが、3世紀にペルシャで発生したマニ教が、中央アジア、インドから、中国南部を経て朝鮮半島南部に伝来していた可能性もあるでしょう。7世紀に聖徳太子に協力して働いた秦河勝は新羅系の仏教徒だったと言われていますが、実際のところは祖先の弓月君の一族が半島南部でマニ教徒になり、その教義や文化の一部を受け継いでいた可能性はあると思います。

新羅建国以前の半島南東部は辰韓または秦韓とも呼ばれていて中国からの移民(漢人とは限らない)の居住地だったと言われています。弓月君の旧領は新羅と百済に挟まれた任那(伽耶・加羅)にあったとも言われています。秦河勝のルーツは百済なのに仏教は新羅系だったというような食い違いは、実は秦氏の仏教が新羅とも百済とも違っていたからではないでしょうか。

百済の貴族だったも言われる弓月君とその一族が、日本に渡ろうとして新羅の妨害にあい、日本に助けを求めてきたとあります。日本に渡ろうとしたのは弓月君が新羅の侵略にあって領地を失い、新羅の奴隷になりたくなかったからでしょう。弓月の一族が百済の仏教とは異なる仏教化したマニ教徒だったことも原因にあったかもしれません。

当時、一族を率いて対馬海峡を渡るにはそれ相応の理由があったはずです。マニ教は仏教的でありながら、ユダヤ教、キリスト教のメシア思想を持っているため、国王を神聖視せず、統治する側からすれば扱いにくい側面があったでしょう。

弓月君が127県の民を連れて渡来したとありますが、大船団で船出したとしても、日本各地にバラバラに到達したのではないかと思います。しかし短期間に大量の移民を日本が積極的に受け入れたことは事実だと思います。

弓月一族は、有能だけれども百済の王族や貴族とは少し違う異質な信仰と文化を持つ集団で、百済王は日本への集団移住を希望する弓月一族を引き止めてまで半島に住まわしておきたくはなかったのかもしれません。選民思想があったかどうかはわかりませんが、メシア思想を含む独自のアイデンティティを持った集団だったのではないでしょうか。

弓月一族に、友好関係にあった日本への移住を勧めたのも、ひょっとすると百済王だったかもしれません。当時の日本はさまざまな先進技術を持った半島からの移民を積極的に受け入れていましたから、悪く言えば体よく弓月一族を半島から日本へ追放したのかもしれません。百済王としては、有能だが少々危険な教義を持つ弓月の一族を友好国日本に送ることによって日本からも感謝され、一石二鳥だったのでしょう。 

日本に渡来して各地に移住した弓月君とその一族127県の人びとが日本の朝廷に対して従順で協力的だったのは、自分たちを友好的に受け入れ、先進技術者として優遇してくれた天皇が祭祀的な役割を兼ねているのを知って、天皇にメシアの姿を重ねていたからかもしれません。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだと言われている。

しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀において既に教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。

なお、藤原道長『御堂関白記』など、日本の古代・中世における日記の具注暦に日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者が日曜日を聖なる日として断食日にあてた暦法が日本にまで至ったことの証左であると言われる。

(中略)

その教えは、西はメソポタミアやシリア、パレスティナ、小アジア半島、エジプト、北アフリカ、さらにイベリア半島、イタリア半島にまで、東は中央アジア、インド、中国の各地に広がった。マニ教は4世紀には西方で隆盛したが、6世紀以降は東方へも広がって、漢字では「摩尼教」と音写された。唐の時代には漢字による経典もあらわれ、武則天(則天武后)は官寺として「大雲寺」という摩尼教寺院を建立している。唐においてマニ教はウイグル(回鶻)との関係を良好に保ちたいという観点からも保護された。

西方においてマニの教えに関心を寄せた人物としては、一時マニ教徒であった4世紀から5世紀にかけてのキリスト者で教父哲学の祖といわれるアウグスティヌスがいる。

上でも触れたように、宗祖マニは「教えの神髄」の福音伝道を重視し、自ら著述した教典を各国語に翻訳させ、入信者が理解しやすいように、ゾロアスター教の優勢な地域への伝道には、ゾロアスター教の神々や神話を用い、西方伝道においてはイエス・キリストの福音を前面に据えて、ユダヤ教やキリスト教における神話や教義に仮託して自らの教義を説くことを許容し、また、東方への布教には仏陀の悟りを前面に据えて宣教するなど、各地ごとに布教目的で柔軟に用語や教義を変相させていったため、普遍的な世界宗教へと発展した反面、教義の一貫性は必ずしも保持されなかった。マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり他の宗教に吸収されたりするなどして、マニ教としての独自性を保てなかったと言える。

西方宣教とその影響

イランや中東においては、ゾロアスター教の国教化などにともなう迫害や攻撃もあったが、信者はペルシア国外にも拡大・増加し、特に西方では、ローマがキリスト教を国教とする以前にローマ帝国全域にマニ教信者が増加し、原始キリスト教と並ぶ大勢力となった。ローマ皇帝のディオクレティアヌスは、領内におけるマニ教の広がりに不安を覚え、297年にペルシア人からのスパイであるとしてマニ教徒迫害の勅令を発布している。中世初期の教父として知られることとなるアウグスティヌスもカルタゴ遊学の一時期マニ教を信奉し、聴問者となったが、その後回心してキリスト教徒となった人物である。

また、中世ヨーロッパにおける代表的な異端として知られる、現世否定的な善悪二元論にたつカタリ派(アルビジョワ派)について、マニ教の影響が指摘される

出典 : ウィキペディア 『マニ教』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

明教(マニ教)と弥勒信仰が習合した白蓮教が生まれたのは、南宋(1127年 - 1279年)の時代ですが、その教義は、明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれています。「本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた」とウィキペディアにありますが、のちに白蓮教徒は紅巾の乱(1351年 - 1366年)を起こす原動力となりました。 

日本に革命思想を含む白蓮教は伝わりませんでしたが、ユダヤ教とキリスト教のメシア思想を取り入れたマニ教は、仏教の弥勒信仰、特に、「仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想」との親和性が高そうです。マニ教の素地を持っていた仏教徒の秦氏が仏教の中でも、特に下生思想の弥勒信仰にハマっていたとしても不思議はないように思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

弥勒菩薩を本尊とする信仰。死後、弥勒の住む兜率天とそつてんへ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年ののち、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成る。インドに始まり、日本には推古朝に伝来し、奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が、戦国末期の東国では下生思想が特に栄えた。天寿国曼荼羅繡帳まんだらしゆうちようや「日本霊異記」にもその信仰がみられる。

出典 :コトバンク 大辞林 第三版の解説 『弥勒信仰』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

秦河勝が聖徳太子の側近として仕えたのも、ひょっとすると武人であり賢人でもある聖徳太子にダビデ王の姿を重ね、庶民への慈悲深さに遠い未来に衆生を救いに来るとされる弥勒菩薩(=メシア)の姿を重ねていたからかもしれません。

河勝自身も、領地の山背国(後の山城国。現在の京都市)で治水事業を行ったり、養蚕・機織りを奨励したのは、蓄財のためだけではなく、庶民を豊かしたいという思いがあったからでしょうか。養蚕は後に耕地に適さない山村に生きる農民の生業のひとつとなりましたから、河勝には先見の明があったと言ってよいと思います。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

秦 河勝(はた の かわかつ)は、古墳時代から飛鳥時代にかけて存在したとされる人物。姓は造。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。冠位は大花上。

秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝ともいう。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。

弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東、中央アジア、東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。

推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した。推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部菟と共に当る。皇極天皇3年(644年)駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している。

(中略)

景教との関係

英語教師の佐伯好郎は明治41年(1908年)1月に『地理歴史 百号』(主宰:喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において、秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。また秦の始皇帝の父親が碧眼であったと言われている。

ただしユダヤ人と他民族の非学問的な同祖説は世界中に多数あり、学界の通説とはなっていない。また大秦景教流行中国碑によれば、貞観9年(635年)にペルシア人の阿羅本が景教の主教として宣教団を率い、長安を訪れたのが最初と記されており、とっくに秦氏は日本に帰化したはるか後のことであって当時すでに中国には秦氏はいない。

出典 : ウィキペディア 『秦河勝』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

以上のように秦河勝が景教徒だった可能性はないと思います。河勝が仏教の弥勒信仰を持っていたとしたら、キリスト教的な側面はマニ教に起因するのではないかと私は考えています。 

ただ日本には中国から易姓革命の思想が伝わらなかった(あるいは天孫降臨神話が生きていて神の子孫である天皇が存在したため無視された)ため、白蓮教のような革命的な宗教には発展しなかったのでしょう。

また、弥勒信仰は、「死後、弥勒の住む兜率天へ往生しようとする上生思想と、仏滅後五六億七千万年の後、再び弥勒がこの世に現れ、釈迦の説法にもれた衆生を救うという下生思想の二種の信仰から成」り、「奈良・平安時代には貴族の間で上生思想が(栄えた)」とあります。

秦氏の弥勒信仰は、下生思想のほうだったのかもしれません。半島で行き場を失った祖先たちを受け入れて優遇した天皇(祭祀と統治を兼務する大王)を「弥勒仏(未来仏)=再臨のキリスト=ダビデ王」に重ねた可能性はあると思います。

秦氏と弓月の子孫たちが、若き日の聖徳太子が四天王に祈願して蘇我馬子とともに戦い、勇猛な武人物部守屋を倒したエピソードを、ダビデがゴリアテを倒したエピソードに重ね、天皇にはならなかったけれども実質上の統治者として徳治政治をおこなった聖徳太子をダビデ王に重ねたとしても不思議はないような気がします。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。

創始者は南宋孝宗期に天台宗系の慈昭子元だが、当初から国家や既成教団からも異端視されていた。それは、半僧半俗で妻帯の教団幹部により、男女を分けない集会を開いたからだとされる。教義は、唐代三夷教のひとつ明教(マニ教)と弥勒信仰が習合したものといわれる。マニ教は、中国には694年(長寿3年)に伝来し、「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」とも表記された。則天武后は官寺として首都長安城にマニ教寺院の大雲寺を建立している。

元代には、廬山東林寺の普度が廬山蓮宗宝鑑10巻を著し、大都に上京して白蓮教義の宣布に努め、布教の公認を勝ち得たが、すぐにまた禁止の憂き目に遭った。元代に、呪術的な信仰と共に、弥勒信仰が混入して変質し、革命思想が強くなり、何度も禁教令を受けた。

元末、政治混乱が大きくなると白蓮教の勢力は拡大し、ついに韓山童を首領とした元に対する大規模な反乱を起こした。これは目印として紅い布を付けた事から紅巾の乱とも呼ばれる。

明の太祖朱元璋も当初は白蓮教徒だったが、元を追い落とし皇帝となると一転して白蓮教を危険視し、これを弾圧した。朱元璋が最初から白蓮教をただ利用する目的だったのか、あるいは最初は本気で信仰していたが皇帝となって変質したのか、真偽のほどは不明である。

清代に入ったころには「白蓮教」という語彙は邪教としてのイメージが強く定着しており、清の行政府は信仰の内容に関わらず、取り締まるべき逸脱した民間宗教結社をまとめて白蓮教と呼んだ。この時代、宗教結社側が自ら「白蓮教」と名乗った例は一例もなく、白蓮教と呼ばれた団体にも白蓮教徒としての自己認識はなかった。邪教として弾圧されることにより白蓮教系宗教結社は秘密結社化し、1796年に勃発した嘉慶白蓮教徒の乱へとつながった。

清代の白蓮教系宗教結社には、長江中流域の民間宗教である八卦教や清茶門教を淵源とする共通の宗教観が見て取れる。根源的な存在である「無生老母」への信仰と、やがてくる「劫」と呼ばれる秩序の破局の際に老母から派遣される救済者によって、覚醒した信者だけが母のもとへ帰還できるという終末思想である。一般的に救済者は弥勒仏とされる場合が多いが、清茶門教系の経典『九連経』では阿弥陀仏になっている。救済者は聖痕を持った人間として地上に転生するとされ、白蓮教徒の乱の際には各団体がそれぞれの救済者を推戴していた。

出典 : ウィキペディア 『白蓮教』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

長くなって申し訳ございません。

何回にも分けて書いていたものを、2回にまとめたため、重複もあり、わかりにくくなってしまいました。

要約すると、 

7世紀、推古天皇、聖徳太子らの治世に朝廷を補佐した渡来系氏族の秦河勝は、その出自については不明ですが、5世紀に東方キリスト教会から派生した景教(ネストリウス派)とは直接関係なく、ユダヤ教、キリスト教的な特徴があるとすれば、3世紀のペルシャで発生してユーラシア大陸各地に広がったマニ教に由来するのではないか。

という話です。

もちろん、6世紀後半に渡来した人びとが景教を日本に伝えた可能性は十分ありますが、仏教との親和性を考えると仏教化したマニ教だった可能性を支持したいと思います。

実際のマニ教がどんなだったか知りませんが、教義的にはものすごく禁欲的で難しいです。ウィキペディアの解説を読んでも私にはさっぱりわかりません。こんな難しい宗教がどうして世界宗教になれたのか?そしてその後なぜ消滅してしまったのか?

教義の難解さを見てとても不思議に思いましたが、マニ教が世界に広がったのは、布教の仕方が、地元の宗教の信者のフリをしてもよいとか、表向きは地元の神を祀ってもよいとか、その融通無碍ぶりにあったのだと思いました。

世界宗教の教祖としては珍しくマニ自身が記した教典がありましたが、ほとんど残っていないようです。教義は禁欲的で難解でしたが、信徒には寛容で戒律を強要せず、その地の慣習や他の宗教を排斥する傾向が弱かったことに加えて、マニ自身が布教にあたって各地に伝わる在来の信仰や用語を利用して自由に翻訳することを勧めたため、多くは在地の信仰と融合して消滅したのでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

諸教の混交

上述のようにマニ教は、寛容な諸教混交の立場を表明しており、その宗教形式(ユダヤ・キリスト教の継承、「預言者の印璽」、断食月)は、ローマ帝国やアジア各地への伝道により広範囲に広まった。マニ教の教団は伝道先でキリスト教や仏教を名のることで巧みに教線を伸ばした。

これについては、マニの生まれ育ったバビロニアにおけるヘレニズム的な環境も大きく影響している。ヘレニズム的な環境とは多様な民族・言語・慣習・文化が共存し、他者の思想信条や慣習には極力立ち入らないという寛容な環境であり、そうした中での折衷主義は格別珍しいことではなかった。そして、古代オリエントの住民については、各自のアイデンティティを保つために特定の宗教・慣習・文化に執着するという近代のナショナリズム的意識も稀薄であったと考えられる。

出典 : ウィキペディア 『マニ教』

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

仮に秦氏がマニ教徒だったとしても、堂々と仏教徒を名乗ってよかったということになります。聖徳太子から「祖先は百済から来たと聞いていますが、拝んでいる仏様は百済から伝わった仏像と違うようですね?」と指摘されると、秦河勝は、「イヤー、ウチの御本尊は新羅の仏様なのですよ。ハハハ・・・。」などと平気で言っていたのかもしれません。

逆に新羅から来た客人から「こちらの仏様は新羅とも百済とも違いますね?」と聞かれると「おや?ずいぶんとお詳しいですな。こちらの仏様は遠く天竺からはるばるお越しいただいたありがたい御仏なのですよ。ふむ。」などと平気で言ってたかもしれません。河勝は新羅にも人脈を持っていたようなので、実際にこういうシーンがあったかもしれません。(河勝役 : 國村準)

マニ教では、「その土地の宗教を装って信仰していいよ」となっていて、「マリア観音」みたいにこっそりではなく「女神マニ」を堂々と「摩尼光仏」として拝んでよろしいということだったらしいです。「正統と異端」「本流と分派」という概念すらなかったのかもしれません。

マニ教が本当に人類を救える教えなのかどうかは別として、世界中の人びとがマニ教徒になっていたら、少なくとも宗教戦争でたくさんの人が命を落とさずにすんだかもしれません。なんだか悲しい気持ちになりました。

「神は争いを好まない」やさしそうなお顔のマニ様も、たぶんそう言われるでしょう。(´ ゝ`)

ヒンドゥー教のカースト制度とイスラム教との宗教対立に手を焼いたインド政府は、特に最下層で苦しむ人びとに身分制度のない仏教に改宗することを奨励したそうです。仏教には、一部例外を除けば基本的にメシア思想や革命思想はないですからね。平和共存に適した宗教なのかもしれません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000