https://otsu.or.jp/tendai3souhonzan/saikyoji/saikyoji.html 【天台真盛宗総本山 戒光山西教寺 天台寺門宗総本山園城寺 長等山三井寺】より
聖徳太子が恩師である高句麗の僧慧慈、慧聡のために618年に創建されたと伝えられています。669年に天智天皇より現在の西教寺という寺号を下賜されました。その後、900年代中頃に第18代天台座主の慈恵大師良源上人が天台の念仏道場としました。恵心僧都源信上人も入寺し次第に栄えるようになりました。鎌倉時代に入寺された恵鎮(円観)上人が戒律を授ける道場としました。
室町時代には天台僧の真盛上人が入寺され、堂塔と教法を再興し、不断念仏道場(念仏を断たない)としました。以来全国約四百余りの末寺を有する総本山として現在に至っています。元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りましたが坂本城主となった明智光秀が復興に尽力し菩提寺となりました。明智光秀ゆかりの品々も数多く残されており、妻煕子や一族とともに境内に墓があります。また、豊臣秀吉の居城だった伏見城の遺構として客殿(通称桃山御殿)や江戸時代に紀州徳川家寄進によって再建された本堂はいずれも重文に指定されています。
https://www.youtube.com/watch?v=kOTiOgQVp7g
【本能寺の変の真相】明智光秀が織田信長を殺した本当の理由|小名木善行
<目次>
00:00 はじめに
00:18 明智光秀から見る本能寺の変
08:58 光秀が歌に残した深い意味とは
17:48 天皇のシラス国を取り戻すため
https://blog.goo.ne.jp/syaraku0812/e/88ae3a2f87609f99020b1ed4feb9dcb8 【織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀の隠された恐るべき関係性|小名木善行×羽賀ヒカル】より
今回は神社チャンネルの羽賀ヒカル先生に出演して頂き、「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀の隠された恐るべき関係性」というテーマについて、ご紹介させて頂きました。戦国時代、日本を中心として動かしてきた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と裏切り者として扱われている明智光秀。この4人には知られざるそれぞれの役割がありました。今回、4人の関係性を小名木先生には歴史の観点から、羽賀先生には神道の観点から語って頂きました。4人の知られざる関係性とは?また日本を動かしてきた4人の役割とは一体何だったのか、今回の動画でご紹介させて頂いています。ぜひ、最後までご覧ください。 「むすび大学」は日本人が今こそ学ぶべき 真の教養を身につけるための教育系チャンネルです。 歴史、哲学、宗教、文学、政治、ビジネスからテクノロジーまで ジャンルは問わず、日本が誇る“結び”の精神によって 古今東西の学問を和合させて、新しい文化の創造を目指します。 超一流の教養人から、あらゆる学問のつながりを学ぶ 知的ハイ!な体験を、あなたに。 興味のあるテーマから、ぜひご視聴してください!
https://enokidoblog.net/sanshou/2014/09/11477 【明智光秀の「時は今天が下しる五月かな」の真相が明らかに・・・【山椒読書論(488)】】より
『連歌入門――ことばと心をつむぐ文芸』(廣木一人著、三弥井書店)は、これから連歌を嗜もうという人の入門書として、行き届いた心配りがなされている。
本書の最終章で、読者が百韻連歌というものを実際に味わえるようにと、「愛宕(あたご)百韻」の各句が紹介され、解説が付されている。「愛宕百韻」は、本能寺の変の9日前に、京都の愛宕山西之坊威徳院で催された連歌会である。この寺の院主・行祐が亭主、明智光秀が主客の立場で、当時の連歌界の第一人者であった紹巴が宗匠を務めている。他には、紹巴の門下で既に名の高かった連歌師、昌叱、心前、兼如が加わり、愛宕山の僧や、光秀の家臣も参加している。
発句は、世によく知られている、「時は今天が下しる五月かな 光秀」である。「句の内容は表面上は、今は正しくこの世は五月そのものである、ということである。『しる』は治めるの意で、字句どおりに言えば、天下を治めている五月である、この世界を五月という時節にした、ということであろう。『天』に『雨』が掛けられていることから、この世を雨にした五月である、という意が込められてもいる。この連歌は戦勝祈願であったので、その意も込められていなければ意味がない。『天が下しる五月」は天下を治めることになる五月、と読み取れそうであるということである。これで内容上もますます発句にふさわしくなる』。
「句の解釈はこれで済んだことになるが、このような作品を詠んだ事情ということになると、誰が天下を治めることになるのか、などの問題の考察に踏み込んでいかなければならなくなる。巷間では、本能寺の変と絡めて、光秀自身が天下を治めることになる、と読み取られることが多い。そうなると話としては面白くなる。『時』には光秀の氏であった『土岐』が掛けられているともされている。このような真意があったのかどうかは闇であるが、当時、織田信長は天下統一の最後の段階として中国地方の制覇の途上にあった。光秀の出陣も、最前線にいた羽柴(豊臣)秀吉援助のためで、信長が京都の本能寺に入ったのもそれに関わっていた。常識的にみて、天下を治めるのは信長、もしくはその陣営ということで、この発句は信長を寿いだものであったのであろう」。
「連歌師が武将と密接な関係を持ったことは確かだが、連歌師はでき得る限り政治的な偏りを持たないように心していたのが普通で、だからこそ、戦乱の中を比較的自由に動けたのである。武将の方もそれは十分に承知であった。どちらに付くか分からない多くの連歌師を前に光秀が危険な真意を吐露したとは考えにくい」。
これまで、私は、光秀がこの発句で信長への叛逆の覚悟を漏らしたということはあり得ると考えてきたが、この連歌会には自分の家臣のみならず、連歌師を初めとする外部の人間が大勢参加していた状況に鑑み、それはあり得ないなという判断に変わってしまった。連歌の世界を知り尽くしている著者の見解は、強い説得力を有している。
因みに、連歌会では、光秀の句に、「水上まさる庭の夏山 行祐」が続き、その後は、「花落つる池の流れを塞き止めて 紹巴」、「風に霞を吹き送る暮 宥源」、「春もなほ鐘の響きは冴えぬらん 昌叱」、「片敷く袖は有明の霜 心前」、「うら枯れになりぬる草の枕して 兼如」、「聞きなれにたる野辺の松虫 行澄」と続いていき、最後の百句目は「国々はなほのどかなる頃 光慶」となっている。この光慶は光秀の息子である。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/602e335b791253ded62117dab9ead70899c90521 【【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は「愛宕百韻」によって、本能寺の変の実行を予告したのか】より
渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「愛宕百韻」は光秀による本能寺の変の予告だったというが、正しいのだろうか。(提供:アフロ)
大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が参加した「愛宕百韻」が取り上げられていなかった。一説によると、「愛宕百韻」は光秀による本能寺の変の予告だったといわれている。その説が正しいのかを検討しておこう。
■「愛宕百韻」とは
天正10年(1582)5月27日、明智光秀は愛宕山(京都市北区)に登った。中国出陣を目前にした光秀は、ここで戦勝祈願をしたのである。愛宕山は軍神としての勝軍地蔵が武将の崇敬を集めており、火除けの神としても知られていた。
神前に額づいた光秀は、2・3度籤を引いたといわれている。武将が戦勝を祈願して、寺社を参ることは当然のことだった。その日、光秀は愛宕山に1泊した。
同年5月28日、光秀は連歌会を坊舎・西坊威徳院で「愛宕百韻」を興行した。このとき光秀は、有名な「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を詠んだ。
この発句は「とき=土岐」と解釈され、土岐氏の支族である明智氏が「あめが下」つまり天下を取ることを織り込んでいるとし、謀叛の意を表明したと解釈されてきた。
■いくつかの疑問
そもそも光秀が土岐氏の庶流・明智氏の出自であるか否かは、今のところ論証されていないので、通説的な位置を占める、この説は安易に鵜呑みできない。
和歌や連歌が本歌取り(すぐれた古歌や詩の語句、発想、趣向などを意識的に取り入れる表現技巧)や掛詞(同じ音に2つの意味を兼ね持たせること)など、さまざまな技法を駆使して作品を作るとはいえ、あまりに「愛宕百韻」を深読みしすぎである。
もっとも重要なことは、わざわざ「これから謀叛を起こしますよ」というメッセージをこの場で披露する必要があるのか、ということである。ごく常識的に考えると不要なことで、情報が信長に筒抜けになる可能性がある。では、いかに考えるべきか。
ごくオーソドックスな見解であるが、これは光秀が中国に出陣する際の出陣連歌と捉えるべきだろう。光秀はかねてから里村紹巴と交流があったので、紹巴らにも光秀の戦勝を祈願する思いがあったと考えられる。愛宕で連歌会を終えた光秀は、その日のうちに居城のある亀山(京都府亀岡市)に帰還した。
本能寺へ出陣する際の出陣連歌であると指摘する向きもあるが、光秀が堂々と「これから信長を討ちに行きます」と高らかに宣言することは、やはり非常にリスクが高く支持できない。紹巴は秀吉らの武将と懇意だったので、通報される危険性があった。
■「愛宕百韻」をめぐる諸説
光秀の発句に独自の解釈を施した津田三郎氏は、この発句に中国や日本の古典の知識がいかんなく発揮されていると指摘した。以下、要点をまとめておこう。
(1)「とき」に「土岐」が掛詞として重ねられているのは、『太平記』の土岐氏に関する記述から首肯できる。
(2)「天の下知る」を「土岐氏が天下を取る」という考えは誤りで、主語は土岐氏ではなく天皇とすべきである。
(3)(2)の理由は、5月に「愛宕百韻」を催した点にある。以仁王、後鳥羽院が横暴な武士を倒すべく決起したのは5月である。
(4)紹巴は朝廷の使者として、連歌興行に参加していた。
つまり、光秀は朝廷の意向を受けた源氏(=光秀。土岐氏は清和源氏)が平氏(=信長)を討つことを表明したと解釈された。ここまで古典の知識をフル活用したのは、教養人たる光秀ならではといえよう。
ただし、一瞬のうちにその場で古典のさまざまな場面が脳裏を駆け巡り、信長討伐などの意思表明ができるのか、疑問に感じざるを得ない。そもそも朝廷黒幕説は破綻しているので、この説は成り立たない。
仮に紹巴が朝廷から派遣されたならば、口止めも可能かもしれないが、派遣されたという裏付け史料は存在しない。常識的な問題として、仮に紹巴の口を封じたとしても、ほかのメンバーが裏切ることもありうるので、光秀が堂々と信長討伐を連歌会で表明しないだろう。
■ややこしい解釈は不要
実は、ほかにも「愛宕百韻」について、独自のややこしい解釈を施した例は多数ある。しかし、「愛宕百韻」にわざわざ裏の裏を読むような深読みをし、あるいは裏付けが取れないような独特の解釈をすることは不要である。連歌は、一部の人にしかわからない暗号でもなければ、特定の人しかわからないメッセージでもない。
常識的に考えても光秀が謀反の意を連歌会で堂々と披露するとは考えられず、これは信長の命を受けた中国への出兵を前にして、単に光秀が出陣連歌を催したにすぎないだろう。根拠のない大胆な解釈、珍説、奇説には要注意だ。
0コメント