非言語コミュニケーション

https://hiblog2009.blogspot.com/2009/12/blog-post_29.html 【非言語コミュニケーション】より

言語は人類を特徴付ける能力のひとつと言える。言語により森羅万象は概念化され、事象のインタラクションを正確に行えるようになった。言語化は即ち、内外世界の標本化(デジタル化)なのだ。その戦略によって人類は、地球上での現在の地位を得た。武器や火の使用など物質的道具の使用が人類たらしめる要因として良く上げられるが、それらが真の力を発揮するのは個から個への伝達が可能になってからであることを思い返せば、その最たるものは言語の使用を置いて他にない。人類の歴史において、人々の上位に立った者たちは、皆言葉を巧みに操ったのだろう。言語による恩恵を「身をもって」知っている私たちは、今でも言葉巧みな者ほど「偉い」、「立派」と盲目的に思いがちである。

芸術が本質的には、言語を必要としていないのは明確だ。そこからも芸術の起源が古いことが分かる。芸術が表現するものは、従って言語によって明確に定義分けできるような細かな具体性を帯びたものではなく、もっと始原的な感情に寄り添ったものになる。喜びや悲しみや怒り、恐怖や愛などだ。これらは、民族を超えて人類という動物に共通の感情である。極東の文化も全く違う日本人が、西洋のキリスト教美術に感動できるのは、そういう始原的感覚に訴えかけているからだろう。細かな物語の背景は、正直どうでもよいのだ。

彫刻などは、そういった感情として分類できるものより、さらに起源的な感情にさえ訴えかけるものがあるのだと思う。それは、「物の存在」に対する感覚である。人類は道具を使うことで他に秀でた。初めのそれは石や木の棒や骨の棒などだったろう。それら「物」を握りしめることで、今までは倒せなかったり捕れなかった獲物を得ることが可能になり、競合する他の集団を制圧することが可能になった。手元の「物」はそうして、単なる「物」以上の意味を持ち始めたのだ。

手にすることが出来ないよう巨大な物に対する畏敬の念は、現在でも山岳信奉など様々な形で残っている。

こうして育まれた物に対する愛着的感覚に、様々な感情表現が結びついて彫刻表現が確立されてきたのだと思う。彫刻は単に絵画を立体にしてみたというような物ではなく、起源的にも、訴えかける内容としても、絵画とは大きく違うものである。

しかし、最近では、彫刻の持つ本来の要素、即ち量感や存在感からの脱却を計っているような表現も増えている。これは、加工技術の高度化とも切り離せないが、それよりも、作家がそれらを「古い」と考え始めているからなのかもしれない。だが、それは彫刻による彫刻の否定になり、本質的に意味がないようにも思う。絵に奥行きが欲しいからと、キャンバスを”物理的に”立体的にするようなナンセンスさがそこにはある。

芸術表現には時代性がある。それは移ろいやすい文化に引っ張られているのだから当然である。しかし、私たちの感情や感覚はそうではない。肉体的構造はクロマニヨン人から変化していない。それは、現代の私たちも彼らの始原的感情は理解出来るであろうことを意味している。

今の文化に受ける表現を「今、間違いなく」伝えようとすると、それは必然的に言語化されるようになる。現代美術の多くが言語化が可能、もしくは言語化しなければ理解不能なのはそのような理由がある。抽象芸術はそうして、言語化へと進まざるを得ない。それは、本来の芸術からの離脱であり、行き着く先は「言葉」である。そして、美術の目立つ流れはそちらを向いている。

言語により現在の地位を得た私たちが、言語化(即ち、抽象化、標本化)を好み、言葉に安心し、それを求めるのを否定することは出来ない。だが、私たちの行動規範は、言葉の奥に潜んで見えない始原的感覚から起こっているのもまた、隠しようのない事実である。

言葉は新しい。だから、嘘がつける。悲しくても、「うれしい」と言えてしまう。だが、悲しい感情をごまかすことは決して出来ない。感情表現は各国語が存在するが、感情そのものは人類共通である。

芸術が本来、表してきたのは、この感情のほうだ。それは人類が人類である限りは”文化、時代を超えて”引き継がれてゆくものである。

言葉で言えるものならば、言葉で言えば良い。

言い表せないものに、芸術が必要なのだ。


https://k-daikoku.net/fuhentekinamono/ 【アート作品は非言語コミュニケーションの一つ:言葉の下には普遍的言語が存在するのだろうか?】より

彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です。

以前、知人のドイツ人が「この世の全てには、”CODE”(記号)がある」という話をしてくれました。つまり世界には共通の規則性があると彼はいうのです。私たちが普段使っている言葉のコードは何でしょうか。例えば、それぞれの国の文化や習慣の中にあるコード、芸術作品と鑑賞者を結ぶコード、現代アートの中にあるコード、自然の中にあるコードという目に見えない構造が世界にはあるのだと思います。

「空気」を読む日本人、「論理」を構築するドイツ人

日本人は、自分の感情を載せて伝えることはとても上手だと思います。古から自然の中の木や水、火や石などにも神が宿るものとして私たちの先祖は生活をしてきました。その象徴の1つとして、大木や岩などに「しめ縄」がまかれています。日本では、人も自然の一部であるし、人も動物の一種だと言ってもそれほど疑問は持たれませんが、先のドイツ人に、人も動物の一種だというと驚かれたのを憶えています。犬は犬だし、木は木であるし、鉄は鉄なのだそうです。だから、その中には魂は宿らないものだとされているようです。

日本人は「いただきます」と 食べるものに対して声をかける素晴らしい習慣があります。一方、ドイツ語にも食事をする前に「 Gute Appetit(グーテ・アペティート)どうぞ召し上がれ」といいますが、これは、第三者が食べる人に対していう言葉であり、食べ物自体に言うものではありません。「空気」を読む日本、「論理」を構築するドイツという印象でしょうか。

日本人は昔から石や木、水などに神が宿るという多神信仰にみられるように、自分を他者に置き換えることが得意な性質があります。また八百万の神信仰は、石や木などの自然の中に神のような存在があるという空気を読みっとっていたのではないかと考えられます。しかし、この「空気」というものが、日本の良いところでもあり、同時に、弊害にもなっているように思います。

自分の意見や意思が尊重されるドイツ文化

ドイツ人はよく「あなたがやりたかったら、やってください」という言い方をします。要するに、その人の意志を尊重しているのです。ドイツでの意思のやり取りはとても合理的に思えます。

「基本的に自分の意見や意志が尊重されるので、それぞれが意見を出し合ってその論拠を上げていく。そしてそれが間違っていたとしても、自分より正しいと思った意見を今度は尊重するんだ」と先のドイツ人は言っていました。ガチガチの論理を並べると同時に、その意味では柔軟でもあるように思えます。逆にいうと自分の意見がはっきりとなければ、ほんとうの意味でのコミュニケーションが取れないに感じます。

ドイツに住むうえで、なんとかして自分の意見を外に出すことはとても重要になってくるので、上手にドイツ語が話せなくても、その意見に耳を傾ける人は多いように感じました。決して強制はしないし、良い意味での個人主義なのです。これは、ドイツの基本憲法でそう謳われています。仕事でもサービス残業などいうものは存在しません。定刻が来れば、さっさと帰宅します。基本的にルールには原則的にしたがって行動するのが、ドイツ人の気質のようです。もちろん、彼らも感情を持った人ですので、子供ような行動や非論理的な行動をとることもしばしば目の当たりにしました。それに周りの「空気」を読んで動くこともあります。

日本人の空気を読むことの短所と長所

日本もドイツも憲法には、基本的人権や国民主権が謳われています。日本の場合は、ここに日本独特の「空気」というものが流れているので、ルールと空気の兼ね合いがとても特殊なのだと思います。富国強兵を大義にして戦争に突入していったのも、満場一致ではないと前に進まない特殊な会議にしても、村のしきたりというものにしても、サービス残業にしても日本という土地柄が醸し出す「空気」が発生させているとよく言われます。

しかし、この空気を読んだり感じることは日本独自の素晴らしい文化や歴史を培ってきたというのも事実です。日本人は、自分のことよりも、世間と周囲など 自分よりも外に気を配る傾向にあります。これが侘び・寂びの精神や阿吽の呼吸という言われる伝統を生み出し、また世界最高峰のサービス業を育成させました。店員さんの対応や時間をきっちり守ることやきめ細かな気配りを提供する日本企業や人々のサービスは本当に素晴らしいもので世界的に類をみないそうです。

ノーム・チョムスキーの普遍的文法:言葉の更に下にある非言語コミュニケーション

このように言葉やデザイン、建物や習慣、食べ物や人の思考など日本とドイツにはたくさんの相違点が挙げられます。しかし、双方に共通する普遍的なものが存在するのだと私は感じます。言語学者のノーム・チョムスキーは、人間は「普遍的な文法」を備えていると言いました。各言語のもっと深いところに共通する言語があると。何か言葉が通じなくても、接していて楽しいとか なぜか自分の意思が通じるものがあるという経験はありませんか?言葉は違っても相性のある人はいますし、同じ日本語で会話していても、全く合わない人もいます。私は、そこに「コード」という人間が共有する普遍的なものが介在しているのではないかと推測します。

人が持つ一つの表現手段としての現代アートという芸術の1ジャンルにもコードが存在するのだと思います。絵や彫刻、音楽、舞台などのアート(芸術)表現は、共通する言語だけでなく、それぞれ視覚、聴覚に訴えかけるもので、これらのアートはコミュニケーションです。

先のような日本独特のオリエンタルな、国内だけのコードではなく世界に共通するコードを持った作品をつくることを私は探求しています。自分の軸を持ちつつ、日本とヨーロッパという異文化の特質を 共在させた、そしてとてもシンプルな表現言語を用いたもの。味覚、美意識、思考、教育、土地の及ぼす影響などそれぞれの国の人たちが感じている五感は違います。だから、現代アートを見てみてもそれぞれの国の作家の作品の傾向が違いのは自明のことです。

しかし、その相違からもっと深いところにある「本質的な何か」をアーティストは見つめ、探求する必要があるのではないでしょうか。世界的に活躍している現代アートのアーティストは、それぞれの国の良さを持ちつつ同時に世界にも共通するコードを知っている人たちだと私には映ります。

彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です。日本で育った私たちが最初に、アート、つまり「美術」という言葉を最初に知るのはおそらく中学校でしょう。小学校では図工という教科で、絵や立体物などを創作します。私は、中学校、高校で美術の授業を受け持った経験があります。公立中学校では義務教育ということもあり、1年生〜3年生までを通して美術授業がありますが、高校になると、いわゆる音美書は選択授業となり、生徒の中には3年間一度もそれらの芸術教科を受けずに学校を卒業していきます。特に社会人になって多くの大人がアート...

↑多く人たちにとって、実用性がないものだと思われるアート。

そのようなアートの価値とは何か、また歴史的にどのようにアートは社会と関わってきたのか、そして現在に生きる私たちにとってアートはどのような価値を持つかを考えてみたいと思います。

彫刻家の大黒貴之(@takayuki_daikoku)です。突然ですが、あなたは数字には明るいほうですか?私は数学というものは苦手なのですが、足し算、引き算、掛け算、割り算くらいならできます。ヨーロッパは足し算の文化、日本は引き算の文化だと言われることがあります。ヨーロッパの建築や街並み、歴史を見ているとそれは1つずつ構築されてきた足し算の文化なんだということがなんとなくわかります。また論理に基づいて、哲学や音楽を構築してきたドイツの歴史を鑑みても足し算の文化を伺うことができます。ところでこの日本の引き算的思考...

↑ヨーロッパは足し算の文化、日本は引き算の文化だと言われることがあります。

この日本の引き算的思考はどのようなものに反映されているのでしょうか?

その1つの概念に「侘び寂び」の美意識があります。


https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/01/8.html 【評論で探る新しい俳句のかたち〔8〕あえて「切れ」を言い換えることの意味】より

藤田哲史

ここまでのところで、私は、構造をキーワードとして俳句について書きついできた。現在の俳句は、構造の観点から見れば、その不連続性に特徴があり、これが複雑な読みを誘うものとなっている、と。けれども、俳句についてよく知っている人からすれば、それは一句の中の「切れ」のことだろう、とそっけなく返されるのかもしれない。たしかに、ここで考えていることは、俳句でいう「切れ」を再考する試みとも言える。

俳句における「切れ」という言葉は、たとえば、次のように使う。

秋風や手を広げたる栗のいが   松尾芭蕉

ここでの「秋風や」の「や」は「切れ字」であって、この後に意味の「切れ」がある。「秋風」と「手を広げたる栗のいが」は意味上のつながりはなく、二つのフレーズが響きあう―――というような具合だろうか。また、ある場面では、強い「切れ」、弱い「切れ」、「切れ」ていない、などその構造の不連続性を強弱で表すこともある。現在、俳句の鑑賞や解説で「切れ」という言葉は頻繁に登場する言葉の一つだ。

一方で、その使用頻度に比べ、「切れ」という言葉の核心について考える文章はそう多くない。

もちろん、作者にしてみれば、俳句を隅から隅まで理性的に読み解いてもらうことを想定はしていないだろうし(直観的に享受してもらいたい思いはあるだろう)、また読者にしてみても、俳句独自の構文を読み解き方を「切れ」という言葉で一度納得できれば、それ以降ことさら「切れ」を意識して読むこともない。

ただ、俳句の「切れ」と言ってピンと来るその感じが、俳句独自のものとして捉えるのか、それとも単なるコツ程度のものなのか、という違いは、決して些末なことではないと思う。「切れ」が普遍的な言葉のはたらきの一つでないかどうかは、俳句の本質に深く関わってくる。

もし「切れ」が俳句独自のものだとする考えをより厳しく突き詰めていくと、誰かからの伝授なく俳句を作ることはできないものとする考えに行き着くだろうし、普遍的なものとするなら、世界に存在する全ての言語で、散文よりも短い最短詩形が成立するのだ、という主張につながる。

また、「切れ」が俳句独自のものだとする考えは、俳句形式が文語を軸として洗練されてきた歴史的経緯と合わせると、自然に現代の日本語と俳句形式が馴染まないという考えにも結びつきやすい。

「切れ」は俳句独自の概念か、それとも普遍的な言語のはたらきの一つなのか。俳句という形式の本質を語るうえで、避けられないもののひとつだ。

ところで「切れ」という言葉を歴史的にさかのぼると、少なくとも鎌倉時代までさかのぼることができる。その時代にはもちろん俳句というジャンルはない。和歌のうち、上の句と下の句が別の作者によって作られはじめ、それが連歌という名前を付けて呼ばれはじめていた。和歌から別の形式として連歌が確立したころだ。

このころ、順徳院の歌論書『八雲御抄』に「発句は必ずいひきるべし」とあり、後ろに続く七音七音なしに五音七音五音が成立しなければならない、といった意味のことが書かれている。ここでの「切れ」は五音七音五音がそれだけで成り立つという意味であって、「秋風や手を広げたる栗のいが」の「秋風や」のあとにあるとされる、一句の中の「切れ」、現在よく使われる「切れ」とは異なる。

「切れ」という言葉が現在よく使われる一句の中の「切れ」を指すことになるのは、これよりも後のことになる。ただ、一句の中の「切れ」が意識されるずっと前から「切れ」が存在していたこともあって、「切れ」という概念がとてもわかりにくく、誤解を招きやすい用語となっているふしがある。

実際に、「切れ字」の「や」を用いているからといって、その後ろで必ずしも「切れ」るとも限らない俳句は存在する。

流燈や一つにはかにさかのぼる   飯田蛇笏

この作品では、流燈のうちの一つが急にさかのぼりはじめたと解するのが適切な読み方だろう。一句の中の「切れ」の有無と「切れ字」の「や」の有無とは、全く別のものだ。

ここで指摘したかったのは、「切れ」という用語に頼ることで、俳句の本質が見えにくくなってはいないか、ということだ。作品を享受するぶんには問題がないけれど、こと本質を語るために「切れ」という用語が果たして適切だろうか。

使う言葉は世界の捉え方を律する。

私たちはふつう虹の色の数を七つあると考えていて、それぞれの色を赤、橙、黄、緑、青、藍、紫という色で表す。ところが、世界のあるところでは、虹の色数を五つ、三つ、二つと捉えているところもあるらしい。世界の中には、私たちが黄と緑を別のものとして捉えるところを同じものとして捉えている人もいるのだ。もしかしたら、そのような人たちは、私たちが銀杏の葉が緑から黄になることに心動かされているところを見て、不思議がるのかもしれない。

俳句における「切れ」を「切れ」として語るのではなく、「切れ」を別の言葉として言い換えることで、単なる言い換えにとどまらない、今までとは全く異なる俳句の捉え方ができるようになるかもしれない―――と、これはあくまで可能性の一つでしかないのだけれども。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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