真言密教とキリスト教

https://www.kobe-np.co.jp/news/culture/202211/0015818539.shtml 【長崎・五島列島福江島を巡る(上)潜伏キリシタンの名残色濃く】より

 長崎市から高速旅客船で約1時間半。18の有人島と111の無人島がある五島列島は、キリスト教禁教期にひそかに信仰を守った「潜伏キリシタン」関連の世界遺産があることで知られ、最大の島である福江島は現在、NHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」の舞台にもなっている。美しい海岸風景を楽しみながら、太古からの歴史を満喫した。その様子を2回にわたって紹介する。(井原尚基)

■弾圧避けた教会、沿岸に点在

 神戸市立博物館が所蔵する肖像画でおなじみのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは「以後よく広まる」の語呂合わせで知られる1549年。キリスト教は、ほどなく五島にも伝わり、弾圧が激しかった対岸の大村領から多くの信者が移住した。

 海岸沿いを巡るクルーズ船から眺めたとき、沿岸に教会が点在するのはその名残だ。「カトリックを信じていた人々は、道路がない不便な場所で暮らし、小さな小舟で行き来していたのです」と観光ガイドの川口進さん(75)。クルーズ船から見ると青い海に映える教会だが、立地の背景を知ると、見方が変わってくる。

 世界遺産がある五島列島は、古代から海上交通の要衝だった国境の島として、壱岐、対馬(ともに長崎県)とともに日本遺産にも指定されている。地元の人々が特に大切にしているのは、「白紙に戻そう遣唐使」の語呂合わせがある894年までの約260年間に行われた遣唐使船のうち、一部が寄港していた史実だ。

■空海の伝説、ゆかり深い寺も

 遣唐使の一行は近畿を出発し、瀬戸内海を経て福江島に停泊した後、約600キロ離れた唐を目指した。平らな船底の船は荒い外洋には適さず「命がけの旅でした」と川口さん。真言宗を開いた空海や、天台宗を開いた最澄が804年に訪れた際も、4隻で出港し、途中で遭難した船もあるといわれる。

 遣唐使や空海にまつわる伝説や遺構は、福江島に数多く伝わる。このうち、西北端に位置する三井楽(みいらく)地区には「日本の最果ての地を去る」という意味の空海の言葉「辞本涯(じほんがい)」が刻まれた石碑や、空海の像がある。また、遣唐使船を修理したとされる白石湾には、船尾と陸地をつないだとされる「ともづな石」が、今も海上安全を祈る石としてまつられている。

 ほかに、空海ゆかりの寺も。辞本涯の碑がある展望台に立つと、命がけで大陸に向かった遣唐使の気概が伝わってくるようだ。


https://www.nahakyokai.jp/history/ 【東回りのキリスト教について】より

最初は、お大師様の話から説明します。

空海はお大師様と呼ばれている。日本で最初に私立の学校を作ったのも空海、満の池という堤は空海が作った。1200年前に作った池が今も現役で使用されている。うどんを作ったのも空海。日本で最初に水洗トイレを作ったのも空海。私立の庶民のための学校を作った「綜藝種智院」と呼ばれた。

彼の最も大きな業績は日本に真言密教という宗教をもたらしたということです。真言密教は普通の仏教と違います。普通の仏教へ顕教という現れた教え、密教は秘技が多い不思議な仏教。

空海は、聖書影響を2段階で受けている。日本の仏教そのものも聖書の影響を強力に受けて伝わってきた。もともとの仏教の形を日本人は知りません。日本人が信じている大乗仏教は聖書の影響を受けたものです。

空海はさらに第二段階の影響を受けていたのです。空海は、遣唐使として中国の長安という都に行きます。唐の長安で爆発的に広がっていた宗教はキリスト教であった。中国ではこのキリスト教のことを景教と呼んだ。キリスト教の教派の一つにネストリウス派というものがありました。このネストリウス派のキリスト教が東へ東へと伝わってまいりまして、唐の時代の初期に中国の国内に広がっていきました。

「川口一彦氏の景教」、「久保有政氏の仏教の成立とユダヤキリスト教」、「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史シニアジョセフ,ケン,ジュニアジョセフ,ケン他」などの資料がある。空海は二段階でキリスト教の影響を受けている。

第一段階

日本人は、日本は仏教国だと思っています。また、自分のことを仏教徒だと思っておられる方は多いです。しかし、仏典を読んだ方はあまりいません。日本では、刑事ドラマで死んだ人を仏さんになったと言います。元々仏というのは、死んだ人のことを言ったわけではありません。これは、直接的な言い方をすれば、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めたのでしょうか。真理に目覚めた人。あるいは悟りを開いた人。ですから、仏という言葉は、悟りを開いた人間に対して使う言葉であった。

紀元前6世紀に釈迦という人が真理に目覚めました。そこで、釈迦は仏陀と呼ばれるようになったのです。それで、最初は、悟りを開いた釈迦のことを仏と呼ぶようになっていた。では、釈迦が開いた悟りとは何でしょうか。彼は、人生は苦であると言いました。彼は、その苦を四苦八苦という言葉で表現しました。最初の4つの苦は、生まれてくる苦しみ、老いていく苦しみ、病んでいく苦しみ、死んでいく苦しみを指します。しかし、生まれてくる苦しみは何を意味するのでしょう。それは、人は生まれてきたから、苦しみ、生まれてきたから、病気になり、生まれてきたから死ぬ。死んだらどうなるのか。釈迦が問題にしていたのは、死んだらまた生まれ変わる。そしたら、苦しみのやり直しをずっとしていくことが悩みだった。永遠に輪廻を転生していくことは何と疲れ果てることだろうと考えました。お釈迦様は、もう2度と生まれ変わりたくないと考えました。2度と生まれ変わらないようにするためにはどうしたらいいんだろうかと考えました。2度と苦しまなくするにはどうしたら良いのか考えた。その解決方法がまさに天才的である。彼は、苦しんでいる自分がいるから苦しむと考えた。苦しんでいる自分を消したら苦しみを感じなくなってしまうと考えた。問題は、自分を完全に消せるのかということです。釈迦はできると考えました。完全に自分を消した状態のことを涅槃と呼びました。涅槃というのは、聖書がいう天国みたいな場所を指すのではありません。涅槃は自分を完全に打ち消しさった心の状態を言います。どうしたらそれを消し去ることができるだろうか。プロセスがあります。この世に存在しているものは全てうつろうものであること。それゆえにそれは存在していないのと同じなのだということを悟ることによって自分を消すことができるというのです。一切は空である。今あるものも全てなくなってしまう。チリになってしまう。ということは元々ないのと同じことである。全ては実態がない。あると思うがそれはないのだという。仏教の元々の教えは、全てがないというところから出発するので、無神論です。神なんかいないのです。私という存在もあるように見えて実はないのだと教えます。そして、霊も魂もない。無神論、無霊魂の哲学。これが初期の仏教です。全てはないということがわかれば、苦しみもないし、苦しんでいる私の存在もないのであるという哲学です。しかし、問題があります。言葉では、苦しむ自分がないのだったら苦しみを感じなくて済むわけですが、現実はそういうわけに行くだろうか。理論では理解できます。しかし、それを実践することができるでしょうか。それができる方は、お釈迦様のように極めて例外的な人しかいないのではないかと思われます。このような涅槃の哲学に立って物事を理解できるのは、本当に優れた方々しか無理だと思われます。

一世紀になるとこの原始仏教が大変貌を遂げます。一世紀にインドにキリスト教が入りました。これが、大問題でした。ヨーロッパと東アジアをつなぐ交易ルートをシルクロードと言います。このシルクロードは紀元前二世紀に開通しました。この交易ルートはだんだん増えていきまして、最終的には7ルートに増えます。インドというのは、アジアとヨーロッパをつなぐ丁度中心にありました。ヨーロッパのコスモポリタンな文明がどんどん流入してきます。このインドに物資を運んでくる人たちの中にクリスチャンがいました。

一世紀にトマスとバルトロマイがインドに宣教に行きます。バルトロマイはヘブライ語で書かれた聖書をインドまで運んでいます。イエスキリストが復活して24年後紀元55年にインド南西部のマナバル海岸というところに行って、7つの教会を建て上げます。ケララ州にトマス協会というのがあります。トマスのお墓があります。トマスはインドでつるぎに刺されて殉教したと言われています。トマスは、西海岸だけでなく、東海岸にもいきまして、その地方の王や民衆がたくさん信じます。奇跡の伴う伝道でした。短期間にインド南西部および南東部に広がっていきます。

二世紀に入りますとアレキサンドルクレメンスという人が西暦185年にパンテウスという宣教師がインドに行きます。インドに着つくと既にたくさんのクリスチャンがそこにいたという報告書を母国に送った。バルトロマイが持って行ったヘブライ語のマタイの福音書がまだそこに置いてあったと書き留めています。インドは、第二次世界大戦後独立します。ラジュンドラブラサト大統領が、演説でこういった。ヨーロッパの国々がまだキリスト教国家になっていない時代に使徒トマスがインドにやってきて多くの人々にキリストを宣べ伝え多くの人がキリストに従って行った。ヨーロッパよりも早くて深いということは何という光栄なことでしょうと演説しています。私たちは、キリスト教と言ったら欧米の宗教と思うのですが、そうではありません。欧米よりもだいぶん早くアジアにキリスト教はきたのです。多くの人がイエスキリストを信じました。これで、衝撃を受けたのがインドの仏教です。釈迦が出たのが紀元前6世紀です。

キリスト教がインドに来たときに仏教は低迷期にあった。なぜ、仏教は低迷したのか?お釈迦様が語った哲学は一般庶民にはハードルが高すぎたのです。お釈迦様の教えを実践できる人は、出家できる人だけです。厳しい修行に耐えることができる人。頭脳明晰で、瞑想する力があって観念の世界で生きることができるという人。こういう人だけが釈迦の弟子になれた。しかし、一般人にとっては手の届かない教えになってしまった。何かに縋るのではなくて、自分に縋りなさい、自分の悟りが全て、というのは、日々の苦しみの中にあっって悩んでいる人にとっては、慰めになりません。

その時にトマスたちが伝えたのは、重荷を負って疲れている人は、私のところへきなさい。私があなた方を休ませてあげるという教えでした。トマスが伝えたのは、永遠の神、永遠の創造主、この宇宙の真理そのものである方。万物の第一原因者。私たちの救い主であるイエスキリストのことを宣べ伝えました。人々は、それに飛びついていった。このままでは仏教は存続の危機にさらされます。そこで、全部キリスト教に持っていかれると危機感を抱いた仏教は、紀元後に大変貌を遂げるのです。

AD二世紀に大乗仏教というのが誕生します。この大乗仏教が日本に伝わった仏教です。原子仏教とは根本的に内容の違う仏教に変わってしまいました。どのように変わったかと言いますと、無神論であった仏教が一種の有神論に転換します。釈迦が始めた仏教は、無霊魂、無神論。全てが無でした。

しかし、大乗仏教は、神という言葉は使いませんが、超越的存在による救済の内容に変わってしまいました。そこに、無神論やむ霊魂ではなくて、人々を救ってくれる偉大な仏が登場します。大毘盧遮那仏(ダイビルシャナブツ)と言います。真言宗では、このダイビルシャナブツのことを大日如来と言います。真言宗以外の仏教は、大毘盧遮那仏といいます。大日如来というのは奈良の大仏さんのことです。大日如来というのは、目に見えない存在。宇宙の中心にあって永遠の存在で真理そのものであるもの。これを大日と言います。これは、元々太陽神です。

古代の人々にとって宇宙の中心は太陽でした。これは、目に見えないものですが、目に見える形にかたどったものが大仏です。でも、内容そのものは、聖書が語る内容にだいぶん近づいています。最初は、無神論の無霊魂の自分の悟りが全てだったのに、仏は人間を超越した存在なり、格上げされて永遠の存在に意味が変わって行ったのです。

二世紀のインドにマシバゴーシャという仏教詩人が現れます。この人は、最初は仏教に対しては批判的であった。仏教の論客と討論して負けてしまいます。そして、仏教に帰依しまして布教を始めます。そのやり方がそれまでとっていた固い教えではなくて詩とか歌とかお芝居を使って仏教を伝えていきます。その彼の不況によって大乗仏教が大勢の人に信仰されるようになって行ったのです。

彼は、釈迦の伝記を書いた。釈迦滅ご600年経っているのに資料もないのに書いているのです。その内容は福音書の内容がそのまま少し変更を加えて表現されているのです。お釈迦様は菩提樹の下で悟りを開く前に三つの誘惑を受けて撃退したとか。子供が2枚の銅貨を釈迦に捧げるとかいう話が盛り込まれております。また、釈迦が生まれる前に女預言者によって予言されるとか、処女降誕で釈迦が生まれるとか釈迦の生涯の中で30歳まででブランクになっています。このように福音書の中にある記事が釈迦物語の中にたくさん入っているのです。福音書を底本に釈迦物語を書いたと言って良いでしょう。

つまり、偽りの釈迦伝記です。釈迦は、私に縋ってもダメだよ、私に縋ってもダメだよ、私に祈ってもダメだよ、救いはないが悟りはある。自分の悟りです。と言っていたにもかかわらず、釈迦伝記ではいつの間にか釈迦は救い主に入れ替わっているのです。お釈迦様が祈ったら答えてくれる。唱えたら答えてくれる存在になりました。いつの間にか救い主に変身しているのです。なぜ、そんなことが起こったんでしょう。

聖書の影響です。大乗仏教は、仏教の中に福音書の内容をどんどん取り入れて生き延びてきた新たなる仏教です。変質した仏教です。空海が唐に行って学んだ仏教は原始仏教ではなくて、大乗仏教だったのです。

空海は聖書の影響を受けて作られた大乗仏教を学んで、まずそこで聖書の影響を受けます。空海は讃岐出身で三男坊でした。31歳で遣唐使として中国の長安にいきます。

この当時、唐で最も盛んだった宗教というのは、景教です。そして、その景教で最も大きい教会が長安にある大秦寺でした。大秦という言葉の意味は、ローマ帝国を表します。ローマことを意味しました。

当時の長安は、キリスト教だけではなくて、ゾロアスター教、ユダヤ教、バラモン教などいろいろな宗教がありました。その中で最も大きな教会堂が大秦寺でした。ローマからシルクロードを通って長安まできました。それは、ローマの教え、大秦寺なのです。

空海が長安に着いたのは紀元804年でした。その169年前紀元635年に景教の宣教師オロペンという人が21人のクリスチャンたちを引き連れて唐の太宗(たいそう)という皇帝に謁見します。この太宗という皇帝は、開明的な方でありまして名君と呼ばれていました。真に良いものであったならば外国のものでも受け入れていくという考えの持ち主でした。

オロペンは直接太宗皇帝に伝道します。この世を創った天の帝がおられる。皇帝よ!あなたはこの世界の皇帝ですが、天には天帝がおられる。この天の帝は人間を愛し、人間をお造りになり、人間を救うために救い主となってこの地上に来られました。人間の罪の身代わりに十字架上で死んでくださり、神なので三日目に蘇られたのです。そして、私たちを天にあるご自分の宮殿に永遠に迎えてくださる方なのです。という単純な福音を宣べ伝えた結果。皇帝は非常に心震えました。

そして、これほどの真理は儒教の中にも仏教の中にもないと言いまして、皇帝自らが景教を信じるので唐の国民よ朕に学べ、朕に倣えということで景教のクリスチャンに聖書を唐の人たちがわかるように聖書翻訳をやってくださいとお願いしました。3年後の638年には全国民にみことのりを発布します。

この真理は計り知れず、その清さは極め難い、故に多くの民衆にこれを伝え、たみを罪から救いなさい。ということで、唐の10の州全てに宣教師が派遣されまして、10の全ての州に大きな教会堂が作られました。小さな町町や村村にも教会ができるようになりました。

その様子を詳しく書いた碑文があります。140年後に石に文字を刻みつけて碑文ができます。この碑文のことを大秦景教中国碑と言います。長いので景教碑と通常いいます。

この景教碑が立ってから23年後に空海が長安に行きます。この碑文と空海の居住地は目と鼻の先であった。そして、大秦寺がありました。

キリスト教会に空海が通ったという記録はありません。大乗仏教の経典は、サンスクリット語で書かれていました。それで空海はサンスクリット語を教えてくれる人を探しました。

教えてくれた人は、般若三蔵という人でした。この人はカシミール出身者であった。この般若三蔵に伝道していたのが景浄という人でした。そして、ついに般若三蔵は景教に心酔します。

この般若三蔵と空海はサンスクリット語の学びで色々と語り合い、話し合い、永遠の世界の議論を交わすようになります。そして、誰が人類の救済者なのかを論じ始めた時に、空海は仏陀だというのです。般若三蔵はナザレのイエスだと言います。

結局空海は、景教徒にはなりませんでした。しかしながら、議論を通じて景教の情報をたくさん得たのです。そして、彼が景教から得た情報を真言密教の中に散りばめていきます。

真言密教というのは、ゾロアスター教やバラモン教やいろいろな宗教を取り入れて作られた混合宗教の仏教です。空海は、亡くなろうとしている時に、弟子たちに対してそう悲観するなと言って慰めます。私は、弥勒菩薩のそばに侍るために死ぬのだと言います。56億7000万年後に弥勒と共に再び地上に現れると言います。56億7000万年後に登場する未来の菩薩が弥勒菩薩です。その弥勒が人類が救い主として来る時に自分は復活すると言っているのです。

聖書の終末論そのものである。聖書の終末論が空海が死に打ち勝つために取り入れられている。どうしても、取り入れなければならなかったのです。空海の間違いは、他のイスラム教や異端の宗教と同じ間違いを犯したことです。聖書の言葉にいろいろなことをくっつけて自分なりの個性を出してこれが最高だと思ったでしょうが、それは過ぎたることなのです。

それで問いたい、真言密教は仏教でしょうか。

空海の師匠は恵果と言います。空海が、真言宗の信徒になるとき灌頂(かんじょう)を授けられます。灌頂は水を頭の上に3回かけることです。これは仏教的な意味はない。これは、景教でバプテスマを受ける方式と一緒。滴礼である。

儀式の前に横三つたてひとつきる。これは、景教の十字架の印である。1週間が7日というのも空海が持ち帰った教え、空海の教えで、わたしたちの心をとらえるものは、そのルーツは聖書なのです。仏教の教えで感動するものは、釈迦の教えではなくてそれは聖書の福音からきていると言えます。空海が景教をきく200年前に日本に景教の教えは伝わっている。

実は、聖徳太子のブレーの中に景教徒がいたとわかっているのです。昔、流行った若者の無気力、六無主義など涅槃の境地に通じるものです。しかし、これらは社会を作ることができません。むしろ、人生を破壊すると思われていました。

救済者が人間には必要なのである。無神論からの釈迦の出発は、結局真理に至ることはなかったのである。神は本当におられる。その救い主がいないという涅槃の境地は最大の不幸の状態をもたらすのかもしれない。


https://mikiomiyamoto.bake-neko.net/bookreview0241.htm 【第4章 聖トマス、インドへ行く       宮本神酒男】より 

トマス伝説

 トマスといえば聖書にその記述が少なく、十二使徒のなかでももっとも地味な存在なのに、インドのクリスチャンが多い地域では英雄のごとき聖人である。これはどうしてだろうか。

 伝説によれば、トマスはイエスによってインドに派遣され、福音を広めたのだという。西暦52年、トマスは現在のケララ州に上陸し、シリア正教会の基礎を創設するが、西暦72年に狂信的なバラモンによって殺され、殉教者となった。

 イエスのインド修行伝説を語るにおいて、トマス伝説を無視することはできない。聖トマスがインドに来たという伝説があったからこそ、イエスのインド修行伝説もまた生まれたのだ。

 エルサレムではイエスのもとに十二使徒が集まり、それぞれに布教の担当区域が割り当てられた。キリスト教の登場が画期的であったのは、布教に力点が置かれたことだった。真偽のほどはともかく、イエスと十二使徒の時代から布教の戦略が練られていたとしても不思議ではない。

布教区域の割り当て(表はM・M・ニナンによる)

◇シモン・ペトロ パルティア(ポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテュニア) ブリテン  ◇アンデレ カッパドキア ガラテヤ ビテュニア スキタイ

◇熱心党のシモン 北アフリカ ブリテン  ◇アルファイの子ヤコブ スペイン

◇ディデュモスのトマス パルティア メディア ペルシア 北西インド

◇バルトロマイ パルティア メディア ペルシア 北西インド

◇ユダ アッシリア メソポタミア  ◇フィリポ スキタイ 小アジア北部

◇マタイ パルティア ヒンドゥークシ  ◇ヨハネ ガリア(フランス)

◇ヤコブ(ヨハネの兄弟) ヘロデ王により斬首  ◇マティア ダキア(ルーマニア) マケドニア  ◇パウロ 小アジア南部 英国諸島 

 このなかでももっとも人口に膾炙しているのがトマスのインド布教である。それはエデッサのグノーシス主義者バルダイサン(154-222)によって書かれたとされる新約聖書外典『トマス行伝』がよく知られているからだ。

この図にあるように、インドで布教する前、聖トマスはパルティアなどで布教活動をしていた。1656年、聖トマスについて調査するためにローマ法王はカルメル修道会のヴィンチェンゾ・マリア神父をインドへ派遣した。マリア神父によれば、トマスのミッションはシリアからメソポタミアにかけての地域ではじまっていた。そしてその後はるか東の中国西安にまで足を伸ばしたという。それから聖トマスはふたたび中東にもどる。その後なんとブラジルへ行き、また戻ってエチオピアを訪ねたあと、アラビア半島の沖合にあるソコトラ島(現イエメン領)に渡った。インド南部にたどりつくのはようやくそのあとのことだった。まずマラバル海岸で福音を伝え、コロマンデル海岸(マドラスとマイラプール)へ移動したあと彼は殉教者となった。

 この最初に行ったシリアからメソポタミアにかけての地域とは、パルティア国の領土だった。そこでトマスはパルティア人、メディア人、(アフガニスタン北部の)バクトリア人、(カスピ海の)ヒュルカニア人、(スリランカの)タプロバニア人などのあいだでキリスト教を説いたのだという。

 およそ真実味が欠けてはいるものの、ヴィンチェンゾ・マリア神父は広範囲にわたって神話や伝説を収集したのだろう。実際に使徒トマスがインドをはじめとする世界各地を遍歴するというようなことがなかったとしても、これだけの神話・伝説が生まれるための何かがあったのはまちがいない。

 トマスが布教活動の拠点としたシリアのエデッサ国(現在のトルコ領ウルファ)は、アブガル王(13-50)とイエスの往復書簡で知られる。しかし実際にトマスの使者アッダイと会ってキリスト教徒となったとされるアブガル王は、アブガル9世だったようだ。エデッサの王が改宗するのはトマスよりずっとあと、百数十年後のことなのである。その後エデッサは東方諸教会の中心地となっていく。東方諸教会に分類されるインドのシリア正教会(マランカラ・シリア正教会とヤコブ派シリア教会)と強いつながりがあるのは当然のことだった。

 トマス伝説は、キリスト教のなかでも、ネストリウス派やシリア正教を含む東方諸教会の伝播と関係があるようだ。

 トマスがパルティア国内で布教活動をはじめたのは西暦30年頃だとされ、インド南部に上陸したのは西暦52年である。ケララの伝承によれば、このずっと前、西暦40年頃にガンダーラの中心地タクシラにトマスは来ている。ここで『トマス行伝』に登場するインド・パルティア国の建設者グンダファル王(ゴンドファルネス)と会っているのだ。王の話す言語はギリシア語だったという。

 M・M・ニナンによれば、西暦46年頃には、テュアナのアポロニオスもグンダファル王と会っている。タクシラはインド北部のキリスト教布教の中心地となるが、クシャーナ朝になると早くも潰えてしまった。カニシカ王の時代(2世紀)、ガンダーラ仏教が隆盛を見るのである。

 インド南部に行く前、船が難破してしまったのか、聖トマスは竜血樹で知られるソコトラ島に漂着する。上述のようにソコトラ島は現在イエメン領である。トマス伝説の真偽はともかく、ソコトラ島の住人はキリスト教徒だった。ソコトラ(Socotra)という島の名はどうやら祝福の島を意味するサンスクリット語のドゥヴィパ・スカダラ(dvipa sukhadhara)からきているらしい。

 10世紀、アラブの地理学者アブ・ザイード・ハッサンは島の住人はネストリウス派だと記した。

 1294年にソコトラ島に立ち寄ったマルコ・ポーロは、住人がキリスト教徒だったと証言している。

 1435年にソコトラ島にやってきたニコロ・コンティは、「島はアロエを産し、住人はネストリウス派のクリスチャン」と記した。

フランシスコ・ザビエルは1523年にこの島を訪ね、住人が「名ばかりのクリスチャン」であることを指摘した。彼らは洗礼の仕方さえ知らなかったので、ザビエル自身が子供たちに洗礼を施したという。

 しかし1683年にヴィンチェンゾ・マリア神父は「キリスト教徒は絶えてしまった」と報告している。

千数百年も守られてきたキリスト教の灯は永遠に消えてしまったのだ。

 西暦52年、トマスが乗った船は現在のケララ州コドゥンガルール(コーチの北)に着いた。伝承によれば、現代まで残るインドのキリスト教はこの時期にまでさかのぼることができるのである。

 しかしインドのトマス派キリスト教徒が伝えてきた『トマス行伝』の舞台は南インドではなく、北西部の(現在はパキスタンの)タクシラだったようだ。ただし文中では国の都であることをほのめかすだけで、場所を特定しているわけではない。『トマス行伝』は際立ったエピソード満載の魅力的な物語であり、キリスト教の教義のようなものはあまり感じさせない。一種の大衆小説のようなものと考えればいいのかもしれない。


https://note.com/yoshidatakuya/n/n24a8292e65e1 【真言密教とキリスト教】より

吉田拓哉(軍曹)

こんにちわ。いつもお読みいただきまして有難うございます。少しマニアックい話をしましょう。前回の記事で、私の友人が高野山で、この世にいないはずの人と話し、また弘法大師の声を聞いたということを書きました。私は、友人からこの話を聞いたとき、「何故キリスト教の国から来た人の霊が、高野山で現れるのか!?」ということを考えておりました。

その時私の頭によぎったのが、英国のエリザエス・アンナ・ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon 1851-1925)という夫人が主張していた「仏基一元論」つまり「仏教」と「基督(キリスト)教」の根本は同一であるという主張です。

ゴルドン夫人がどういう経緯で「仏基一元」を唱え出したか私にはわかりませんが、夫人は「弘法大師と景教」という本を書いていることから、景教(けいきょう)と真言密教について繋がりがあると思っていたようです。

景教(けいきょう)とは、ネストリウス派キリスト教のことです。

この一派は昔、ローマ帝国での宗教会議で「異端」の烙印を押され、ローマを追放された後は、東方にむけて布教をしていったのです。

そして、このネストリウス派キリスト教は、弘法大師が唐の長安(現・西安)に留学した際、すでに現地で教えが広まっておりました。

景教(ネストリウス派キリスト教)が中国に記録上初めて伝わったとされるのは西暦635年で、阿羅本(あらぼん)というアッシリア東方教会の主教が伝えたのが始まりと言われております。

唐にはその景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院もあり、「大秦寺」と呼ばれておりました。そして当時の皇帝も「光り輝く教え」として保護していたと言います。(大秦とはローマのことらしいです)

ということで、あらゆることを貪欲に学んだ弘法大師のことですから、在唐時、景教(ネストリウス派キリスト教)に触れていたと考えるのは普通のことでしょう。

このゴルドン夫人は、高野山に「大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)」というもののレプリカを寄贈しております。

この「大秦景教流行中国碑」とは、西暦781年、当時唐の朝廷に仕えていたバルフ(現アフガニスタンのバルフ州)出身の伊斯という人物が、長安の大秦寺(景教の寺院)に建立し、景教の教義やその中国伝来の歴史を残したものです。

この景教碑は唐が滅んだずっと後の明朝の時代、西暦約1600年ごろ出土しました。 そして当時のキリスト教世界に衝撃を与えたそうです。

今も高野山にゴルドン夫人の墓とともにこのレプリカも残っていると言います。私はまだみておりません。

AmazonのKindleで110円で読める「弘法大師と景教との関係」という書物や、あるブログによると、厳島の奥の院で燃え続ける弘法大師の帰朝の際に点火された聖火や、その幔幕に描かれたダブルアックス(二つの斧)を見て、キリスト教とのつながりを直感したようです。

事実、真言密教は仏教なのにも関わらず、その教主はお釈迦様、かつて実在したゴータマ・シッダールタ(=ブッダ)ではなく、「大日如来」と呼ばれる「宇宙の真理」そのものと呼ばれる仏様になります。

どう考えてもこれは一神教の「GOD」に近い考え方のように思われます。

ある研究者の主張では「空海は景教徒だった」とかいう説を唱える人もおりますが、まあそれは言い過ぎたとしても、唐であらゆる宗教や教えを渉猟した弘法大師は景教(ネストリウス派キリスト教)にも影響を受けただろうと思います。そしてその中で真言密教の教義を構築させていった、と考えるのは普通のことだと思います。漢文の聖書だって読んでいた可能性があります。

なので、真言密教にキリスト教の「霊脈」が通っていてもおかしくはないでしょう。 本当かどうかわかりませんが、真言宗の密教僧が儀式をするとき、十字架を切る仕草のようなことをするときがあると聞いたことがありますし。(真言宗の僧侶の方で、そんなことはしないという人がいたらコメントに残してください(^-^;)

結局私が何が言いたいかと言うと、

私の外国人の友人が、高野山で、キリスト教徒であるはずの彼の知り合いの死者と話をしたというのも、

キリスト教の霊脈が流れる(ているかもしれない)真言密教の本山である高野山ならば、

キリスト教徒の霊が現れるということもあり得るのかなあ、ということです。

しかもその私の友人は、その時、霊から自分の「守護天使」をつけてもらったのです。(彼はそう言っていました)

他宗教の本山で、そんなことするでしょうか!?(^-^;

詳細なことまでは調べてませんが、大乗仏教の成立にも、インドに渡ったトマスというイエス・キリストの弟子の教えの影響があった、という研究もあるようです。

原始仏教にはなかった、「超越者への信仰」が、大乗仏教になると急に見られるようになるのですが、それもキリスト教の影響があるというのです。 (「超越者への信仰」とは、阿弥陀如来や観音菩薩への信仰というようなものです。)

原始仏教では、人生から苦しみを取り除くのにそのようなもの(超越者への信仰)は必要ないと考えたことから、 神に関しては否定も肯定もしない「無記」の姿勢を貫いていたのですが、それがいつのまにか、大乗仏教では「超越者」を信仰するような教えも出てくるようになりました。 (私自身は、ヒンドゥー教の神様に対抗して、仏教徒が仏教にも超越者への信仰を取り入れたのだろうと思っておりましたが、研究が進まない限りはどうもわかりません。)

ただ、空海とキリスト教の話は至るところでささやかれている話題ではあります。

私は霊感が全くありませんが、このブログにも度々紹介してきた

「成功している人は、なぜ神社にいくのか」の著者八木龍平氏も著書の中で

真言密教にはキリスト教と同じエネルギーを感じると書いておりました。

ちなみに、弘法大師の作と言われている「いろは歌」にも「イエス、咎なくて死す」

という暗号が隠されている、と書いているブログもあります。

弘法大師が「いろは歌」の作者か古代日本のロマンに、私達を不可思議な力で導いてくれるのが「いろは歌」です。日本人なら誰でも幼いころに「いろは歌」を聞かされ

www.historyjp.com

どこまで本当かわかりませんが、面白くないですか?(^-^;

とにかく、弘法大師という人は得体がしれません。 一生研究してもし尽くせないのではないかと思います。以上、私の怪しいぼやきでした。

ここまで読んで頂きましてありがとうござました!!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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