源実朝は公暁に殺害されたが、背後で操っていた人物がいたのだろうか

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/32e871b10aebe2ec7b2e432fee0a2de2bd217f12 【源実朝は公暁に殺害されたが、背後で操っていた人物がいたのだろうか】

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

 今から805年前の建保7年(1219)1月27日、源実朝は鶴岡八幡宮で参拝を終えて帰途に着いたとき、公暁(源頼家の子)に殺された。

 公暁の父の源頼家は、北条一族の謀略により、不幸な最期を迎えたことで知られている。しかし、かねて実朝の暗殺が単独で行われたのか、黒幕がいたのかについて議論がある。その点について考えてみよう。

 建保7年(1219)1月27日は稀に見る大雪で、60cmほどの積雪だったという。この日の夜、源実朝は鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で拝賀を終えると、待ち伏せしていた公暁(源頼家の子)が「親の仇を討つ」と叫びながら実朝に襲い掛かった。警護の兵はいたが、その隙をついて、公卿は父の仇の実朝の暗殺に成功したのである。

 実朝を殺した公暁は、実朝に供奉していた源仲章も殺した。もともと、北条義時が実朝に供奉する予定だったが、体調不良で仲章が代わりを務めていた。もし、仲章に交代していなければ、義時が殺されていた可能性がある。

 実のところ、公暁は実朝の次に義時を殺害する計画だったという(『愚管抄』)。公暁は義時が仲章と交代したことを知らなかったので、本懐を遂げられなかった可能性がある。公暁は実朝の首を持ち去ったが、その日のうちに討たれたと伝わっている。

 『吾妻鏡』には実朝が殺害される予見があったというが、とても信じることはできないので、編纂者の創作であると考えられる。実朝暗殺事件については、『吾妻鏡』などの史料に書かれているが、公卿の黒幕を特定することは困難である。興味本位の類に過ぎない。

 公暁が親の仇として討つならば、頼家を葬り去った北条義時になろう。公暁の本当の目的が義時の殺害ならば、実朝や仲章は巻き添えになった可能性はあるが、真相は不明であるといわざるをえない。

 実朝暗殺事件の史料には制約があるものの、かねて黒幕説は提示されてきた。北条義時、三浦義村は代表的な黒幕候補であるが、北条氏と三浦氏ら御家人による共謀説もある。近年では、幕府の滅亡を願う後鳥羽上皇が黒幕だったとの説すらある。

 実朝暗殺を記した史料は、『吾妻鏡』などの二次史料に限られており、黒幕を探るのは非常に困難である。それぞれの史料には執筆意図があり、どういう根拠でそのようなことを書いたのかわかりかねる点もあるので、容易に賛同し難いのである。

 実朝の政治手腕については、近年になって評価する向きもあるが、実質的に支えていたのは義時ら有力御家人だったのは疑いのない事実である。実朝が義時らにとって邪魔になったとは考えにくく、あえて高いリスクをおかしてまで公暁に暗殺を命じる必然性はあるのか疑問である。

 実際には、公暁が親の仇である義時を討とうとして行列を襲撃したが、そこには義時の姿がなかった。そこで、運悪く実朝や仲章が殺されたと考えられないだろうか。つまり、公暁による単独犯である。

主要参考文献

坂井孝一『源実朝 「東国王権」を夢見た将軍」』(講談社選書メチエ、2014年)

五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』(角川選書、2015年)。


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公暁はなぜ源実朝を暗殺したのか?

誰かに囁かれたのか?

黒幕説としてよく囁かれるのが、当日、災難を免れた北条義時ですが『鎌倉殿の13人』ではその説を否定。

建保7年(1219年)1月27日に亡くなった公暁の生涯と共に事件を振り返ってみましょう。

https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2024/01/26/170215?fbclid=IwAR1c7rdXiqMK7iLHDYr1d7195hByx6yZo1rRr7BpYO8dZn0v2IiY18a6YvM 【なぜ公暁は叔父の実朝を暗殺したのか?背景には義時の陰謀があった?】より

頼朝の命により上総広常が理不尽に討たれ。

手を下した梶原景時も御家人たちから総スカンを喰らって亡き者にされ。

義経も奥州藤原氏も、とにかく関係者たちが次々に消されていく……『鎌倉殿の13人』の中でも、とりわけ後味が悪いのが源実朝の暗殺事件でしょう。

現役の将軍である源実朝が、甥っ子の公暁(こうぎょう)に襲われ命を落としてしまう。

いったい何事なんだ?

と、歴史の授業で摩訶不思議に思われた方も少なくないはず。

権力争いの最中に、骨肉の怨恨もからんだかのような、とにかくドロドロしてそうなこの一件。

その中心にいるのはやはり公暁であり、その生涯や周辺事情を見ることで、犯行の動機なども浮かんできそうな気もします。

暗殺を実行し、同日の建保7年(1219年)1月27日に亡くなった公暁の生涯を、振り返ってみましょう。

祖父・頼朝の死の翌年に生まれる

源頼朝が急死した建久10年(1199年)1月13日。

その翌年の正治2年(1200年)、源頼家の二男として善哉こと後の公暁が誕生しました。

母の辻殿(ドラマではつつじ)は、源為朝の外孫にあたります。

源為朝は初代鎌倉殿である源頼朝の叔父であり、剛弓で知られる伝説的な武者。

父も母も源氏の血を引く男子が生まれることは、頼朝にとって悲願成就であり、生きていれば大いに喜んだことでしょう。

『鎌倉殿の13人』では、つつじ(辻殿)の子を世継ぎにする――源頼朝にはそんな意向があったと描かれています。

血筋を考慮すれば、そう不自然なことでもありません。

一幡の母であるせつ(若狭局)は、鎌倉政権で有力な比企一族の出身ですが、頼朝が存命であればそこまで強硬な反論はできなかったはず。

しかし、その頼朝が急死してしまったため、鎌倉政権内部でのパワーバランスが崩壊していまいました。

頼家の子を誰と嫡子とするか。

事前に相続の順を明確にしておけば、後の悲劇も避けられたのかもしれません。

困ったことに、頼朝の跡を継いだ源頼家には、4人の息子たちがいました。

◆源頼家の子供たち

長男:一幡(母は比企氏)

二男:善哉(母は清和源氏)

三男:千手(のちの栄実・ 母は頼朝の右筆である一品房昌寛の娘)

四男:禅暁(母は善哉と同じ)

頼家の弟:千幡(母は北条氏)

せめて頼朝存命中に母つつじの懐妊が発覚していれば、悲劇は避けられたのかもしれない。

そんな不幸の連鎖が、誕生時から生じていたのが公暁の人生でした。

父・頼家の失墜と死

頼朝の死後、若くして後継者となった源頼家。

その治世は当初から困難を極めました。

もともとの器量や資質が低い――そんな論調は『吾妻鏡』にも見えますが、鵜呑みにしてよいのかどうか、発信側のバイアスも考えねばならないでしょう。

源頼家が二代将軍となって程なくして、梶原景時が失脚と同時に滅亡。

以降、北条と比企の争いが激化していく最中、頼家の側室せつ(若狭局)とその子である一幡も命を散らします。

鎌倉殿の地位を追われた頼家も惨殺されてしまいました。

そして次なる鎌倉殿の地位は、頼家の息子……ではなく、北条サイドの息がかかった頼家の弟・源実朝(幼名は千幡)に引き継がれるのです。

頼家の正室だったつつじ(辻殿)、ならびに善哉(公暁)の処遇はどうなったのか?

つつじ(辻殿)は出家し、その後の消息は不明です。

鶴岡八幡宮別当への道が敷かれる

元久2年(1205年)、祖母である北条政子のはからいにより、幼い善哉は第二代鶴岡八幡宮別当・尊暁に弟子入りし、頼暁と名乗りました。

さらに翌建永元年(1206年)、叔父である源実朝の猶子となります。

5年後の建暦元年(1211年)。

善哉あらため頼暁は上洛し、京都園城寺の高僧・公胤の弟子となって、名を公暁に改めました。

こうなると着々と僧侶の道を歩んでいるようにも見えます。

後に、幕府を震撼させる事件をおこすようには思えません。

それは建保4年(1216年)と建保5年(1217年)に師匠の公胤と定暁が相次いで亡くなってからもそうでした。

定暁は鶴岡八幡宮の別当でしたので、その跡を継ぐべく、公暁は鎌倉へ呼び戻されます。

政子の構想はこうでしょう。

実朝が将軍として政治を執り行い、宗教権威にその猶子である公暁を据える――鎌倉を一層盤石とする配置でした。

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