桃の節句

https://precious.jp/articles/-/17055 【3月3日がひな祭りになったのはなぜ?由来とされる五節句って何?】より

ひな祭りの由来は厄払い!?桃の節句と呼ばれる理由や雛人形を飾る意味、ひな祭りの食べ物・行事食とは?

2020年の3月3日火曜日は、ひな祭りです。当記事では、江戸時代に設定された五節句が始まりといわれる「ひな祭り」の由来や目的、ひな祭りが桃の節句と呼ばれる理由や意味をご紹介しています。また、ひな祭りに雛人形を飾る由来や、雛人形を片づける時期とタイミング、雛人形の種類や名前、役割をチェック。さらに、ひな祭りにすること、開催される行事や祝い方、ひな祭りの食べ物・行事食の意味もおさらいしてみました。

毎年やってくる「ひな祭り」ですが、その由来や意味を考えたことはありますか? 2020年は、基礎知識を知っておいて、より味わい深いひな祭りを過ごしてみてはいかがでしょうか?

当記事では、ひな祭りにはどのような由来があり、現在のひな祭りはどのような経緯で成り立ってきたのか?をご紹介します。

■ひな祭りの由来

現代では、一般的に「女の子のための行事」として認識されている3月3日のひな祭り。「桃の節句」ともいわれるひな祭りですが、本来は「女の子のための行事」ではありませんでした。

ひな祭りは、「五節句(ごせっく)」の「上巳(じょうし)の節句」が由来

古代中国や日本では、季節の節目となる日を「節句」といいます。これは、奈良時代に中国から伝わったとされる暦で、季節の変わり目に次の季節を無事迎えられるよう、お祓いやお清めの行事・儀式を行う風習がありました。

春夏秋冬の四季が色濃くあり、稲作を中心とした生活リズムを培ってきた日本には、季節の変わり目となる節句がたくさんあったため、江戸時代の幕府が節句を5つに絞り、公的な行事や祝日として「五節句(ごせっく)」を定めました。

五節句は、1月7日の「人日(じんじつ)の節句」、3月3日の「上巳(じょうし)の節句」、5月5日の「端午(たんご)の節句」、7月7日の「七夕(しちせき)の節句」、9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」の5つ。

中でも、3月3日の上巳の節句は、川で身を清めたり、宮中で宴席を催すなどして災厄を祓う中国の習わしと、「禊祓(みそぎはらい)」の思想や「人形(ひとがた)」を流す日本の伝統文化が融合し、のちに雛人形を飾る「ひな祭り」となったといわれています。

ひな祭りが「桃の節句」と言われるのはなぜ?

また、ひな祭りが「桃の節供」ともいわれるのは、上巳の節句の季節に桃の花が咲いていたことや、古代中国では、邪気払いとして桃の花を清酒に浸した「桃花酒(とうかしゅ)」が飲まれていたためとされています。

日本では、江戸時代より、3月3日のひな祭りは、桃花酒に代わって「白酒(しろざけ)」が飲まれるようになりました。その理由は、大蛇を身ごもってしまった女性が白酒を飲んで胎内の大蛇を流したという説や、老舗酒屋が桃花酒の代わりに白酒を売り出したという説もあります。

ちなみに、現在のひな祭り(上巳の節句・桃の節句)以外にも、五節句の風習は残っています。

1月7日の「人日(じんじつ)の節句」には七草粥を食べて無病息災を願ったり、5月5日の「端午(たんご)の節句」は「こどもの日」として国民の祝日とされており、鯉のぼりを飾ったり、菖蒲湯に入ったり、柏餅やちまきを食べ、子供の健やかな成長を祈願します。

7月7日の「七夕(しちせき)の節句」は、七夕(たなばた)として、短冊に願い事を書いて笹の葉に吊るしたり、9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」は「菊の節句」とも呼ばれ、菊酒や栗飯を食べて不老長寿を願います。

なぜ3月3日がひな祭りなの?

ひな祭りは、五節句の2番目「上巳(じょうし)の節句」が由来ということは前述の通り。「上巳」は「じょうみ」とも読み、本来は「3月最初の巳(み)の日」という意味でした。

かつでの日本の日にちには、十二支(じゅうにし:子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)が割り当てられていました。巳の日とは、そのなかでも「巳」に該当する日のことをいいます。

「上巳の節句」は3月の始めに来る巳の日でしたが、江戸時代の幕府が五節句を定めたことから、3月3日が上巳の節句とされ、以降も3月3日にひな祭りの行事が催されるようになった、といわれています。

ひな祭りは「邪気を祓う行事が発展したもの」、目的は「女の子の健康と幸福を祝う行事」

現代のひな祭りは「女の子の健康と幸福を祝う行事」です。しかし、ひな祭りの由来である「上巳の節句」を含む、季節の節目を意味する「節句」は、昔から邪気が入りやすい時期とされていました。

現代のひな祭りは、節目の日である節句に、邪気を祓う行事が発展したものだといわれています。

■ひな祭りに雛人形を飾る意味

本来、雛人形は女の子の厄災を身代わりとして引き受けてもらうために飾るとされています。厄払いの意味から、3月3日のひな祭り当日だけではなく、ある一定の期間飾られることが多いようです。

雛人形の由来は、邪気祓いに用いられた「人形(ひとがた)」

昔の日本では、「上巳の節句」になると、紙や草木で人の形をかたどり、その体をなでることで自分の厄を移し、各々の邪気を祓ったとされています。この人の形をかたどったものを「人形(ひとがた)」と呼びました。

この「人形(ひとがた)」が、雛人形のルーツだといわれています。

雛人形やひな祭りの「ひな」とは?

そもそも、雛人形やひな祭りの「ひな」とは、どういう意味があるのでしょうか?

雛(ひな・ひひな・ひいな)には、実物より小さいもの、幼いもの・一人前でないもの、かえって間もない小さな鳥の子、紙や土で作った人形に着物を着せたもの、などの意味があります。

平安時代の貴族の女児の間では、紙で作った男女対の小さな人形を遊具とし、宮中の夫婦の暮らしなどを模した「雛遊び」が人気でした。雛遊びは、上巳の節句に限った遊びではなかったのですが、上巳の節句の祓いの人形(ひとがた)と結びついて、現在の「お雛様」の原型が誕生します。

本来、人形(ひとがた)は水に流して邪気を払うものでした。しかし中世以降、人形(ひとがた)も雛遊びの人形もどんどん立派になっていき、雛人形として祭壇に飾られるようになります。

そして、江戸時代の幕府が上巳の節句を五節句と定めたことから、雛遊びがひな祭りとして定着していったとされています。

雛人形を飾る時期・片づける時期、そのタイミング

雛人形を飾る時期も、地域や家庭などによってそれぞれ。 一般的に、2月中旬の立春を過ぎたころ、節分の豆まきで厄払いをした後あたりが、雛人形を飾り始めるベストのタイミングとされています。遅くとも、ひな祭りの1週間ほど前には飾り始めるのがいいそうです。

片付けのタイミングにも諸説あるようです。「3月3日を過ぎたら早く片付けるべき」という説は、「厄災の身代わりになってくれた雛人形は、早々に仕舞ったほうがいい。身代わりとなって邪気を吸い取ってくれた雛人形を長く飾っていると、その邪気から婚期が遅れてしまう」というもの。

また、「3月3日を過ぎても飾っておくべき」という説は、本来のひな祭りは旧暦の3月3日、今でいうと4月上旬の行事になるところから、3月末日や4月中旬あたりまでひな人形を飾っておくべき、というものです。

地域や家庭に合わせて、雛人形を飾るようにしましょう。

雛人形の種類

男女一対を基本とする雛人形。その種類を大きく分ければ「衣裳着(いしょうぎ)人形」と「木目込(きめこみ)人形」のふたつがあります。

衣裳着人形

人形と衣裳をそれぞれに作り、仕立て上げた着物を着せ付けたものを「衣裳着人形」といいます。人形は、一般的に頭と胴体を別々に作成します。胴体を先に作ったあとに、頭を取り付けたらできあがりです。

木目込人形

桐粉(桐の粉と糊を混ぜたもの)や木で作られた人形に溝を堀り、そこにヘラで布を入れこんで、衣装を着ているように仕立てた人形を「木目込人形」といいます。溝に布を入れこむことを「木目込む(きめこむ)」ということから、そのような名称になったとされています。

雛人形の名前

ひな祭りに飾る雛人形には、それぞれに名前と役割があります。今回は、古来から縁起の良い数字とされる七を用いた七段飾りの人形を紹介します。段数の増減により、人形の種類が増えたり減ったりすることもあります。

内裏雛(だいりびな)

七段飾りの一番上に座る、ひと際目を惹く豪華な雛人形です。正式名称は「男雛(おびな)」と「女雛(めびな)」。通常「女雛」は十二単を着ているものが多いのも特徴です。

三人官女(さんにんかんじょ)

三人官女とは、内裏雛に仕える侍女の人形。行儀や和歌・漢文などのたしなみがあるとされています。

三人官女の左右の人形が持っているのは、「長柄(ながえ)」という長い柄のある酒器です。「銚子」ともいい、現代でも結婚式の三三九度に使われるものです。

五人囃子(ごにんばやし)

能楽の囃子方(はやしかた)を模した子供姿の五人囃子は、元気な子供に育つようにと応援する音楽隊です。向かって右から、謡、笛、小鼓、大鼓、太鼓を持っています。

随身(ずいじん)

「ずいしん」とも読む内裏雛の二人を守る役目の彼らは、右大臣(向かって左側、若者)・左大臣(右側、老人)に分かれ、いわば現代のボディーガードともいえるでしょう。

仕丁(しちょう)

内裏雛の雑用係にあたる従者の仕丁(じちょう)。それぞれに表情豊かな顔立ちであったり、さまざまな小道具(ほうき、ちりとり、熊手など)を持っています。

■ひな祭りにすること・行事・祝い方

人目を惹く豪華な雛人形を飾る以外にも、ひな祭りを祝う風習はさまざまあります。ここでは、それらの行事や地方特有の祝い方など紹介していきます。

流し雛(ながしびな)

上巳の節句に行われていた、人形とともに邪気を川に流す行事「流し雛」は、古くは源氏物語の作中にも描かれている由緒正しい行事です。

紙で作った人形を3月3日の夕方頃に海や川に流すのですが、地域ごとに方法が異なる部分もあります。「雛送り」や「雛流し」とも呼ばれ、京都の下鴨神社の境内に流れる御手洗川や、鳥取の千代川、東京の隅田川、奈良の吉野川などで毎年行われています。

桃の花を飾る、その意味は

春の雰囲気を感じさせる桃の花は、ひな祭りのシンボルにもなっている季節の花ですが、古代中国では、桃は邪気を払う仙木とされていました。

そのため、ひな祭りには、魔よけや厄除けとして、桃の花を清酒に浸した「桃花酒(とうかしゅ)」が飲まれていました。また、桃が百歳を表す「百歳(ももとせ)」に通じることから、桃花酒は薬酒としても親しまれていたとされます。

それらのことより、女の子が健全に成長することを願うひな祭りに、桃の花が飾られるようになったといわれています。

地方色のある行事、「がんどうち」や「さんぐゎちさんにち」

日本各地には、ひな祭りにちなんだ独特の行事があります。愛知県三河地方の「がんどうち」と呼ばれる風習では、「お雛様を見せて」と言いながら子供たちが家々をまわり、お菓子をもらって歩きます。

また、沖縄県平安座島では、3月3日を「さんぐゎちさんにち」などと呼び、仏壇や火の神に健康祈願を行っています。

■ひな祭りの食べ物・行事食の意味

「季節の節目に食べたらいいとされる物」がたくさん存在する日本の食文化。それらは行事食と呼ばれ、それぞれに意味を持つものです。ここではひな祭りの行事食とその意味をご紹介します。

ちらし寿司

ひな祭りといえば、ちらし寿司を連想される方も多いはず。しかし、ひな祭りとちらし寿司に特筆するような因果関係はありません。

しかし、華やかに彩られた具材には意味があります。主な具材として見られる海老には「腰が曲がるまで長生きしますように」、れんこんには「将来の見通しがいい」、豆には「健康で、まめに働き、まめに生きる」、そしてシイタケには「元気・壮健を願う」などの意味が込められています。

菱餅

菱餅とは、桃色・緑色・白色の餅を3段に重ね、菱形に切ったものです。

菱餅の3色には諸説ありますが、桃色には「魔除け」、緑色には「長寿や健康」、白色には「清浄」とそれぞれの意味があります。ちなみに菱餅が菱形になったのは江戸時代から、3色になったのは明治時代からといわれています。

蛤(はまぐり)のお吸い物

二枚対になる貝殻でなければ、ぴったりとキレイに合わないハマグリ。そのことから、仲睦まじい夫婦を表し、「一生一人の人と仲良く添い遂げるように」という願いが込められ、蛤(はまぐり)のお吸い物が食されるようになったといわれています。

ひなあられ

ひなあられは、ひな祭りの代表的なお菓子に挙げられます。その味は、甘い関東風に対し、関西風は醤油や塩を効かせた味付けが特徴的です。

一般的なひなあられには、「赤・緑・白」の色が付いており、赤は血や生命、緑は自然の息吹、白は雪が降り積もった大地など、それぞれに意味を持ちます。

ひなあられを通じ、自然の要素を体内へと取り込む。つまりは、食べた者が健やかに成長できるようにといった願いが込められているようです。

白酒(しろざけ)

古代中国では上巳の節句に飲まれていた、桃の花びらを酒に浸した桃花酒(とうかしゅ)。桃は邪気を払う仙木であり、また、桃が百歳を表す「百歳(ももとせ)」に通じることから、桃花酒は薬酒としても飲まれていました。

江戸時代からは、桃花酒に代わり「白酒(しろざけ)」が登場し、ひな祭りに飲むお酒として定着しました。

白酒(しろざけ)をひな祭りに飲む由来や意味は?中国の白酒(パイチュウ)との違いや美味しい飲み方をご紹介≫

ひな祭りの由来を知って、迎え方や過ごし方を見直そう

当記事では、ひな祭りの由来や目的、桃の節句と言われる理由や意味をご紹介しました。

また、ひな祭りに雛人形を飾る意味や、雛人形を片づける時期とタイミング、雛人形の種類や人形の名前をチェック。さらに、ひな祭りにすること・行事・祝い方や、ひな祭りの食べ物・行事食の意味もおさらいしてみました。

2020年のひな祭りを、さまざまなアプローチで楽しんでみませんか?


https://www.furacoco.co.jp/column/2020/3229 【投稿日:2020年9月4日 更新日:2023年11月25日雛人形】

厄払いからお姫様に!雛人形の成り立ち・歴史を知ろう

毎年飾る雛人形ですが、その成り立ちや歴史までご存じの人は少ないかもしれません。お子さんの健やかな成長や幸せを願って飾る雛人形、お子さんが無事大きくなったら、ぜひその成り立ちや歴史も教えてあげたいところです。そこでこの記事では、雛人形の成り立ちや歴史、由来などについてご紹介します。

目次

もともとは貴族の遊び!?雛人形の歴史と形の変化

雛人形の歴史

雛人形が生まれるまでの、日本における人形の風習・歴史

平安時代、雛人形は貴族の少女の遊び道具だった

歴史の長い雛人形、ぜひお子さまにも話してみては

もともとは貴族の遊び!?雛人形の歴史と形の変化

雛人形の歴史

雛祭りの歴史は「『源氏物語』にも登場!?雛祭り(桃の節句)の歴史を知ろう」 でもご説明したように、人々の間で行われていた人形による「身代わり信仰」から始まりました。

それがいつしか「(厄)払いの儀式」として「流し雛(※)」という風習になり、人形を使ったおままごとのような「ひいな遊び」という貴族の遊びと結びついた結果、やがて今の「雛人形」になったのです。

明治時代以降の雛人形はあまり広く普及しておらず、裕福な家庭のステータスの一種として扱われていました。一般市民の手に渡るようになったのは大正後期以降で、雛人形は「子を思う気持ち」の表れとして、少しずつ一般化していったのです。

※流し雛(別名:雛流し)とは:昔は病気のことを「災い」や「祟り(たたり)」として怖れていたため、それを払う行事として流し雛が行われていました。人の形をした紙などを「形代(かたしろ)」として身代わりに見立て、形代で体の悪い部分をなでて痛みを移し、川に流すという「身代わり信仰」に基づいた行事です。この「流し雛」が雛祭りの起源だという説もあります。

雛人形が生まれるまでの、日本における人形の風習・歴史

縄文時代~古墳時代は日本に古くから伝わる偶像崇拝(神や仏を像として作り出し、信仰すること)の風習があり、それが人形に対する考え方のもととなったと考えられています。 日本にはどのような偶像崇拝や人形の風習・歴史があったかをおおまかにみてみましょう。

縄文時代:土偶

弥生時代:天児(あまがつ)※藁(わら)に布をかぶせた人形

古墳時代:埴輪(はにわ)

奈良・平安時代:紙人形・簡素な人形

江戸時代:ほぼ現代の人形に近い座り雛

縄文時代~古墳時代は日本に古くから伝わる偶像崇拝(神や仏を像として作り出し、信仰すること)が人形の形のもとになっています。つまり雛人形はもちろん、日本の他のさまざまなしきたりの源流になっていると言われています。

奈良・平安時代からは雛人形のもとになったと思われる「紙で作った人形」や「簡素なつくりの人形」が登場します。『源氏物語』や『枕草子』ではこれらで「ひいな遊び」が行われていた描写があります。そして江戸時代になると雛祭り自体も女の子のお祭りとして華やかに祝われるようになり、雛人形も現在の人形に近い、美しい装束をまとった座り雛になっていったといわれています。日本古来のこうした偶像崇拝や人形の歴史が、やがて雛人形の源流となったのではないかと考えられます。

平安時代、雛人形は貴族の少女の遊び道具だった

さまざまな物語に「ひいな遊び」が登場し、雛人形が現在の形に近づきつつあった平安時代。この頃、雛人形は一般庶民の子どもが使えるような遊び道具だったのでしょうか?

当時、雛人形は紙で作られた人形などが主流であり、材料となる紙は高級品であったため、一般家庭で雛人形を手に入れることはかなり難しかったようです。このことから、「ひいな遊び」はあくまでも宮中の貴族を中心とした遊びであったと考えられます。

また、『源氏物語』の作中に紫の君がひいな遊びをしている場面があります。その様子を見た女中が「まだひいな遊びをしているのですか?」と発言しています。当時は10歳以上になると「大人」として扱われるようになり、女中の発言からも「ひいな遊び」は成人女性が遊ぶものではなかったことが伺えます。現代でいう「おままごと」のようなイメージだったのかもしれませんね。

このように、雛人形は当時の貴族の少女のみ遊ぶことができる、高級な子どもの遊び道具だったといえるでしょう。

歴史の長い雛人形、ぜひお子さまにも話してみては

雛人形の歴史は身代わり信仰から始まり、流し雛などを経て次第に今の雛人形へと変化してきたと言われています。土偶や埴輪、紙人形などその形もさまざまに変わってきており、現代のような座り雛に近づいたのは江戸時代になってからのようです。平安時代は「ひいな遊び」として貴族の少女の遊びに使われていた雛人形ですが、今では一般家庭で女の子の健康と幸せを願う役割を担っています。お子さんが大きくなったあかつきには、ぜひ雛人形の成り立ちや歴史についても話してあげてみてはいかがでしょうか。

この記事の監修者

代表取締役 原 英洋

1963年東京生まれ。祖父:原米洲(人間国宝)、母:原孝洲(女流人形師)。慶応義塾大学経済学部卒業後、大手出版社・集英社に入社。1987年父親の急逝により、家業である人形専門店に入社。1988年専務取締役就任。2008年に独立して株式会社ふらここを創業。女性活躍推進活動に注力し、2015年に経済産業省『ダイバーシティ経営企業100選』の認定を受ける。

スタッフ全員に光をあてたチーム体制を大切にし、人形業界全体の再興を見据え、「お客様に望まれる商品が多く作られるようになれば、業界も元気が出てくる。その先駆けになるものづくりを進める」ことをモットーとし、日本の美しい文化を次世代に伝えていくことをミッションとする。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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