弥勒信仰は、空海も逃れられなかったバラモンの呪縛

https://www.lait.jp/serial/serial_asiaseye409.html 【第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その4】より

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【弥勒信仰は、空海も逃れられなかったバラモンの呪縛】

―東釈迦の解脱、仏教の誕生から未来まで、仏教の法界はバラモンの予定調和の世界―

 前稿までに、インドからネパールで発生した仏教が、日本に伝来し、初めは仏教受容に積極的だった蘇我氏が天皇との絆にしながら、推古天皇を擁立し、外戚支配を専横し、舒明天皇即位まで権勢を振るったが、妻の皇極天皇の時(645年7月10日)、息子の中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こし蘇我氏本流の外戚支配を終わらせ、鎌足の子藤原不比等以降、藤原氏が奈良時代の天皇家に深い外戚支配に移行したことを記した。特に聖武天皇の周辺は光明皇后を含め、藤原不比等の娘ばかりであった。要するに、大化改新を引き起こした天智天皇の王統と藤原鎌足の一族の外戚が、聖武天皇を支え、天智天皇が草壁皇子と一緒に育てた謎の人物義淵の仏弟子たちが、奈良時代の仏教的法界を構成した構造であった。

● アジアを覆った弥勒信仰

 実は、この初期(3世紀から10世紀まで)の仏教的法界は、北西インドで形成された「弥勒浄土」への信仰が覆っていた。天智天皇が草壁皇子と一緒に育て、後の奈良仏教界のキーパースンとなった義淵の弟子たちが、玄奘とその弟子を通して請来した法相宗は、無着、世親が立てた大乗唯識論を基盤にしているが、この法相宗は弥勒信仰、兜率天浄土の信仰が重要な柱となっていた。  ここで日本及びアジア(インド、中国、朝鮮半島)における仏教の弥勒信仰について触れなければならない。

弥勒菩薩の画像

 弥勒は、サンスクリット(梵語)でマイトレーヤ。釈迦如来の後継者として定まった「当来仏」「未来仏」と称され、インドで生まれた仏教の法界では、釈迦如来に代って五十六億七千万年後にバラモン夫婦の間に生まれ地上に下生するという未来の仏陀。現在は古代インドの世界観から仏教の宇宙観に入った、世界の中心にそびえる須弥山の上にある兜率天四十九院で「出世」を待つとされている。弥勒菩薩については、既にクシャン朝のガンダーラ美術で図像化され、クシャトリアのカーストから出生し、カーストを否定した仏教の未来仏と考えられている弥勒には、バラモン出身者で、将来バラモン夫婦の間に出生することが約束されるという伝説と同時に、弥勒の図像には、バラモン(梵天)の特色とされる頭髪、右掌を内側に向け、左手に水瓶を持つなどの、バラモン(梵天)と共通な特色が表象されているという(『ガンダーラの弥勒菩薩の図像について』宮治昭)。弥勒は、限りなく、今でもカースト制度のトップに立つバラモン(梵天)に近く、梵天が仏教の普及を勧めたことも含め、仏教の誕生と未来には、バラモン教、ヒンズー教のウェートが重く、インドではこの呪縛から解放されることなく、今日に至る。インドで仏教は、カースト制度を否定することによって誕生したが、社会的にはバラモン教の枠組みの中にあり、ヒンズー教との融合の末に、現代に至るまで、未だにカースト制度が覆う、インド社会に沈んだ。インドで仏教が崩壊したのは、梵天や弥勒、バラモン教やヒンズー教の宇宙観から脱しきれなかったからだと考えざるを得ない。  中国での弥勒造像は北魏の時代から行われ、朝鮮半島でも盛んであった(『韓国弥勒信仰の研究』金三龍)。日本に最初に弥勒菩薩がもたらされたのは、584年(敏達13年)で、百済から届いた弥勒石造が、蘇我馬子の信仰を得て、飛鳥の法興寺に安置された。飛鳥時代のいくつもの弥勒半跏思惟像が知られ、大化改新後669年(天智8年)藤原鎌足が亡くなると天智天皇は「観音菩薩の後にしたがい兜率陀天上に至り、日々世々弥勒の妙説を聞き・・」と鎌足に言葉を送り、天智天皇自身にも弥勒信仰、兜率天往生を希望していたことが指摘されている(『真言密教と弥勒信仰』?丸俊明)。

● 弥勒の生まれ変わり則天武后が、東大寺・国分寺・国分尼寺の元

 中国で「弥勒」信仰が利用された最大の事件は、則天武后である。太宗に見出され後宮に入り、高宗に近づき、先の皇后二人を四肢切断し虐殺するなど、近臣を殺戮、恐怖政治を行ったこの女性は、薛懐義(せつかいぎ)を超愛し、「大雲経」の一節を利用して、「弥勒仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位に即く」と宣伝し、息子であった二人の皇帝を廃位し、690年自ら皇帝に就いた。この時に、中国各地に創建されたのが大雲寺であり、玄宗皇帝の時代の渡唐僧玄肪が光明皇后に近づき「内道場」を設置、則天武后の権威で華厳経と金光明最勝王経がまとめられたこと、光明皇后に伝え、国分寺・国分尼寺の元になっている。  法相宗総本山・興福寺は、藤原不比等の一周忌に北円堂を完成し、須弥壇に下生仏弥勒仏が安置され、同じ総本山である薬師寺では、江戸時代から「薬師三尊」と呼んでいた三尊像を平成15年、元の「弥勒三尊」の呼び名を変更している。薬師寺では、天平時代には西院正堂の本尊は弥勒浄土相の障子絵。北側の玉華寺では玄奘三蔵の御影像も安置。地上の兜率天宮とも呼ばれた。  総国分寺である東大寺を創建した良弁(審祥とともに華厳宗を起こす)は、755年、生国・相模国に一時帰休し、大山に不動明王を本尊とする大山寺を創建しているが、不動明王から「弥勒菩薩の浄土」にするとの託宣を得たからという。不動明王は、真言密教の大日如来(華厳経の毘盧遮那仏)の化身とされており、大山寺の背景には良弁が創建した東大寺があって、不動明王の後ろに東大寺の大仏・大日如来が見える形になっている。762年大山寺の二代目住職が行基の弟子光増(13号で徳一と記しましたが、光増と訂正します。徳一は、関東から陸奥で寺院創建に携わっており、藤原仲麻呂の子とも言われ、僧坊の整備に力を尽くし、三代目の空海を大山に招きました)、三代目の住職が空海。空海が大山寺の住職となったのは、常陸から会津一帯で寺院建築に携わり、興福寺、東大寺ゆかりの法相宗の僧徳一の勧めであった。大山寺を中心とする東丹沢は、当初弥勒浄土と仮想され、後に西方極楽浄土信仰の山として山岳修験の道場となったようだ。  日本では、則天武后のように弥勒菩薩の下生に仮託して権力を掌握するのを助けた僧はいなかったが、唐の事例になぞらえて「内道場」を設置し聖武天皇と光明皇后に近侍し思想的な影響を行使し左遷された玄昉。玄昉と同様、病気治癒(玄昉は聖武天皇の母宮子治癒)を行う天皇の看病僧・看病禅師として称徳天皇に替わり帝位を奪う勢いの最中失脚した道鏡と、これによって神仏混交が時代の趨勢となっていたことを空海は読み切っていたのではないかと想像する。

● 中国では、法相宗から密教へ移行。空海がアジアの密教本流を継承

 中国における密教は、716年、中インドの国王であった善無畏(637‐735)が80歳の時長安に達し、玄宗に迎えられたことで始まる。勅命によって「虚空蔵求聞持法」を訳し、724年、大日経(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)を訳している。「虚空蔵求聞持法」は、理解力、記憶力を高める修法として、空海が師の勤操から伝えられ、19歳の時室戸岬で金星が口に入る霊験を得ている。さらに空海は大日経を、大和国・久米寺で目にし、さらに奥義を体験するため渡唐を決意した。久米寺には、善無畏渡来の伝説が残る。  善無畏に遅れること6年。南インドの金剛智(669‐741)は、720年、南海経由で洛陽に達し、中国での密教(純密)の基礎を築き、これを長安、洛陽だけでなく広州、武威、太原、五台山に普及したのは、不空三蔵(705‐774)。北インドの出身で金剛智の弟子で、741年金剛智が死去すると、遺命によって梵本の秘密経典を招来する為インドに渡り、746年、帰唐。玄宗、粛宗、代宗の皇帝三代を灌頂している。唐代中国は、玄奘のもたらした法相宗から善無畏による密教の時代に移行していたのである。既に玄昉は、法相宗の吸収だけでなく、密教の中心地であった五台山を訪ね、密教習得に励んでいたともいう。そして不空の密教を弘め、唐朝の密教を統率したのが恵果であった。恵果も代宗、特宗、順宗の三代の国師、内道場の護持僧として尊敬されていた。(『中国仏教史』鎌田茂雄)空海は、この恵果から、密教本流を伝承される。

● 宮中真言院を設置、明治元年の神仏分離まで宮中で護摩法要続く。空海は兜卒天に入定

 空海は上記のように800年、奈良・久米寺で大日経を目にし、804年4月、東大寺戒壇院で得度、一か月後には渡唐の船中にあった。遣唐使船には、天台座主の最澄もいたが、最澄は傍系の順暁から灌頂を受けた。空海は、上記のようなアジアの仏教界の新しい潮流に私人として乗り込み、バラモン教・ヒンズー教を習合し、言語を超えた象徴(真言、曼荼羅)による修行によって内なる仏性を追及することを求めた真言密教を渡唐の二年間の最後に、恵果から密教本流の継承者として、わずか三カ月で伝法阿闍梨を授けられている。アジアの仏教史の中で、稀有な事件であった。  806年に帰国した空海は、大宰府、そして沙弥戒を授けた師の勤操が営む槇尾山寺に留まり、三年後の809年、太政官符により、空海は京都の高雄山寺に入る。天台宗の最澄が密教の最初の灌頂を行った寺で、いよいよ空海と最澄の、交流から運命的破局にいたる時代が始まる。仏教が、神仏混交の完全なる聖体護持・護国教として機能する時代の始まりでもあった。  この稿の最初に触れたように、仏教には、釈迦如来(悟りを得た仏陀)への信仰のほか、遠い将来の未来仏として釈迦を継承する(「仏所」を後継するという意味で「補処」とも呼ばれる)弥勒信仰があった。空海も、入定(普通には死去)七日前に書いたとされる密教修行の最後の「二十五ケ条の御遺告(遺言;後世の作話とも)」で「・・・密教の寿命を護り継ぎ龍華三庭を聞かしむべき謀なり。吾れ閉眼の後には必ず方に兜率他天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すすべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、示候して吾が先跡を問ふべし・・・」(『真言密教と弥勒信仰』)と、現在も須弥山の上空兜率天四十九院で説法し、下生の時期を待つという弥勒の下へ入定すると宣言したことになっている。このため高野山の真言宗住職は亡くなると四十九の板塔婆を建て、兜率天四十九院に往生することが擬せられて葬られることになっている、という。  そうした兜率天の弥勒浄土へ往生することが空海においても想定されていたとすれば、一見これは驚きであるが、釈迦の解脱から竜樹の空論、弥勒、無着、世親の法相、善無畏らの密教に至り、梵天に始まり弥勒に終わるまで、仏教が限りなくバラモン、ヒンズーの法界と融合する世界を構築してきたことを考えると、予定調和の世界とも言えるだろう。空海はその世界を読み切って自分の居場所を定めたと考えられる。

玄昉の画像

 バラモン教の中から誕生し、カースト制度を否定し、差別された人々や時代の優勢な勢力の間から出現し新興勢力の絆となった仏教ではあるが、インドではその誕生の時からバラモンの呪縛から離れることができず、梵天や帝釈天の理解や支持を取り付ける形をとり、釈迦如来に代る未来仏:メシアがバラモン出身の弥勒とされるなど、バラモン教、ヒンズー教の神々、世界観と習合していた。中国、朝鮮、日本では、新興勢力や異民族、男系社会を凌いで登場した女性の間で仏教的メシア信仰として受容された。それが弥勒信仰である。とはいえインドではカースト制度の頂点に立つバラモンを出自とし、クシャトリア出身の釈迦に替わる未来仏弥勒という表象が何故誕生したのかについて、宮治昭氏は「古代インドには、『バラモンなしにクシャトリアは繁栄せず、クシャトリアなしにはバラモンは繁栄せず、バラモンとクシャトリアが協力してこそ、現世と来世に反映できる』(「マヌ法典」)という世界観があり、・・・それゆえクシャトリア出身の釈迦の跡を継ぐ弥勒は、バラモンの出であることが必然的に要請されたのではあるまいか」と、弥勒誕生の背景を説明している。仏教における予定調和であり、インド仏教消滅の原因と判断される。弥勒は、仏滅後、釈迦如来の後継者として、気の遠くなる56億7千万年後に現世に現れる、仏教界のメシア信仰の対象で、元々インドの北西・ガンダーラ、西域で盛んであった。弥勒浄土というべき兜卒天(一種の極楽)の地上での再現(下生)、兜卒天への入定(上生)を願う信仰が、実にさまざまに都合よく人間社会の権力志向の中で利用されてきたものである。  玄昉は、法相宗人脈の中で、光明皇后に近づき奈良仏教のシステム構築に役立ちながら失脚、道鏡は、称徳天皇の愛顧を得て、宇佐八幡宮の「託宣」で天皇に上り詰めようとしたところで躓き、失脚。  空海は、義淵以下の東大寺人脈にいた勤操から「虚空蔵求聞持法」を得て、青年期の山岳修行でこれを身につけ、さらに大日経(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)を久米寺で目にしてから、これを中国にもたらした善無畏、金剛智、不空、そして恵果からアジアの密教本流を継承して帰国。嵯峨天皇の庇護を受け、最澄が最初に密教の灌頂をした(空海の師の勤操が灌頂を受けている)高雄山寺で、10年後には空海が東大寺、興福寺、西大寺の僧らに密教の灌頂を行ない、高野山、東寺を真言密教の拠点として創設、東大寺の別当となり、真言院を設置。そして最晩年61歳の時(834年)、「宮中の真言院の正月の御修法の奉状」という勅許願いを提出、ただちに勅許が降りたという。正月の神事の後、1月8日〜14日の間、それまで行われていた金光明最勝王経の講義に代って、密教道場で真言宗の護摩法要を行うことになった。これによって真言宗の大日経、理趣経の密教経典が覆い、山岳修験の密教化が進んだ。密教的な真言院の御修法は、明治四年(1871年)、神仏分離令で禁止されるまで続き、廃仏毀釈の後、明治16年から、場所を現在の東寺・灌頂院(かんじょういん)に移して継続されている。  東大寺では、空海が東大寺の別当となって以来今日に至るまで、大仏殿での毎日の読経では、人の煩悩、男女の愛を肯定する真言密教の理趣経が読まれている。空海が、最澄の借経の申し入れを拒絶した因縁の経である。

● 玄肪、道鏡の轍を踏まなかった空海

 空海は、「女帝の時代」(奈良時代)に、宮中深くに入り込み、挫折した玄昉や道鏡の轍は踏まなかった。インドで形成され、よりバラモン教やヒンズー教と融合した新仏教(真言密教)を、「内道場」での看病禅師という本質を変えることなく、一生をかけて「真言院」を宮中に設置することに成功した。前稿で、道鏡を宮中に招き、大嘗祭で神仏同居を宣言した称徳天皇から、6代の天皇を経て、仁明天皇の治療(聖体護持)、護国、五穀豊穣などを祈る護摩法要が初めて行われ、日常の景色となり、インドの神々が仏教の護法神として取り入れられているように、日本でも古来の神々を護法神として取り入れる神仏混交が一層進み、修験仏教が全国に広がる基礎を築いた。しかも弥勒が待機する兜率天にいて、56億7千万年後に弥勒と一緒に地上に出現し、そのことを忘れることがないように高野山で「入定」した形で空海への信仰も維持しているという。空海恐るべしである。  一方「内道場」が「真言院」という「密教道場」と変わると、最澄以来法華経を軸としてきた天台宗の中でも、密教導入に熱心で、最澄の弟子の円仁(慈覚大師・794年〜864年)、円珍(智証大師・814年〜891年)が唐で最新の密教を学び、天台宗でも密教が重視され、後には、「聖体護持」を掲げる天台宗系密教が大きな力を持つようになり、熊野修験など各地の山岳修験と結びつき、神仏混交の日本仏教形成に影響を与えた。  空海の真言密教は、インドでバラモン教やヒンズー教の世界観を背景に形成されていたため、世界の中央に聳える須弥山の上にある兜率天の弥勒浄土への往生がその本願とされている。しかし世界は仏滅後末法の時代に移行したという考えから、天台宗の中から源信 (942年-1017年)が現われ阿弥陀浄土への往生を語る「往生要集」(985)が著され、弥勒菩薩の兜率天往生から後の称名念仏による西方極楽浄土が覆う時代に移行する。弥勒浄土から弥勒如来が下生するまでこの地球と人類は持つのだろうか?という時代なのだ。

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