日本の歴史

Facebook長堀 優さん投稿記事

本能寺の変のあと、秀吉は敵対していた毛利家と即座に和議を結び、備中から奇跡の大返しをしたとされています。

 しかし、近年さまざまな観点から、この史実には疑念が呈されるようになってきました。

 たとえば、雨のなか、二万を超えるともいわれる大軍が、狭隘な山道もあるのに、馬や兵糧とともに一日に最長70キロ(箱根駅伝でいえば、大手町から小田原の手前)もの距離を、大量の食糧を調達しながら走破したなど、あまりにも現実離れした話です。

 しかも、その大返しの準備の一方で、信長の死を秘しながら、毛利方と緊急の和議を結ばなければなりません。そんなこと本当に可能だったのでしょうか。

 井上慶雪氏は、不可思議なこの大返しなど本能寺の変を巡る様々な謎に挑み、「本能寺の変 生きていた光秀」を著し、自説を世に問いました。

 手っ取り早くいえば、数多くの文献や史跡を調べ上げた井上氏は、本能寺の織田信長を襲った一団を差し向けたのは秀吉であり、明智光秀は謀略により犯人に仕立て上げられた、という結論を導き出します。

 その結果、家族も家来も居城も全てを失ってしまった光秀でしたが、それでもなんとか逃げ延び、天海として生まれ変わり、家康と手を結びます。

 そして、豊臣家に復讐を遂げた後、秀忠、家光をサポートし,風水に基づいて江戸の町を造成し、二百六十年に及ぶ徳川の世の礎を築きあげたと井上氏は推測するのです。

 にわかには信じがたい話ですが、実際に多くの状況証拠があちこちに残ります。

 一例をあげれば、天海がプロデュースし、家光が建立した日光東照宮の陽明門を守護する将軍像をよく見れば、その袴には、なぜか明智家の家紋である桔梗紋が堂々と飾られています。

 また、日光で一番の眺望を楽しめる場所は明智平と名付けられています。その目で眺めれば不思議な痕跡がたくさん残されているのです。

 春日局とは一体何者だったのか、さらには、光秀、天海とあのフリーメーソンを結ぶ謎解きもとてもエキサイティングで、上質の推理小説を読むような面白さでした。

 謎に満ちた日本の歴史にさらに引き込まれていきそうです。

 ・・・・

 一昨日、当院かかりつけのご高齢の患者さんが来院されたのですが、いつも120から130の血圧がいきなり200超えしていました。

 落ち着かせても下がらず、とても放置はできない値なので、時間をかけて降圧薬を二種類使いましたが、まったく効果ありませんでした。

 手のしびれや頭痛、胸痛などはなく、血液や心電図などの検査も大きな問題がなかったので、自宅安静とし、何かあったら連絡するように,そして何もなくても翌日、つまり昨日の朝再診するよう伝えました。

 幸い,朝方には血圧が130に下がり、何もなく経過したのですが、このとき、私は亡き父が、東日本大震災の直前、血圧が突然170から180に上がったと言っていたことを思い出しました。

 まさかとは思いますが、少し前からネット上には「三月一日」というキーワードが散見され、しかも千葉近辺では小さな地震が続いていました。

 ひょっとしたらあの時と同じようなことが起こるのか、昨日から私なりに警戒していました。

 すると今朝、地震警報が鳴り響き、関東が揺れました。これで終わりなのか、これから本番が来るのかわかりませんが、この先も注意するに越したことはないでしょう。

 このまま収まることを願うばかりですが、避難路、とりあえず必要な飲料水,食料、現金などの確認をしておきたいと思います。


https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1929/7/9/7_9_496/_pdf/-char/ja 【地 震 と 芭 蕉】よリ

一 窓 庵

古來 地震 に關係 した歌,俳 句類 の極 めて少ない事は不審 に堪 えぬ事で あるが,俳 聖芭蕉 も同 じく地震 には縁遠 い方 と云はな ければな らない.但 し芭蕉 も寛文2年5月 朔 日の近 江大地震 には伊賀上野 で遇 つて居 る筈で あり,年 表に よる と當時芭蕉は19歳 であるか ら,恐 らく感傷的の眼 を以て倒れ家,土 塀の 崩れ等 を打 ち眺めた事で あ らう.此 の地震 は恐 らく芭蕉の貴重な體驗 として一生の間幾度か思ひ出 し,小 地震に出遇 ふ毎 に其 の追憶を新 にな した と も想像出來 る.若 し左樣 で あるな らば,彼 れの多 くの俳諧の 中に地震 に關 する句が二,三 はあつて もよい樣 で ある,素 よ り地震 は俳味 に通ず る事の 少ない爲 めに顧 み られ なかつた と云へば其れ迄 である.兎もあれ芭蕉生涯の作中,江 戸三吟(延 寶6年)の 中に次の句 を見出 す事はせめて もの心遣 りで あ らう.

寂滅の貝 ふき立 る初嵐 似春 石 こづ めな る山本の雲 桃 青

大地震 つゞ いて龍やのぼ る らん 似春   長 十丈 の鯰 な りけ り 桃青

似春 によつて地震が餘 りに美化 され過 ぎた のを芭蕉は龍 を鯰 に見立て ゝ諧謔 化 した譯 であ る.當 時35歳 の彼れ,や が て龍の如 き風格 を備へ る時が近づ いたのであ る.翌 年 には「枯枝 に烏」の句を得,後數 年に して 「野 ざらし」の悲壮の句を吐露す る境致 に進みつ ゝあつたのであ る.

地震 と鯰 との關係が何時か ら初 まつたか に就て は武者氏の 研 究 が あるが,恐 らく以上 の句が現在 と して最 も古 い ものと云はなければな らぬで あらう,地 震 鯰は當時俗間 に巷説 と して漲 つて居た に違 ひない.此 等 は將來の研究 に俟つ事 とす る.

元録7年 は芭蕉の没 した年であ る.從 つて元緑16年 關東大地震 には遇つて居ない.今 か ら思ふ と地震 を10年 程早 く發せ しめ,彼 をして地震の

句 を吟 ぜ しめたかつた氣 もする.然 し乍 ら思 ひ直 して見 るに,文 化 元年の地震に先 だつて芭蕉の象潟曳杖あ り,「雨に西施」の句 を得た事は,此 の場合地震發 生 の寧 ろ遅かつた事 を喜 ぶ ものである.なほ地震 と云ふ文字 は直接句 の中には見 出せないが,延 寶4年の 百 韻

(種彦校合 江戸兩吟 集)中 に瀬戸の土菎 輪際 をほ りぬ きて 信章 辨才天に鯰 さ ゝぐる 

桃 青 とあるは當時地下深 い所には鯰が佳んで居る と考へて居た證左 ともなるであ らう.

又天狗倒 しの字 句が同年百韻(梅 の牛)の 中に見 えて 居る.此 れ は山地において は小地震 を震動 と して直接體 には感ぜず.震 動が音 となつて空中に傳播 し耳に聞 くものを名付けた もので,山の 奥 で天狗が石や木を倒 す音が聞えると言 ひ傳へた ものてあ る.

酒の 露たはけ起て 白雲飛ぶ 桃 青     天狗 たふ しや人の倒れや 信章

直の弱き杉の大木大問屋 桃 青

因に天狗倒 しは太平記 に も出て居 るが,謡曲 「鞍馬天狗」の中に もある.俳諧において は勿論此等 の連 想か ら出發 して居 るのであつて杉の 大木が大問屋 で倒れ る樣 を其 のま ゝ鞍馬山中の天 狗倒 しに關聯せ しめて居 る所 に興味が繋 がれて居 る もの と思 はれ る.

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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