俳句の行間

https://ameblo.jp/tomoohanashi/entry-12286423177.html 【俳句のひとつの要2ー切れによる間】より

前回、「俳句のひとつの要ー切れ」という題で、俳句の作品としての重さあるいは深さは、作品の切れによるということを書いた。

今日は、どうして切れがそれほど重要か、考えてみたい。

切れを◼️で表すと、俳句の切れには下の五種類がある。

①XXXXXXXXXXXXXXXXX◼️

十七音の後に切れがある場合である。

②XXXXX◼️XXXXXXXXXXXX□

最初の五音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。

③XXXXXXXXXXXX◼️XXXXX□

最初の五音と七音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。

④XXXXX◼️XXXXXXX◼️XXXXX□

最初の五音と次の七音の後に切れがある場合。最後にもう一度切れがあることもあれば、ない場合もある。

⑤XXX◼️XXXXXXXXXXXXXX□

XXXXXXXX◼️XXXXXXXXX□

五七五の上五の間、中七の間、あるいは下五の間で切れている場合である。

それぞれを①「切れなし」あるいは「一物仕立」、②「初句切れ」、③「二句切れ」、④「三段切れ」あるいは「三字切れ」と呼ぶ。「三段切れ」は名詞で切れ、「三字切れ」は名詞以外で切れている場合である。⑤「中間切れ」と呼ぶ。

名前は良いとして、例にそれぞれの切れの句を有名な句から見てみよう。

①切れなし

流れゆく大根の葉の早さかな□ 虚子       くろがねの秋の風鈴鳴りにけり□ 蛇笏

②初句切れ

荒海や◼️佐渡に横たう天の川□ 芭蕉     バスを待ち◼️大路の春をうたがわず□ 波郷

③二句切れ

山路来て何やらゆかし◼️すみれ草□ 芭蕉    柿くへば鐘が鳴るなり◼️法隆寺□ 子規

④三段切れ、三字切れ

目に青葉◼️山時鳥◼️初鰹□ 素堂        初蝶来◼️何色と問う◼️黄と答う□ 虚子

⑤中間切れ

万緑の中や◼️吾子の歯生えそむる□ 草田男    地の涯に倖せありと来しが◼️雪□ 源二

上の①から⑤までの句を声に出して読んでみると気づくことがある。

それは次のことである。

①切れでは間があく。句の最後の切れでは余韻の沈黙がある。

②五七五を読んでいく時、上五の五音より中七の七音は少しスピードがはやくなり、最後の五音でまた少しゆっくりになる。中間切れの場合は、中七の中間で切れている場合は切れまでが上五のようなスピードになり、下五の中間で切れている場合は切れまでが中七のようなスピードになる。

この「間」と「スピードの変化」が俳句に幅と奥深さを与えている。

例えば、「荒海や◼️佐渡に横たう天の川□ 」の場合、最初の間◼️に来るまで読者は「荒海や」の上五から荒海を思い浮かべる。その荒海は読み手の経験した荒海であるかもしれないし、写真で見た荒海かもしれない。あるいは、船酔いの記憶かもしれない。

しかし◼️のあと、「佐渡に横たう」と目に入ってきて、佐渡が見え、「天の川」で夜空に天の川が見えるのである。

句の最後に□の間で、「荒海や佐渡に横たう天の川」の句全体が読み手の感性と記憶と想像力に働きかけ、読み手によって深さは違うだろうが、感受性に何かを刻むのである。

その刻むものは、「荒海や佐渡に横たう天の川」を間をおかず、スピードの変化もなく読んだ時より、幅ひろく深くなっているはずである。

またスピードが一度早くなり、下五で遅くなるのは、そこで句の世界に読み手を包み込むことになっている。

私たちは、詩の行間を読むと言い、小説の文章に書かれていないことを感じると言う。短い俳句の場合は、その行間や文章に書かれていないことを表現しているのが間であり、それを作り出しているのが「切れ」である。

俳句は「切れ」に、文字に表されていない情景や感覚、思いを込めることが要になる。

それは読み手が想像しないでも良いような明らかなものでは物足りず、全く想像できず感覚が繋がらない場合は句全体の世界を壊してしまう。

この切れによる前後の言葉の離れ具合と意外性がもたらす、その句の世界の大きさと統一感と意外性の心地よさが俳句の世界の心地よさかもしれないと思っている。


https://dairo.main.jp/?p=9612【個性ということ――野木藤子句集『青山河』 北側松太】より                               

 俳句に個性は不要との指摘もあるが、いくら作者が個性を押し殺したとしても、知らず知らずににじみ出ようとするのが個性ではないだろうか。

 小説や詩と違って、わずか十七文字の文芸である俳句には個性があらわになる空間が乏しいともいえるが、一句一句からは垣間見ることができなくても、それが句集という一かたまりとして目の前に置かれれば、対象に向かう姿勢やモチーフのありようが自ずと見えてくるもの、むしろそこに、その人特有のものがなく、無色無臭の一冊であるとしたなら、その句集は読むにすら値しないものかもしれない。句集を読むとは、俳句と俳句の行間から透けて見えるそのひとの心に触れることである。

 野木藤子さんの第二句集『青山河』はそうした意味で行間に作者の思いが豊かに湛えられた一冊といえる。

 では、『青山河』に収められた一句一句の行間からにじみ出てくるものはいったいなんであろう。この句集を読み終えて、私たちは二つのキーワードを手にいれることができるだろう。その一つは「遊び」「遊ぶ」という言葉。もう一つは「祈り」という言葉である。

まず、「遊ぶ」というキーワードから句集を眺めてみよう。俳句という、少し窮屈な器を借りて己の心を遊ばせているという句もあるが、俳句の五七五を積木ようにして、俳句そのものを遊んでいるという句も多い。第一句集の『一花』でもそうした傾向は見られたが、『青山河』ではそれがより鮮明になっている。

ひらがなでさよりと書けばさもさより

 「さより」という季語は実体のある季語、本来なら「実」を詠まねばならないのに、この句は、さよりの「虚」を詠んでいる。少し斜に構えた遊びというところ。

青田千枚遊行柳千年

 リフレインを楽しんでいる一句。

実をむすびけり紅萩も白萩も

 破調にしなくても「紅萩も白萩も実をむすびけり」で句は成立するのだが、破調にすることで句の懐が深くなっている。結論を先に提示しておいてから、後回しに主体を定めている。

かばかりの灰なり萩を焚きにけり

 この句も、結論が最初で、原因は後回し。

しぐれてもしぐれなくても浅草寺

 どうでもいいけど浅草寺、といっていながら、やはり「しぐれの浅草寺」のおもむきなのである。これも斜に構えたところが楽しい。

日もすがら花びら夜もすがら余震

 破調のリフレイン、ではあるが十七文字からははみだしていない。

鳴くといふ亀はいづこに遅桜

 「亀鳴く」という季語をちょっと道具に拝借、というところ。

いい風ね胡瓜揉みなどつくりましよ

 台詞のような一句。「いい風」から「胡瓜揉み」までの距離が楽しい。

これ以上青くはなれぬ青柚かな

 断定の小気味よさ。

草をつかみてやすらへる蝉の殻

 この句も結論が先。「蝉の殻草をつかみてやすらへる」と破調にしなくても成立しているのに、あえて破調にしているところがこだわりなのだろう。

鶏頭の十四五本のありし庭

 本歌取り、短詩文芸の遊びはここに尽きるのかもしれない。

手袋の中の両手が眠くなる

 なんとも奇妙な擬人法。もちろん眠くなっているのは作者であろうが、「手袋の中の両手」といったことで、色々な状況が想像できる。

 俳句で遊べるというのは余裕である。言葉を思い切り自由にしてやらないとなかなか俳句は遊んでくれない。「遊び」をキーワードに見てきた『青山河』のなかのこれらの句は、言葉の一つ一つが五七五の桎梏から解放されていながら、なおかつ五七五という枠を楽しんでいるかのようである。

 さて、もう一つのキーワード「祈り」はどうであろう。

あとがきを読めば、この句集は東日本大震災で亡くなられた人への鎮魂の一冊と知れるが、この鎮魂の思いは、父や母、兄弟たちとの遠い日々を振り返ることで語られている。幼い頃暮らしたみちのく福島に思いをはせることが取りも直さず作者の祈りなのである。

母に手を取られ浴衣を縫ひしこと          かりがねや仕立て直して母の衣

葛の花母を送りし日のやうに   無医村に入り外套を遺しけり 亡父という前書きがある。

うぶすなや雪降ればまた誰か死に        爪に火をともせし母よ水温む

山桜たましひ還りくるところ          春眠をよぎりぬ若き父と母

白日傘さすたび兄の妹に            酒温めよと仏壇の父が言ふ

 十句ほど書き出してみたが、父母の思い出を詠んだ句はこの句集のかなりの部分を占めている。その句のいずれもが、思い出の中の父母であり、夢に現れる父母である。父母の思い出、ふるさとの思い出、その懐かしさの裏返しがそのまま東日本大震災の痛ましさということであろうか。

 二つのキーワード「遊び」と「祈り」、ある意味では両極をなすもの、互いに相容れないものなのかもしれない。しかし句集『青山河』の中ではこの二つの雰囲気が違和感なく並びあっている。二つの雰囲気を句集 『青山河』の中で静かに眠らせているものこそ、この作者の「個性」なのかもしれない。

 最後に好きな句をいくつかあげてみたい。

さくら湯に花と莟とひとつづつ          山々のあをき谺を籠枕

たたまれてしばらく熱し秋日傘          なにがしの漁師を雇ひ月見舟

明易や蚊帳の感触ふと頬に            洗はれて月の暗さの硯かな

大文字炎盛んにして昏し             寒に入るいよいよ旨き桶のもの



コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000