大峯奥駈道

https://4travel.jp/travelogue/11369407 【白洲正子ワールド「役行者が開いた山伏修験道と桜の名所吉野へ結界”柳の渡”から 」】より

 インド伝来ではない日本固有の仏教である「修験道」の道場は下市から大峰山に登るルートが一般的です。しかし、これは明治以来のことで昔は吉野山から金峰山へ参り、大峰山を縦走するのが順路でした。吉野から熊野へ向かうのを「逆の峰」と云い、逆を「順の峰」と呼ぶが、これは「陰と陽」密教で云う金胎両部を現すと共に神武東征にちなんだ名称と云われています。

 台風が東海沖をかすめて去った翌日の梅雨の晴れ間、河内を出立した現在の偐修験者は大和に入ると、横大路を金剛葛城の麓を南下した。水越峠から来る古道との交点を東に下り、国道を横切ると右には武内宿禰の墓ではないかと云われる室宮山古墳、正面には筆者が現在の東征の道と呼ぶ「京和奈道」が横切ります。字で云うと「玉手」、「冨田」を過ぎると近鉄吉野線が脇に寄ってきます。すると「吉野口駅」が近い。更に進み「車坂」峠付近から道は吉野川へと勾配を下っていく。下市の市街を過ぎて吉野川に出会った付近に「柳の渡し」があります。此処が結界でした。

 台風が東海沖をかすめて去った翌日の梅雨の晴れ間、河内を出立した現在の偐修験者は大和に入ると、横大路を金剛葛城の麓を南下した。水越峠から来る古道との交点を東に下り、国道を横切ると右には武内宿禰の墓ではないかと云われる室宮山古墳、正面には筆者が現在の東征の道と呼ぶ「京和奈道」が横切ります。字で云うと「玉手」、「冨田」を過ぎると近鉄吉野線が脇に寄ってきます。すると「吉野口駅」が近い。更に進み「車坂」峠付近から道は吉野川へと勾配を下っていく。下市の市街を過ぎて吉野川に出会った付近に「柳の渡し」があります。此処が結界でした。

 金剛山と葛城山東山麓

  吉野川を渡り道なりに山道を進むと「吉野神社」が見えて来ます。吉野山ロープウエイが昨年から故障して不通に、代替バスがこの道を参詣客や観光客を運んでいると、昼食を食べた「静亭」の女将から聞いた。蛇足だがロープウエイ再開の目処は立っていないとも。金峯山寺には願掛けのお礼にと同行が行ったのを待つ。記憶に有る限りでは、吉野は小学校の林間学舎以来です。多分この町並みの何処かの吉野建旅館に泊まったのだろう。着くなり玄関の大きな容器に、配給米を入れさせられたのを思い出します。

  吉野川を渡り道なりに山道を進むと「吉野神社」が見えて来ます。吉野山ロープウエイが昨年から故障して不通に、代替バスがこの道を参詣客や観光客を運んでいると、昼食を食べた「静亭」の女将から聞いた。蛇足だがロープウエイ再開の目処は立っていないとも。金峯山寺には願掛けのお礼にと同行が行ったのを待つ。記憶に有る限りでは、吉野は小学校の林間学舎以来です。多分この町並みの何処かの吉野建旅館に泊まったのだろう。着くなり玄関の大きな容器に、配給米を入れさせられたのを思い出します。

 同本堂

  本日一番の目的は「櫻本坊」という寺院です。玄関に車を横付けさせていただき拝観。と、行っても境内を彷徨き匂いを嗅ぐだけです。桜の季節が過ぎた吉野には、人気も無く舞い上がる埃も無い。ただ吉野の匂いだけが漂っています。数十万いや一説では百万を超えているという修験者達が、山伏装束でこの吉野から熊野本宮の間で修行を行います。山門の仁王

  本日一番の目的は「櫻本坊」という寺院です。玄関に車を横付けさせていただき拝観。と、行っても境内を彷徨き匂いを嗅ぐだけです。桜の季節が過ぎた吉野には、人気も無く舞い上がる埃も無い。ただ吉野の匂いだけが漂っています。数十万いや一説では百万を超えているという修験者達が、山伏装束でこの吉野から熊野本宮の間で修行を行います。

 山門の仁王

いにしえの都・奈良で心を癒される体験を南都七大寺の一つに数えられている「法相宗 大本山 薬師寺」お写経勧進55年を迎えた薬師寺のお写経で心癒される体...

  熊野本宮の先は「入水往生」の世界、そこを目指していく大峰行は、一旦死ぬことを意味したから「逆の峰」。そこから生き返るから「順の峰」と云うらしい。道中の肝試しとも云われる逆さ吊りは、生と死の世界を体験するという仕組みであるのかも知れません。そこから生還して再び柳の渡しで現世に戻るのが現代人というか凡人、磐余彦は即位して神武天皇になられた。

  熊野本宮の先は「入水往生」の世界、そこを目指していく大峰行は、一旦死ぬことを意味したから「逆の峰」。そこから生き返るから「順の峰」と云うらしい。道中の肝試しとも云われる逆さ吊りは、生と死の世界を体験するという仕組みであるのかも知れません。そこから生還して再び柳の渡しで現世に戻るのが現代人というか凡人、磐余彦は即位して神武天皇になられた。

 同山内

 吉野水分神社へ先を急ごうとするが、何度かコースを離れてしまいます。狭い山道でバッグを繰り返す、両サイドが谷という道はある意味では修行です。何とかルートを見付けて一気に駆け上がりますと、奥駆けへの入口かの如く鳥居が現れます。玉依姫の神像が祀られていると云うが、何やら薄暗くてはっきりしない。女人禁制の山に女神様とは面白い取り合わせだ。水分がミクバリからミゴモリ、コモリとなり安産・多産の神となったと、白洲正子は著書「かくれ里」で語っている。その女体なる山を役行者は引かれたのだとも。

 吉野水分神社へ先を急ごうとするが、何度かコースを離れてしまいます。狭い山道でバッグを繰り返す、両サイドが谷という道はある意味では修行です。何とかルートを見付けて一気に駆け上がりますと、奥駆けへの入口かの如く鳥居が現れます。玉依姫の神像が祀られていると云うが、何やら薄暗くてはっきりしない。女人禁制の山に女神様とは面白い取り合わせだ。水分がミクバリからミゴモリ、コモリとなり安産・多産の神となったと、白洲正子は著書「かくれ里」で語っている。その女体なる山を役行者は引かれたのだとも。

 水分神社から少し下ってひらけた眺望の良い場所「花矢倉」から、西北を望む。二上山、葛城山そして金剛山が一望できる。役行者が神を脅かし葛城から吉野へ石橋を架けさせようとしたという伝説の橋が目に浮かぶようです。千数百年前の野山を駈けて、自然と合体した人物の想像力は、現代人の知恵を凌駕しているように思えてしかたがない。

 水分神社から少し下ってひらけた眺望の良い場所「花矢倉」から、西北を望む。二上山、葛城山そして金剛山が一望できる。役行者が神を脅かし葛城から吉野へ石橋を架けさせようとしたという伝説の橋が目に浮かぶようです。千数百年前の野山を駈けて、自然と合体した人物の想像力は、現代人の知恵を凌駕しているように思えてしかたがない。

いにしえの都・奈良で心を癒される体験を南都七大寺の一つに数えられている「法相宗 大本山 薬師寺」お写経勧進55年を迎えた薬師寺のお写経で心癒される体...

 吉野山と金剛山系の航空写真で位置関係がよく分かります。


https://www3.pref.nara.jp/miryoku/aruku/1193.htm 【吉野山と熊野を結ぶ修験の道、南奥駈道】より

文=吉田智彦

(よしだともひこ) 紀行ライター。旅を軸にした巡礼やアウトドア、民俗を描くフォトライター。スペインのサンティアゴ巡礼路、熊野古道などを踏破。著書に『熊野古道巡礼』(東方出版)などがある。

紀伊半島の背骨と称される大峯山脈。その北端にある吉野山と南端にある熊野の二大聖地を結ぶ180キロの尾根道が、大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)だ。近畿最高峰の八経ガ岳(1914メートル)を中心に広がる山脈の最深部は原始林に覆われ、果てまで続く山塊を見渡しながら歩く。全行程をたどると通常7日はかかる、本格的な山岳ルートだ。また、奥駈道は、6本ある熊野参詣道の中で最も古い信仰の道ともいわれている。道を拓いたとされるのは、修験者の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)だ伝説によると役行者は、7世紀ごろ、故郷である葛城山で修行を積み、呪術使いとして世間に広く知られていた。鬼人を操り、葛城山と吉野の金峯山(きんぷせん)の間に石橋を架けさせようとした逸話があり、これは、修験道の勢力が葛城山から吉野へ広がっていった様子を語ったものと考えることができる。役行者が、地上で苦しむ世の人々を救うことのできる力強い神仏を得ようと、一千日の修行の末、修験道の本尊である蔵王大権現を祈り出したのも奥駈道が通う山上ヶ岳だった。行者たちにとって、開祖の開いた霊場が点在する奥駈道は最高の修行場であり、千三百年の歴史を持つ修験道の根本道場なのだ。

玉置山山頂の沖見地蔵

行場は、時代を追うごとに整備され、やがて「大峯七十五靡(なびき)」に集約されていった。熊野本宮大社の証誠(しょうじょう)殿を第一靡とし、吉野山の北にある柳の宿の第七十五靡まで、山中に75か所の行場・拝所があり、山伏姿の行者たちが経をあげ、碑伝(行者札)を納めていく。靡の順を追って熊野から吉野へ向かうことを順峯、吉野から熊野へ向かうことを逆峯と呼び、今でも季節さえ合えば、法螺貝を鳴らしながら列をなして進んでいく姿を見ることができる。

このコースの出発点、玉置神社がある玉置山は、第十靡。熊野三山の奥院ともいわれ、古くから奥駈修行における大切な霊場だった。

玉置神社には、図太い杉が天を支える柱のように立ち並んでいる。樹高があるものは50メートルに達し、目通りが10メートルを超える幹や樹齢3000年という神木まである。3000年前と言えば、縄文時代から弥生時代に変わろうとしていたころだ。役行者が奥駈を走り廻っていた時代の遥か昔から玉置山を見守り続けている空間には、人間の杓子を超えた、大きな揺り籠に抱かれたような、たおやかな時間が流れている。

かつえ坂

また、境内の一角には、「玉置」の語源になったとされる摂社の玉石社がある。供えられた白玉石の中から御神体の巨大な黒い玉石が頭だけをわずかにのぞかせ、今にも動き出しそうな大地の力がみなぎっている。行者たちは、時に優しく、時に力強い、人の力をものともしない森羅万象の中で、その息吹をつぶさに感じながら一体となることで、超自然的な神仏の力、験力を身につけていったに違いない。玉置山から本宮へ向かう行程は、吉野からの長い道のりを越えて熊野へ入るクライマックスだ。玉置山を出た古道は、アップダウンを繰り返しながら徐々に標高を下げていく。雑木が多かった山が杉や檜の植林に変わって人里の気配を増し、本宮が近づいていることを肌で感じさせてくれる。奥駈道を2度歩いたが、大峯山脈が熊野川の流れに事切れる尾根から本宮大社の旧社地、大斎原(おおゆのはら)を目にした時の感覚は忘れられない。不動の山を何日も踏みしめて、ひたすら水を惜しみながら高みを渡ってきた体には、川の太い流れが意思を持った巨大な生き物に見えた。水は、元来、日本人にとって穢(けが)れを洗い流してくれるものだ。清らかな熊野川の流れを渡って入る大斎原の森は、全てを受け入れてくれるように何もなく、静かだった。人は思いを込めれば込めるほど、どんどん偏り、本当に大切なものを見失いがちだ。しかし、大斎原にぽっかり空いた、ある意味空虚とも言える空間に身を置いたとき、自分にしかない大切なものに気づくに違いない。そんな独特の厳かな空気が漂っている。 奥駈道には、厳しい自然の中に身をおいてこそ得るものがあるという修験道の教えを今に伝える貴重な道だ。玉置から本宮までの区間は距離こそ短いが、その魅力の一端に触れることができるコースだ。

※この紀行文は2009年11月取材時に執筆したものです。諸般の事情で現在とはルート、スポットの様子が異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

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