くほん‐じょうど〔‐ジヤウド〕【九▽品浄土】 の解説

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https://ameblo.jp/zozenji/entry-12805940907.html 【『極楽浄土と天国について』】より

 久しく、「今月の言葉」の更新が滞りましたこと、まず、お詫びいたします。

 さて、今月は、『極楽浄土と天国』についてお話したいと思います。昨今、仏教の葬儀をされたのに、天国へ旅立ったといわれる方が多いことに驚きます。

 例えば、安部晋三元内閣総理大臣の通夜と葬儀が、芝の浄土宗大本山増上寺で執り行われました。その時のテレビ中継を見ており、「今、安部晋三元総理大臣の乗せた車が自宅前を通り、天国へ旅立たれます。」など、天国へ旅立つなどというナレーションが多くみられました。また、普段の葬儀でも、参列者の弔辞や葬儀場の司会の方が、天国から見守ってくださいなど、話されることが多くあります。

 厳しく言えば、テレビ局と始めとしたマスコミ関係者、参列者や葬祭場関係者の勉強不足です。しかし、これを言ったところで、お坊さんがそもそも教えてくれないじゃないかと言われそうですので、今月の言葉で、簡略でありますが、ご説明いたします。

①仏教には、天国というものは存在しない。

 『天』というのが通仏教では一般的である。

 意味としては、

 神、あるいは神の住む世界のこと。Ⓢdeva。提婆だいばなどと音写される。また天人や天部といえば個々の神やその集合を意味し、天趣や天上といえば神の住む世界を意味する。天人五衰といわれるように仏教における天、すなわち神は絶対的な存在ではなく、輪廻の世界の中に存在するものである。それゆえ神は死ぬこともあり、また輪廻して地獄や餓鬼に生まれ変わることもある。また神の住む世界としての天は、輪廻の世界である六道(あるいは五道)の一つであり、人間の世界とともに善趣と呼ばれ、善行によって生まれ変わることのできるところである。〈後略〉

【浄土宗大辞典WEB版より】

 『天』とは、六道輪廻の中の一つであり、私たちも善行を積むことによって生まれ変わることが可能です。しかし、天に生まれたからと言って必ずそこに居続けられるかというとそうではなく、再び六道輪廻し、場合によっては地獄や餓鬼に生まれ変わることもあります。帝釈天や毘沙門天など、インドの神様を源流に持つ、神々の世界ではありますが、完全な世界ではないのです。 

②『浄土』と『極楽浄土』とはなにか。

 『浄土』

 浄らかな仏の国土のこと。漢訳の仏典に浄土の訳語が散見されるが、この意味での原語はなく、中国では様々な仏国土のことを浄土と称するようになる。浄影寺慧遠の『大乗義章』一九に「浄土と言うは、経中に或時は仏刹ぶっせつと名づけ、或は仏界と称し、或は仏国と云い、或は仏土と云い、或は復た説いて、浄刹、浄界、浄国、浄土と為す」(正蔵四四・八三四上)という。吉蔵の『大乗玄論』五に「浄土とは蓋し是れ諸仏菩薩の所栖の域、衆生の所帰なり」(正蔵四五・六七上)という。仏国土には「浄らかな」意味が込められており、それは菩薩行によって浄められた仏国土であり、大品系の『般若経』等で強調された「浄仏国土(仏国土を浄める)」という菩薩の誓願が根底にある。浄めるは動詞の√śudhである。また浄仏国土の略語、もしくはその意味をもたせて浄土の訳語が使われることもある。『大智度論』九二に「仏土の荘厳を名づけて仏土を浄めると為す。阿弥陀等の諸経中に説くが如し」(正蔵二五・七〇八下)とあるが、『阿弥陀経』等に説かれる極楽浄土の荘厳は、浄仏国土という菩薩行の結果であることを意味している。大乗仏教では十方の諸仏を認め、一仏に一仏国土であるから、十方に諸仏の浄土が存在する。中でも『阿閦あしゅく仏国経』の阿閦仏の東方妙喜みょうき世界、『阿弥陀経』等の阿弥陀仏の西方極楽世界、『大般涅槃経』二四の釈迦仏の西方無勝むしょう世界、『薬師如来本願経』の薬師仏の東方浄瑠璃じょうるり世界などが知られている。また厳密には仏国土ではないが、『華厳経』入法界品の観音菩薩の住処である南方補陀落ふだらく(Ⓢpotalaka)山を観音浄土、『弥勒上生経』等の弥勒菩薩の住処である上方兜率とそつ天(Ⓢtuṣita)を弥勒浄土とも呼んでいる。〈中略〉

 また『華厳経』の蓮華蔵世界、『観普賢経』の常寂光土じょうじゃっこうど、『大乗密厳経』の密厳みつごん浄土などがある。このように、浄土という用語は特定の仏の仏国土を指してはいなかったが、中国の隋唐時代に阿弥陀仏信仰が盛んになるとともに、浄土は阿弥陀仏の極楽浄土を指す用語にもなる。その先駆的な例に曇鸞『往生論註』があげられる。また道綽『安楽集』、善導『観経疏』なども阿弥陀仏の浄土の意味で限定的に用いている。なお道綽『安楽集』、迦才『浄土論』、懐感『群疑論』などでは、阿弥陀仏と弥勒菩薩の両浄土の比較優劣論を展開している。

【浄土宗大辞典WEB版より】

 このように、仏の国、仏国土が浄らかな土地であることから、浄土と言われるようになっていきます。大乗仏教では、修行僧である菩薩は、誓願を建てて如来、覚りを目指します。それが完成すると、仏(如来)となり、それぞれ仏国土、浄土を持つこととなります。そして、その仏国土、浄土において、説法や誓願の実行を行っているのです。仏それぞれに、様々な誓願に応じた仏国土、浄土を持つことから、様々な浄土信仰が生まれました。

 『極楽浄土』

 阿弥陀仏の仏国土の名。極楽世界、極楽国土、西方浄土などとも称す。原語はⓈsukhāvatīで、極楽の訳語は鳩摩羅什訳の『阿弥陀経』が最初であり、『観経』でも用いられている。『無量寿経』では「安楽」「安養」と訳されている。また、より成立の古い『大阿弥陀経』では「須摩提」、『平等覚経』では「須摩提」「須阿提」と訳されているが、これはⓈsukhāvatīの俗語形の音写とみられる。阿弥陀仏の仏国土の名称について『阿弥陀経』は「これより西方、十万億の仏土を過ぎて、世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします。阿弥陀と号したてまつる。今現にましまして説法したまう」(聖典一・三一六/浄全一・五二)とし、極楽の名の由来を「その国の衆生、衆もろの苦あることなく、ただ諸もろの楽のみを受く、故に極楽と名づく」(聖典一・三一六/浄全一・五二)と説く。〈中略〉

 阿弥陀仏信仰による浄土教では、阿弥陀仏の極楽は来世に往生する仏国土であるが、『無量寿経』等では凡夫の往生が可能であり、世親の『往生論』では菩薩のみの往生が説かれる。それをめぐって中国、日本では阿弥陀仏の極楽について凡夫往生が可能か否かで説が分かれる。善導は凡夫往生を認める立場で、『観経疏』一に「正しく仏願に託して、以て強縁ごうえんと作るに由って、五乗をして斉ひとしく入らしむることを致す」(聖典二・一八六/浄全二・一二上)という。

【浄土宗大辞典WEB版より】

 『極楽浄土』は、阿弥陀如来の誓願、四十八願に基づいた仏国土、浄土です。極楽浄土は、名前が表す通り、様々な苦痛がなく、穏やかで安楽な浄土であり、そのため、『極楽』と名付けられました。

 中国、日本において、極楽浄土に一般の人々がそもそも往生できるのかという論争がありました。そんな中、中国では善導大師が『観経疏』にて、阿弥陀様の誓願は極楽往生を願う人々を必ず救うことを示していると教えました。日本では法然上人が、善導大師の教えを見つけ出し、これこそ貴族だけでなく、一般の人々、すべての人が救われる道だと浄土宗を開宗されました。

 まとめといたしまして。

 仏教では、『天国』という言葉は使いません。通夜や葬儀、菩提寺が仏教寺院でしたら、使用されない方が賢明です。

 私は、浄土宗の僧侶でありますので、『天』や『浄土』、『極楽浄土』について、浄土宗の立場からお話してまいりました。もし、菩提寺さんが他宗でありましたら、そちらのご住職様に、亡くなったらどうなるのか、どのように仏道を進んでいけばよいのかお尋ねください。

 最後に。

 どんなに科学文明が発達したとしても、私たちはこの世界から旅立たなければならない時が必ずまいります。また、お釈迦様が示された『四苦』のように、生きていくことも様々な苦しみがあります。

 しかし、それらを自分自身で受け止めていくことは困難です。人生には楽しいこともあり、多くの人々とおかげさまで生きていけば、苦しいことも乗り越えられるかもしれません。また、この世界から旅立つときは、再び六道を輪廻するのではなく、阿弥陀様の極楽浄土へ往生し、苦しみのない浄土を願われてはいかがでしょうか。

合掌

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81 【九品】より

九品(きゅうひん、くほん)とは、元々官職の階梯を九段階にわけて設定すること。転じて物質や人の性質を3×3で分類したもの。三三品(さんさんぼん)。

概要

「九品官人法」も参照

大本をたどれば中国漢代に提唱された性三品説に由来する。人間は生まれながらにして上品・中品・下品の三品に分けられており、上品は生まれながらの善であるから教化するまでもなく、下品は生まれながらの悪であるからこれも教化は無駄である。唯一中品のみが善にも悪にもなることが出来、これを教化することによって善へと導くことが出来るという考え方である。

これが元になって九品官人法では官職を九品に分けることがなされた。これに習って文学・芸術あるいは囲碁(囲碁九品)の腕前に至るまで九品に分けて評価されるということも行われた。

仏教の九品

九品(くほん)は、仏教で、経典を翻訳した際に、上記の中国の分類を用いて充当したものである。

三品それぞれの名は、中国語では区別しないが、日本語では読みが異なる。仏教では、サンスクリットのVargaを「品」と訳した。なお仏教の「九品」の場合は「くほん」と濁らずに読むが、「上品・下品」などは「じょうぼん・げぼん」と連濁する。

仏教(特に浄土教)では、衆生の機根の違いによって、同じ極楽浄土へ往生するにも、9つのパターンがあると『観無量寿経』に説かれている。またこれを九品往生ともいう。

九品のそれぞれはこれは「○品○生」(○は上・中・下)と言い、「○生」の読みはそれぞれ上生(じょうしょう)、中生(ちゅうしょう)、下生(げしょう)である。

のちに、善導は九品皆凡といい、一切衆生は本質的にみな迷える存在であると捉えた。また上下の差を大乗・小乗の乗教や悪などとの接触による相違に帰するという独自の解釈を唱え、これが法然や親鸞などに大きく影響を与え、また継承された。

三品 九品 解説

上品 大乗に値遇するゆえに遇大(ぐうだい)といい、上輩生想(じょうはいしょうそう)と称される。

上品上生 至誠心、深心、廻向発願心の3種の心を発して往生する者。

これには3種類の者がいるという。

慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者

大乗方等経典を読誦する者

六念処を修行する者

その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば、1日もしくは7日で往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという。

上品中生 大乗方等経典を読誦せずとも、よく大乗第一義の義趣を理解し、心に畏怖驚動ことなく、因果律を深く信じ大乗を誹謗しない者。

その功徳により聖衆の来迎を受け、往生した後に一宿を経て蓮華が開敷し、7日後に無上道を退かず、諸仏の国土へ赴き、1小劫を経て無生法忍を得るという。

上品下生 因果律を信じ大乗を誹謗せず、ただただ無上道心を起す者。

その功徳により廻向して往生を希求し、また往生した後に1日1夜で華が開き、三七(21)日後に耳目が明らかになり、諸仏の国土へ赴き、3小劫の後に歓喜地に往生するという。

中品 小乗に値遇するゆえに遇小(ぐうしょう)といい、中輩生想(ちゅうはいしょうそう)と称される。

中品上生 五戒、八戒など諸々の戒律を具足し尽くして悪業を所作しない者。

往生して蓮華が開敷し、即時に阿羅漢果を得て、三明・六神通・八解脱を得るという。

中品中生 1日1夜に五戒・八戒を具足し、また沙弥戒(年少の僧侶が受ける戒律)や具足戒を持ち、威儀端正にして欠くことが無い者。

往生して蓮華が開敷し、法を聞いて歓喜して須陀洹果を得て、半劫を経て阿羅漢となるという。

中品下生 父母両親に孝行し養い、世間に仁義して慈しみ行う者。

臨終の時に阿弥陀仏の本願や国土の楽を知り、往生した後に勢至菩薩や観世音菩薩から教法を聞いて、1小劫の後に阿羅漢となるという。

下品 一生に悪を造作し無間の非法するゆえに遇悪(ぐうあく)といい、下輩生想(げはいしょうそう)と称される。

下品上生 大乗方等経典を誹謗せずとも、多くの悪事を行って恥じ入ることのない者。

臨終の時に大乗十二部経の経題を聞いて、1000劫の極重悪業を除き、また阿弥陀の名号を唱えると50億劫の生死の罪業を滅除し、化仏の来迎を受けて浄土へ往生し、七七(四十九)日を経て蓮華が開敷し、勢至や観音から聞法信解して菩提心を起し、10小劫を経て菩薩の初地に入るという。

下品中生 五戒・八戒・具足戒を犯し、僧祇物(そうぎぶつ)を偸盗し、不浄の説法をして恥じ入ることのない者。

臨終の時に、まさに地獄に堕さんとした時、阿弥陀仏の十力威徳、光明神通、五分法身(ごぶほっしん)を聞いて、80億劫の生死の罪業を滅除し、地獄の火炎が変じて天華となり、観音や勢至の説法を聞き無上道心を起すという。

下品下生 五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者。

臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。

また、阿弥陀仏像の印相と九品往生を関連づける「九品印」の考え方があるが、現存する九体阿弥陀像の古例には見られない。このため、古くは印相を違えて阿弥陀像を造立するという意識はなく、印相における形式の相違も重視されていなかったとの見方もある[1] 。仏像の印相だけで単純に「上品上生を表す」などと九品往生を当てはめるのは、その仏像の表すものを見誤る危険性もあり、注意すべきである。


https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%B9%9D%E5%93%81%E6%B5%84%E5%9C%9F/ 【くほん‐じょうど〔‐ジヤウド〕【九▽品浄土】 の解説】より

極楽浄土。往生する者に9種の差異があるところからいい、また浄土にも9種の差異を立てていう。西方浄土。九品安養界。九品の浄刹 (じょうせつ) 。九品の浄土。くほん。


http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%B5%84%E5%9C%9F%E4%B9%9D%E5%93%81%E5%BE%80%E7%94%9F%E7%BE%A9 【極楽浄土九品往生義】より

ごくらくじょうどくぼんおうじょうぎ/極楽浄土九品往生義

一巻。『九品往生義』ともいう。良源撰。成立年次不明。藤原師輔(九〇九—九六〇)の要請により撰述されたとされる『観経』九品段の註釈書だが、静照じょうしょうや源信が引用しない点などから偽撰の可能性も指摘される。内容は、伝智顗『観経疏』によるところが大きく、願名においては智光『四十八願釈』を踏襲している。また、第十八、十九、二十の三願の解釈に力点を置き、新羅浄土教諸家の義寂や憬興きょうごうなどの論書を引用し、下品下生の者の念仏往生を可能とする論証は注目される。

【所収】浄全一五、仏全二四

【参考】佐藤哲英『叡山浄土教の研究』研究編(百華苑、一九七九)、奈良弘元『初期叡山浄土教の研究』(春秋社、二〇〇二)

【執筆者:和田典善】

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