https://oobooshingo.blogspot.com/2012/03/blog-post.html 【世界の俳句】より
有季‧無季 定型.自由律 花鳥諷詠‧人情世故 時事‧社会 客観写生‧主観感動
みんな みんなの母語でよむ俳句
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齢七十五にてつと去りし日を振り返りみて我自身を知る…
波の間に間に 流されるまま 人を羨むことなく 求めることなく
世間と争わず なれど 荒波に遭うを 免れ能わず
思いもよらない 公務員年金を亨く 多からずとも又 少なからず
命を保つに 憂うこと無し
キーボードを たたいて インターネットに遊ぶ
得るところ有れば 又与える事もあり
名利共に 余生の外にあり
(オーボー真悟)
#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の短詩集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。
(オーボー真悟)
The Global HAIKU Net: https://olddoc.net/global-haiku/index-H.html
2012年3月18日日曜日
一外国人の俳句手習い手記(3)俳句、世界俳句、漢語俳句
「俳句」、「世界俳句」、「漢語/漢字俳句」
吳昭新(瞈望、オーボー真悟)、Chiau-Shin NGO
会場の皆様、よくいらっしゃいました。
今日、私がお話しますのは「世界俳句と漢字/漢語俳句」についてです。
たぶん諸君のうちの多くの人がはじめて聞く言葉で、そして新しいと共にまた少し困惑されるものかと思われます。と言いますのは諸君がこの会に参加に来られたからには、当然みんなの知識の中ではすでに「俳句」と言う一句に関して一定の概念がおありの筈で、少なくともそれが日本語の短い詩であることはご存知の筈です。
これまで台湾では「俳句」と言う言葉はあまり聞かれない語彙で、一般の方にはあまり知られていません。たとへ知っておられる方でもただ日本の短詩であると言うぐらいという事でしょう。その実、現在文芸に関して少しは関心をもっていらっしゃる方は、多少何が「俳句」であるか、そして90年代の前半においてある一時期台湾でもある人たちが漢語/漢字で俳句を作ったことがあり、「中国時報」の《人間》や「聯合報」の文芸欄で一時扱われたが、間もなく忘れられたことを知っています。
最近、台湾のネットでもたまに日本語の俳句が見られ、また漢字で書いた俳句(漢語/字俳句)もみられます。私の推測ではたぶん若い人たちが同じように華語、漢字を使う対岸の中国において、所謂の「漢俳」が流行している現状をみて、同じような完全な華語教育を受けている台湾の若い人、中壮年者(70歳以下)がたやすく「漢語/漢字俳句」に馴染んでしまう結果になるのには、理解が難しくありません。そして、「日本語俳句」は日本へ留学して帰国した一部分の若い人たちが日本俳句に興味を感じた影響もあると思います。それ以外にも少なからず台湾もしくは日本で日本語または日本文化を研究している学生たちが、どうして日本俳句を修士、博士論文のテーマにしているのかは私には見当がつきません。
「漢俳」に関しては、私は「俳句」の一種とは認めませんが、確かに中国でここ二、三十年来流行している新興(新型)漢語短詩で、詩経、楚辞、唐詩、宋詞、元曲等に継ぐ漢語詩詞の最新の一型であるのには間違いありません。「漢俳」は短小にして、詠みやすく、了解しやすいのです。そして、この情報が氾濫し知識の細分化が繁雑に過ぎる現今の社会に、最も適合した漢語詩詞で、中国或いは漢語界の一般大衆から歓迎される詩型であります、そして皆で共に鑑賞、享受、推奨すべきです。で、その本質は「俳句」とは全く違うゆえ、「俳句」の一類型とは認められませんが、新しい親しみやすい新中国詩形ですので日中両国の詩歌界で、特に日本の漢詩界で中国詩詞の推進のために詠まれることを願っております。その理由は後で詳しく説明いたします。
「俳句」がどうして全世界に広まって、各種の言語使用者から受け入れられ、はてはいかなる言語でも吟詠できる短詩になったか、逆に、少なくない日本の「伝統俳句」の俳人が、このような潮流に反対し、日本の民族文化が世界に広がる事実の栄光を受けたくないのかを了解するために、私はもっとも基本たる「俳句」の本質、変遷歴史および実際状況について諸君に簡単に、列挙して説明をしようと思います。
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《俳句》
(一)俳句とは?
1.文芸:
文芸は文学と芸術の意味であり、詩とはまた文学の一種であり、一人の人間が大自然、人事、周囲の事物から受けた感動を、韻律、節奏ある形式(声に出し、又は字で書き出して詠む)で表現する言語形式です。
2.俳句 (HAIKU):
‧「俳句」(HAIKU)(広義)は詩の一種であり、世界で最短の詩形の一種で日本に起源し、そのご各種の言語で世界に広まりました。
3.感動:
‧「感動」とは人間が日常生活で出会う全ての出来事(人情義理)に対する反応です。
‧ 動物、たとえば犬はその感情をいろんな行動で表現することは出来るが人間様のようには記号で表現することは出来ません。
‧ 人間様にはこれが出来ます、まさにローラン‧バトルの言う「記号の帝国」の俳句ではないでしょうか。
‧ 感動が人類が日常生活で出会う全ての事柄(自然環境、人情義理)に対する反応であるならば、人間の感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚)、人情、人事、倫理、論理及び哲学など全般を含むべく、また主観、客観のどちらをも含むべきです。
4.日本の短詩:
‧ 日本には現在三種類の短詩があります。「短歌」、「俳句」、「川柳」、そして「俳句」は世界で一番短い詩だといわれています。「俳句」も「川柳」も共に十七音の定型短詩であり、ただ「季語」の有無と詠む内容が違うというだけで、時代と社会の変遷により既に「俳句」に似た「川柳」、または「川柳」に似た「俳句」などが詠まれておる現状の下で、「俳句」と「川柳」などと区別する必要はなく、あっさり「俳柳」、「柳俳」または「五七五定型」と言えばいいんじゃないかと言う意見も出ています。
その実、中国の「詩詞」にも七或るいは十字の短詩があります、しかし中国の漢字は一字一音で、一字が表現する内容は約日本語の二~三音に等しく、七~十字の詩詞の内容は日本語の約十四~二十音に等しいので、日本の俳句もしくは川柳と同じ内容量/情報量になります。
5. 俳句の変遷
俳句は日本奈良時代(710~784)の「短歌」から「連歌」、「俳諧」、「發句」から変遷したのです。和歌(短歌)→連歌→俳諧連歌→俳諧→(発句の独立)→俳句。
‧ 短歌(奈良時代;貴族;5-7-5-7-7音)
‧ 連歌(鎌倉時代;文人;5-7-5,7-7,5-7-5,7-7,5-7-5,......音)
‧ 俳諧(室町時代;庶民;5-7-5音)
‧ 発句(江戶時代;文芸;5-7-5音)
‧ 川柳(江戶時代;詼諧;5-7-5音)
‧ 俳句(明治時代;正岡子規;文学;5-7-5)
6. 俳句の本質
下記の特質を有します:
‧ 詩情,
‧ 短小,
‧ 韻律(節奏、拍子):朗読または口ずさむとき、語呂がよく、音楽性がある。
‧ 余韻(鐘の音のように余韻がある)
‧ 余白を残す(水墨画のごとく余白をのこす)
‧ 含む?(禅-鈴木大拙)
(二) 俳句の類型
「俳句」と言う名称は明治時代に正岡子規によって命名されたのです。
二種に分類されます:
‧傳統俳句
‧非傳統俳句(前衛、新興、…俳句等)
1. 傳統俳句(定型、有季):
正岡子規(1867-1902 ):によって定義され,一定の音数、季節に関する語彙(季語、季題)と「切れ」字を必要とし、そして客観写生を主とする。
‧ 五七五(十七音節):分上、中、下三段に分けられ,第一段は五音節,第二段は七音節,第三段は五音節となり、これに符合しない場合は「破調」と言い、音数がよけいのばあいは「字余り」足りない場合は「字足らず」と言います。
‧ 季語(題):季節に関する言葉を必要とする。
‧ 切:一句の終わりを表す。
‧ 写生:詠む内容は大自然と関係があるべきで、見たままを描写する。
2. 非伝統俳句 :
‧伝統俳句の制約によらざる俳句(五七五定型、季語、切詞、寫生)を言う。俳句は内容、形式の違い、または詠まれた時点によって、ことなる呼称によって呼ばれる。詳細は後述す。
‧「雑」:子規は俳句とは上述の制約を必要とすると言ったが、決して制約に合わない句は俳句ではないと言うてはいない、そして制約に符合しない句は「雑」の項に帰して、やはり俳句としている。
(三)子規の弟子:
子規は「俳句」の創始者であり、また命名者でもある。彼の弟子たちの中で特に有名な人が二人います、人呼んで子規の双璧という高浜虚子と河東碧梧桐の二人のことです。二人は別々の道を歩きました、一人は子規が決めた制約を守る道を歩き、もう一人は従わない道を選びました。しかし、二人とも後世の人々に喜んで鑑賞される作品を残しており、俳句史のなかで特に注意を受けており、はっきりした軌跡を残しました。子規は二人の弟子を評して曰く「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷やかなること氷の如し」と。ネット上では「碧梧桐はリーダーとしての気質に欠くゆえ、一生涯常においしい部分を人に取られた、しかし、その行脚三千里の著作を見るに、その俳句に対する打ち込みは誰にも劣らず、惜しむべき人なりと。それに比べるに虚子は生まれつき、何事にもいい加減な性質だが、それでいつも一番おいしい部分を掻っ攫うという、まさに世渡り上手で、褒められる事ではありませんが、これだけで批評を下すのもまた公平じゃないという人もあり、事実上虚子あっての今日の俳句の盛況があるのである。」
‧ 高浜虚子(1874~1959):
俳句界では通常「虚子」で通っている。虚子は子規の六つ年下、同郷であり、学生時代から上京して勉強している子規を尊敬していた。子規が休暇で学校から帰ってくるといつもついていた、そして子規もとても彼を可愛がっていて、彼を自分の俳句界における相続人に養成しようと思っていたが、虚子は始め一心に小説家になろうと思っていたので、俳句に対してあまり興味を持たなかった。虚子は真に彼を大事にしたが、彼の子規に対する態度はそれ程でもなかった。後日他人もそう感じたようで、筆者も彼の著作の「私と子規」の内容から彼が余り虚子を相手にしない様に感じられた。彼がその後歩いた道は小説が実を結ばず、やむなく放棄して虚子の定義した俳句の道、すなはち伝統俳句の道、に戻ったのだが、青は藍より出でて藍より青しというか、伝統俳句界の尊敬も厚く、伝統俳句の始祖の地位を獲得したが、子規を批評して曰く:「子規の俳句は大した事はない」と。彼は写生主義の上に「客観」を加えて「客観写生」とし、その後ふたたび「花鳥諷詠」と改めた、即ち「五七五定型」、「季語」、「切れ」及び「客観写生」の「伝統俳句」である。
はじめ俳句にそれほど真面目ではなかった虚子は、俳句雑誌「ホトトギス」を総合文芸雑誌の方向にもってゆき、小説などの文芸作品を載せたが、後に自分の書いた小説もあまり芳しくないのを知り、また碧梧桐派の新傾向俳句が俳句界の中心になりつつあるのを見て、1912年に俳句界に復帰し、伝統俳句の擁護を唱え碧梧桐の新傾向俳句に対抗した。この間、揺れはあったものの、また一度は主観の新伝統の導入を模索したが、1916年ついに「客観写生」を基本とすることに定着し、「有季、定型」の伝統俳句の位置を確定した。そして昭和時代(1926-1989)の1926年にいたって、「客観写生」にさらに加えるに「花鳥諷詠」を以ってし、俳句は自然現象及びそれにつづく人事界の事どもも諷詠するものと説明を加へた,そして、それ以来現代俳句は主題を季節のみに限定すべきではないと言う考え方が出てきた。「客観写生、花鳥諷詠」が伝統俳句の詩形であるようになり、また今日の日本俳句の主流になったのである。
この派に所属する俳人は大正時代には、村上鬼城(1865-1938)、飯田蛇笏(1885-1962)、原石鼎(1886-1951)及び女流俳人の杉田久女(1890-1946)ら、大正末期から昭和初期には水原秋桜子(1892-1981)、高野素十(1893-1976)、阿波野青畝(1899-1992)、山口誓子(1901-1994)、山口青邨(1892-1988)、川端茅舍(1897-1941)及び女流俳人の中村汀女(1900-1988)、星野立子(1903-1984)、橋本多佳子(1899-1963)及三橋鷹女(1899-1972)らがいる。
‧ 河東碧梧桐(1873-1937):
碧梧桐は虚子と同じく子規の同郷であり、虚子より一歳年上である。子規が休暇で東京から帰郷すると彼について野球の技術を習った、同時に子規の俳句にも興味を持ち、同じクラスの虚子を勧誘して子規について俳句を習った。子規なきあと、子規の「日本」新聞での俳句欄の選者の仕事を継承した。しかし、子規がきめた俳句の約束を嫌ったため、だんだん定型(五七五)の約束に縛られない「新傾向俳句」へと走った、即ち「非伝統俳句」、「自由律」、「無季」の俳句である。後全国を周遊行脚し、蕪村に関する少なからずの著作を残したほか、また旅行文集《三千里》もある。後述の「新傾向俳句」と「自由律俳句」をご参考下さい。
(四)語彙の説明:
1.「客観写生」とは?
‧虚子が唱える俳句作りの約束で、吟ずる対照内容は自然事物の描写であること、即ち「写生」、単純で叙景である、かつ叙述は客観で主観感情を避けること。
2. 「花鳥諷詠」とは?
‧ 虚子は先に「客観写生」を提唱し、後にまた「花鳥諷詠」を唱え、即ち「花鳥風月」の自然の四季の変化を吟詠することである。花鳥風月は自然景物を代表し,同時に写生時に起きる人事の問題も含めて吟詠の内に入れてかまわないと言うことである、なんだか上手く客観写生の狭い範囲の拘束から逃げられたようである。中国語にも「風花雪月」と言う一句がある、日本の花鳥風月に相当する一句である、ただし中国語の「風花雪月」には男女間の私情の意味を含んでいるが、日本語の花鳥風月には男女間の私情の意味はない。花鳥諷詠は客観写生において客観の景色を吟詠するなかに主観感情に関する人事問題も吟詠するのを許すことである。
3. 後人の見方:
‧ 後日ある人たちは虚子の作品や記録などを深く研究した後、虚子は別に主観的吟詠には反対などしていないという結論に達した。虚子の真意は一般の人達にとって深みある主観的な事物の訴えはそうた易いことではない、それゆえこの「客観写生」の約束は一般大衆のための約束であり、決して主観意識のある俳句を吟詠してはいけないという意味ではないと、皆虚子の真意を誤解しているのだと。事実上、虚子本人も少なくない主観事象を詠んだ句を残していると、そして他の人もそうであるゆえ、この説明は虚子の客観写生の主張に対する弁明であると。
4.非伝統俳句:
伝統俳句と相対する俳句を言う、即ち伝統俳句の約束に従わないで吟詠される俳句を言う。人生はいかんせん社会環境や変遷から逃げられないものである、それぞれの時代にはそれぞれの時代に特有の社会背景がある、それゆえにそれぞれの社会性の内容に沿った俳句が詠まれるのは当然であり、それぞれの名称で呼ばれている:「新傾向俳句」、「社會性俳句」、「前衛俳句」、「自由律俳句」、「無季俳句」、「新興俳句」、「普羅俳句」、「戦争俳句」、「人間探求派俳句」、「根源俳句」、「大眾化俳句」、「国際俳句」及び「世界俳句」など。
明治時代の後、正岡子規が「俳句」と言う言葉を創作し、「俳句」の内容を規制した後、今日(2011)まで百年余り、「俳句」の変遷及び発展に関しては現代俳句協会から出版された《日英対訳21世紀の俳句研究-2008》一書の中で木村聡雄氏が《現代日本俳句小史》で簡単明瞭そして総括的に纏め上げており、そのうえ日英対照であるゆえ、日本語を知らなくても、よく理解できるゆえご参考下さい。
下記に関係のある名称だけ、簡単に概要を紹介させていただきます。
‧ 1)「新傾向俳句」:
子規亡き後、その事業は二人の弟子により継承されました。新聞「日本」の俳句欄は河東碧梧桐、俳誌「ホトトギス」は高浜虚子により継承されました。二人は主張するところが違うので各々の道を進みました。碧梧桐は子規の俳句に対する考えをもっと発展させようと思い、もう一歩進んでただ情景を描写するだけでなく、脳裏に浮かんだ主観的な描写をも詠む,即ち「新傾向俳句」を提唱したのであります、そしてこの主張は瞬く間に日本中に伝わり、あまつさえ「新傾向にあらずんば俳句ではない」とまで謳われたのでありました、そしてついには明治時代末期の俳句の主流にもなったのです。彼は俳句は不断の伝統の改革により改進すものだと言う信念のもとに、子規の蒔いた種をもっと大きく育て上げようとしたのです。
‧ 2)「自由律俳句」:
「新傾向俳句」は大正時代(1912-1926)に入って分裂し「自由律俳句」が生まれました。一種の伝統俳句の五七五定型と季語などの制約から逃れて更なる自由な俳句精神を求める俳句革新であります。またどの一句の俳句にもその句自身がもつ韻律の内在律があるものだと主張しました。荻原井泉水(1884-1976)は始め新傾向運動に参加し、俳誌「層雲」を創刊しましたが、しかし1913年に新傾向運動をはなれ、その学んだ西洋詩の経験をもってして、俳句の季語及び定型の規制を破棄しようと企てて、「層雲」を拠点として、「自由律俳句」を始めました、その配下には種田山頭火(1882-1940),尾崎放哉(1885-1926)、栗林一石路(1894-1961)などがいました。片方、中塚一碧楼(1887-1946)は碧梧桐が創刊した「海紅」を引き継ぎ、口語自由律俳句を提唱しました。「新傾向運動」は「自由律運動」を経て、とくに山頭火や放哉などの俗世を捨て放浪生活を吟詠する詩人と結び、一時栄えました。1980年代において住宅謙信(1961-1987)が活躍したが、惜しむらくは早死にしました、でも今日に至っても尚多くの読者がいます。
‧ 3)「新興俳句」:
昭和初期、虚子が丁度俳句の定義を「花鳥諷詠」に限定しようとしていた頃、それに対して俳句を普遍的精神を吟詠しようとする現代詩的俳句革新運動が現れました、かつイロニーなのはこの運動が「ホトトギス」内部からの反動だったのです、そして間もなく「新興俳句」の新潮流に発展していきました。
元来虚子派に属していた水原秋桜子(1892-1981)はその作品がだんだん抒情、主観写生に傾き、虚子の「客観写生、花鳥諷詠」と対立すようになりました。秋桜子が主宰する俳誌「馬酔木」(1922年創刊)は元々「ホトトギス」派の俳誌だったのですが、秋桜子は誌上で忠実に客観写生を遵守する同僚の高野素十を酷評するに至りました。秋桜子は1931年「ホトトギス」を脱退し、ここに至ってついに反伝統主義運動の「新興俳句」が産生したのでありました。「馬酔木」は「ホトトギス」から離脱し、主観的表現への道に向いました。「馬醉木」俳誌の下に集まった俳人には山口誓子(1901-1994)、石田波郷(1905-1969)、加藤秋邨(1905-1993)と高屋窓秋(1910-1999)らがいました。
‧ 4)「無季俳句」:
「新興俳句」が盛んなりし頃、制約から抜ける自由な考えが台頭し始めました、前述の「自由律」の外に「季語」にも注意がむけられました、そして伝統的定型を維持する一面、また季語の放棄を求めました。俳誌「天の川」は吉岡禅寺洞によって1918年に創刊され、また「ホトトギス」傘下の俳誌であったが、1935年から「無季俳句」を提唱し、秋桜子の反伝統運動の力添えになりました。「天の川」で作品を発表した俳人には横山白虹(1899-1983)、篠原鳳作(1905-1936)などがいて、「馬酔木」の人達とともに「新興俳句」運動の拠点となりました。「旗艦」の主宰日野草城(1909-1956)はやはり「ホトトギス」の出身であったが、現代文学の自由主題を追求するため、先頭に立って「無季俳句」を提唱し、富沢赤黄男(1902-1962)もまた超季節感の俳句を追求しました。「旗艦」にはこの二人の外に西東三鬼(1900-1962)、神生彩史(1911-1966)と片山桃史(1912-1944)らが参加しました。「京大俳句」は1933年「ホトトギス」系の京都帝大関係者によって創刊され、「新興俳句」自由主義派の拠点となりました。他に「句評論」は1931年に創刊され、また「新興俳句」の路線に走ったのです。「土上」は1922年に創刊され、嶋田青峰(1882-1994)、東京三(秋元不死男:1901-1977)らが無季俳句を発表した。林田紀音夫(1924-1998)は戦後の無季俳句の代表人物であります。
‧ 5)「人間探求派俳句」:
元来自然の吟詠を厳守しいた俳句界にも、こんな狭い範囲で吟詠するのに飽き足らず、この自然吟詠から離れて、もっと毎日の生活に即した精神心理方面の俳句を詠むのを求めるようになりました。このような俳句は理解しにくい俳句になりがちで、皆から「難解派俳句」と呼ばれるようになりました。こんな俳句を詠んだ俳人には石田波郷(1917-1969)、加藤楸邨(1915-1993)、中村草田男(1901-1983)、篠原梵(1910-1975)らがおり、評論家の山本健吉(1907-1988)が1939 年7月に、これら四人の俳人を呼んで「新俳句の課題」という題目で検討会を開きました、そして俳句は日常生活上で出会う一切の感動を詠むべきだと、即ち人生生活の内容、目的など、日常生活に出会う全てを詠むべきだと、回想、ビッジョン、理想なども含めて、即ち人性内面の一切を、そうすると当然理解しにくい言葉が出てくる、即ち「難解派俳句」となるわけで、山本はこれじゃ根本的に人性の目的の意義の哲理など深奥な題目になるじゃないかと、「人間」の問題を探究しているゆえ「人間探求派」とすべきだとしました、そこで会のなかで「人間探求派」と言うこの言葉が生まれたのです。
‧ 6)「プロレタリア俳句」:
大正時代の末期から昭和時代の初期の頃、ロシアのプロレタリア文学の発展の影響を受けて、日本においても「プロレタリア俳句」が発展しました。プロレタリア派の俳誌「俳句生活」では「花鳥諷詠」は現実逃避だと否定されました、まさしく中国において五四新文化運動時代に、古詩の吟詠は「無病而呻吟」(病気無くしてただうなっている)と蔑まされ、ある期間影を潜めたのと異曲同工の感があるが,日本では伝統派は没落することなく、伝統、非伝統がそれぞれの道を歩んだのです。
‧ 7)「戦争俳句」:
無季俳句の盛況の様を見て、これは事態厳重だと悟った虚子は1936年、ついに吉岡禅寺洞、日野草城、と杉田久女三名を「ホトトギス」から除名しました、そして一方「馬酔木」の水原秋桜子は、後にまた戻ってきて「有季定型」を維持するのに尽力しました。そして高屋窓秋と石橋辰之助が「馬酔木」を離れた。1937年に日中戦争が始まると、「伝統」、「新興」双方とも戦争の雰囲気に巻き込まれて行き、戦争に関する俳句、戦争を謳う俳句が多く詠まれました、一方反戦の俳句もありました、これが所謂の「戦争俳句」であります。こう言うことは古今中外いつもあることであり、また必ずあることでもあり、人性、政治、心理戦の常套手段で、ただ証拠のため取りだすのは必要性はあるが、特に取り立てて大げさに吹聴するのは、とやかく言われる口実になりかねません。中国の文化革命時期における文人の命運を例えに取れば、枚挙に暇がないでしよう。十三億の人口の中で一人でも反抗した人がいたであろうか、こう言うと酷過ぎやしないか、誰一人反抗する能力がないのだと言うべきです、それで中国人を責められようか、答えは「否」、古今中外こういう成り行きは極めて人性にそぐう成り行きであり、皆この様であり、よく理解できる筈。問題は事が過ぎた後、ただ一人巴金だけが具体的な懺悔をし、良心的な発言をしたことです。1978年12月から1986年7月にかけて、巴金はまる七年の時間を費やして終に五巻四十余万字の巨著で以って人達にこの時代の真実を言う大著を奉げたということです、この著作には一人の老人の晩年の真実なる思想と感情が滲み出ています、中国の一人の知識分子の四十年に及ぶ心の歩み-「懺悔録」-《随想録》なのだ、だがその起因たる元凶はいまだに神として祭られ、祭壇の上から意気軒昂として人類を見下しているのだ、この人類の世紀の大悲劇にはまだ終止符が打たれていないのです。
日本の俳句界も戦争期間において人性の当然なる命運に遭っている。言論自由の圧迫、特務工作員による拘束、「新興俳句運動」の主だった俳人の多くが逮捕され、俳誌も取締りを受けた、例えば:「京大俳句」、「土上」、「句と評論(廣場)」、「天香」、「俳句生活」等の俳句雑誌、また檢舉された俳人には:平畑靜塔、井上白文地、仁智栄坊、石橋辰之助、渡辺白泉、西東三鬼、嶋田青峰、古家榧夫、東京三(秋元不死男)、藤田初巳、細谷源二、栗林一石路、橋本夢道などがいました。
ここに至って二十世紀前半の俳句改革運動は戦争によって潰され終わりを告げました、しかし「新興俳句運動」は「俳句」の地位を高くし、いつまでも「花鳥諷詠」の小さな枠組みのなかに閉じ困ることなく、「俳句」を西洋近代詩の詩型に負けない文学地位まで引き上げたのでした。
戦争の混乱時期を経た後、戦後一年京大フランス文学科教授桑原武夫の「俳句第二芸術論」騒動が起きました、桑原が言うには俳句は芸術じゃなくて一種の芸事の類であると、かれは俳句作家の価値は作品の優劣でなく、弟子の数の多少、主宰する俳誌の発行部数の多寡を基準とし、俳句は花道と同じくお稽古事だ、ゆえに俳句の芸術地位を否定し、第二芸術だと貶めました。このことは当時の俳句界に相当な衝撃を与えたようだ、がある人は当時の俳句界の反撃が弱すぎたのではないか、またあるものは確かに反撃はあったと、いろいろな批評があるが、筆者の知識では評論する能力はなく、ただ確かなことは俳句界を打ちのめす力はなかったと。
‧ 8)「根源俳句」:
山口誓子は1935年に「ホトトギス」から脱退後、水原秋桜子の「馬酔木」に参加したが、1948年また「馬酔木」を離れた、その後「新興俳句」派の西東三鬼、秋元不死男、平畑静塔(1905-1997)、高屋窓秋、三谷昭及び弟子の橋本多佳子、榎本冬一郎(1907-1997)らの推挙によって俳誌「天狼」を創刊した。他に永田耕衣(1900-1997)、横山白虹、神田秀夫(1913-1993)、佐藤鬼房(1919-2002)、沢木欣一(1919-2001)らの俳人たちも参加した。山口誓子が創刊号で俳句の「根源」を探求すべきだという一文を載せたので「根源俳句」が「天狼」のレッテルに成ってしまいました、そして多数の同人もあらゆる角度から俳句の根源のついて検討し、ある者は俳句の根源は人生の意義を追究すべきだと、ある人は……、皆拠るところあり、永田耕衣の如くは仏教の禅から最後に「無」に達しました、あまりにも多方面から根源を探求したため終に同一の結論に達するあたわづ、最後には探求しようとした「根源」そのものが何であるかも問題になってしまいました、しかしこれ等によって俳句の内容を深化し、また俳句の多様性が浮き彫りになりました、結局は有耶無耶のうちに幕が閉じられたのでした。
‧ 9)「社会性俳句」:
戦前から俳句は社会背景を主体とした社会性特徴があるべきだという言論がありました。どの時代にもその社会特性に適合した社会性俳句があるべきである。第二世界大戦後思想の自由が社会主義思想の展開をもたらしたのは当然である。俳誌「風」が発刊された後沢木欣一らが誌上で社会主義思想を論じました、そして金子兜太もそれに賛成するに至って俳句の社会主義性の論争が盛り上がり、後左翼俳人の俳誌「俳句人」が発刊した後、労働背景を主とした職場俳句が盛んになりました。
‧ 10)「造型論俳句」:
俳句の表現方式は子規の写生に始まり、客観から主観に、直叙から比喩、直喩から暗喩、隠喩、個体から社会、吟者主体から読者主体へとうつり変り広がって行きました。戦後に至って社会性俳句が盛んになり、1961年に金子兜太が社会性俳句に賛成すると共に「造型論俳句」説を提唱し、詠む自己と景の間に第二の主体をおいて俳句を作る方法を説いた。金子氏は1962年俳誌「海程」を創刊し多くの前衛運動の俳人がその傘下に集まりました:隈治人(1915-1990)、林田紀音夫(1924-1998)、堀葦男(1916-1993)、穴井太(1926-1997)、稻葉直(1912-1999)、八木三日女(1924-)、阿部完市(1928-)、島津亮(1918-2000)らである。金子氏は現在日本最大俳句組織「現代俳句協会」のリーダー(名誉会長)であり、最近その発言はなんだか伝統俳句に回帰する傾向がある様に聞こえる、また去年(2011)若い世代の俳論者らの考え方では彼の「造型論」の解釈にもいろいろ異論が出ています。
‧ 11)「芸術派俳句」:
前衛運動の一派は「芸術のための芸術」をそのスローガンとし、言語と表現の美を追求したため、前衛運動の「芸術派」と呼ばれました。彼らは1952年高柳重信(1923-1983)、富沢赤黄男らを擁して俳誌「薔薇」を創刊し、三橋鷹女、赤尾兜子(1925-1981)、鷲巣繁男らを傘下におさめました。「薔薇」はその後「俳句評論」(1958)へと発展し、高屋窓秋、永田耕衣(1901-1997)、三重敏雄、加藤郁乎(1929-)、橋閒石(1903-1992)、中村苑子(1913-2001)、三谷昭等が加入した。高柳重信は所謂の「多行形式」をも試みました、即ち一行の俳句形式を四行表記式に改め言語間の響きあいを更に明確にさせようと図ったのです。
‧ 12)「連作俳句」:
現在では「連作俳句」と言うのは一つの表題の下に多数の俳句があると言う意味だけに過ぎず、一句の俳句だけで詩の内容を完全に表せない場合に使われる方法であります。俳句歴史上では水原秋桜子らが創始したもので、独立した複数の作品間に関連または連続性があることを示しています、しかし正式の定義に関しては季語の問題などがまだ残っており、歴史上、有名な例句はかの日野草城の「都ホテル」での新婚初夜の俳句があるが、まだ多くの論議を残しています。
‧ 13)「大衆化俳句」:
80年代の後半に至って、日本国内の俳句熱は最頂点に至り、そしてずっと今まで続いています。元来俳句は老人の暇つぶしだと言われてきましたが、ここ二、三十年らい、だんだんと若い年齢層にうつり、子供俳句までも出てきて社会の文化活動の中でも最も重要な役割を演じています、所謂のカルチャーセンターにも俳句教室があり、毎年各団体間、各地域間でのコンテストアクティビティや賞金までも出て、即ち大衆化しいて、甚だしきは商業活動にも俳句コンテストがあり、例を挙げるならば茶の販売業や航空サービスらの大規模な、国際性な行事など、参加人数も数万を越えることさえあり、もう何年も続けられている。最も目ざましいのは毎年行われている高校生の「俳句甲子園」は野球甲子園を真似たもので、若い俳人を多く養成して送り出しました、いま主立って舞台の上で活動している俳句界の若者たちの多くが「俳句甲子園」の出身者であり、故にその作品も多くが「有季定型」の伝統俳句の道ではあるが、その中で「無季」や「自由律」俳句の道を模索している人達もいます。俳句の前途は広く無限であるべきである。正式な統計数字はないが現今の三大俳句協会に属している会員だけでも優に二万人はあると言われています、そして各結社に属する俳誌だけでも八百余りあると言う、推して俳句吟詠者は数百万人いや千万人を下らないとも言われています。兎も角も俳句は既に日本の国民文化活動になっているのは事実であります。
‧ 14)「国際化俳句」:
百年余り前、十九世紀の終り頃、即ち明治時代の初期に、すでに外国人によって俳句は西洋に紹介されていました:W.G. Aston (1841-1911)、Lafcadio Hearn (1850-1904)、B.H. Chamberlain (1850-1935)、Paul Louis Couchoud (1879-1950)らである。しかし系統的に紹介されたのは、二十世紀の前半になってからである:Harold Henderson (1889-1974)、R.H. Blyth (1898-1954)。しかし国外で本格的に流行したのは二次大戦以後のことである。外国で流行している俳句は、必ずしも十七音の定型や季語は厳守されておらず、三行詩の短詩型で流行しました。当然ながら日本国内の伝統俳句の擁護者はこの様な短詩を俳句と承認しようとはしませんでした、しかし外国ではそんなことにはかまわず、音訳の「HAIKU」と名づけ、各々の言葉で吟詠し世界潮流として大いに流行り、また各国でその母語での俳句団体がそれぞれ成立しています。
‧ 15)「世界俳句」:
俳句がすでに国際化した以上、各国でおのおの自国の言葉で詠まれて、明らかに世界の俳句になったのであるから当然「世界俳句」と言われるべきで、少しもおかしい所がありません、ではどんな制約か規制というか、そう云うものがあってしかるべきである。皆さん方は伝統俳句の約束については既にはっきりしていらしゃいます、即ち「五七五定型」、「季語」、「切れ」とすらすらっと口から滑り出す三つの約束のほかに、「客観写生」、「花鳥諷詠」、「自然を詠む」、「自然詠みから延伸した人事関係」などなどがある。では「伝統俳句」の始の二字を抹消し「俳句」だけ残った場合はどうなるか、そのままの制約で良いのかというと私の答えは「否」です。というのは一つの名詞または語彙の意味を定義する場合、われわれは先ず包括する範囲はどうであるか、「過去」、「現在」、「未来」また「狭義の」、「広義の」であるかと。上述の三つの制約と言うのは、ある一人の人がその語彙を創始した初期において、その時間点できめられたものである。ご承知の如く、一つの事項、規制が決められた後、時間の経過によって改変、変遷があるもので、恒久不変と言う事はありえません、改変するのが正常です、で当然あるべき改変は「俳句」の「広義の」含意であります。上述の三つの制約は伝統俳句の制約であり、「俳句」の定義は伝統俳句に続いた「俳句」の定義、形式など、さまざまな変化、変遷のすべて、「無季」、「自由律」、「三行詩」など、「俳句」の基本条件なる「最短」、「詩情」、「余韻」、「読者に鑑賞の自由を与える余白がある」を満たせるならば当然すべて「俳句」の定義に帰納すべきであります。
(五)文語、口語:
早期の伝統俳句は文語で詠まれ、そしてまた長い間文語のみの詠みが認められました、のみならず、日本語の仮名づかいも戦後文部省により統一規制されて、古い古式の仮名づかいや戦前の仮名づかいは廃止されましたが、俳句界では戦後初期、文語及び旧仮名遣いがつづいて一時期使われました。その後だんだんと口語の使用も承認され、現代日本語にあらわれた外来語のカタカナつづり、はては日本造語のカタカナ語と新仮名遣いに変遷してゆきました。この項目は前項、非伝統俳句の項目で提出されるべきでしたが、しかし伝統俳句の非伝統形態、形式であるゆえ、別に一項目を立ち上げたゆえである。これまた例え伝統俳句であっても時代の潮流の変遷に従って変らざるを得ないというその証拠の一つであり、世界の全てが変りつつあり,文化思想も変りつつあり、永遠に習慣伝統を墨守することが出来ないことを証明しているのです。
【俳句の本質と世界俳句】:
一先ず考えて見ましょう。「俳句」は詩の一種であり、世界にある多くの詩の形式の一種であります。それならば何故多くの詩形のなかで「俳句」のみが全人類の人気をよんで全世界のあらゆる言語に行き渡ったのか、とどのつまりはその短小と簡単容易に詠めるということに帰するのではないでしょうか。
容易に詠めると言うと、実際上小学生でも詠んでいるのです、ただ内容にに浅いと深い、簡単と深奥の差があるのみではないでしょうか。形式上多くの繁雑な規制がなく、小学生でも最も簡単な語彙や語句を使って日常生活で見たまたは出会ったことを詠めばよく、大人ならばそれぞれの人生経験および個人の天性の感性敏度によって、それぞれ深奥度の違う俳句を詠むまたは鑑賞できるのではないでしょうか。
中国を例にとって見ましょう。中国では五四新文化運動の後、白話文運動により難解な古詩は白話詩と自由律詩に席を譲らざるをえず、白話詩と自由律詩は全国民の人気を得て長い間国中を席捲し、文学界に君臨しましたが、幾十年もたつと終に口語自由律詩詩人の飛躍式感性と連想力は却って一般の人達の理解力と相容れず、だんだんと興味と信頼を失い、詩吟は一般大衆から益々離れてゆき、終には一般社会から失落する羽目になりました。飛躍式感性、思惟は感性に富む詩人の特性ですが、必ずしも一般大衆には受け入れらません、それゆえ、一般大衆にすれば即物性、即景性てき直接感性と直叙的叙景、叙事或いは抒情のほうが適合しているようです、この思惟は俳句の吟詠にも当てはまるものと思います。それゆえ、例え自由律の開放性俳句にしても、もし過分に飛躍性、高度感性の作品を追求するときは、詩人特殊感性を有する一部分の人達の特権にして、一般大衆の同感をうることは難しく、結局は少数の特殊感性所有者のペットにしかなりかねません。
さて、本題に戻りましょう。以上の説明から、みんなお分かりの如く、「俳句」の始祖は「連句」であり、そして「俳句」という名はいまから約百年余り前、明治時代の中期に、俳聖子規によって命名規制され、その原形は三百年余り前にやはり俳聖と呼ばれる芭蕉によって作られましたが、芭蕉は命名をしませんでした。
故に、子規を俳句の始祖とする大多数の俳句作家(俳人)は子規の制約規制を作品の金科玉条とみなし、五七五定型、季語、切れ字は伝統俳句の聖典となりました。日本において伝統俳句の断固たる擁護者の認知では、もしこの三つの制約に沿わない場合、たとえ一つだけでも、そして日本語で詠まれみんなから「名句」、「秀句」と言われる句でも、「俳句」とは認められないことがあります。
というのは、日本の俳句界においては高浜虚子が子規以後の俳句界の覇権を握って、《季題中心主義》、《客観写生》、《花鳥諷詠》なる呪縛を形成してから、上述の三つの制約に加えるにこれら虚子による「客観写生、花鳥諷詠」が俳句吟詠の制約規制になり、ずっと今日まで覇を称する現在、我々をして他の言語による俳句の吟詠の可能性について懐疑せざるを得なくなりました。
しかし、外国語を使用しての俳句吟詠も確かに世界文学界と詩歌界に盛んに行われてもう百年余りになります、そしてアメリカの小学校の教科書にも英語俳句(HAIKU)が教えられている現状において、俳句の創始国である日本で、まだこの民族文化の光栄を拒否し、あくまで日本の伝統俳句でなくては俳句でないことに拘泥するのには本当に首を傾げざるを得ません。
しかし、われわれはこのような束縛はみな「人為」であり、改変あるいは蛻変できる状況下において、「世界俳句」を「俳句」の外に排斥することに甘んじていられますか?それに一歩進んでこれ等の発展状況は当時の子規が予期しなかったのか、出来なかったかのであれば、われわれもまたこのような結果は確かに子規が企てた改革の本当の意図展望だったのか疑わざるを得ません。伝統俳句の観念は絶対に国際化した俳句《俳句=三行詩》の事実と共存共栄出来ないものでしょうか?私が思うに、もし子規が不幸にしてあまりにも短命でなかったならば、子規の聡穎そして革新に満ちた個性で以ってして、誰が子規が絶対にその三つの制約を堅守して敢えて改変をしないと主張するだろうと言いうるか?
最近、また今泉恂之介がその新書《子規は何を葬ったのか》(2011.9)にて「子規は蕪村、一茶の後、江戸時代後期から明治時代の中期まで一人として出来の良い俳人がいなかった、そしてこの期間の俳句作品は皆〈月並み、陳腐〉である」という言分は間違いであると指摘しています。かれはこの期間における幾人かの名俳人の優秀作品を例に取り出して子規のような俳聖までがこのような間違いを犯すと言う事実を提起した。またその後、市川一夫が1975年にその著作《近代俳句の曙》のなかでも上述の事実を既に挙げたが、かれが無季、自由律と口語俳句を主張したため、伝統派時代の大環境のもとで排斥されて顧みられなかった経過から、我らは習慣の墨守が醸し出す不幸を認めざるを得ません。ほかにも子規の所謂の「月並、陳腐」の俳句は真実そんなにだめなのか改めて再検討する必要があるという者も出てきています。今にして今年(2011年)のノーベル文学賞を受けたトーマス‧トランストローマが良くする短詩がHAIKUであると知る時、われらの感想はまたどうなのか?
ここにおいて、冷静に落ち着いて「俳句」の起源、本質、変遷史に関して思索するとき、ひょっとしたら俳句全般の情勢の理解にヘルプするところがあるかもしれません。
考えて見ましょう、「俳句」の定義はなんでしょうか?一:「俳句」はあらゆる世界の言葉の中で一番短い詩で、二:「俳句」の本質は出来るだけ短い語彙で瞬間の感動を詠みだす、三:「俳句」が詩の一種と言うならば当然音楽性があるべきで、でないとどうして散文と区別できようぞ?四:「俳句」は余韻を残して読者をして余韻嫋嫋の詩境下に陶酔させ、また余白を残して読者本人に自分の詩情、詩境の中で徘徊享受させるものなりと。
さて、第一項は無理難題を押し付けなければ争議はない筈、第二項も反対する者はいないでしょう、で第三項になると問題を持ち出す者が出て来るでしょう。
音楽性という以上、リズム、押韻、耳に楽しい、口ずさみ易い等いろいろ問題があります。日本語は平板で、音音の長さが等しい即ち等時性言語であり、中国語にある「韻律」や「声調」がなく、また西洋語にあるアクセントのリズムがありません。その上、日本語のリズムの数え方は音韻学上西洋諸国の音節(syllable)とは少し違って、拍(短音節;モーラ;mora)で表わします。モーラとシラブルは似ていますが同じでなく、拍で数えるのです。日本語の仮名音一つで一拍、そして五と七拍を以って最も語呂がよく、耳を楽しませる拍となります、これは丁度唐詩の五言、七言の音節とリズムが一致します、七はまた三と四拍に分けられます、それで俳句は「五七五」十七拍、短歌は「五七五七七」三十一拍を以ってその基本リズムとするのが理解できます。ほかに日本語では促音、長音がありこれ等は二拍と数えます、まだ拗音がありこれは一拍で,「撥音」(syllabic nasal)は一拍と数えます、それゆえ日本語は音節でなく、拍(mora; モーラ;短音節)に準ずるのが妥当で、そこで初めて口ずさみ易く、耳に楽しい日本語のリズムに近づき得るのです。その上日本と中国の詩歌には、それぞれの句または詩そのものに独特の韻律-「内在律」があるゆえ、あまり外在律に拘る必要がありません。
その実、私は「俳句」であろうが、中国の「詩詞」あろうが、読んで詰屈聱牙でない限り、それ自身の内在律がある以上、音楽性があるものであると思います、そして押韻、対応があれば尚更のこと、「過度の複雑」なる平仄の規制は一般大衆を門外払いする可能性のおそれがあると思います。「平仄」を区別することは漢語を母語とする人達にとっては大して困難なことではありませんが、あまりにも複雑な「平仄」の規制は簡単な「詰屈聱牙でなくすらすら読み易い」ことに比べればどれだけの音楽性があるものか少し疑問に思います。
上述の伝統俳句に関する三つの制約については、五七五定型は音楽性リズムの問題であり、外国語にあってはその音楽性が日本語の音楽性と完全に一致するとは限らず、各言語には必ず各言語の耳を楽しませるリズムや音楽性があるものであり、各言語の耳を楽しませるリズムや音楽性に合えばそれで良いのです。
「季語」に関しては、既に多くの文献で討論されており、日本の最北端の北海道から九州の鹿児島、さらに沖縄列島に至っては、その気候と動植物の種類習性の異なることはいまさら言うに及ばず、だからと言って日本の標準語を統一したときに倣って、むりに東京に適する季語を標準とする規定を決めることも不可能である。まして、世界各地の気候は全く異なり、寒帯、温帯、亜熱帯、熱帯地区の気候、大自然現象、事物、皆徹底的に違うものにして、伝統の制約をそのまま受け入れることは不可能であります。「季語」は元々「俳句」の先祖の「連句」の「発句」の挨拶語でありました。日本人は出会った場合或いは手紙の始に必ずと言って良いほど季節の挨拶から始めます、これは日本人の民族習慣ですが、同じ挨拶語でも英語では違って「How do you do?」、「How are you?」となり、中国では「你好?」(ご機嫌いかが?)、そしてこの「你好?」も新時代の造語であり、一昔前まではありませんでした、台湾では「吃飽未?」(食事は済みましたか?)が日常出会った時の挨拶の言葉です。それゆえ日本の俳句で季語を必要とすることは理解できますが、外国人においては、生活習慣が違い、理解或いは会得するのに困難を感じます、しかし地方性の季語もその存在性の当然性または必要性があるゆえ、その地方に限って会得享受するのも受け入れられることです。
「切れ」は文章の段落を示し、日本語語法の表示法である。各言語には各言語の文章の段落を表わす方法があります、ゆえにそれぞれの各言語の文章の段落を示す方法を使えば良いのであるから問題にはならないでしょう。
《季題中心主義》、《客観写生》、《花鳥諷詠》などの束縛にいたってはある一人の人による主張或いは制約であるゆえ、これによって「俳句」全体の発展に制限を加えることは出来ず、いかなる事或いは物には創始と発展があるのと同様にある一人の主張によっていかなること、物の発展を制限または阻止することは出来ません、それは小さな範囲に局限する内輪の規定であり、同じように「俳句」のいかなる制限もそれはある派別の内の発展に限られ、やはり内輪の規定の一つであり、ゆえにそれを以って「俳句」全体の発展を制限することは出来ません。
「余韻」、「余白」は「俳句」の特性の一つであり、特に「余白」はそうである。「俳句」はこれ以上短くすることが出来ない短い詩である、そして十七音の中で詩情の全体を完全に読み終える事は出来ない、ゆえに余白を残して読者自身に想像させ完全にまで補わせる、これが俳句独特の特性であり、読者をして自己の経験及び詩情により各自ひたすらに自由に味わい享受することが出来る、それが「俳句」の詩情と鑑賞は人によりそれぞれ異なる由縁であります。これは他の詩型では見られない俳句の特性であり、俳句の俳句たる由縁でもあります。
我々は「伝統俳句」の制約規制も尊重します、といってそれで俳句界全体の発展を制限することは出来ません、で俳句の本質に符合する限り「俳句」であり、如何なる方式或いは言語を使ってもかまいません。それゆえ如何なる言語においても、最短で、それ以上凝縮することが出来ないまで短く、そして瞬間の感動を反応し、余白を残して読者をして随意に自己鑑賞でき、主観、客観、大自然を詠むか、人事、社会性の詩吟でもみな「俳句」であります。故に各言語には各言語の俳句形式があり、例えば日本の「五七五」、表音文字の「三行詩」、漢語の「漢語俳句」など。
ここ百年来の日本の俳句史の変遷を見るに、最も主要の「定型、有季」の二項目中、五七五は自由律に向って発展したが、しかし俳句はつまるところ詩の一種であるゆえ、そして定型は詩歌リズムの最も基本なる項目であり、その上五七五調はまた日本語の最も耳を楽しませてくれる語調リズムであるゆえ,例え自由律方向に発展するとも、まだずっと保持できて改変することがありませんでした。季語に至っては俳句創始の特殊基本要項であるが、決して絶対に無くてはならないものではなく、それゆえ無季でもかまわないという思惟もあります。別に俳句と川柳を一つにあわせて「俳柳」或いは「柳俳」、あるいはもっとはっきりと「五七五定型」に向う傾向もあります。
で、漢俳に関しましては、私は前に「漢俳」は「俳句」ではないと申し上げました、その理由は、ただ日本伝統俳句の五七五定型に合わせるために、日本語と漢語の一音節に含まれる情報量が全く違うことを考慮せず、終には俳句の短小なる事をおろそかにし、凝縮が足りなくなり、結果としては一種の新型の詩詞(中国詩)としか言えず、現代中国詩詞の一種であり、その理由は後述します。
以上の考えを総括しますと、「俳句」は各種言語での最短にしてこれ以上凝縮出来ない、そして余白を読者に残して自己鑑賞させる詩であり、如何なる言語を使用しても吟詠でき、そして各言語はそれぞれの独特の句型を有する:「三行詩」、「漢語俳句」など。その内容については主観客観、自然写生、社会人事、論理、倫理など人類生活に出会う一切の事物人情であると。
「俳句」と言う名詞は日本語俳句に残して尊重を表わし、且つ「伝統」、「無季」、「自由律」、「社会性」、「人間探求性」、「俳柳」など異なる形式を一纏めに皆ひっくるめて包括し、そして「伝統俳句」はもっぱら虚子の三制約を守る俳句に残し、「俳句」項目の下の層の次項目であり、「無季」、「自由律」、「人間探求性」、「俳柳」と同じレベルのクラスに属するのです。
つづいて、俳句の日本国内での詳細及びその発展の状況についてお話させて頂きます、それでもっと俳句に関して理解を深める事が出きる筈です。
では、先ず日本俳句界の状況について見てみましょう。日本の現在の俳句人口はどうかと問われますと、ある人は一千万と言い、ある者は百万と答えます、元々正式の統計はございませんが、一般大衆に俳句が流行っているのは否めません。その昔、俳句はリタイアした人達あるいは老人の暇つぶしの行為と見られていました、しかしここ数十年来、老若男女を問わず皆俳句をやっています。社会の至る所に俳句集会や団体があり、小学、中学、高等学校にも、みな俳句のクラスがあり、いつもコンテストが行われており、このほかにも、ここ数年来情報技術(IT)の普遍化によりインタネット俳句会などのアクティビテイも新しく興りました。
日本では、社会での俳句団体の集会は「結社」と呼ばれています、またこれ等結社の多くは伝統色彩を帯びており、しかも夫婦、親子、あるいは師弟相続の世襲の傾向があり、そして大概は上述の三制約を墨守する伝統俳句であります。当然伝統俳句でない結社もあります。とは言ってももし俳句結社の俳人たちが詠む俳句作品の内容を詳細によく見ると、半分以上の句は季語、定型、切れの三要件を考慮にはいれてはいるが、経験の長い同人たちが句会の「披講」で専心するのは、上五、中七、下五の定型を数え、破調とか季語があるかないとかばかりで、だれひとり客観写生については気にせず、そして殆どの句は主観の感動を詠んでいる句で、必ずしも純粋の景色などは描写してもおらず、全く完全に伝統俳句の客観写生の主張からは遠い句ばかりです。私が言いたいのは主観の俳句がいけないのではなくて、口では伝統俳句を口癖のように言いながら、実際にはそうでないといいたいだけです。
視界を広げて近頃発表された若い人達の俳句集を見てみましょう、そして一歩進んでネット上の俳句を。多くの作品はたいてい三要件を固守してはいるものの、主観的感動を詠んだ句が多く、また所謂の自由律あるいは無季の句も少なからず見られます、かつすぐには理解できない句もあり、所謂の難解の句です。ただ結社の俳歴の長い骨董老俳人が、彼らが読んで判らない句は俳句でないと言う考えを通そうとすることが、若い人をして句会に近づくのを躊躇する原因になっているのです。
もし必ず「定型」、「季語」の約束を守らなければならないと言うならば、石倉氏のブログで子規の《俳句分類》の内容についての記載を見れば:「子規は江戸時代の俳諧十二万句を分類して甲乙丙丁四類に分けた、甲類は季語で分類したもので一番多い、その中で興味を感じたのは、子規は十八字の句を『字余り』とはせず、別の一形式とし、『三三七五』形式の句として記録した」とあります。子規が字余り、字足らずを重視して問題としない以上、石倉氏は言う:「それならば誰が字余り、『破調』を問題としたか疑問が出て来る」と、石倉氏また言う:「もし甲類だけに着眼するならば虚子の有季定型であり、乙類と丙類に着眼するならば、碧梧桐の無季自由律が見えてくる、これ等の自由律俳句は子規の分類によるならば、句読によって各々の形式がある、これより子規の認識には明らかに無季、自由律が存在するのである」と。
伝統俳句結社のさまざまな悪習については、十何年も前にもう既にネット上で論客中川広らの問責や酷評が見受けられる、そしてこれ等結社を花道や茶道の技に喩えて、文学的本質が無いものと批評している。中川氏の虚子に対する批評はまだもう一歩進んだ検討の必要があるにしても、彼が言う結社の内輪事情は実際に多くの人が感ずることで、反省すべきである。また虚子の「客観写生」の主張については、秋尾敏氏、石倉秀樹氏らもそれは虚子の真意ではないという説もある。
また、俳句は第一大戦後にすでに西洋各国に伝わっていて、二次大戦後に歩みを速めて各言語の中に展開していった。と同時に日本国内でも継続して変遷していった。実際に日本俳句史を詳しく読んでいけば分かることであるが、これ等の変遷は俳聖子規が百年余年前俳句の定義を規範したあと直ぐに始まっていたのであり、ただいつも俳壇上を一時賑やかに騒がすのみで過ぎさっていったのである。
顧みるに、俳句界の多くの名家が残した、社会から認められた所謂の名句、秀句のなかで、多くの句が所謂の伝統俳句の句に符合していないのに誰が注意を払っただろうか。近来非伝統の傾向がまた若い人たちの参加によって新しい天地を開拓しつつあり、ただ伝統俳句結社の重々たる環視下において、速度は遅いがすこしづつ進んでいる。しかし、ネットが普遍した後、情報の来源が豊富になり、知識の伝達が加速し、そのうえ夏石番矢らのグループがすでに俳句を世界各国に開拓することに成功し、国際性組織の「世界俳句協会」(World Haiku Association; WHA; 2000年)を立ち上げ、ウエブサイトもあり、日本と世界各地で定期俳句大会を開き、二年に一回世界各国で開催され、2011年九月には東京で第二回東京詩歌祭と合併して第六回大会を開催した。311東日本大震災と福島原発事件の影響にもかかわらず、三十六ヶ国及び地方の詩人たちが参加した。
その協会は毎年「世界俳句」会誌を一冊出版しており、いままでに既に八冊出版され、『世界俳句2011第7号』(World Haiku 2011 No.7)では、総ページ240ページ、全世界の41国家及び地域の181名の詩人の522句の俳句、7国15名の俳画、6篇の俳論、24句の児童俳句が載せられており、また特筆すべきことは掲載の俳句の毎一句は作者の母語、英語と日本語訳が専門家によって翻訳されており、載せられている言語は:日本語、英語、中国語、台湾語、ドイツ語、フランス語、リトアニア語、イタリア語、スラブ語、ロシア語、モンゴル語,ポルトガル語、インド語、クロアチア語、ルーマニア語、ハンガリー語、……などである。『2012年第8号』の内容は総ページ227ページ、37国家、151名の詩人の総数445句の俳句、俳画8ヶ国15名、俳論6篇、そのほかにニュージランドと日本の児童俳句が載っている、2011年と同じく全俳句、母語、日本語、英語併記の方式で印刷されている。
このほかにも、「国際俳句交流協会」の組織が日本三大俳句組織、「現代俳句協会」、「俳人協会」、「日本伝統俳句協会」の支援の下に1989年に成立され、国内外俳句界の交流の窓口として、また三協会の交流場所として存在する、そのウエブサイトは「HIA; Haiku International Association」である。
世界俳句界、日本も含めて、はすでに伝統俳句の三つの制約、季語、五七五音節、切れ及び客観写生などに拘泥せず、俳句の本質の短小と余白を残すに重点を置き、結社主宰が盆栽をいじる様に恣意に文字言葉をもてあそぶを良しとせず進み歩んでいるが、しかし日本国内外ではいまだ少なくない人達が(特にコンピューターを使えないインターネットを知らない高年齢者)が俳句界の時代の変化の全貌についていけず、いまだに頑迷な反抗を続けている。
しかし、俳句が「HAIKU」という名で以って世界文壇に認められてから早や百年余りがたちました、この事実の存在がこれらの守旧グループの思惟との間に矛盾あるいは理解しにくい所があるのだろうか、皆で共に思考するに値すると思います。「俳句」、「HAIKU」の本質とは?そして「漢字文化圏」内における「漢語/漢字俳句」の位置づけはどうであるべきか?またその範囲は?
それはそうとしばらく捨て置き、私が思うに、いまさら俳句を詩と否定する人はないでしょう。しかし少し前(1946)桑原武夫が俳句を「第二芸術」と批評した時、一時騒動を引き起こしました。話によると、当時の俳句界の大物に、過激なまたは何の反撃もなかったと言う、いろんな違う噂が流れました。それは兎も角として、少なくとも六十余年後の今までその余波が続いています。しばらく桑原氏の第二芸術論の是非はさておき、結社の主宰者が師匠の絶対性権威と流派の独裁専制的言葉の弄びがいまだ続いている事実が問題であります。
で、「俳句」と「川柳」の関係はまたどうでしょう?山本健吉が「俳句とは?(角川文庫)」の中でこう書いています:俳句の本質は「挨拶、滑稽,即興」であると、しかし現今の俳句選集の中には子規、虚子らの詠んだ滑稽性俳句が見られないと。滑稽はいつの間にか川柳の縄張りに入れられた様です。それはそうと、人生全部の感動を詠む以上、俳句と川柳を区別する必要があるのだろうか?極端な風刺、穿ちの川柳はさておき、俳句に似た川柳、川柳のような俳句も詠まれている現今、いまさら俳句とか川柳とか、区別する必要があるのであろうか?また「即興」に至っては直ぐにでも俳句の「瞬間の感動」の本質を思い出す、さすれば結社の師匠や先輩たちはまだ盆栽を弄ぶように言葉をいじくりまわす必要があるのだろうか?何の意味があるのだろうか?しかし、このような事態はその内に自然と消失するだろうから我々が心配する必要はないでしょう。
鷹羽狩行は日本で作られた俳句以外の俳句を「海外俳句」-海外旅行または海外での吟行での俳句、「在外吟」-外国駐在時に詠んだ俳句、「海外ハイク」-外国人がその母語で詠んだ俳句、さらに言葉によって「英俳」、「漢俳」などに区別しているが、こんな必要があるのだろうか?
いま、私はただ百年の時間を経てまさに「世界俳句」にならんとしている、いや、もう「世界俳句」になっている俳句を考えるとき、それでは何が「世界俳句」なのか?と。
所謂「世界俳句」とは、各種の言語を使って、上述の要件に即して詠まれた短詩である。
外国人が日本に源を発する俳句の本質は?と問うとき、日本の俳人の答えはいつも「俳句」=「伝統俳句」を以ってし、「季語」のない、また「客観写生」でない俳句は俳句であるとは認めません。この二つの条件は外国人にとっては理解に苦しむもので、必須の条件とは認めません。そして今では日本においても同じ考え方を持つ人が少なくありません。
事実は、芭蕉以降、「俳句」の名付け親の子規及びその弟子たち、昭和初期、二次大戦中の新興俳句の作者、戦後の昭和後期、現在平成年代の多くの俳人たちが少なくない「非定型」、「無季」また「客観写生」でなく「人情義理」を詠んだ名句、秀句を残しており、ましてや「客観写生」を提唱した虚子までが所謂の「客観写生」は俳句を一般庶民に広めるための方便の策略で、その本心,本意ではないと市井に言われています。この言分の信憑性は彼が「第二芸術論」の論戦の四年後残したかの有名な論理の一句:「去年今年貫く棒の如きもの」で証明されます。市井で「伝統俳句」を抱擁する俳句の師匠、主宰たちよ、本当に俳句の本質を了解しいるのだろうか?
「和歌」でなくまた「連歌」でもなく「俳句」が世界に受け入れられたのには必ずその理由がある筈。私は多くの俳句の師匠たちが知らず知らずの内に,子規後の名の知れた俳人のように、多くの無季あるいは論理の名句、秀句を詠んでいる筈だと信じています。
俳句は本質上水墨画の余白を残すべきであり、また鈴木大拙の言う禅の思考も必要があるかと思います。正直のところこの二つの要素が俳句をして世界中に広まらせた重要な原因ではないでしょうか?視覚の感動は確かに哲学の思考まで飛躍します、ではその他の感覚感動ではだめでしょうか?吟じて余白を残す、読者に彼らのみが自己の経験から得ることしか出来ない感動に符合する自己の感動に陶酔する、これまさに一石二鳥、いや三鳥、五鳥、ないし百鳥など異なる感動ではなでしょうか?吟ずる者の感動と読者の感動は必ずしも同じではない、これで良いのじゃないのではありませんか?
人にはそれぞれ異なる人生経験がある、ある人が経験したことと同じ経験を他人がするとは限らない、だからある人が詠んだ俳句を他人が理解出来るとは限らない。ことに特殊感覚を有する人あるいは特別の経験を有する人の感動は、他人には理解できないものである。それゆえ確かな根拠がない限り、他人の俳句や詩詞を批評してはならないとともに、他人の批評、師匠の批評あるいはその添削までも、基本の事項以外は気にすることはないとおもいます。
よくある事ですが、俳句歴三、四十年の方が、ただ句会での得点数が低いと言うだけのことで萎れかえっているのを見るが、私はそんな必要はないと思う。例えばテレビの俳句番組で主宰が違えば選句の方法や根拠着眼点も違う、ある主宰が選ぶ秀句を別の主宰はそうとは思わない、正直で率直な主宰は言うのだ、ある主宰は私が選ぶこの句は選ばないだろうと。
台湾で日本語俳句会を維持して、ある程度規模があるのはただ黄霊芝氏の「台北俳句会」のみであり、去年四十周年を迎えました、その他にも二、三規模の小さい集まりあるいは日本の俳句会の分会みたいなのがあります。黄氏ご本人は芸術、文学の天才であるのは言うに及ばず、その五十余年の日本語俳句の才識でもって毎月門下の弟子たちの作品に対する詳細を極めた批評と修飾は当然一般の師匠たちの及ぶところにあらず、弟子たちも得る所少なからずと言うべきです。黄氏は伝統俳句派で、その句評の拠りどころは当然伝統派そのものである。しかし彼は結社の優欠点を良く知っており、弟子たちの人間性、習性もよく了解しており、例えば弟子の中で結社の発行物上の姓名の序列に関して俳歴の順序にとの意見があった場合、かれは表向きには目立たない適宜な調整をしている。また最近ある日本人会の会誌が毎月俳句を十句を推薦するよう要求があったとき、彼は弟子たちに疑問を提出した:「1.誰が選句するのか?2.どの句を選ぶか?と。と言うのは1.と2.によって問題が発生するのだ。選句する人が違うことによって、選ぶ句も違う、選者には選者個人の主張があるゆえ、同一人が選んだ場合選句の作者は限られた幾人かになる、それゆえ外の人から見れば台北俳句会はこれぐらいの人数しかいないと思われる可能性がある、もし『高点句』を選んだ場合、『高点句』はただその句の人気があるのみを意味し、決して良い句を代表してはいない、さすればその会誌の人達は台北俳句会の会員の程度はこれ位ものかと早合点ししまう可能性がある、たとえば選ばれた大統領からその国の国民の水準がわかるのと同じことだと」、黄氏が提出した疑問から、黄氏は文学、芸術の天才があるのみでなくよく社会一般、結社、人間性を熟知していることを知る。私も若い人たちや、初学者にあまり何人の会員が自分の句を選んだか気にする必要はないと、あなたの句が「曲高和寡」だからかもしれないという。初めて句会に参加する人は自信があるときは気がひける必要はない、ゆっくり他人の句を観察すればだんだんと句の良し悪しが分かってきて、自然と良い句が詠める様になると。俳歴が長いと言うても必ずしも良い句が作れるとは限らない、永遠に「食古不化」で起点に立っているのを自分で感じないのがよくあるのだと。
「俳句の瞬間」、「瞬間的感動」これ等を最短の音節で表現するのが俳句の本質であり、「有季」に固執するより大事である。「有季」の本来の目的は短い季語でもって多くの意味を含蓄するにある、それゆえもし季語と同じ効能の代わりになるキーワード(keyword)がある時は、季語の必要はなくなり得るものであるが、しかしあっても少しも邪魔にはならない、しかも一種の特殊状況(類型)の俳句である。また石倉氏が言うように、もし世界俳句の発展に貢献したのが芭蕉、蕪村、一茶ら各人の個性であり絶対に俳句の季語や五七五でない時は、なおさら季語や五七五を堅持する必要があるであろうか、考慮に値するものである。
世界の俳人はお互いの異質の中に同質性を求めている、そうしてある同質の要素を探し当てた、ゆえに全世界において俳句にたいして手放しえない感情を産生したのである。これと相対するに日本の俳人たちは人をして結社の中に蹲って、永遠に同じ言葉を弄ぶ遊戯に耽っているとしか思われない。
以上、俳句に関しての現況と疑問点を提出した。これ等の問題を解決しない限り、日本の俳句は永遠に現時点に留まり、世界の俳句も原点で足踏みをするばかりのみである。既に皆が世界中で、同じくない各言語で俳句を吟詠しいるからには、そこに何か同質性がある筈、もう既存の俳句の定義に縛られずに、我々が一緒に共同して俳句の本質から、またその各言語から受け入れられた事実の由縁より世界俳句の定義を探し出そうではないか。
俳句は日本に起源している、俳句の本質について日本人は積極的に探求する責任があるとともに、それを大事にしなくてはならない。
【日本の俳句団体】
日本の全国性俳句団体は三つある、「現代俳句協会」、「俳人協会」と「日本伝統俳句協会」である。そのなかで「現代俳句協会」は最も歴史が長く一番大きい。戦後1947年石田波郷、神田秀夫と西東三鬼らを中心に創立された、「俳句芸術」の俳誌あり。創立当時は会員38名のみであって、入会するのも容易くなかったが。現在は会員10000名余りあり、会長は宇多喜代子、名誉会長に金子兜太、現在月刊会誌「現代俳句」を発行している。また現代俳句大賞、現代俳句協会賞、現代俳句新人賞、現代俳句評論賞などの各賞を出している。
1961年に伝統派と改革派との間に争議が発生し、当時の幹事長中村草田男が伝統派を引き連れて脱退し、べつに「有季定型」を主張する「俳人協会」を設立したが、後に残った伝統派に加わるに無季派と自由律派らが集まって総合俳句団体を成立し、共同努力して会務を経営し今に至った。後に1987年にまた両会と距離を保っていた虚子の「ホトトギス」系の人達が別に「日本伝統俳句協会」を設立し、虚子の「花鳥諷詠」を受け継ぎ、ここに日本の三大俳句団体が鼎立し今に至った。
「現代俳句協会」:http://www.gendaihaiku.gr.jp/index.shtml
「俳人協会」:http://www.haijinkyokai.jp/
「日本伝統俳句協会」:http://www.haiku.jp/index.asp
【漢字/漢語俳句】
続いて今日の第二の題目、「漢字/漢語俳句」の問題に入ります。
アルフアベットなどの表音文字で表記される西欧諸国の言葉のHAIKUが突き当たる壁や疑問とはまた異なる問題が、漢字文化圏内の言葉で詠む俳句(広義の)では出会います。
俳句の基本は十七音節で一章となる短い詩です。漢字文化圏では言葉の表記に同じ漢字を使いますが、言葉によって発音も意味も違うとともに、ここ六十年来、同じ意味を表わす漢字の形(書き方)も違ってしまいました。
漢字の代表である中国の普通話を例に取ってみましょう。
まず俳句の一番基本になる音節に就いてみると、普通話では漢字一字は皆一音節ですが、日本語では多音節になっています。たとえば中国普通話では「我」の字は一音節で「ウオー」と発音しますが、日本語では「ワレ」と二音節になります。そのうえ普通話の「我」の意味は日本語では「私」の意味で、「ワタクシ」と四音節になります。
俳句で「私」を表現する場合、日本語の四音節は普通話では一音節ですむのです。日本語では十七音節の四分の一を使ってしまうのに普通話では十七分の一しか使わないのです。その結果、同じ十七音節を使って俳句を詠む場合、普通話で詠んだ場合の意味量、情報量は日本語の俳句の四倍にもなる、というようなことが起こりかねないのです。それゆえ、日本の俳句が十七音節からなると言って、中国普通話で詠む俳句も十七音節、と言うわけにはゆきません。意味量が数倍になる、少なくとも二倍以上になるゆえ俳句の短小の本質に符合しません。
ご存知の「漢俳」という短い詩があります。ご察しの通りもともとのもくろみは「漢語俳句」のつもりだったのでしょうが、前述の理由でとても俳句とは言えません。とどのつまりは「漢語短詩」になってしまいました。ところが思いもよらず、この「漢語短詩」が中国では、ここ三十年来一般大衆に受け入れられフアッションになり瞬く間に広まってしまい、名称も「漢俳」と言われるようになりました。
ところで「漢語短詩」に帰せられる漢字で詠まれた短い詩は、漢字文化圏の核心である現今の中国の領域内に、一、二千年前からありました。しかし、特にもてはやされる事はありませんでした。日本の俳句を倣った十七字漢語短詩も、かつて中国のあの有名な五四新文化運動時代に一時はもてはやされました。その後、1972年に日中両国が正式に国交を回復し、日本俳句代表団を中国に招いたとき、歓迎会場で主人の趙樸初氏が十七字の漢字の短詩を即興で詠みました。これが漢俳の始まりだといわれています。その短詩「綠陰今雨來,山花枝接海花開,和風起漢俳」の最後の二字が「漢俳」でした。
爾来、中国国内では漢俳が速やかに発展し、2005年には北京に於いて「中国漢俳学会」が成立(2005.3.23)したのを始として、中国各地に漢俳学会が成立し,漢俳は中国全国に流行し,近年に至っては更にインターネットの普及と同時に日本文化に興味をもつ若者たちが少なからず創作に参加し,漢俳をして歓迎されるべき「インターネット文學」の一つとしての体裁とならしめました。
最近の漢俳の流行は、2007年4月12日の「日中文化、sports交流年」において中華人民共和国総理温家宝氏の歓迎パーテイで,温家宝氏が詠んだ漢俳一首に始まり、その後漢俳は更に加速的に中国一般大衆に受け入れられ、もう一つの新しいブームを引き起こしました。 そして中国に止まらず、日本の漢詩界でも流行りだしました、俳句界ではありません、とどのつまり漢俳は漢詩の一種で古詩体より詠み易いからです。
日本漢字の多音節とは違って漢字は単音節文字であるゆえ,上述の如く漢俳を日本俳句の十七音に照らして漢字十七字とした場合、俳句全体に情報量が多くなりすぎると言う問題が発生します。一方日本漢詩の短詩の「曄歌」は日本の俳句とよく似ていて、漢字三四三の形式で詠まれ、丁度俳句の形式と内容量によく似ています。
一般論で詩を別の言葉に翻訳すると言うことは難しいことで、いっぱんの文章を翻訳するよりずっと難しいことです。しかし俳句はその短小と簡単であることによって返って翻訳を容易ならしめる傾向があります、そして忠実に他の言語の俳句に翻訳することが出来るものであります、即ち厳復の「信達雅」の最も理想的な翻訳の境地に達することが出来るのであります。というのは俳句の詠みと読みの詩情,意像は不同であり得り、また同じくないのが当然たるゆえ、返って翻訳者をして自己の意のままに翻訳することを許さず、過去の翻訳者は無理に五七五定型に合わせんがために、返って無理に原文に余計な語彙を入れ、結果は「錦上添花」、「画蛇添足」になってしまい、翻訳者個人の詩情の読まれてにしてしまっている様です。
では本題に入りましょう!
「漢語/漢字俳句」を私は表題としています。それには訳があるのです。「漢語俳句」と「漢字俳句」は一歩踏み込んで考えてみると、違いが確かにあるのです。「漢語俳句」は漢語の俳句、即ち今の中国にあたる地域で使われていた言葉、または使われている言葉で詠まれる俳句です。例えば中国の標準語にあたる普通話、またそれと同じ言語学的性質を持つ漢語系の台湾語、客家語、広東語、四川語、……などで詠まれる俳句を指します。これ等の言葉は一字の漢字は皆一音節で、言葉を書きとめる場合、漢字以外は使いません。
一方、「漢字俳句」について話しますと、日本語は、2131字の新常用漢字および7000字余りの漢字を活字媒体では使っていますが、話す言葉を字に書く場合に漢字のほかに仮名を併用しないと完全な意味を表現出来ません。もし日本語の漢字だけで俳句を書いた場合、それは「漢字俳句」ではありますが、「漢語俳句」ではありません。というのは使われている「漢字の語彙」は日本語であり漢語ではないからです、もし漢詩と同じように漢語を使った場合は漢詩と同じように「漢語俳句」になります。同じ漢字でも漢語と日本語では意味が全然違う場合があります。例えば日本語の「大丈夫」は日本ではもう字面通りの漢語ではなく「漢字日本語」になっており、生粋の日本語です。「大丈夫」は日本語では「安心、危険なし、…」の意味ですが、漢語では「立派な男、偉大な男、…」をさします。
(以下略)
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