https://www.18rou.com/history/story18/ 【十八楼物語】より
松尾芭蕉と美濃
松尾芭蕉は、『笈の小文』(俳諧紀行・芭蕉著)の中で、旅の喜びを「只一日の願ひ二つのみ。こよひよき宿からん。‥‥もし、わづかに風雅の人に出会あひたる、よろこびかぎりなし」と述べている。
芭蕉は、このような旅の喜びを求めて、貞享元年(一六六四)から元禄七年(一六九四)に没するまでの期間、旅の日々を重ねている。
美濃の地へは四回来遊している。
そのはじめは、貞享元年の「甲子吟行」の旅の途次、大垣船町の船問屋・谷木因(芭蕉の旧友・北村季吟同門)を訪ねたとき。第二回は貞享五年(一六八八)の岐阜滞在。第三回は元禄二年(一六八九)、「奥の細道」の結びの地としての大垣滞在。最後の来遊は、元禄四年(一六九一)冬、京都より近江・美濃を通って江戸へ帰る途中で、垂井・大垣に立ち寄っている。
松尾芭蕉と岐阜
芭蕉は高名な俳諧師だったので、地方へ出れば、必ずその地の俳人仲間が手厚いもてなしで迎え入れた。
中部地方では、名古屋・熱田・鳴海・大垣・さらに、岐阜の地にも、そういう仲間がおり、元禄期(一六八八~一七〇四)の岐阜俳壇の隆盛は、大垣に劣るものでなく、その中心は安川落梧であった。
落梧は、岐阜本町の人で、通称助右衛門といった。京都と取り引きする呉服小間物商で、屋号を萬屋という。岐阜屈指の富豪であり、一面すぐれた人格者で世の信望厚く、岐阜俳壇の大御所として、月々、俳筵(句会)を開いて蕉風の普及につとめた。
芭蕉の岐阜来遊も、落梧の度重なる鵜飼見物の招きに応じたものである。貞享五年(一六八八)六月、岐阜妙照寺の僧で俳人でもあった己百の案内で来岐し、 多くの岐阜俳人仲間の出迎えを受けて、妙照寺の奥書院に旅装を解いた。(現在、妙照寺に芭蕉滞在の部屋が残っている。岐阜市梶川町)
その挨拶句として、宿りせむ あかざの杖になる日までを物された。
句意は、この家に泊って、あるじの己百の心をこめたもてなしで、とても居心地がよい。このままゆっくりと滞在させてもらいたいものだ。その気持は、いま、庭に小さい花をつけているあかざ(藜、一年生草木。茎は約一メートルに達する)が、秋になって背が高くなり、杖に用いることが出来るようになるまで、 ゆっくりと世話になっていたいものだといっている。親しみ深い、その人格の偲べる句である。
岐阜滞在中、多くの俳人が芭蕉を招待した。まず、安川落梧亭に招かれ、この日名古屋から芭蕉を迎えにきた山本荷兮(名古屋の俳人、医者)と、当時流行の三つ物(俳諧の発句と脇句と第三句をいう)を試みた。
蔵かげの かたばみの花 めづらしや 荷兮
(折てやトモ)
ゆきてや 掃かむ庭に 箒木 落梧
七夕の 八月はものの 淋しくて 芭蕉
ついで、中川原新田(岐阜市湊町)の油屋、賀嶋善右衛門(俳号歩)の水楼(長良川に臨んだ高殿)で遊んだ。主人の求めに応じて楼名を選び、有名な「十八楼の記」を書いた。(現在、「十八楼」の一階ロビー壁面に、芭蕉の「十八楼の記」が展示してある。)
十八楼の記(読解)
美濃の国ながら川に望みて水楼あり、あるじを加島氏と云ふ、伊奈波山後にたかく、乱山西にかさなりてちかゝらず、また遠からず、田中の寺は杉の一村にかく れ、岸にそふ民家は竹のかこみの緑も深し、さらし布所々に引きはへて、右に渡し船うかぶ、里人の往かひしげく、魚村軒をならべて網を引き、釣をたるゝおの がさまざまも、たゞ此楼をもてなすに似たり、暮がたき夏の日もわするゝばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすばるゝかがり火のかげもやゝちかうなり て、高欄のもとに鵜飼するなど、誠にめざましき見物なりけらし、かの瀟湘の八のながめ、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちにおもひこめたり、若し此楼に 名をいはんとならば、十八楼ともいはまほしや
このあたり目に見ゆるものは皆涼し
はせを
貞享五仲夏
十八楼の記(口語訳)
美濃の国(岐阜)の長良川に面して、川がよく眺められる様になっているたかどのがある。
ここの主を賀嶋氏と云う。金華山が高くそびえており、低い山や高い山が西の方に重なり合って、近くでも、遠くでもない距離に見える。田畑の中にある寺は、杉木立の中にある村にあり、隠れてよく見えない。
岸に沿って建つ民家は、竹の塀の緑もあおあおとしている。白くさらした布がところどころに引き伸ばしてある。右岸には、渡し船が浮かんでおり、そこらあた りに住む人の往来が激しい。漁村(川魚を捕り生計を営む人の集落)が沢山あり、漁師が魚捕りの網を曳いたり、釣をたらして漁をしている。そのような様子 (人々が忙しくそれぞれ働いている光景)も、私のお邪魔している水楼(川に面して建てられている高い建物)でも同じで、皆が忙しく働いていて、私をもてなしてくれている。やがて日が暮れてゆき、夏の日が長いのも忘れる位に日が沈むと、すぐに月が出て、夕日の影が川面の波に写っている。鵜飼の篝火が近くに見 えてきて、私のいる高い建物の下で鵜飼をすると云う、本当に珍しい見物ができたことである。かの有名な中国の瀟湘八つの景色と、西湖の十の地も、すがすがしいこの景色の中にあるように思われる。私のいるこの建物に名前を付けるなら、十八楼とでも本当にいいたい事だなあ。
「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」
この水楼からの景色は野も川も森も村々も遠い山も総てがすがすがしいことよ
(十八楼女将 伊藤泰子訳)
十八楼の記
瀟湘八景 … 瀟湘二水付近の八カ所の佳景、平沙落雁、遠浦帰歩、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照の総称。近江八景はこれにならった。
瀟湘 … 中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水湘江の別称
西湖 … 中国浙江省杭州の西にある湖。沿岸に丘陵をめぐらし、湖中に島堤があり、付近に岳飛の墳などの名勝古跡が多い。中国の著名な景勝地。
西湖十景
蘇堤春暁 曲院風荷 花港観魚 双峰挿雲 平湖秋月 柳浪聞鶯
南屏晩鐘 三潭印月 断橋残雪 雷峰夕照
またある日、稲葉山(金華山)の麓、長良川の畔りに席を設けて、落梧・荷兮と待望の鵜飼を見た。鵜飼を待つ間、木陰で鮎膾を肴にして酒盛(酒宴)をした。詩趣が盛りあがり、芭蕉はつぎの句を詠む。 またやたぐひ ながらの川の 鮎なます
この長良川の鮎膾は何とたぐいないおいしいものだという思いを表現したもので、「またやたぐひ」と「や」を加えて字余りとすることによって、珍味だなあという感嘆が伝わってくる。
この時の鵜飼見物の句に、おもしろうて やがてかなしき 鵜舟哉 芭蕉
がある。鵜舟が眼前を遠ざかって行き、水音・風声のみが聞こえる幽寂の世界。華やかな鵜飼が果て、すべてが闇に還る悲しさに芭蕉は心を打たれたのである。
同伴者の落梧・荷兮も、それぞれに句を詠んだ。
鵜の頬に篝こぼれて あはれなり 荷兮篝火に 見おぼえのある 鵜匠かな 落梧
この時の状況を原史料で紹介する。
原史料 読解文 鵜飼
名にしをへる鵜飼といふ事を見侍らんとて、暮かけていさなひ申されしに、人々いなば山の木かげに席をまうけ、盃をあげて またやたくひながらの川の鮎なます
ぎふの荘ながら川のうかひとて、よにことごとしう云のゝしる、まことや其の興人のかたり伝ふるにたがはず、浅智短才の筆にもことばにも尽くすべきにあらず、心しれらん人に見せばやなど云ひて、やみぢにかへる此身の名ごりをしさをいかにせむ。
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
また、落梧が伊奈波神社へ芭蕉を案内しての帰途、その麓の閑静な浄土院(今の万力町大泉寺の西側にあった浄土宗寺院。明治初年廃寺)で俳筵を開き、旅情をなぐさめた。
その時の句は、前書があり、つぎのようである。
落梧何かしのまねきに 応じて いなばの山の松 の下涼して 長途の愁 をなくさむほとに
山かけや 身を養む 瓜はたけ はせを
石井の水に あらふかたひら らくこ
貞享五年 (芭蕉)桃青
芭蕉句碑
岐阜市伊奈波通、伊奈波神社境内。
高さ40cm程の円筒形の碑。表には「芭蕉翁」「山かけや…」の句は後側に彫られているが、剥落が著しい。安永6年(1777)建立。
稲葉山の山かげ、ここは大変に涼しくて安らいだ気持になる。それは、岐阜の人々の好意につつまれているからだ。この山麓で旅の疲れをいやそう。そこには自分の大好物の真桑瓜畑もあることだからという、落梧の好意を受けて、温い心でこれに応えている。
落梧はこの瓜畑にちなんで「瓜畑集」編集を立てたが、成らずして没した。
のちに、各務支考(蕉門十哲の一人、美濃派の祖)の『笈日記』に収録された。
また、ある日、梶川町の有力者、松橋喜三郎の招きを受けて、芭蕉はここを訪れ、つぎの句を吟じた。
城跡や 古井の清水 まず訪はむ
岐阜城城跡は金華山の岐阜城址のこと。城は鎌倉時代の建仁年中(一二〇一~〇四)に二階堂行政が築いたのにはじまり、応仁の頃(一四六七~)から斎藤氏が住み、織田信長が美濃を攻略してからは雄壮な城廓が築かれ、信長の天下統一の拠点となった。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の役で、岐阜城主織田秀信(信長の孫) は西軍に属したため、東軍に攻略されて落城。城はとりこわされた。
稲葉山(金華山)の荒はてた城あとに登った。
ここには昔のままの清水があるということだ。夏の暑さは格別である。
冷水をたたえている城の古井をたずねて涼をとり、西行法師のように懐古の情にひたろう。
芭蕉真蹟の前書は、「喜三郎何がしは、いなば山のふもとに閑居をしめて、納涼のためにたびたびまねかれければ」とある。
このほかに、芭蕉の岐阜滞在中のよく知られた句に、 夏来ても ただひとつ葉の 一は哉
がある。岐阜滞在の期間、芭蕉の心意は、漂泊によって風雅の心を深めようという決意に支えられており、蕉風形成期にあたるということが出来る。
この句は、漂泊孤独の芭蕉の心が、一つ葉に象徴されている。
他にも数句あるが、あまり知られていないので省略する。
岐阜俳人の芭蕉歓待中、越人(尾張十蔵・染物業、名古屋蕉門の一人)が来て芭蕉の出立を促した。
漂泊の思いは、信州更科の姨捨山の月を見ることに募り、荷兮・越人と名古屋へ出発した。
岐阜滞在期間は一か月余であった。留別の句に、つぎの二首がある。
送られつ 送りつ果は 木曽の秋 芭蕉
草いろいろ おのおの 花の 手柄かな 同
十八楼の創業 中河原の賑わい 現在の川原町風景(十八楼周辺)
江戸時代、長良川の舟運は非常に盛んであった。
川湊も上流から上有知湊(美濃市)・小瀬湊(関市)などがあり、美濃の持産物である材木・美濃紙・茶・関の刃物類が運ばれ、中河原湊(岐阜市湊町)を経由して、四方へ販売された。
また、下流の桑名湊からは、伊勢湾の海産物である塩・魚介類・昆布などが中河原湊へ着荷し、ここから、各方面へ移送されていった。
これらの物資(積荷)には通行税が課せられ、それを徴収する長良川役所が、尾張藩によって中河原に設置された。その役所記録によると、享保八~十年(一七二三~二五)の三ヶ年の、一平均、中河原湊から下った舟数は一千七百艘と記録されている。
当時の中河原湊は、これら舟運に従事する船頭や、多くの物資を売買する商人たちで賑わい、長良川畔には商家・船宿などが軒を連ねていた。これらの舟宿の一つが、現十八楼の前身・山本屋と考えられ、その創業の歴史は古く、江戸時代の天保期(一八三〇~四四)に遡る。しかし、史料に見られる創業年代は、江戸末期の万延元年(一八六〇)である。
十八楼遺跡の再興
十八楼初代山本屋 火災のため、一部破損
その史料(「三十四楼記」)によると、中河原湊に当時、「山本屋」という水楼(旅館)があった。この旅館の主人は、かつて俳聖・松尾芭蕉が岐阜を訪れた時、長良川畔にあった賀嶋鴎歩の水楼で鵜飼観覧をした後、鴎歩の需によって、水楼名をつけた「十八楼」の遺跡が、一七〇年余の星霜を経て廃絶したのを再興しようと一念発起した。(屋号も十八楼と改称する)
当時、このあたりの風景は、貞享五年(一六八八)の夏に、芭蕉が記した「十八楼の記」の中で詠んだ「このあたりめにみゆるものは皆涼し」の風情とほとんど変っていなかった。
三十四の美景・三十四楼
天保十四年(一八四三)九月、尾張藩主徳川斎荘の来岐のとき、「黄池なにがし」(長良の豪商・酒造業を営む)で、鵜飼上覧の栄誉があり、藩主から庭の見事さを称えられて、大きな石燈籠を下賜された。このことは、黄池一家のみならず、この地域全体の誇りでもある。とくに、夏の夜の鵜飼情景は、きわめて勝れており、山本屋の水楼から眺める風情は、瀟湘・西湖の十八景以上で、南都八景と近江八景をも合わせた三十四の美景といえる。
それ故に、この水楼は、十八楼ではなく、「三十四楼」と言うべきである。そして最後に結びとして、「涼かぜのなくてもありぬこのあたり」と詠んでいる。
この文は、山本屋(十八楼)の主人に乞われて、万延元年(一八六〇)の夏に書かれたものであるが、残念ながら作者は不明である。しかし、この見事な文体や、芭蕉の故事に詳しいことから、可成りの文人と考えられる。
三十四の美景・三十四楼
南都八景(奈良八景とも言う)…東大寺の鐘、春日野の鹿、南円堂の藤、猿沢池の月、佐保川の蛍、雲井坂の雨、轟橋の旅人、三笠山の雪
近江八景…瀬田の夕照、石山の秋月、粟津の晴嵐、三井の晩鐘、唐崎の夜雨、比良の暮雪、堅田の落雁、矢橋の帰帆などの琵琶湖の景勝地
三十四楼記
三十四楼記(万延元年・1860)三十四楼記(万延元年・1860) 三十四楼記(読解)
爰に山本屋といふ水楼有。此家のあるじ、かの祖翁の このあたりめにみゆるものは皆涼し
其十八楼のすたれたるをひろひ、絶たるを
つがむとのこころざし浅からず。もとよりこの辺りの風景は瀟湘西湖の一味をこめたること、貞享五仲の夏の記に失せたるものなく、鵜飼総がらみ(大正時代)
豈また勝れたるは、いなばの峯の盛の頃は 花のしら雲にまどひ、たなかの寺、きしにそふ
民村は、杉のみどり、竹のかこみも猶深めり。さらし布所々にあとたれて、いよ増れり。
わたし舟うかぶ里人の往かひ、いにしへに倍せり。漁村軒をならべしも、今なほことなり、
黄池なにがしのかたには、鵜飼 上覧のうてなをたて、その庭の面を花の園とか
美称をいただき、高く大なる石燈籠は又 めぐみなるとかや。これ黄池一家のほまれならず、
一郡の光輝なるべし。夏のよなよなをはじめ、鵜舟のかがり火遠くより 近くなり、めざましき風情、此の高欄にとどめて 瀟湘西湖はさらなり、南都の八つのながめ、近江の佳景をもこめて、三十四楼ともいはまほしや。 涼かぜのなくてもありぬこのあたり(一八六〇)
万延紀元の首夏、需によつて(この項は、岐阜市歴史博物館 筧学芸員のご教示による)
和み 🌿message✧︎︎︎︎@nagomu_toki
普通や常識と言われる枠から外れ 孤独や不安で自分や環境を責める 生きづらい世の中に涙しても 目をそらさず 起き上がってきた いばらの道は 誰も真似できない経験となり
視野を広める 起こる事は 無駄じゃない 悲しみを膨らませず 何を学べるか考え
見える世界を変える 自分の道を一歩ずつ
一匹 Lonely Wolf@lonelywolf0007
助けてくれと叫んでも誰にもその声は届かない 結局自分でなんとかしなくてはと
歯を食いしばって立ち向かう 群れるのは嫌だからと 孤独になってみたものの
時に友の姿を思い出す 仲間っていいものだよな
aribaba@1819aribaba
自分に与えられたこの孤独と漂泊に 感謝を持ち理想を持ち 誇りを持たないか。
理想のない漂泊者 感謝の無い孤独。それは乞食の生涯だ。
西行法師と乞食の違いは 心にそれがあるか ないかの違いだ 宮本武蔵
一指李承憲@ILCHIjp
自分だけの孤独な時間と空間を持っている人はほんとうに恵まれています。そんな人は、世間の賞賛や非難でたやすく揺れたりしません。本物でないものに力を奪われ、疲れたときはいつでもその孤独な時間と空間の中に入り、再び力を得ることができます。
花: 🌷🌸🌹🌼🌺🌻@lilacblueblue
孤独なときほど誰かを感じて 生きてゆく強さを支える誰かを 変わってゆくもの変わらないこと 信じる気持ちに素直でいたい 平原綾香
BLESSING 「祝福」 今日の誕生花:福寿草 花言葉:「祝福」
片柳弘史@hiroshisj
英語では「孤独」に二つの種類があります。独りぼっちの寂しさを抱えた「ロンリネス」と、独りでも寂しくはない「ソリチュード」。独りで世界と向かい合い、心が静かに満たされてゆく孤独、「ソリチュード」を学ぶことができますように。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父
三宝出版@sampoh_official
独りぼっちに思えても人は孤独ではない。孤立無援に感じても見えないつながりがあなたを支えている。人間の「命」とは「物質」「生命」「心」「魂」の次元を貫いて縦横無尽に張り巡らされた「つながり」の力のことである。
一指李承憲@ILCHIjp
誰とも分かち合えない深い孤独の中で私たちはすべての生命が抱える孤独の本質に出会います。その瞬間、この世のあらゆるものへの深い慈悲と愛で胸が熱くなります。
【癒しから変容に】
人は誰しも 霊魂の成長を願い 人生を歩むと言われます。人は誰しも すべてを超えて 本来の自分に還る時・ 「我であり宇宙である」ワンネスに安らぐ時を 待ち望むのではないでしょうか?
人生の全ては自分の選択の連続であることに はっきりと氣づくと被害者意識から解放され 家族や これまで出会ってきた人たちへの 愛があふれ 癒しを超えた 成長・変容が生まれると 和多志は思います。
「愛される価値がない」と思ってきた自分、 無力感、罪責感、孤独感に押しつぶされそうだった自分、 「〇〇しなければならない」と頑張ってきた自分、 怒り、恐れ、妬みに振り回されてしまう自分、全てが幻想であり、全てが自分に対する信じ込みや想念が作り出してきた 自己イメージであるに過ぎません。
その上、和多志たちは「自己イメージを強化するように生きていく」傾向があり 自己イメージの袋小路から なかなか抜け出せません。
幻想を手放し 本来の自分(霊魂)を思い出し始めると 自然で 軽く、明るく、穏やかなエネルギーに変化してゆきます。
軽くて穏やかで、楽しく、柔らかい振動数・周波数を発信すると同じようなエネルギーと共鳴し増幅し 同じようなエネルギーを引き寄せます。
「全ては自分の選択次第」に氣づくことにより 責任主体として 幸せの発信源になるとも言えます。
地球全体が大きな変容を遂げようとしている今 そこに生かされいる和多志たちも、 意識の変容を促されているようです。
意識の変容、覚醒を促す 沢山のセミナー、ワークショップ、個人セッションが 開催されています。
自分を導くのは 内なる霊魂であり 神性であり、愛であり、光であることを信じ それらを活用しながら自然に変容し、霊魂の成長に預かりたいものです。
Yoshitane Akiyamaさん投稿記事
【いよいよ私たちが分離・孤独感から目覚め、一体性を思い出す時です】
この動画は先月、一体性を思い出すためのアニメーション映画「イザヤからの手紙 イザヤの遺言」を再見し、鑑賞直後の素直な気持ちを自撮りしたものです。私たちのすべての苦しみ、悲しみはすべて、一体性を忘れ、分離・孤独の感覚に囚われたからにほかなりません。
分離は比較、競争を生み、今の地球は争いや戦争が絶えない星になってしまっています。
世界の変化、地球の変化は、ますます佳境に来ており、人類がこの地球と調和的に存在できるかは、私たち、特にヤマトの国にいる私たち日本人の意識にかかっているといっても過言ではありません。
大切なのは、我が国、「和の国」がどのような想いで創られたか、その原点を思い出すことです。
分離、比較、競争の今の価値観を続けては、この地球の未来は暗いものになるでしょう。
ですが、今、私たちの中に眠っている、レムリア・ムー・縄文のスピリットを呼び覚まし、万物の一体性を前提に意識し、言葉を発し、行動していくならば、愛と歓びの世界・エデンに戻ることも十分に可能です。
そうです、イザヤさんの直系のわたしたちがまずはこの一体性の真実を思い出し、発信し、世界に手本を示すのです。私たちのDNAの中、魂の奥には、この希望のかけらが光っています。今こそ、その内なる希望の光を見いだし、輝かせようではありませんか。
勇気をもって、恐れや不安を手放し、無限の愛の力を信頼し、自らが神の愛の体現として「在る」時が来ました。
今の生命に喜び感謝し、次の世代の子どもたち、すべての生命のために美しい新エデンを創ろうではありませんか。魂の仲間である皆さまとのご縁に深く感謝致します。
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