『棺一基』

https://note.com/muratatu/n/n0473c2346197 【『棺一基』大道寺将司句集 ――何時如何なるときも俳句は精神に寄り添う】より

武良竜彦(むらたつひこ)

棺一基 大道寺將司全句集

  ひとつ見えて秋燈獄に近よらず    秋元不死男

  堕ちる天ささえがたしや獨房に    栗林一石路

  大戦起こるこの日のために獄をたまわる 橋本夢道

  年経てもなほ生きぬかん寒の獄    大道寺将司

この四句に共通するのは、その表現主体が獄中に在ることです。

そして決定的に違うのは、不死男、一石路、夢道は囚われる前から俳人であったが、大道寺将司は囚われた後に俳人となったことです。

 この違いが大道寺将司の悲劇の最大の原因です。

大道寺将司が不死男たちのように最初から俳人だったら、その手に爆弾を手にすることなく、ペンだけを握り締めていたかもしれません。そのことを私は、我が事のように惜しみます。

不死男たちの収監は戦前の思想弾圧ですが、大道寺将司は、仲間と起こした、意図しなかったとは言えたくさんの死傷者を出した事件が原因です。

前者の不死男、一石路、夢道たちの投獄の経緯は「京大俳句事件」と呼ばれる弾圧事件です。

昭和十五年、昭和十六年と二度にわたり、新興俳句の自由主義的傾向に対し、軍国政策に反するとして治安維持法を濫用し、特高警察により新興俳句系俳人が集団検挙され投獄されています。

「京大俳句」は創刊当時、白泉、栄坊等による社会風刺俳句、戦火想望俳句、生活の暗部に視点を置いた銃後俳句などが盛んに作られていました。体制側はそれを「人民戦線的活動」と決めつけ弾圧したのです。

当局が検挙の理由としたのが、治安維持法で、結社の自由の標榜、無季俳句を肯定し伝統破壊、社会秩序の破壊をしたことと言いますから驚きです。

 二月に検挙されたのは平畑静塔たち、五月には和田辺水楼、石橋辰之助、渡辺白泉たち、八月には西東三鬼等「京大俳句」関係者十五名が検挙されました。

翌十六年には、俳誌「土上」関係者の嶋田青峰、東京三(秋元不死男)、俳誌「広場」関係の藤田初巳、細谷源二、中台春嶺、林三郎。

俳誌「俳句生活」関係として栗林一石路、橋本夢道、神代藤平、横山林二、俳誌「生活」関係者として平沢栄一郎等十三名が検挙されています。

十月には地方にも波及してゆきました。

一方、戦後の東アジア反日武装戦線(通称「狼」)の大道寺将司たちの投獄の理由は次のようにされています。

一九七四年八月十二日から十三日にかけて、天皇特別列車を爆破するため、東京都北区の荒川鉄橋に手製爆弾二個を装着しようとした爆発物取締罰則違反、殺人予備罪(作戦名「虹」)。

一九七四年八月三十日、東京都千代田区の三菱重工ビルを爆破し死者八人、重軽傷者百六十五人を出した爆発物取締罰則違反、殺人、殺人未遂罪。

その他、一九七五年四月にかけて、九件の爆破事件を起こした爆発物取締罰則違反。

一九八七年三月二十四日。最高裁第三小法廷、伊藤正己裁判長により上告棄却、死刑確定。

一九八八年に第一次再審請求したが、一九九一年、最高裁で棄却が確定。

 一九九三年六月、三菱重工ビル爆破に使用された爆弾の新たな鑑定に基づき、「爆弾の威力がこれほど強いとは認識していなかった。殺意はなかった」と第二次再審請求。

二〇〇六年十一月二十二日、東京地裁は、「威力を正確に認識している必要はなく、再審を決定する明白な証拠にあたらない」として退けます。

二〇〇七年六月五日、東京高裁(原田国男裁判長)は「再審を開始する理由がない」として、両死刑囚の即時抗告を棄却する決定をしました。決定は「威力のある爆弾の製造を目指し、改良を重ねていた」などと判断し、二人の「人を殺害するほどの威力があると認識しておらず、殺意はなかった」という主張を退けました。

二〇〇八年十二月十七日、最高裁第三小法廷(堀籠幸男裁判長)は「抗告できる理由に当たらない」として再審開始を認めず、二人の特別抗告を棄却する決定をしました。

 三菱重工爆破では、彼らは事前に予告してビル周辺に人が近づかないよう警告しています。

しかし三菱重工側は自社が何故、彼等の怒りを買い(武器製造と販売などを彼等は指弾していました)、攻撃の対象となっていることについての自覚などありませんから、その通告を深刻に受け止めず、なんの対策も講じなかったのです。

その結果、図らずも死傷者が出てしまいました。その経緯を見ただけでも、大道寺たちに殺意がなかったことは明らかです。だから殺人罪の適用はおかしい。

意図しない結果の被害者の死亡事故なら、日本の量刑制度(人が死んだ罪で刑の軽重を云々する、その量刑の思想も理解できませんが)では交通事故と同じです。その視点による裁判検証はされず死刑が確定したのです。そもそも死刑制度は憲法三十六条に違反しているにもかかわらず。

私は死刑制度には反対です。

それは、よく主張される人道的理由からではなく、いかなる理由があろうと、国家に殺人権を与えてはいけないと思うからです。同じように個人にも殺人権はないとすることで、国家と個人が釣り合うからです。

個人に殺人権がないのなら、個人が構成する国家が殺人権を持つことに整合性はない。

そんな法制度の不備な国家が、国民に死刑判決を言い渡す資格などありません。

彼は私と同じ一九四八年の戦後生まれです。

彼とその仲間が三菱重工ビル爆破事件を起こした一九七四年八月三十日。爆破の十分前に私は仕事でそのビルの前を通っています。

有楽町の駅周辺で、私はその事件を電気屋の陳列テレビで知り、足の震えが止まりませんでした。

時間が少しずれていたら、死者八人、重軽傷者百六十五人を出した事件の、ガラスの破片塗れになった被害者の一人になっていたかも知れないという衝撃と、それとは別の思いが交錯し、その場にしゃがみ込みました。

別の思いとは。

私たちの世代の一部は、社会に対する怒りを内包して生きている人がいました。私は身内の長崎原爆による被害、水俣病被害などの体験でこの国を憎んでいました。

その原因をつくった連中を、爆殺してやりたい気持ちを抱えて生きていたのです。

大道寺たちの視野は外に向けられていて、他民族にたいしてこの国がやってきたこと、今やっていることに目を向けているが故の怒りでした。

内容は違っても両者の怒りにはどこか共振するところがあります。

だからその闘争の結果、死傷者を出してしまったことに対して、「ああ、とうとうやってしまったか」という思いを抱いたのです。

こう書いても、もちろん彼等の行為の「正当性」を述べているのではありません。彼らの武力闘争とその結果には短絡的錯誤があります。

ニューヨーク同時多発テロが起き、テロリスト制裁を国是とする大合唱が起こったとき、作家のスーザン・ソンタグが冷静にそれを批判したときの言葉のように、私たちは物事の単純化の罠に捉われてはならないのです。

複雑な現実と人の個別的尊厳を、真っ当に言語化するのが真の闘いなのです。

大道寺将司は収監二十七年後に俳句を詠むようになっています。文学的資質を持った青年だったのです。

繰り返しになりますが、事件を起こす以前から秋元不死男たちのように、大道寺将司が俳人であったら、彼は爆弾を手にすることはなく、人生の大半を死刑囚として獄に繋がれることはなかったかもしれません。

秋元不死男は、戦前「東京三(ひがし・きょうぞう)」という俳名を使っていました。この「東」と「京三」を入れ変えて「京三東」とすると、「きょうさんとう(共産党)」と読めることから、共産党のシンパだった彼のアラナグムだという説があります。当時の共産党は天皇制を含む徹底した体制批判闘争を展開していました。そこにシンパシ―を感じていた若者は多かったはずです。

秋元の本名は不二雄です。戦後、不死男と号したのは、特高になぶり殺しにされた多喜二を悼む、次の句があることからも、国家に殺されてたまるかという意思表示だったのではないでしょうか。

多喜二忌や絲きりきりとハムの腕

     (原文では後の「きり」は繰り返し記号)

弾圧によって一度は縛されたが、釈放されてその後の人生を全うした三人の、その後の俳句を引用しておきます。

 つばくろやひとが笛ふく生きるため    不死男

冬茨農民なれば武器持たず        一石路

猛烈に生きたし見よぜんまいの炎の渦   夢道

一方、大道寺将司は死刑囚という身となってから俳人になりました。

一九九六年、収監二十一年目、四十八歳のときの次の俳句から、彼の作句は始まっています。

 友が病む獄舎の冬の安けしを     大道寺将司

自分のことではなく、他人に向けた思いから作句から始まっていることに、この作者の心優しさを感じます。

そして死刑制度の向こうに控える国家と向き合い、自他の死と向き合う俳句を詠み続けています。

やや多い引用になりますが、年代順に揚げてみます。

 五月闇刑死の恨み籠りけり      一九九七年

 生かされて四十九年の薄暑かな    蟷螂や二度と執行許すまじ

過激派のままにてよろしちちろ虫

大逆の刑徒偲ぶる寒暮かな      一九九八年

凍蝶や監獄の壁越えられず      新聞に塗りつぶしあり房冴ゆる

革命の夢破れたり遠花火       死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ

鳥帰る死刑制度の弛びしも      一九九九年

君が代を齧り尽せよ夜盗虫      日の丸に尿放てよ蚤虱

干蒲団死者に貰ひし命かな      二○○○年

春雷に死者たちの声重なれり     花影や死は工まれて訪るる

方寸に悔数多あり麦の秋       希望とは変革の謂夏満月

死は罪の償ひなるや金亀子      まなうらに死者の陰画や秋の暮

ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな

凍てゆるむ大地に死者の呻きあり   二○○一年

まなうらの虹崩るるや鳥曇       死を抱き人は生まれく岩清水

夢でまた人危めけり霹靂神

顧みて身悶ゆるなり春の雷       二○○二年

さなきだに罪抱へをり春疾風     人を殺めし人の真心草茂る

いくたりを犯さば忠か敗戦忌     亡き人の声の満ちくる秋風裡

国ありて生くるにあらず散紅葉

わが胸に杭深々と風光る        二○○三年

失ひしものみな愛し初蛍       寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり

冥府にて眺むる月はいかならむ     死者たちの瞋恚か北の募りけり

重なりて日の当らざる柿一つ      二○○四年

紛れざる木犀の香と哀しみと      底冷えや国家の貌の顕るる

若きらの日の丸振りて桜冷ゆ      二○○五年

霾るや街なかに基地広ごりて     八州の闇の深さやいなびかり

掃苔や爆破の銘の紛れなく      生きの身に明日の影おく望の夜

霙打つ国に零るる侵略史

ありあけの国家綻ぶ落椿        二○○六年

花冷えや罪業てふ身の火照      瘡蓋を剥けばおぼろの国家かな

太古より繋がるいのち虹二重     短夜や夢見るための力あり

亀鳴くや告げられし死を数ふれば    二○○七年

棺一基四顧茫々とと霞みけり     南風や死は員数となりはつる

縊られし晩間匂ふ桐の花       西日さす腐臭の淀む美し国

生類はなべて没しぬ岩清水      亡き人は言葉発せず雪蛍

垂るる紐捩れ止まざる春一番      二○○八年

ひからかさ異界の端に連なりぬ     摂待や明日の生死は測らざる

雲彩に卜する生死梅雨の明       蟇鳴くや罪の記憶を新たにし

夕焼けて囚はれの身を肯ずる      かはたれの身の内かさと穴惑

おそらくは死に泥まざる雪蛍      古里のそののち知らず啼く千鳥

数入らぬ人に生かされ悴めり

傷みしは世間や吾か雨蛙        二○○九年

仕置きといふ合鏡やちちろ鳴く     身を捨つる論理貧しく着膨れぬ

いにしへの死を懐かしみ年を越す

衣更着や存ふことは痛むこと      二○一○年

病み伏して他の痛み知る浅き春     刑死者の服を纏ひて寒き春      

斑雪人を助けし死者の辺に       二○一一年

加害者となる被曝地の凍返る      風車幸多き世を生ましめよ

炎昼やはるけくも来し水脈の前     悔い多き吾が額叩く驟雨かな

生者より死者に親しきゐのこづち    死ぬるあと物相の渋濃かりけり

無主物を凍てる山河に撒き散らす    二○一二年

若きらの踏み出すさきの枯野かな

引用はすべて句集『棺一基』(太田出版)から。

許可もなく勝手にたくさん引用してしまい、句集の販売に悪影響がでることを心配しますが、ぜひ、購入して読んでください。句集には辺見庸氏が鋭い論考を寄せています。

この全句集自身が辺見氏の情熱と企画の賜物です。私は電車ですぐ荒川土手に行ける場所に住んでいます。この句集を手にする遥か以前、彼らの未遂に終わった「虹作戦」を知り、その問題の荒川鉄橋の見える場所まで歩いたことがあります。その日も足の震えが止まりませんでした。その同じ荒川土手から見える、いま彼が収監されている小菅刑務所の見える所に、この句集を携帯しページを開き、黙読しました。もう私の足は震えませんでした。

何時如何なる時も、精神に寄り添う俳句が、一日も永く彼に寄り添ってくれることを、願わずにはいられません


https://book.asahi.com/article/11642777 【「棺一基 大道寺将司全句集」書評 自らの死と向き合うまなざし】より

評者: 田中優子 / 朝⽇新聞掲載:2012年06月17日

棺一基四顧茫々と霞みけり 胸底は海のとどろやあらえみし はろばろと夜寒の故里を浅眠り 東アジア反日武装戦線“狼”部隊のメンバーで、獄中で闘病生活を送る著者の全句集。辺見庸…

棺一基 大道寺将司全句集 [著]大道寺将司

 『棺一基』という書名は、本書の中の句「棺一基四顧茫々(しこぼうぼう)と霞(かす)みけり」から採られた。霞は春の季語。「四顧」とあるからには、そこにまわりを見渡す者がいる。それは誰なのか? 木棺に横たわる死者か。

 私はここに、霞の中にたたずんで自らの屍(しかばね)が入っている棺をみつめる、死者その人のまなざしを感じる。白い闇が際限なく広がる。その中心に木棺が一基のみ、孤絶に、そこにある。このように死と向き合って一日一日を生きる。それが死刑囚の毎日だ。

 大道寺将司は「東アジア反日武装戦線」のなかの「狼(おおかみ)」というグループのメンバーだった。一九七四年の三菱重工爆破事件で逮捕され、死刑が確定している。この直前、狼は昭和天皇お召し列車の爆破を計画し、未遂に終わった。それは「虹作戦」と呼ばれていた。一九六〇〜七〇年代に運動する者たちは、戦中戦後、東アジア諸国で日本がおこなってきたことを、自らの問題として問うていた。

 「狼は檻(おり)の中にて飼はれけり」という一九九七年の句から私は、大道寺がその記憶を身体に刻み込み、決して手放していないことに思い至る。二〇〇二年「国ありて生くるにあらず散紅葉(ちりもみじ)」、二〇一一年「げぢげぢの地を這(は)ひ回り逆徒臥す」。娑婆(しゃば)の経済は忘却で成り立っているが、この句集はますます濃密になる記憶と、季節の移ろいへの鋭敏な言葉で出来上がっている。「水底の屍(かばね)照らすや夏の月」「戻られぬ地の片陰(かたかげ)に笹子(ささこ)鳴く」——二〇一一年の震災後、津波で連れ去られた人を水底に観じ、原発で誰も戻らない場所を全身で受け止めている。そして、幾度も傍らにおこなわれた死刑執行。「垂るる紐捩(ひもねじ)れ止まざる春一番」。季語という共有の場でのみ、唯一無二の彼に出会うことができる。

 序文と跋文(ばつぶん)を辺見庸が書いている。一読の価値大いにあり。それこそこの句集のもっとも見事な書評であって、それを越えることはできない。


http://petalismos.net/tanka/kanran/kanran104.html 【第104回 大道寺将司『棺一基』】より

まなうらの虹崩るるや鳥曇

      大道寺将司『棺一基』

 著者の大道寺将司だいどうじ まさしの名に聞き覚えがあるのは、私と同年代かそれ以上の年齢の人だろう。大道寺は1948年生まれ。新左翼過激派の活動家で、東アジア反日武装戦線「狼」を名乗り、1974年に丸の内の三菱重工東京本社ビルを爆破するという爆弾テロを起こした。このテロにより8名が死亡し、376名が負傷。大道寺はこの事件を含む三件の事件の咎により、1979年に死刑判決を受けた。この判決は1987年に最高裁で確定。以後長きにわたり死刑囚として巣鴨の東京拘置所の獄中にある。すでに句集『友へ 大道寺将司句集』、『鴉の目 大道寺将司句集 II 』があるが、既刊の句集から選んだものと新作を合わせて、このたび『棺一基 大道寺将司全句集』が上梓された。

 序文と跋文を辺見庸が書いている。辺見は単に文章を寄せただけではなく、東京拘置所に足を運んで大道寺と面会し、句集の刊行を熱心に勧めたとあるので、実質的に本書のプロデューサーであり編集者でもある。行きつ戻りつと地を這うような運動を執拗に反復し、内臓に触れんばかりに迫って来る辺見の文体を、もともと私はあまり好まないのだが、本書に限っては辺見独特の文体は、本句集の主調をなすトーンと絶妙に照応し、本句集に解説文を書くことができるのは辺見以外にありえないと思わせるほどである。句集題名は集中の「棺一基四顧茫々と霞みけり」に由来する。言うまでもなくこの棺とは、死刑囚である大道寺が入ることになる棺桶である。生と死のあわいを凝視した句で、大道寺のような境涯にいる人以外には作り得ない句であろう。

 獄中にあるという境涯と短歌や俳句などの短詩型文学との繋がりは深いものがある。一ノ関忠人は「短歌の生理 抄」(セレクション歌人『一ノ関忠人集』収録)という文章で辞世や死刑囚の歌を取り上げて、「死と短歌は不可分のものとしてある」と断じているが、同感である。狭い獄中で読書以外にできることは限られているという物理的制約もあろうが、何より死刑囚として自らの死と日々向き合うという極限的状況が、人をして短歌や俳句に向かわせるのだろう。連合赤軍浅間山荘事件の死刑囚・坂口弘の歌集『常しへの道』や、カリフォルニアで終身刑の獄にある郷隼人の歌文集『ロンサム隼人』を見てもそのことは得心できよう。辺見は序文の中で、大道寺は「俳句にいまや全実存を託したのだ」と述べているが、「実存」という現代では流行らない言葉が、本句集を読むとその重みのすべてをかけて迫って来る。その言葉の圧は他に類を見ない。

 編年体で構成された本句集の巻頭近くには、俳句に手を染めて間もないと覚しき句が並ぶ。取り立てて言うところのないふつうの句である。

蒲団干し日向の匂ひ運びけり        差し入れの甘夏薫る人屋かな

生かされて四十九年の薄暑かな        秋の蝶病気見舞ひに来る窓辺

ケバラ忌や小声で歌ふ革命歌         寒中や昼餉に食ふメンチカツ

身のうちの虚空に懸かる旱星

 有季定型という形式が常人の域を超えて作者にとって重みを持つことに留意したい。狭い独房は極限まで縮小された世界で、獄中の人はわずかにのぞく窓の隙間から吹く風や入り込む花びらによってのみ外界の変化を知る。規則で定められた単調な日常の反復のなかで、季節の変化は唯一自己の生を確認できるよすがなのだ。干した蒲団の日向の匂いや、差し入れの甘夏や、獄中に迷い込む蝶などのこの世の微細な変化や事物を掬い取るのは、俳句や短歌などの短詩型がもともと得意としていることである。歩いて数歩の狭い独房が乾坤のすべてという極限的状況は、病床六尺が世界のすべてであった子規の晩年の境涯と通じるところがある。世界の狭さと詩型の小ささとが絶妙に釣り合っていると言うべきか。

 東京拘置所では死刑が執行される。囚徒にそれが告げられることはないが、拘置所内の空気で察せられるようだ。次の一句目には「死刑執行あり」という詞書が付されている。いずれも絶句して読むほかない句である。

看守みな吾を避けゐる梅雨寒し         夏深し魂消る声の残りけり

花影や死は工たくまれて訪るる         絞縄の揺れ停まりて年明くる

縊られし晩間匂ふ桐の花

 集中には「君が代を囓り尽くせよ夜盗虫」「狼や見果てぬ夢を追ひ続け」のように、左翼活動家の本懐を詠んだ句も散見されるが、作者の想いは徐々に自らが手を下した爆弾テロへの悔悟と犠牲となった死者へと向かう。

死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ        春雷に死者たちの声重なれり

ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな         夢でまた人危めけり霹靂神

わが胸に杭深々と風光る             掃苔や爆破の銘のまぎれなく

ででむしやまなうら過る死者の影

 読んでいて痛感するのは、最初は獄中の手すさびから始めた俳句だったかもしれないが、それがやがて自己を凝視する道へと意味を深化させていることである。

蚊とんぼや囚はれの身の影は濃き        汗疹して今日の命を諾へる

干蒲団死者に貰ひし命かな           揺れやまぬ生死しょうじのあはひ花芒

身ひとつに曳く影ながし九月尽         厭はれしままにて消ゆる秋の蝿

木菟啼いて吾が病臭に噎せにけり        身の奥の癌の燃え立つ大暑かな

 「俳句に全実存を託した」という辺見の物言いが決して大袈裟に感じられないのはこのような句に出会った時である。囚徒の影はなぜ濃いか。それは身の内に抱えているものが重いからであるが、同時に影を見据える眼差しが研ぎ澄まされて来るからでもある。死と向き合う作者の眼差しは「末期の眼」に似るが、実は作者が抱える死は三つある。ひとつは爆弾テロの犠牲者となった他者の死、ふたつはいつ執行されるかわからない死刑による自らの死、それに加えて獄中で発症した癌がもたらす死である。幽明の境に揺れる作者から放たれる言葉は、俳句の技術的巧拙というレベルを超えて読む人に迫って来る。

 確定死刑囚という作者の境涯とは無関係な次のような句にも、死と死が逆照射する生がくきやかに封じ込まれている。

月光のきはまりて影紛れなし      天日を隠してゆける黒揚羽

止まりて柵しがらみ越ゆる秋の水       滝氷柱いのちのとよみ封じをり

水底の屍照らすや夏の月

 死を思うことで私たちは生の根源に触れる。そこにこそ文学の存在理由がある。また俳句という定型の器が大道寺にこのような自己深化を可能ならしめたことは記憶に留めるべきだろう。ここで空想してみよう。大道寺が獄中で現代詩を書いたとしたならば、ここまでの自己深化を遂げることができただろうか。いや、そもそも獄中の死刑囚が形式に何の制約もない自由な現代詩を書こうと思うだろうか。想像しがたいことである。有季定型の持つ制約そのものが、極限的な不自由状況において自己深化の機縁となるのである。ここに説明に窮する不可思議な逆説があり、定型にはそのような力があることを認めねばなるまい。炎暑の葉月にそのことを今一度想起するのも悪くはなかろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000