龍興寺略縁起

http://www.ryukouji.org/information.html 【龍興寺について 龍興寺略縁起】より

◎天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳八年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、聖武天皇の勅願により戒壇を開いた鑑真和尚(688~763)が、天平宝字五年(761)唐の揚州龍興寺、舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺として開基。直末三十七ヶ寺の本寺である。

◎太政大臣・法王 弓削道鏡禅師(708~772)は、宝亀元年(770)八月造下野薬師寺別当職として着任したが、宝亀三年(772)四月七日遷化。

◎日光開山 勝道上人(735~817)は、天平宝字五年(761)栃木出流山から龍興寺に移住し、四年間の修行の後、天平神護元年(765)日光へと赴く。

◎弘法大師 空海(774~835)は、弘仁十一年(820)五月~七月まで龍興寺に逗留し、如意・恵雲等に密教を伝授した。爾来、龍興寺は、六宗兼学に加えて真言道場となる。

◎意教流祖 頼賢阿闍梨(意教上人1196~1273)は、醍醐寺三宝院座主成賢阿闍梨(遍智院僧正)より密教の奥義を伝授され、文暦二年(1235)龍興寺貫主、兼、下野講師に任ぜられる。

◎龍興寺中興、慈猛上人(1211~1277)は、弘長二年(1262)から龍興寺に住し、文永九年(1272)十二月七日、願行・良智等と共に頼賢阿闍梨より三宝院意教流を伝付された後、慈猛流を開き関東各地に広めた。建治元年(1275)当寺から足利鶏足寺に移住し、建治三年(1277)四月遷化。

◎元亀元年(1570)北条氏政の兵火の煽りを食い龍興寺消失。

◎真言宗智山派総本山智積院第四世化主元寿僧正(1578~1648)は、龍興寺檀那田中の野口家出身。元翁に師事し広沢流。後、小野流を受伝し智山能化、中性院を兼ね徳川家康からも厚い信任を受けた。

◎現金堂は、安政七年(1860)三月三日再建。

◎自治医科大学聖霊殿は、医学の進歩と医療の充実に貢献された方々のために昭和五十年(1975)十一月十三日建立。

※尚、龍興寺は往時、広大な寺領を有し、壮大な堂塔伽藍を配するも、時代の変遷に伴い、山容を著しく変貌させ現代に至り、悠久の歴史を土中に匿す。

境内のご案内

鑑真和尚碑 下野市指定文化財

鑑真(がんじん)は、唐の揚州江陽県の生まれで、十四歳で智満について出家し、道岸・弘景から律宗・天台宗を学びました。律宗とは、僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派で、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒しました。

揚州の大明寺の住職であった七四二年、日本から唐に渡った僧栄叡・普照らからの懇請に応じ、苦難の末、六度目で渡来、日本に戒律を伝え、天平宝字五年(七六一年)に日本三戒壇を設置しました。この塔は弟子たちが師の遺徳を偲び建立した供養塔です。


https://mikkabozu7676.seesaa.net/article/492712913.html 【続)倫敦巴里

いつ死んでも良いように書き残す遺言ブログ【神社仏閣】下野薬師寺(その3)】より

2022年10月22日 神社仏閣 写真 仏教

下野薬師寺近くに「龍興寺」というお寺がある。ちなみに、どちらも真言宗智山派だ。

こちらの方が今の奈良・薬師寺っぽい派手な門。

「龍興寺略縁起」(龍興寺HPより)

◎天武天皇が皇后の病気平癒を願い、勅願により白鳳八年(680)祚蓮上人が建立した下野薬師寺の別院であり、聖武天皇の勅願により戒壇を開いた鑑真和尚(688~763)が、天平宝字五年(761)唐の揚州龍興寺、舎那殿壇の法を当寺に移し、寺名を生雲山龍興寺として開基。直末三十七ヶ寺の本寺である。

◎太政大臣・法王 弓削道鏡禅師(708~772)は、宝亀元年(770)八月造下野薬師寺別当職として着任したが、宝亀三年(772)四月七日遷化。

◎日光開山 勝道上人(735~817)は、天平宝字五年(761)栃木出流山から龍興寺に移住し、四年間の修行の後、天平神護元年(765)日光へと赴く。

◎弘法大師 空海(774~835)は、弘仁十一年(820)五月~七月まで龍興寺に逗留し、如意・恵雲等に密教を伝授した。爾来、龍興寺は、六宗兼学に加えて真言道場となる。

◎意教流祖 頼賢阿闍梨(意教上人1196~1273)は、醍醐寺三宝院座主成賢阿闍梨(遍智院僧正)より密教の奥義を伝授され、文暦二年(1235)龍興寺貫主、兼、下野講師に任ぜられる。

◎龍興寺中興、慈猛上人(1211~1277)は、弘長二年(1262)から龍興寺に住し、文永九年(1272)十二月七日、願行・良智等と共に頼賢阿闍梨より三宝院意教流を伝付された後、慈猛流を開き関東各地に広めた。建治元年(1275)当寺から足利鶏足寺に移住し、建治三年(1277)四月遷化。

◎元亀元年(1570)北条氏政の兵火の煽りを食い龍興寺消失。

◎真言宗智山派総本山智積院第四世化主元寿僧正(1578~1648)は、龍興寺檀那田中の野口家出身。元翁に師事し広沢流。後、小野流を受伝し智山能化、中性院を兼ね徳川家康からも厚い信任を受けた。

◎現金堂は、安政七年(1860)三月三日再建。

◎自治医科大学聖霊殿は、医学の進歩と医療の充実に貢献された方々のために昭和五十年(1975)十一月十三日建立。」

道鏡塚。

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? 〜宝亀3年4月7日(772年5月13日))は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)で、弓削櫛麻呂の子とする系図がある。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。孝謙天皇の信任を得て僧侶としては初めて大臣禅師に、さらには法王という位にまでのぼりつめた。

しかし、称徳天皇の崩御後のすぐあと、宝亀元年(770)8月に下野薬師寺別当として配流され、その2年後に、この地で生涯を閉じたとされている。

道鏡の死は下野国司により都に報告されたが・・・律令では、貴族が亡くなると「薨」や「卒」と表記されるところ、その際には「死」と表記されていたらしい。

その葬送については「死するときは庶人を以てこれを葬る」と明記されていたというから、一般庶民と同じ扱いとされたということだ。

自治医科大学 聖霊殿  検体をされた方の供養のため。

前の記事で、自治医科大学の住所が「薬師寺」というありがたさ、ということを書いたが、医学のため検体をされた方の供養を忘れない、しかも寺でというありがたさ。

中禅閼伽井屋(ちゅうぜん あかいや)。

この側に「龍興寺 二月堂」がある。(写真撮るの忘れた。)

HPによると・・・

龍興寺二月堂は、東大寺二月堂の原型(内内陣)三間二面の懸崖造りに従って建立されました。

東大寺二月堂閼伽井戸(あかいど)は若狭の国から、龍興寺吉田ヶ池は中禅寺湖と地下水脈で繋がっていたと伝えられ、お水取りされましたが、現在はその分流、中禅閼伽井戸の清水を二月堂本尊(十一面観世音)に献じ悔過会(懺悔式さんげしき)が行われています。

・・・とのこと。

似たような伝説が伝えられる。

まあ、オリジナルに仮託するわけですが。

鑑真和上碑。

「この塔は弟子たちが師の遺徳を偲び建立した供養塔です」とのこと。

数が合わず、どれが勝道上人のか分からなかった。

「鑑真和尚が使用した杖を墓印として立てた杖がそのまま大きくなった」と伝承される菩提樹。似たような話は、アチコチにある。そういうのが「伝承」というものだ。

北側から。南側から。

下野薬師寺(前安国寺)と龍興寺は、天和元年(1681年)から享保4年(1719年)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。

議論の末、天保9年(1838年)「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する」という合意に達し現在に至っているというが・・・ここは墓所ではない。

碑であり、まあ、供養塔という意味合いだろうかと思える。

下野薬師寺の東隣に「薬師寺八幡宮」と「雷電神社」がある。

神社なのに「薬師寺」というのが入るのは珍しいだろうが、ここの地名が「薬師寺」なのだから仕方ない。

当然、下野薬師寺と関係があるのだろうが、神社の由緒には書いてない。

しかし、県設置の看板には書いてあった。↓


https://ameblo.jp/tweet-tweeties/entry-12409673006.html 【下野薬師寺(下野市薬師寺)】より

別院→鎮守社ときてついに本院 ٩( ' ω ' )و

薬師寺といえば第40代天武天皇が皇后(のちの第41代持統天皇)の病気平癒を願い建てられた薬師如来が本尊のお寺で、薬師信仰の広まりと共に全国に建立されていきました。

下野薬師寺は東大寺・筑紫観世音寺と並び正式な僧侶になるための授戒の儀式が行われる日本三戒壇のひとつでした。そんな格式高いお寺でも時代の流れと共に荒廃します‥ w(*゚o゚*)w

暦応2年(1339)足利尊氏は戦歿者の菩提を弔うため全国68カ所に安国寺を建てるのですが、

下野国ではすでにあった立派な薬師寺を再利用して安国寺に改称したのです☆

しかしその安国寺は元亀元年(1570)北条氏政の兵火により焼失、こちらが現在の本堂(明治38年再建)になります。縁が真新しいのは平成の大改修!

基礎から土台をジャッキアップして既存の柱を極力残した修復をしたため接木の痕があります。本堂の近くに白鳳時代のものと見られる礎石が。建築技術トレンドの横に転がっているとはなんともシュール。それでは史跡下野薬師寺跡の見学でも。

東側の基壇は12.5m四方だから五重塔跡と断定されたそうです🤔

どんな旗が掲げられていたのやら幢竿支柱。そして戒壇跡の六角堂がこちら!

中央の厨子には鑑真和上の絵像が安置されているそうですが閉扉中〜。

長い廻廊は角っこだけ再現されていました。現地では礎石の数に驚きます。

摩尼車をぐーるぐる回してたらお出かけされてたご住職がお戻りになりました ٩(๑′∀ ‵๑)۶•*¨*•.¸¸♪

ご住職とお話してると知らないおじさんが現れ「この度はおめでとうございます!」。

なんと平成の大改修を機に寺号を薬師寺に戻してからわずか一週間だそうで、

ニコニコご機嫌なご住職でした。

今年も会えた!シュウメイギク薬師寺の御朱印です。

境内から出土した八葉複弁蓮華文鐙瓦(はちようふくべんれんげもんあぶみがわら)の㊞がお寺の歴史を物語る(๑⃙⃘˃◡˂๑⃙⃘)

そして改称に伴いお墨書きが安國寺から薬師寺に変わっています!

瑠璃光とは遥か東方にあるという薬師如来の支配する浄瑠璃世界のことです.:*☆

いい雰囲気の竹林も嵐の被害を受けていました。

竹は倒れると枯れるの早いね Ꙭでも成長も早いからね、荒廃しても必ず再興される下野薬師寺みたい?

■下野薬師寺(しもつけやくしじ)栃木県下野市薬師寺1737

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