「蘇我氏」

https://www.ritsumei-fubo.com/fudoki/k02/ 【 日本の古代を築いた人びと 】より

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、

それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。

今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、

畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

蘇我稲目

 593年に即位した、日本史上初の女性天皇とされる推古天皇の時代、朝廷で揺るぎない権力を誇ったのが、蘇我馬子である。馬子は蘇我稲目の子で、父より大臣(おおおみ)の地位を受け継ぎ、敏達・用明・崇峻・推古の4代の天皇の朝廷で活躍した。その期間は、敏達元年(572)から推古34年(626)までの55年間という長期に及ぶことになる。

 蘇我氏という豪族の由来は、詳しいことは分かっていない。その氏名(うじな)から、大和国高市郡曽我(現・奈良県橿原市曽我町)辺りを出自とする可能性が高く、『古事記』などの伝えるところでは、孝元天皇の孫である武内宿祢(たけしうちのすくね)の子・蘇我石河宿祢を祖とし、満智(まち)・韓子(からこ)・高麗(こま)と代を重ねて、蘇我稲目に至っている。蘇我満智は5世紀の雄略朝に朝廷の蔵の管理に当たり、秦氏や東・西の文氏といった渡来系氏族が配下で出納や勘録等の実務を担ったという。蘇我氏自体が朝鮮半島からの渡来系氏族と推定する論も出されている。

 その実在が認められ、実質的な始祖とされるのが、蘇我稲目である。稲目は、宣化元年(536)に大臣の地位につき、次の欽明朝においても大臣として朝廷の政務に携わるが、一方で、二人の娘、堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねぎみ)を入内させ、多数の皇子・皇女が産まれる。このようにして得た外戚の立場が、子の馬子の代になってその権力の確立に大きく貢献するところとなった。稲目は吉備の5郡に白猪(しらい)の屯倉(みやけ、朝廷の直轄地)、次いで備前に児島の屯倉を置いたが、大和・紀伊にも設置して、朝廷の勢力拡張に貢献した。

 曾祖父とされる満智と同様に、稲目もまた、半島からの渡来人やその氏族と密接な関係をもった。高度な技術や知識を持つ彼らは、財政と外交の両面で不可欠な存在であった。欽明14年(553)に稲目は百済系渡来人である王辰爾(おうしんに)に船に関する税を勘録させたが、これに因んで王辰爾に船史(ふねのふひと)の姓が与えられたという。このような関係から、稲目はいち早く大陸・半島の動向を把握していたと考えられる。

 百済の聖明王から仏教の文物が伝えられた際に、欽明天皇の諮問に対し、大連(おおむらじ)・物部尾輿(おこし)らが、天皇は伝統的な神祇祭祀を務めとする存在で、仏教の受容を認めることは神々の怒りを招くと反対したのに対し、稲目は、諸外国がすべて仏教を受容する中で、日本だけが拒絶するのは不当であると主張する。その結果、欽明天皇は、試みとして稲目に仏像等を預けて祭らせることにしたと『日本書紀』は伝える

 新たな国家体制の構築に向けて動きを示したのは、6世紀末に成立した推古朝の段階で、政務を主導したのは、稲目の曾孫である厩戸皇子(聖徳太子)と、大臣・蘇我馬子であった。隋という統一帝国の成立を契機に、東アジア全体が大きく変動する事態を受けて、国内でもさまざまな点で変革を余儀なくされた。隋への遣使で直接得た知識と、高句麗・百済といった朝鮮半島の王朝を経由してもたらされる情報などに基づき、冠位十二階の制定や憲法十七条の作成に代表される、新たな政策が打ち出されるに至った訳であるが、稲目の血を受け継いだ馬子と厩戸皇子を担い手とした点で、一連の動きの素地を築いたのは蘇我稲目であったと言うことができよう。

 乙巳の変で蘇我本宗家は滅んだが、新たに即位した孝徳天皇の下で右大臣の地位についた蘇我倉山田石川麻呂は、馬子の孫、すなわち稲目の曾孫に当たる。その娘が天智天皇との間に鸕野讃良(うののさらら)皇女を儲けるが、この皇女は天武天皇の皇后、さらに即位して持統天皇となり、彼女の孫の軽皇子がその跡を継いで文武天皇となる。そして、文武天皇の生母で皇位を継ぐ元明天皇も、やはり石川麻呂の娘が産んだ女性であった。つまり、律令体制の確立期に即位した歴代の天皇は、全て稲目―馬子の血を引いた人物ということになる。

 『日本書紀』に登場する蘇我氏は、乙巳の変で本宗家が滅ぼされたにもかかわらず、入鹿のように個人的に問題を指摘する向きはあっても、蘇我氏自体を強く批判するような論調はさほど見受けられない。その血統に連なる王権の下で『日本書紀』の編纂が進められた故であろうか。


https://www.asuka-tobira.com/sogashi/sogashi.htm 【「蘇我氏」】より

石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)

飛鳥石舞台古墳。上円下方墳と推定されるが,あまりに有名なこの古墳,蘇我馬子の墓(桃原墓)といわれている。

蘇我氏が大和王権の表舞台に登場してくるのは6世紀の初めで,それまで無名の人物であったと言ってよい。そのためか,蘇我氏は渡来人だとする説もある。事実,先祖に「高麗」の字が見える。

物部氏も有力な豪族の一人で,蘇我氏とは常に対立していた。しかし,蘇我氏は,天皇の外戚として権力を持ったこと,渡来人の集団を支配して進んだ知識や技術を持ったこと,仏教を崇拝したことなどから,一歩リードしていた。やがて戦となり,物部氏を倒すことでその地位は確固たるものになっていく。こうして,蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿の4代直系一族による独占体制を築いていった。

 政略結婚こそが蘇我氏の権力を大きくしていく源だったが,系図で天皇家と蘇我氏とのつながりを見る。(系図に全て記載すると複雑になるため一部省略してある)

①蘇我稲目の娘で馬子と姉妹関係になる堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)が欽明天皇の夫人となる。

②堅塩媛の子の額田部(ぬかたべ)皇女は敏達天皇の后となる。額田部皇女は後の推古天皇。

③堅塩媛の子の大兄(おおえ)皇子が用明天皇となる。

④用明天皇は小姉君の子の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女を后とする。その子が厩戸皇子(聖徳太子)

⑤用明天皇は稲目の子の石寸名(いしきな)を夫人とした。

⑥小姉君の子の泊瀬部(はつせべ)皇子は崇峻天皇で馬子の娘の河上娘を妃とした。

⑦聖徳太子は馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を夫人とした。

⑧舒明天皇は馬子の娘の法提郎媛(ほほてのいらつめ)を夫人とした。

(「蘇我三代」飛鳥資料館図録28を参考にして作成した。)

 蘇我氏の出身地は,葛城氏は大和の葛城郡,紀氏は紀伊国のように,当時の豪族の名が出身地の地名と同じことから考えれば,畝傍山の北,現在の奈良県橿原市曽我町あたりではないかと思われる。他に,大阪府の石川とする説もある。宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこ)や今井町にある入鹿神社,曽我川など蘇我氏に関係ありそうな名が今に残っている。

宗我坐宗我都比古神社(橿原市曽我町) 入鹿神社(橿原市今川町)

畝傍山(奈良県橿原市)

蘇我氏の家があった嶋庄(明日香村)

 畝傍山の北に居を構えていた蘇我氏は,勢力を伸ばしつつ曽我川に沿って南下していく。そして根を下ろしたのが飛鳥の地であった。飛鳥地方には朝鮮半島,特に東漢氏(やまとのあやし)という百済からの渡来人たちが多く住み着いていた土地で,彼らと深くつながり,支配下に置くためにもこの地を本拠地とするのがよかった。朝鮮半島の国と交流するために必要な語学,農具や武器の生産技術など渡来人たちの高度な知識や技術はこれからの国つくりには必ず必要なものだと考えていた。ここには新たに半島からやってきた人たちも住み着き,最新の知識,技術や情報を得ることもできた。当時,渡来人たちは瀬戸内海経由で難波に着き,山を越えて大和へと入ってきた。大和への入り口でもあった飛鳥は大変重要な場所となっていった。新しい知識や技術をとりいれていくという先進的な考え方はなかなか受け入れられないものであったが,蘇我氏がいち早くそれを行い,世の中の動きを変革していった。

(* 「聖徳太子」・「仏教伝来」のページと一部重複) 

大和の豪族物部尾輿(おこし)×蘇我稲目(いなめ)

 大和王権下において,有力な豪族たちの集団を「氏:うじ」といい,「氏上:うじがみ」(一族の首長的地位)を中心としてまとまっていた。また,氏上は大和王権の構成員であり,それぞれの地位応じて「臣:おみ」「連:むらじ」「宿禰:すくね」「造:みやっこ」というような「姓:かばね」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。「姓」の中でも特に,「臣:おみ」「連:むらじ」を賜(たまわ)った豪族は大和王権の中心部にいた。葛城(かずらぎ),平群(へぐり),巨勢(こせ),蘇我(そが),大伴(おおとも),物部(もののべ)などは大和王権における有力な豪族だった。そして,最も力のある豪族には「大臣:おおおみ」と「大連:おおむらじ」という位を授けられていた。軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部氏(物部尾輿:おこし),財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我氏(蘇我稲目:いなめ)だった。

 蘇我稲目は二人の娘(堅塩媛かたしひめ,小姉君おあねぎみ)を欽明天皇の妃(きさき)とし,天皇の外戚(がいせき)として地位を確固たるものにした。

奈良県高市郡明日香村 

仏教伝来

 538年(552年説もある),百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上したことが仏教伝来の始まり。天皇は礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して,物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。

 国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。そのため,570年に稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払った。家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだ。しかし,疫病はなくならず天災も続いた。

 後に推古天皇はここ向原の地を宮とした。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となった。向原寺(向原家・豊浦宮・豊浦寺跡)

蘇我馬子(うまこ)×物部守屋(もりや)

 584年,百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩(みろくぼさつ)を持ってもどってきた。馬子は仏殿を建ててそれを収めた。敏達(びだつ)天皇が崇仏に同意したことが,蘇我氏対物部氏の対立を再び激化させる。

 父稲目の時代と同じでこの時も疫病が流行り始めた。585年,物部守屋(もりや-物部尾輿の子)は敏達天皇に仏教が原因だと訴えると天皇もこれに同意したため,守屋は仏像・仏殿を焼き払ってしまった。しかし,この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまう。続く用明天皇も病死し,その後継者をめぐって,蘇我氏と物部氏の対立は宗教対立からやがて武力衝突へと発展する。いよいよ互いの権力争いに決着をつけねばならなくなった。

 587年,とうとう蘇我氏は物部氏など廃仏派の豪族たちと戦い,物部守屋をはじめとする有力豪族を滅ぼした。(丁未の変)こうして,大和王権における蘇我氏の権力が確立した。この戦いには蘇我氏の血をひく14歳の廐戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)も蘇我氏側について戦っている。

橘寺・伝聖徳太子生誕地(奈良県高市郡明日香村) 

蘇我馬子  588年,馬子は「仏教」を広めるため飛鳥寺を建て,ここを拠点とした。

 現在の飛鳥寺は本堂が残されているのみだが, 当時は,東西210m,南北320m,塔の高さ40m,3つの金堂を持つ大寺院だった。

 寺には蘇我氏の時代に作られた国産の飛鳥大仏(止利仏師-鞍作止利が造った 一丈六尺 約4.85m)がある。

 瓦ののった寺院(当時は板やワラの屋根),光り輝く仏像は大陸の華やかな文化を映し出していた。

 馬子は先進文化の仏教を基盤として廐戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)とともに国造りを行っていこうとした。

 592年,蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたり,敏達(びだつ)天皇の妃であった炊屋姫(かしきやひめ)を推古天皇とした。(推古天皇の宮は最初,豊浦宮:とゆらのみや,後に小墾田宮:おはりだのみやに移る)そして,推古天皇の甥(おい)の聖徳太子が摂政となり,政治を行った。ここに,推古天皇,聖徳太子,蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立した。

飛鳥寺-蘇我氏が約20年かけて建てた日本最初の仏教寺院

飛鳥大仏(飛鳥寺-安居院の画像使用許可済)609年 仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)が造る。

蘇我氏の権力父・蘇我蝦夷(えみし)と子・蘇我入鹿(いるか)

 皇極天皇の時代,蘇我蝦夷(えみし),蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。

 大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいた。

 643年,入鹿は「大臣(おおおみ)-紫の最高位」となり,外交・財政を一手に担うことになる。

 東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換する。さらに,この政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃し殺した。これにより,聖徳太子一族が滅び,蘇我氏の権力はさらに強大なものとなった。

蘇我氏の館があった甘橿(あまかしの)丘

甘橿丘から東(真神原:まかみがはら)を見る

入鹿の邸宅からは飛鳥の都,内裏までも眼下に見る。蘇我氏の権力がいかに大きかったかがわかる。

 644年11月,蘇我蝦夷・入鹿は甘橿(あまかし)丘にそれぞれ居を構えた。蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」,入鹿の邸宅は「谷(はざま)の宮門」とよんだ。甘橿丘からは都を見下ろすようになり,天皇の住居も眼下に位置する。

 家の周りには柵がめぐらされ,火災に備えて水槽も置かれていた。門には武器庫があり,常時護衛が警護していた。まるで要塞のような邸宅だった。

甘樫丘東麓遺跡で,7世紀前半の石垣が見つかった。蘇我氏に関連した遺構の可能性が高いとされる。石垣は斜面の土が崩れないように設置されたものと推測されている。


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