明智が妻の話せむ

https://tourikadan.sakura.ne.jp/tetugaku/tanaka_4_1.html 【愛宕百韻秘話】より

絵馬

  芭蕉以前の連歌について語る場合、戦国の武将、特に細川幽齋と明智光秀の名前を欠かすことはできません。いずれも、歴史小説やドラマでよく取りあげられるのでご存じのかたも多いと思います。

 光秀の場合、特に、天正十年五月二十四日、連歌師紹巴を宗匠として巻いた「愛宕百韻」の発句が最も有名です。同年六月二日が本能寺の変ですから、まさに主君信長に代わって天下人たらんとした光秀その人の心中を伺うことが出来ます。

 我々は後世の歴史家の描く光秀像を離れて、光秀その人を捉えることが難しくなっています。歴史は勝者によって書かれますから、逆賊光秀、あるいは怜悧で有能な官僚ではあっても、所詮は政治的センスにかけた小心者としての光秀像はなかなか根強い物があります。

 一切の先入観を括弧に入れて、愛宕百韻の投句だけから光秀の性格を推量してみるのも面白いかも知れません。

 発句 ときは今天が下しる五月哉  光秀

は特に有名で、「土岐一族の流れを汲む光秀が天下を治める五月になった」という意味にとれますので、謀反を起こす直前の光秀の心境を詠んだものと解されています。後世の注釈書によりますと、連歌師紹巴は、本能寺の変の前に光秀の決意を知らされていたのではないかという嫌疑で取り調べを承けたときに、この発句の原型は

    ときは今天が下なる五月哉  光秀

と五月雨の情景を詠んだものであったものを、あとで光秀が書き換えたと弁明したそうです。

脇は   水上まさる庭の夏山 行祐

ですので、実際の連歌の席では、五月雨の句であったものと思われます。

 おそらく、毛利征伐の戦勝祈願の為の百韻連歌の興行を、ひそかに本能寺の信長を謀殺するための決意表明の場に変えることは、光秀その人の意図であったのでしょう。戦国の武将は、我々が考える以上に芝居がかったことが好きだったようです。歴史のその後の進行を知っている我々には、「天が下しる」の句は哀れにも滑稽に響きますが、この句を詠んだ光秀自身にとっては、自分の名を千載青史に連ねるための苦吟の結果であったに違いありません。

初折裏では光秀は月の定座を勤めています。

     第七 しばし只嵐の音もしづまりて    兼如

     第八  ただよふ雲はいづちなるらん   行祐

     第九 月は秋秋はもなかの夜はの月    光秀

「もなか」は最中で十五夜の月。拾遺集、源順の「水の面にてる月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける」を踏まえた句です。

これなぞは、句の巧拙を云う以前に、大事を前にした光秀の漲る気迫が感じられます。

 愛宕百韻から伺える光秀像は、細川幽齋と同じく、王朝の雅を受け継ぎ、古き伝統の守護者たらんとした教養人です。彼の悲劇は、新しい時代の偶像破壊者であった信長に仕えねばならなかったことでしょう。  

 句会遊浦で昨年巻いていた歌仙「机下の秋」で、私も光秀を偲んで敬一さんの長句に続けて短句を投稿したことがあります。

  月影にきらめく地獄の釜の蓋      敬一

     明智の古刹桔梗花開く      東鶴 

ここで、「明智の古刹」とは、明智光秀の首塚のある谷性寺、桔梗(光秀の家紋)で有名な寺です。明智の月影に呼応させてみました。

補足

上で、明智光秀の愛宕百韻についてお話ししました。本能寺の変の直前に興行された連歌の発句「ときは今天の下しる五月哉」に、光秀の秘められた天下取りの決意を偲びました。

その続きとして、戦国の武将で、歌の道にかけては光秀以上に造詣の深かった細川幽斎(藤孝)のお話をしましょう。

細川幽斎は光秀とは昵懇の間柄でしたので、多くの武将は、本能寺の変に対して幽斎がどのように対応するかを見守っていたようです。幽斎は髪を下ろして僧形となり、信長公の追善供養をする意志を表明し、旗幟鮮明に、反逆には一切荷担しないと宣言しました。この幽斎の対応を知らされて光秀は非常に動揺したらしく、卑屈とも言える協力要請の書状を再度幽斎に送り、それが今も細川家に残っています。

信長の追善供養の為に、細川幽斎は本能寺の焼け跡に仮屋を作り、百韻連歌の興行をしました。幽斎の発句に、聖護院門跡の道澄が脇を付け、連歌師の里村紹巴が第三を付けました。紹巴は光秀の愛宕百韻にも一座していましたから、感慨もひとしおであったかも知れません。

墨染めの夕べや名残り袖の露  幽斎

 玉まつる野の月の秋風    道澄

分け帰る道の松虫音になきて  紹巴

細川幽斎は、信長、秀吉、家康の三代に仕え、政権交代の嵐の中を泳ぎ抜く処世術を心得た老獪な政治家という顔も持っていましたが、武将には珍しく、古今伝授の秘伝をうけた歌人で、王朝の歌の伝統を後世に伝えました。

冬枯れの野島が崎に雪ふれば尾花吹きこす浦の夕かぜ のような雅やかな歌と共に

西にうつり東の国にさすらふもひまゆく駒の足柄の山と武人として東奔西走した生活も詠んでいます。

江戸時代の俳諧師のあいだでの、細川幽斎の人気も相当なもので、幽斎と秀吉を登場人物とした逸話が後世たくさん伝えられています。(真偽のほどは分かりませんが、幽斎のひととなりは良く伝えているようです)

遊浦では、敬一さんが前句付けを興行されていますので、細川幽斎の俳諧・狂歌の前句付けの例をいくつか紹介しましょう。

(出典 細川幽斎詠歌聞書)

立つも立たれず居るもおられず   秀吉 秀吉が、一座の余興に、この句を出して、まず

連歌師紹巴に前句付けを求めると  足の裏尻のとがりにものできて   紹巴

と応じました。当時は純正連歌を巻いている人も、他方では、こういう落語家の大切りのような句も作っていました。聞書は、このあとで幽斎の前句付けとして

羽抜け鳥弦なき弓に驚きて  幽斎 を記して居ます。興に乗った秀吉は、さらに次の句を出します。丸う四角に長う短かう  秀吉  これに対しても、紹巴と幽斎が、次のように応じました。丸盆に豆腐をいれて行くちんば  紹巴  筒井づつ月くり上がる箱釣瓶   幽斎

頓知問答に終始した紹巴の句が、いかにも即物的なのに対して、古今伝授を受けた歌人幽斎の句と伝えられる俳諧には、なにか詩情が漂い風雅なものを感じます。


https://plaza.rakuten.co.jp/masasandiary/diary/201006080000/ 【明智光秀の糟糠の妻を思って詠んだ句―坂井市丸岡町称念寺で松尾芭蕉】より

月さびよ 明智が妻の はなしせむ 

明智光秀夫妻は称念寺(福井県坂井市丸岡町)の門前に住んでいた時期があると伝えられていますが、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅中、称念寺に訪れた際、糟糠の妻(ひろこ)を思って詠んだ句です。

【句の背景】

明智光秀の居城、明智城(美濃)が戦国大名の斎藤義龍によって落城した後、光秀らは越前に落ち延び、1562(永禄5)年頃には、新田義貞公の菩提所・称念寺(福井県坂井市丸岡町)の門前に寺小屋を建ててひっそりと生活、その後、朝倉家に士官したという。

妻(ひろこ)はその頃、自らの黒髪を売って、武将持ち回り連歌会などの酒代を工面し、夫光秀の面目を立てた―とも伝えられていますが、芭蕉は「奥の細道」の旅中、称念寺にも訪れ、その糟糠の妻の話を聞いて詠んだ一句といわれています。


https://biwap.shiga-saku.net/e1162153.html 【明智が妻の話せむ】

 大津市坂本にある西教寺。織田信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられた。光秀はこの地に坂本城を築く。西教寺の復興も光秀の手によるもの。本堂前庭左手に明智一族の墓と供養塔がある。明智光秀の妻・煕子(ヒロコ)の墓の隣にある芭蕉の句碑。「月さびよ明智が妻のはなしせむ」(寂しい月明りのもとですが、明智光秀の妻の昔話をしてあげましょう)。芭蕉が奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣をした時のこと。貧しい弟子夫婦のもとに泊まり、暖かいもてなしを受けた芭蕉は、感激しこの句を詠んだ。「あなたのその心掛けは、必ず報いられる日が来ますよ」。いったいその意味は何なのか。

明智が妻の話せむ

 明智光秀と婚約した煕子(ヒロコ)。婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり、その美しい顔を失った。それでも光秀は破談することなく煕子を娶る。浪人となり、困窮する生活。連歌会を催す金もなかった時、煕子は自分の黒髪を売り、光秀を助けた。光秀も側室を置かず煕子を大切にしたという。中島道子「濃姫と煕子」は、光秀をめぐる三角関係を描く。織田信長に政略結婚で嫁いだ斎藤道三の娘・濃姫。彼女の心はいとこの明智光秀にあった。信長に魅力を覚えたこともあった濃姫。だが、子の生まれない自分から離れ側室を愛し、故郷の美濃を滅ぼした信長。次第に憎悪の念を抱き始めた濃姫の心は光秀に向かった。光秀に恋人(オモイビト)があり、それが濃姫だったと知った煕子。過ぎ去った日のことなのかそれとも。光秀への想いと信長への憎悪は、それぞれに思い重なりつつ本能寺の変へと向かう。

明智が妻の話せむ

 光秀と煕子の娘・たま。細川忠興に嫁ぎ、細川ガラシャと呼ばれた女性。関ヶ原の戦い前夜。西軍石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとする。ガラシャはそれを拒絶し死を選ぶ。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」。クリスチャンゆえ許されぬ自殺。夫への愛ではないはずの、その胸に去来したものは何だったのか。

明智が妻の話せむ

 芭蕉は敗北していった悲運の武将たちに心惹かれた。そして煕子の黒髪の話が好きだったようである。才能がありながら、出世できないことに悩んでいた弟子。芭蕉はその夜こう語った。「今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」


http://shonenji.net/aketi/ 【明智軍記】より

明智光秀公といえば、天下を取るために手段を選ばなかった織田信長を倒した人物として、有名です。苦しむ民衆を助けるために、巨大な権力に立ち向かう武将。これって、なにか新田義貞公と似ていますね。おなじ清和源氏の名門で、正義感・人情がありすぎて、失敗したという所も一緒です。 

さて光秀公は、弘治2年(1556年)に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子さんや家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ます。これは光秀公が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。西福庵は、称念寺の末寺でした。永禄5(1562)年貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していました。『明智軍記』という書物には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記載されています。称念寺は時宗という宗派ですから、詩歌に優れた住職が多かったのです。また「遊行」といって全国を旅する布教が特徴なので、光秀公は天下を狙う情報を、この北国街道の称念寺門前でも、住職から十分把握できたわけです。

戦国時代に遊行することは命がけで、後に遊行上人が筒井順慶の領地を遊行する時に、称念寺の住職から明智光秀公に僧が配慮を頼んでいたことが、当時の遊行上人の日記に記載されています。よほど光秀公は、苦難の時代の称念寺の住職の援助が忘れられなかったのでしょう。この日記は、今に称念寺と光秀公の関係が伺われる、一級の資料です。やがて称念寺住職の口ぞえで、朝倉家家臣の黒坂備中守に仕えます。

松尾芭蕉と光秀の夫婦愛

明智光秀公は明智城が滅ぼされた後、越前の称念寺を頼ってきます。称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。しかしやがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを、称念寺の住職が設定します。連歌の会とは、お互いが和歌を詠みあうサロンのような会でありますが、仕官の機会でもあったのです。貧困の光秀公には資金がない中、妻の熈子さんがその資金を黙って用意したのでした。称念寺での連歌の会は、熈子さんの用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀公は朝倉の仕官がかないます。しかしその連歌会の資金は、実は熈子さんが自慢の黒髪を売って、用立てたものでした。光秀公はこの妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったのです。

この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が、「奥の細道」の旅の途中に、取材しました。芭蕉が「太平記」や、「時宗」の遊行上人ことに関心を持っていたことは、「金ヶ崎の鐘」や「遊行のお砂持ち」を、詠んでいる事から十分推察できることです。やがて「奥の細道」の紀行が終わった後、門弟の伊勢山田の又玄(ゆうげん)宅に泊まりに行きます。又玄は貧しい御師(おし)で、才能がありながら、出世できないことに悩んでいました。そこで芭蕉は弟子の又玄に、『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』の句を贈って励ましたのです。もちろん「明智の妻の話し」とは、称念寺の光秀公夫婦愛を指します。意味は、「又玄よ、今は出世の芽がでてないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪物語を話してあげよう」とでも訳せましょう。芭蕉の師弟愛が、伺えます。

明智一族の生き方・夫婦愛

絵本豊臣勲功記の挿絵

明智光秀公は、主君を裏切った「三日天下」の武将と豊臣の時代に、その評価が作られてしまいました。しかし称念寺門前では、「光秀公の寺子屋」や夫婦愛の「黒髪物語」が伝えられ、優しい気持ちを持っていた武将であったことが今に伝えられています。また光秀公が坂本城主や亀山城主になった時にも、善政をひいて民衆から親しまれたことが今に伝えられています。新田義貞公の評価と一緒で、敗れた武将には、後世の評価に反論する機会がないのです。でも民衆はちゃんと伝承や、いい伝えで真実を伝えるものです。明智光秀夫婦は、武将として立派でありながら、悲運の武将であったことを、芭蕉も「俳諧一葉集」の中の句で残したのでしょう。芭蕉は軍記物語を愛し、とりわけ敗れた悲運の武将に、心を寄せています。

なおその光秀公の夫婦愛を見ながら称念寺で、永禄6年に生まれたお玉(後の細川ガラシャ)も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方でした。お玉さんの生き方が、天下分け目の関が原の戦いに影響したといわれるぐらいですから、その夫婦愛は母の熈子さん譲りの筋金入りといえましょう。





コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000