Facebook中村信一さん投稿記事 日本の建国理念は凄かった!
質問です。日本の建国理念って何ですか?
アメリカの建国理念は、自由、平等、幸福追求の権利です。アメリカ国民なら誰でも言えます。建国の父はジョージ・ワシントンですね。
では日本の建国の父は?戦後日本では一切教えられていませんね。
日本の建国理念は、〝ひとつの家族世界の実現〟(八紘一宇)日本の建国の父は、初代の神武天皇です。建国記念日は2月11日、今年で建国2684年になります。西暦より660年も長いですね。また、令和の陛下は初代神武天皇から126代目の天皇陛下となります。
「日本書記」の神武天皇のところには、「八紘一宇の神勅」(はっこういちうのしんちょく)というのがあります。
「八紘を おほひて宇と為むこと、また可からずや」(はっこうを おおいて いえとせんこと、またよからずや)
口語訳は↓
天地四方に住むすべての者が、ひとつの屋根の下の大家族のように仲良く暮らすなら、それはなんと楽しくうれしいことだろうか。
この、八紘一宇の神勅の「八」は「八百万」の「や」であり、無限の広がりを意味し、数多いこと意味するそうです。
「紘」は「冠のひも」という字であり、八方の隅から、紐をまとめて一箇所に結ぶようにまとめる意味があるようです。
すなわち、「人類の魂の緒」を八方から一つに結び合わせて、お互いの個性を尊重しながら一つの家族のように仲良く結び合うということなのです。
古代日本民族は、魂は霊的根本において,つながっている「緒」をなし連なっていると考えていました。
したがって、肉体は別々に見えていても、魂は一つに繋がっていると捉えていたのでした。
世界民族はそれぞれに、生活習慣、文化、言葉、環境は違って、肉体も離ればなれになっていますが、魂において、それぞれの文化や生活習慣を認めつつ、お互いに尊敬しあって、世界中、みんな「一家族の兄弟」のように仲良くしましょうと言うのが〝日本の建国の理念〟なのです。
神武天皇によって建国されたのが「やまとの国」であって、「大和の精神」、すなわち〝大調和の精神〟が日本の建国の理念といってもいいでしょう。
八紘一宇は戦争中、侵略戦争のスローガンに使われ好戦的意味に誤解され、戦後使うことを禁止されましたが本当の意味は〝真の平和〟世界恒久平和を意味していたのです。
21世紀になり今でこそ地球家族や世界平和と言い始めましたが、日本は2677年前から人類一家族の理想を建国の理念として創建された凄い国だったのですね。
ちなみに戦前までは日本国民はみんな当たり前に知っていました。
この崇高な理想の元にみんな生活していたのです!
これが日本人としての誇りでした。
世界で唯一肌の色や人種の違いで差別してこなかった国なのです。
そして1919年 大正8年に世界で初めてパリ講和会議で人種差別撤廃の提案をしたのはなんと日本なのです。
その当時アジアの独立国は日本のみでほとんど欧米に支配、抑圧されていました。
日本の勇気あら提案に11ヶ国が賛成5ヶ国が反対ところが議長国のアメリカのウィルソン大統領が全会一致でなくてはダメだと否決してしまします。
しかしこの勇気ある日本の案に特に黒人諸国にも希望を与えました。
500年間奴隷のような生活を送っていた国がたくさんあったのです。
あの黒人の人種差別撤廃に命をかけた英雄キング牧師は世界に人種差別がない国があると知りキング牧師の運動に日本は大きな希望を与えていました。
日本はなぜ、人種差別撤廃に命がけで世界に訴えたのか?
それは世界はみんな家族である肌の色や人種の違いで排除するのはおかしいという日本の建国理念、八紘一宇の精神があったからなのです。
日本人はもう一度建国理念の原点に立ち帰ることが必要だと感じます。
Facebook清水 友邦さん陶呼応記事
2月11日は建国記念の日です。日本の建国とは?天皇とは?とあらたまって聞かれてもほとんどの人は、よくわからない思います。
宮崎駿監督は、若い頃から鉄の民に関心があって、出雲地方のタタラ製鉄のタタラをモデルに、「もののけ姫」を制作しています。タタラの指導者のエボシ御前は、女性です。
そしてタタラの神は、女神です。
同じく宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場するハクの正体は、「ニギハヤミ コハクヌシ」と明かされていますが、これは明らかに、物部氏の祖先神のニギハヤヒをモデルにしています。ジブリの近くにある虎狛神社(こはくじんじゃ)の祭神は、オオトシですがニギハヤヒの別名です。「もののけ姫」に出てくるアシタカの名は、物部氏の先祖である長髄彦(ながすねひこ)を思わせます。
ニギハヤヒは、物部氏の没落とともに藤原氏によって隠されてしまった神です。
「千と千尋の神隠し」の“神隠し”というタイトル自体に、それが暗示されます。
闇の中に消えてしまった歴史を宮崎駿監督は、アニメを通してよみがえらさせたのでしょう。
神社をお参りすることなどなかった私が、60歳を過ぎてから突然、全国の神社を参拝するようになりました。
高千穂神話の皇室の祖の日向三代(ひむかさんだい)の神々の生まれた場所、神武天皇が九州を出発した場所、戦った場所、熊野に流れ着いた場所、即位した場所をいつのまにかまわっていました。
高千穂神話と別系統の大王だった、出雲神話のスサノオ・ニギハヤヒと瀬織津姫の神社もほとんど廻りました。
そして現在、縄文の末裔だった蝦夷の本拠地の岩手県に住んでいます。
いつのまにか縄文、弥生、古墳も含めて約三年の間に300カ所以上、日本の歴史をめぐる旅をしていたのです。
そして、ナチュラルスピリットという出版社から、畑違いの「よみがる女神」という著書まで出版していただいたのですから、一寸先の人生は何が起きるかわかりませんね。
東北の蝦夷(えみし)は、九州・近畿から見ると日の出の東の方向にあるので、日の本(ひのもと)と呼ばれていました。
高い太陽を見る国という意味の日高見国(ひだかみのくに)という記述が、「日本書紀」と「釈日本紀」に出て来ます。
日本は統一国家ではなく、大倭と日高見の二つの国があって、日高見国は独自の文化と言語をもって、千年以上独立を保っていたのです。
ほとんどの人が知っている日本の歴史とは西日本のことで、東日本の歴史はすっぽりと抜け落ちているのです。
日本の初代天皇は、神武天皇と呼ばれています。
幕藩体制を崩壊させた明治政府は、欧米列強に肩をならべる近代国家を築きあげるために、神武復古をかかげ「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と、アマテラスの子孫である天皇を中心とした国家体制を敷きました。
神によって永遠の統治権が与えられている神国日本が、国体の理念でした。
明治政府は、天皇家の祖霊を祭神とする神社を頂点にした、神道の中央集権を進めました。記紀神話以外の神々は抹殺され、名もなき氏神を祀(まつ)る小さな神社や祠や道祖神などは、真っ先に廃止の対象となりました。
明治42年までに約19万あった神社が統廃合されて、神社は11万までに減らされました。
天皇崇敬や皇道、国体の理念が広く人々に行き渡るようになっていったのは、明治政府によって教育勅語が学校で発布されてからでした。
1888年以降、皇室で神事が行われる日は、祭日となり学校で生徒は御真影に最敬礼をし、教育勅語を朗読し、皇室の盛運を祈り、君が代、唱歌が学校の儀式として重んじられました。
神武天皇が即位したとされる紀元前660年の二月十一日(旧暦の一月一日)を、神武天皇元年の紀元節(きげんせつ)として、国民の祝日としました。
それが今の建国記念日です。
日本を家に例えると天皇は家父長なので、子供である国民は親に素直に従って、家の秩序を守らなければならないと教えられました。
そのために、国が国民を守るよりも、国民が国を守らなくてはいけないとなって300万人もの人々が戦争でなくなったのです。
神国日本が戦争に負けると、昨日まで鬼畜米英だったアメリカは、敗戦すると一夜にして民主主義の国になりました。
現人神であらせられる天皇は人間になりました。
20世紀という時代は、天皇家のシステムが大きく変わった時代でした。
18世紀に古事記が発見されて国学が盛んになるまでの間は、天智天皇が始祖とされ神武天皇は重視されていませんでした。
長く武家社会が続き、庶民の崇敬の対象は将軍や領主にあり、信仰の対象は氏神やその土地の産土の神々になっていました。
天皇家の領地の石高は、小大名くらいの3万石くらいしかありませんでした。
天皇家は、先祖からの霊統を受け継ぐ儀式が220年も途絶えるほど、衰退していました。
明治維新前の庶民は、国家神道と関わりがありませんでした。
そのために、中世にはすでに、神武天皇陵がどこにあるのかわからなくなっていました。
畑の中に畝傍山(うねびやま)がポツンとあるだけでした。
国家神道を推し進めた明治政府は、急いで神武天皇陵を決めなくてはならず、聖蹟として畝傍山麓に橿原神宮を創建したのです。
畝傍山周辺の住民や部落は、強制的に移住させられて皇室発祥の地として整備されました。
ところが、「日本はじまりの地」とされる橿原神宮は別の地にもう一つありました。
奈良県御所市「柏原」に「神武天皇社」が鎮座しています。
初代神武天皇の即位した場所であると伝えられています。
江戸時代の本居宣長は、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを、里人から聞いたことを伝えています。
神武天皇社が、宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに村人が証拠書類を全て焼いてしまったと伝えられています。
おそらくここが本来、神武天皇が即位した場所だったのでしょう。
神武天皇社の隣に、被差別部落の水平社博物館が建っています。
ここは権力構造の頂点と、一番下に置かれた被差別部落が隣同士にある象徴的な場所です。
畝傍山にも、被差別部落があって立ち退きにあいました。
神武天皇が即位するにあたっては、複雑な事情がありました。
古代の日本は統一国家ではありませんでした。
日本は昔100あまりの国があって、『倭(わ)』と呼ばれて『倭人(わじん)』と呼ばれていました。
大陸から金属製武器をもった父権社会の集団がやってきて、戦いが頻繁にはじまりました。
日本書紀に神武の軍が「ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)という者を殺した。」という記述が出てきます。
名草は今の和歌山県海南市あたりで、丹敷は熊野の丹敷浦あたりといわれています。
ナグサトベ(名草戸畔)ニシキトベ(丹敷戸畔)は古代の女王の名前でした。
日本は、縄文の母系から、ゆるやかな母系社会の部族連合の国を作っていました。
古代日本が父系社会の中央集権国家に移り変わる象徴的な出来事が、神武天皇によるトベたち女性部族長の誅殺事件でした。
こうして日本は、争いながら次第に母系から中央集権の体制になって父系社会へ移り変わっていきました。
ヤマタノオロチの神話やスサノオが田んぼで暴れたことは、部族同士の争いのことだったのでしょう。
出雲神話は素戔嗚尊(スサノオ)が軍事リーダーとして奇稲田姫(イナタ姫)を助け、他の部族を従えて国ができていった物語を思わせます。
スサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)とイナタ姫(奇稲田姫)の間に生まれたのが最初のオオクニヌシの饒速日命(ニギハヤヒ)です。
弥生時代に大陸からやってきた渡来人スサノオが日本列島に移住し、縄文人(イナタ姫)と混血して国津神のニギハヤヒが生まれたことを物語っています。
古事記、日本書紀、旧事紀には神武天皇に先立ち、ニギハヤヒ(饒速日)が天下った話が出てきます。
先代旧事本紀によるとニギハヤヒ(饒速日)は、アマテラスから十種の神宝を授かり、天磐船に乗って河内国河上哮峯(いかるがのみね)に天降り、更に大和の鳥見(登美)の白庭山に遷ったとされています。
哮峯(いかるがのみね)は、今の生駒山で別名ニギハヤヒの山とよばれています。
神武天皇東征のおりに国を献上し、その恭順の意を容れ、ニギハヤヒ(饒速日)の子ウマシマジを軍と祭祀の司に命じて、物部氏はウマシマジから始まったとされています。
大倭国(やまとのくに)というこの国の呼び名は、、「虚空見つ大倭国(そらみつやまとのくに)」と、ニギハヤヒが言った事から始まるとされています。
日本書記の時代に、漢字の表記のヤマトが倭から日本に変わっています。
天皇家である天津神がやってくる前の大和に住んでいたのは、国津神たちでした。
古事記や日本書紀によると、九州から大和へ侵入した神武天皇の軍を撃退する大和地方の豪族が、登美(とみ)の長髄彦です。
東征神話によると、九州の日向の国から出発した神武天皇は、浪速を過ぎて寝屋川を遡り、生駒を超えて大倭(おおやまと)に入ろうとしました。
米を食べるようになった弥生時代になると、九州四国中国地方では10〜20倍の人口増加が起きたようです。
「ニニギ」「ホオリ」「ウガヤフキアエズ」と三代に渡って九州に勢力を広げた日向族は、おそらく人口増加により東に勢力を広げることになったのでしょう。
昔、奈良は大倭(おおやまと)と呼ばれていました。
大倭(おおやまと)に侵入した神武天皇の軍は、兄が戦死するなど、負け戦が続き、どうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。
最初の戦いで長髄彦に敗れた神武天皇の軍は、熊野に上陸して賀茂氏の先祖八咫烏(やたがらす)の案内で再度、大和に攻め入りました。
両軍は戦いを重ねましたが、神武天皇の軍はどうしても長髄彦に勝利することが出来ませんでした。
両軍が対峙して長髄彦の軍が勝どきを上げようとしたそのとき、急に空が暗くなって雹が降り出し、金色の鵄(とび)が神武天皇の弓先に止まりました。
長髄彦は、天神の子である証として天羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を神武天皇に示すと、神武天皇もまた同じ物を示しました。
長髄彦の先祖のニギハヤヒが兄で、神武天皇の先祖のニニギは弟でした。
先祖が同族だったのです。
和議の条件が、それまで一緒に暮らしていた吾平津姫(あひらずひめ)と離縁して、新たに大倭の媛蹈鞴五十姫(ひめたたらいすずひめ)と皇后として、生まれたその子を二代目天皇として継がせることでした。
四人兄弟の末っ子だった狭野命(さぬのみこと)は和議を受け入れ大倭の婿養子となり神武天皇となりました。
天津神の日向と国津神の大倭は、和合したのです。
天皇という称号が正式に使われたのは、7世紀の持統天皇の時代からでその前は大王(おおきみ)といわれていました。
記紀の記述で長髄彦(ながすねひこ)が単なる豪族ではなく、天神の子として書かれているのは、大倭の先住の国津神のニギハヤヒと長髄彦(ながすねひこ)の勢力を無視できなかったからです。
記紀神話では、高天原系の子孫が天皇に即位することになっています。
しかし、国津神系の神をないがしろにすると国が安定しません。そのバランスを取るかの様に繰り返し国津神系の神が出てきます。
弥生は国津神と天津神の二重構造になっています。
水稲農耕が始まった弥生時代は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までとみられています。
日本列島には、神武天皇以前にも卑弥呼から継続してきた、オオクニヌシ(大国主)という大王(おおきみ)が何人もいたのです。
千三百年の間に母系から男系に変わっていったのです。
大倭には、この講和条約に反対する人々がいたので神武天皇の即位は大倭から離れた柏原の地でおこなわれました。
神武天皇を認めない人々によって、再び戦乱が始まろうとしたので長髄彦は自らの命を絶ってその戦いを諌めたと言われています。
ウエツフミでは長髄彦が自害したことになっています。
神武天皇は九州で吾平津姫(あひらずひめ)を娶り、タギシミミ(多芸志美美命)とキスミミ(岐須美美命)の二人の息子がいましたが、一緒に大倭まで来ていました。
神武天皇社の隣には、離縁された吾平津姫(あひらずひめ)を祀った摂社・嗛間(ほおま)神社があります。
昔から、嫁入り行列がこの神社の前を通ることを、御法度としていました。
どうしても、婚礼が行われる際に通らねばならない時は、祠に幕を張る風習があったようです。
神武天皇に離縁された吾平津姫(あひらずひめ)に、祟られないようにしたのです。
古事記では、神武天皇の死後に神武天皇の東征に同行していたタギシミミ(手研耳命)が、神武天皇の正妃である媛蹈鞴五十姫(ひめたたらいすずひめ)を娶ったとあります。
父親の妻を息子が妻とするのは奇妙な話ですが、古代の大倭は母系だったので皇位継承は女性が握っていたことを、表していたのでしょう。
日向と大倭で争いがあり、母違いの二人の弟カムヤイミミ(神八井耳命)とカムヌナカワミミ(神渟名川耳尊)に、吾平津姫(あひらずひめ)の息子タギシミミ(手研耳命)は倒されて、日向と大倭が混血したカムヤイミミ(神八井耳命)が、第二代綏靖天皇(すいぜいてんのう)として即位しました。
綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、母のイスケヨリヒメ(姫踏鞴五十鈴媛)の妹イスズヨリヒメ(五十鈴依媛)を皇后としたとあります。
父親がいない母系社会は、娘が家を相続したので正統をアピールするには直系の女性でなければならなかったのです。
父系社会になると、男性の嫡子をたどる男系なので、家系図に女性の名前が書かれなくなりました。
古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)は、神武天皇の皇子カムヤイミミの子孫です。
神武天皇の正妃となったヤマトの媛蹈鞴五十姫(ひたたらいすずひめ)の名前は、古事記でホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須須岐比売)といい、父親はオオモノヌシ(大物主命)でした。
オオモノヌシ(大物主命)は、日本最古の神社の一つ、奈良の三輪山の大神神社に祀られている神様です。
三輪山山頂の奥津磐座(おきついわくら)は、オオモノヌシ(大物主命)を祀り、中腹付近の中津磐座(なかつおきくら)は、オオナムチ(大己貴命)、山裾の「辺津磐座(へついわくら)」は、スクナヒコナ(少彦名命)が祀られています。
いずれも、今の天皇家とは異なる、スサノオ系統の国津神の神々です。
スサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)と、イナタ姫(奇稲田姫)の間に生まれたのが、饒速日命(ニギハヤヒ)です。
そして、ニギハヤヒの別名が、オオナムチ(大己貴命)オオクニヌシ(大国主命)とオオモノヌシ(大物主大神)です。
『日本書紀』ではオオナムチ大己貴命とスクナヒコナ(少彦名命)は力を、ひとつにあわせて、天下をつくったとあります。
最初に日本列島に国を築いたのがニギハヤヒなので、古い神社は国津神のオオナムチとスサノオとニギハヤヒを祀っています。
オオクニヌシは、後から来た天皇家に国を譲りました。
天皇家の祖神アマテラスは新しい神で、出雲系の国津神はアマテラスよりも古い神なのです。
日本神話の神々は、国津神と天津神の二重構造になっています。
そして、その古層には縄文から続いてきた自然神があります。
古代は、神体山を磐座(いわくら)・磐境(いわさか)として、祭場にしていました。
その起源は、自然崇拝の対象だった、縄文時代にさかのぼります。
狩猟採集から水稲耕作に移り変わると、稲作を伝えた祖先の霊が天候神、農業神となって三輪山に祀られました。
それが、大神神社に祀られているオオモノヌシ(大物主命)です。
縄文の精霊信仰は、神社神道に吸収されていったのです。
神武天皇の皇后のホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須須岐比売)の父親は『古事記』でオオクニヌシ(大国主)と同体のオオモノヌシ(大物主)ですが『日本書紀』ではオオクニヌシ(大国主)の子のコトシロヌシ(事代主神)の長女となっています。
『古事記』に、神武天皇の皇后の母親がオオモノヌシと結ばれる話がでてきます。
ミシマノミゾクヒ(三島溝咋)の娘が美人であるという噂を聞いたオオモノヌシは、セヤタタラ姫(勢夜多々良姫)が厠(かわや)で用をたしているときに、「丹塗りの矢」となって女陰を突きました。
こうして、生まれた娘がホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)です。
母と娘の名前に共通する「タタラ」もまた、古代タタラ製鉄のタタラと関係があったことを思わせます。
ホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)のホトとは女性器のことです。
女性器の名称を口に出して言葉にすることを、現代人は下品なことと考えるので、皇后の名前に女性器の名前はつけないと思います。
おそらく、世界中探してもないかもしれません。
しかし、はるか古代、女性器の名称のホトは、全てを生み出す霊力があり神聖な女性性の象徴だったのです。
日本の縄文時代は母系社会でした。
コトシロヌシは、オオクニヌシの子供で、オオモノヌシも、いずれも出雲の国津神です。
古代の天皇家は国津神の娘を、「正妃」として迎えいれていました。
母系社会の慣習で、歴代の天皇の子供は母親の実家で育てられたので、母方の外戚が権力を握ることができたのです。
平安時代から、藤原氏の子孫から天皇の妃を迎えるのが習わしでした。何百年もたって、初めて藤原氏の子孫以外から皇后をお迎えしたのが、平成の正田美智子(しょうだ みちこ)さんです。
現在、女系天皇か男系天皇かで論争をしていますが、歴史的には、神武天皇以前の縄文から卑弥呼の時代までの、1万年以上もの時代は女性が中心でした。
そして、男性性の矢(ヤ)と女性性の的(マト)が一体になった陰陽和合の言霊がヤマトです。
古代の集落の中心にいたのは祭祀(まつり)と政治(まつりごと)をするミコ(巫女)とサニワ(沙庭・審神者)でした。
サニワは後に、ミコ(巫女)の言葉を実現するスメラミコトになりました。
スメラミコトは、統べおさめるで全体を一つにまとめて統率する意になります。
神さまの名前の後ろに必ず「ミコト」がついていますが、誰でもこの世に役割(ミコト)をもって生まれてきています。
自己の本質(ミ)に帰るコトがミコトの言霊です。
それを果たそうとする人は誰もがミコトになるわけです。
魂は肉体に宿ると、思考(ツミ)に覆われて、自分が誰なのかすっかり忘れてしまっています。
その思考(ツミ)を削いで(ツミソギ)、本当の自分に帰る祭儀(マツリ)が禊(ミソギ)です。
自我が(ツミ)が削がれて、本当の自分に気がつくと、あらゆる命が一つにつながっている一体感があります。この世界が関係性の織物でできていることを知っています。
日本が一番優れている、自分が特別という自己中心が減少して意見が異なった相手でも一方的に非難することはありません。
物事をあるがままに受容できるので相手に対する寛容さがあります。
そして、必要とあれば男女のどちらもリーダーにもサブにも回る柔軟さがあります。
男性性と女性性は相補的であり対等なのです。
自分が何者かを自覚している人々は、相互に自律的かつ調和的に協働して一つの生命体として活動します。
それが神々の活動を表す大祓詞(おおはらえのことば)の、「かむはかりにはかりたまひて」です。
地球は大きな変革の時代を迎えています。
世界は誰もが同じような顔をして、同じような服装をし、同じような考えをもち、同じような生活をする均一に向かうと考えられていましたが、世界は多様性に向かっています。
複雑系に関する先駆的な研究者、ウィリアム・ロス・アシュビー(William Ross Ashby)は進化のもっとも重要な源は多様性にあるということを言いました。
これを、アシュビーの法則(必要多様性の法則 / Low of Requisite Variety)と言います。
選択の幅が多ければ多いほど、人々は多様な自己表現をするようになります。
人々は、多様なライフスタイルを送るようになってきました。
自由と多様性を促進するには抑圧する要素である中央集権の脱集中化、社会の多様性、権威的、抑圧的な政府の排除などが重要になってきます。
これからそれが起きるでしょう。
いままでは物理的な時間と空間に束縛されてきましたが、ネットワークの導入により自宅にいて世界中の人々とつながるようになってきました。
グローバルなネットワークの構築がコロナによって促進しています。
ネットワークが発達して地球市民というアイディンテティを持つ人が増えてきました。
これから、自由と多様性を抑圧する中央集権国家は消滅して、顔が見える地域コミュニティを基本とした共同体社会に向かうでしょう。
皆様のミコト(自己の本質に帰ること)が成就されますように
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