https://www.wadatsuminokoe.org/ 【わだつみのこえ記念館―《不再戦・平和》を発信するアーカイブ館】より
photo「わだつみの悲劇を繰り返さない」誓いを後世に伝えていく施設として、アジア・太平洋戦争における日本の戦没学生を中心に、彼我あらゆる戦争犠牲者に関する資料(遺稿・遺品などの原資料、活字・映像資料その他)を広く収集して展示しています。
この記念館の設立にお力添えをいただいた皆さまに、心から感謝を申し上げ、戦没学生のひとり(田辺利宏)の詩の一節を掲げて、幾千万戦争犠牲者への追悼の辞にかえます。
遠い残雪のような希みよ、光ってあれ
たとえそれが何の光であろうとも
虚無の人をみちびく力とはなるであろう
同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
寂寥とそして精神の自由のみ
俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ
わだつみのこえ記念館
https://ooikomon.blogspot.com/2016/10/blog-post.html 【加藤哲也「一壺中一天地あり青簾」(『美しき尾』)・・・】より
加藤哲也第二句集『美しき尾』(角川書店)の集名は、
初糶や美しき尾を見初めたり 哲也
の句に因むものだろう。櫂未知子の跋文には、
彼の作風はいわゆる伝統的な俳句の作り方とは少し異なっているといっても良いかもしれない。その句がうまいか下手かといった次元を超えた、彼独自の視点による素材の切り取り方といおうか、とにかく意表を突く内容を見せてくれることが多い。(中略)
こういった作風は時に誤解されるであろうし、理解されない事態を招くこともあるだろう。しかし、自分を信じて、加藤哲也らしい作品を一句一句刻んでいって欲しい。いつか、多くの俳句愛好者が、あなたの名を口々に叫ぶ日がくるはずだ。
とある。
戦争と平和の後の昼寝かな
の句には、余談だが、三橋敏雄を想起したくらいだった。偲ぶ・三橋敏雄と前書があったら絶対にそうだと思わせただろう。
ともあれ、いくつかの句を挙げておきたい。
新緑を傷口に入れがたき日々 公魚の貌を揃へて売られをり
端居してだんだん宙へ行く身なり 影といふもののはじめや初明り
こひねこのねこからいうたいりだつせり 逃水やこともあらうに雑踏へ
大日本帝国の如麦の秋 一斉といふ空爆のあり虫時雨
http://scmjourney.blog.fc2.com/blog-entry-71.html 【一本の鉛筆】より
『一本の鉛筆』 (歌・美空ひばり/作詞・松山善三/作曲・佐藤勝) <歌詞URL>
美空ひばりさんの隠れた名曲『一本の鉛筆』は、1974年(昭和49年)の第1回「広島平和音楽祭」のために作られました。この曲を歌った頃、ひばりさんは人生で最も過酷な試練の時を迎えていました。
前年の1973年、弟の加藤哲也さんが暴力団・山口組との関わりで、度重なったトラブルの果てに懲役5年の実刑判決を受けました。それを契機に、ひばりさんへのバッシングが激化してゆきます。彼女のコンサートは日本各地でボイコットに遭い、ついに1973年のNHK紅白歌合戦落選にまで至りました。
1974年5月18日にインドが初めての核実験を決行したニュースは、世界平和を願う多くの人々に大きな衝撃を与えました。この知らせを受けて、広島テレビが第1回「広島平和音楽祭」の開催を提案します。企画賛同者の中に、映画監督・脚本家の松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏がいました。松山氏の兄が太平洋戦争の際にパプアニューギニアで戦死した体験から、作詞者は広島平和音楽祭のために書いた『一本の鉛筆』の詩に、はるか遠い異国の地で果てた「兄への鎮魂歌」の思いも含めました。
加藤和枝さん(美空ひばりさんの本名)も少女時代、父親の増吉(ますきち)氏が戦争に行き、母親の喜美枝(きみえ)さんが近くの土地に防空壕を作ってくれたおかげで、悲惨な横浜大空襲を生き延びた体験を持っていました。アメリカ軍戦闘機「B-29」による大空襲があったのは1945年(昭和20年)5月29日で、ちょうど和枝さんの8歳の誕生日でした。
芸能界の人気歌手になってからも、ひばりさんは18歳の時に「今何が欲しいか」と質問されて「この世の中から戦争がなくなって欲しい」と答えたそうです。
広島平和音楽祭で美空ひばりさんが『一本の鉛筆』を歌う話は、当時の世論のみならず、広島の被爆者団体からも猛烈な反発を浴びました。家族揃って暴力団との関わりがある彼女に「反戦歌などうたってほしくない」と非難の声が上がり、音楽祭主催者は被爆者団体の説得に悪戦苦闘します。ようやく被爆者たちも折れて、ひばりさんは1974年8月9日の音楽祭ステージに立ちました。
歌に入る前に、ひばりさんは自分で用意したスピーチを語り、その中で自らの揺るぎない決意を表明しました。世界平和への道がいかに厳しくとも、バッシングの渦中にある自分の境遇がいかに苦しくとも。
「昭和12年5月29日生まれ。本名加藤和枝。私は横浜で生まれました。戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。…(以下略)…」
「茨の道が続こうと、平和のために我歌わん」
第1回広島平和音楽祭の会場だった広島体育館には冷房装備がなく、楽屋にも1本の氷柱が立っているだけでした。そこで自分の出番を待つ間、ひばりさんは話しかけてきた広島テレビのフロアディレクターに「あの時の広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」と答えたそうです。しかしながら、そういった舞台裏の話が彼女の生前に語られることはありませんでした。
それから14年後、美空ひばりさんは1988年の第15回広島平和音楽祭へ旅立ちました。前年の長期入院から復帰した彼女は「もう1度、あの広島で『一本の鉛筆』を歌いたい」と強く希望し、病気をおして再び平和への祈りを歌に託そうとしたのです。会場は広島サンプラザホールでした。
数年前から体調不良をおして仕事を続けてきたひばりさんは、1987年4月に福岡市内の病院で「大腿骨骨頭壊死」(だいたいこつこっとうえし)と肝臓病の診断を受け、3か月を超す長期入院生活を送りました。1988年4月11日、ひばりさんは東京ドームの「不死鳥コンサート」で復帰の舞台を飾り、3か月後の7月29日に14年ぶりの広島平和音楽祭へ向かいます。不治の病を抱えたひばりさんは、自分のベッドを東京から広島の楽屋へ運び込み、出番でない時は横になって点滴を打たねばならないほどでした。それでも、観客の前では終始笑顔を絶やさず、ステージの最初に彼女自身の「命の歌」である『一本の鉛筆』を歌い上げました。総計7曲を歌ったコンサートの新聞報道では、7年前に亡くなった母親・喜美枝さんの命日を偲んで歌われた『芸道一代』に注目が集まり、14年ぶりの『一本の鉛筆』に触れた記事はほとんどなかったそうです。
生前のひばりさんは、自分の「好きな持ち歌ベスト10」に『一本の鉛筆』を含めており、自身唯一の反戦歌にひときわ強い愛着を持っていました。
第15回広島平和音楽祭出演から1年もたたないうちに、美空ひばりさんは1989年6月24日、52歳で帰らぬ人となりました。死因は大腿骨骨頭壊死と肝臓病に加えて「間質性肺炎による呼吸不全」と発表されました。日本全国が深い悲しみに包まれ、テレビでは多数の追悼番組が放映されました。死の前年に、あの広島で残り少ない力を振り絞って歌った『一本の鉛筆』のビデオも流れました。
ひばりさんの生前にはほとんど真価を認められなかった『一本の鉛筆』ですが、彼女の没後になってから歌の人気がじわじわと上昇してゆきます。あれから20年の歳月を経て、2008年にソプラノ歌手・丹藤まさみさんが新録音のCDを発表しました。(資料提供:朝日新聞・松山大学/CD紹介)
<本記事の参考文献>
1.森啓著『美空ひばり 燃えつきるまで』144-147ページ(草思社、2001年12月刊)
2.新井恵美子著『美空ひばり ふたたび』197-214ページ(北辰堂出版、2008年9月刊)
3.新井恵美子著『美空ひばり 神がくれた三曲』163-168ページ(北辰堂出版、2009年3月刊)
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