北条政子

Facebook井上直哉さん投稿記事

北条政子(1157年- 1225年8月16日)平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の御台所。子は頼家、実朝、大姫、三幡。

周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻に。夫の死後に落飾して尼御台と呼ばれました。法名は安養院。

頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称されました。(北条政子)


Facebook澤村 洋二さん投稿記事【教科書に載らない歴史の真実】⑨

~「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を百倍楽しむために~

<頼朝・政子の子や孫は全員亡くなり、二人の血統は途絶えた! >

ウロウロしている間に「大河ドラマ『鎌倉殿の13人」は、とっととドラマが進行し、鎌倉幕府が裏切りと粛清の血にまみれた場所であるという歴史的実態が暴かれるという筋立てに視聴者は驚き、おののくという展開となっているが、実を言えば、この血しぶきの中から高潔な武士道が生まれてくるのだという歴史の真実の一端を示しているだけだ。

源頼朝とその妻北条政子の間には、長女大姫(おおひめ)と長男頼家、次女三幡(さんまん)、次男千幡(せんまん、後の実朝)の4人の子供と孫である頼家の長男一幡(いちまん)、次男の公暁(くぎょう)、三男栄実、四男禅暁が、無残な死を遂げ、最後に残った竹の御所は、4代目将軍、藤原頼経に嫁ぐが、難産で死亡し、これで、政子、頼朝夫婦の血統が完全に途絶えたのである。

九条兼実は平家政権の時代は万年右大臣だったが、源頼朝に加担したため、関白・太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、その日記『玉葉』は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』と比較検討され、歴史の真実を探ることが多い。

 『玉葉』に二代将軍源頼家の死に様が描かれている。

風呂場で一人の刺客が後ろから頼家の首を絞め、前から頼家の睾丸を引っ張って動けなくしてから殺したさまを、兼実は、おじげをふるって記述している。

この殺人の荒業を指して京都文化人は、関東武者の粗暴さを糾弾しがちだが、大姫、三幡の病死は、二人とも朝廷の派遣した医師による毒殺の可能性が極めて高く、公家の殺人は、毒殺という優雅な殺人に過ぎない。

頼朝が落馬し、その事が原因で発病し、病死したとされるが、詳しい記述が『吾妻鏡』から欠落していることから、京都方の関与が疑われるが、真相はやぶの中だ。

頼朝の最初の子は、伊豆の流人時代に伊東祐親の娘(名は八重姫と伝承される)の間にもうけたとされる男児。千鶴丸が、祖父伊東祐親によって、川に沈められて殺された。

頼朝は三男だが母親の出自が高いので河内源氏の棟梁とされた。

『平治の乱』で頼朝の父義朝は、反平家方につき、長男義平(よしひら)次男朝長(あさなが)は、亡くなり、頼朝は伊豆に流罪となり、6人いた弟達の全てが、戦いで倒れたか、粛清されたかで、全員、夭折している。その内、常盤所生の子である阿野全成(あべのぜんじょう/ぜんせい)は、北条政子の妹と結婚し、北条時政方についたが、二代将軍頼家によって殺される。源義円(みなもとのぎえん)は源平の戦いの初期に打ち取られる。源義経(みなもとのよしつね)は、逃亡先の平泉で追いつめられた自死。

江戸時代の幕府の儒学者新井白石は、源頼朝の血統が途絶えたのは、肉親縁者を全て、死に追いやった酷薄さのためだと非難している。

徳川家康は、江戸幕府の永続を願って『源平盛衰記』を熟読し、鎌倉幕府について研究したと伝えられている。

戦国をサバイバルし、最終的な勝者となった徳川家康は、義経についてリアルな評言を残している。「義経は生まれながらの大将軍だったが、残月の心得が無かった。少しは平家を残しておくべきだった」

まことに家康は、無風流な武将だったようだ。その点は、平清盛に似ているかもしれないが、日宋貿易を積極的に進めた清盛や南蛮貿易に邁進し、国内外の通商交易から利を求めた二人に対し、家康は、鎖国の先鞭をつけ、徳河250年の栄華を実現した内向きの農業型の忍耐、忍従の天才だったのかもしれない。

 政子が夫である頼朝の死に関与しているとすれば、空恐ろしいが、長男、頼家の死に関しても政子は頼家を亡夫に代わって勘当したと述べているので、政子の黙認があったともされるのも不思議ではない。三男実朝の死についても、政子の弟義時の関与が噂されている。

 政子は、神社仏閣に頻繁に参り、怨霊を怖れていたとされるが、それは、誰の怨霊だったのか?

 あくまで北条政子としての家の立場を貫いたとも考えられる。

歴史の転換点は、無残な幾多の死骸抜きに展開しないかも知れないが、歴史の中心軸を担い、全ての子や孫の無念な死を思えば、北条家という、家を守った政子の想いを察すれば、哀切な想いに俯かざる得ない。

○鎌倉 安養院 北条政子像

北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子(たいらの まさこ)、保元2年(1157年)~嘉禄禄元年7月11日(1225年8月16日))享年69歳(老衰)

周囲の反対を押し切り、流人であった頼朝の妻となり、父時政を説得し、頼朝の味方となり、後に父時政さえ、隠居に追い込んでいることからも強烈な意志を持ったカリスマ女性だったことが伺える。鎌倉時代は、女性の御家人がいて、相続権も認められていたが、時代が下ると女性の社会的地位は日陰の存在と化してしまう。

この肖像が政子の生き写しだとすれば、色白で目鼻のバランスがとれた美人で、眉が高く張り、眉骨が出ている人は、眼球の発達が伺われ、動物的ともいえるほどの直観的な先見の明があると人相学で指摘されている。

口元は、意志的に引き締まり、情が篤いというよりも、冷徹な意志の人という印象。

明眸鮮やか、少々、つり目で、頭脳明晰のようだ。

 政子が平家の流人でありながら、源氏の血を引く貴種である頼朝と恋仲になり、父時政の反対を押し切って妻となったのは、人相的に言えば、先見の明があったのかも知れない。

当時、平家一門は、関東の覇権を狙い、在地の平家筋の地方豪族を圧迫しつつあった。北条政子が正式には、平政子となっているのは、平家筋だったことを意味している。

 伊豆の弱小の地方豪族であった北条家としては、源頼朝を旗頭にして、平家一門に不満を持つ、関東の在地豪族を糾合して、反抗の狼煙を上げる方が生き残りとしては、有利だと政子は、読んだのかもしれない。また、そういう意図で父時政を説得したとも想像出来る。

 『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。政子はそれは禍をもたらす夢であるので、妹は政子に夢を売り、政子は、「夢買い」をし、政子は妹に小袖を与えた。政子は吉夢と知って妹の夢を買い、吉夢の通りに政子は後に天下を治める頼朝と結ばれたとする後付けらしき話だが、政子の先見の明や積極性をあらわした話となっている。


北条政子は政略結婚では?

源頼朝と駆け落ちしたといわれる北条政子~~~

彼女が生きた時代、家長の反対を押し切っての一夫一婦制の愛など 存在したとは考え難い。

北条氏は平直方の子孫と言われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9)

その平直方は「平忠常の乱」を収めるように命じられたものの常に敗北をきたし 代わりに任命されたのが源頼信。

あれほど手こずった平忠常の乱は、源頼信の着任によって、あっけなく、戦わずして終わりになりました。

以下 http://history.kaisetsuvoice.com/Kamakura02_01.html の一節です。

【平忠常がなぜ戦わずに降伏したかについては色々な説がありますが、とりあえずこの事件で面目丸つぶれなのが、平直方です。自分はどうにもできなかった反乱が、源頼信が着任しただけで、解決したのです。

「ああ…源頼信さま、すばらしいです。あなたこそ、武人の鑑だ。あなたの御嫡男に、わが娘をめあわせたい」

こうして源頼信の嫡男・源頼義と、平直方の娘が結婚して生まれたのが、かの有名な、八幡太郎・源義家です。

そして平直方は、源義家に鎌倉の自分の館を譲りました。これが、鎌倉と源氏の縁がはじまった、最初です。それまでは鎌倉は平氏の地だったのが、平直方が源義家に館を譲ったことにより、鎌倉は源氏の地となったのです。そして、源義家の五代目の子孫が源頼朝。平直方の五代目の子孫が北条時政ということになります。】

平直方の子孫北条氏は 伊豆の流人源頼朝の監視役でした。世の中は平氏全盛の頃。

北条氏が平氏の眼を恐れ、鎌倉を奪い返したい思いを持ち 長女政子に駆け落ちの仮面をつけた政略結婚を命じたとは考えられないのでしょうか?

頼朝は落馬が原因で亡くなったといわれますが 武将が落馬するほどになった背景には 毒を盛られ続けていたという説があります。

頼朝亡き後 頼朝との間に生まれた実子二人を殺し 鎌倉幕府の実権を北条氏がとるに至ったことが 頷ける気がします。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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